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2013-08-05(Mon)
この御書は、別名、雷門鼓御書ともいわれおり、弘安元年(1278年)10月に身延において、佐渡にいる千日尼御前に宛てて書かれた、日蓮大聖人57歳の時の御手紙です。

千日尼御前は阿仏房の妻で、極寒の佐渡に流されてきた日蓮大聖人の威徳に触れて、夫とともに念仏を捨て入信しています。 一間四面の粗末な塚原三昧堂に居られた日蓮大聖人に、食料や衣類・紙・筆等などを、夫婦で禁を犯して命がけで届け続けました。 佐渡流罪赦免後に身延に入られた後も、何度となく御供養をお届けしております。 この年の3月には、夫である阿仏房が90歳という高齢の身でありながら、遠い佐渡から日蓮大聖人の居られる身延に、3度目の訪問を果たしています。


【 要 文 】

『 青鳧一貫文・干飯一斗・種種の物給い候い了んぬ、仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生れたり、仏に漿を・まひらせし老女は辟支仏と生れたり、 』

『 法華経は十方三世の諸仏の御師なり、 』

『 大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり、故に法華経の結経たる普賢経に云く「 仏三種の身は方等より生ず 」等云云、方等とは月氏の語・漢土には大乗と翻ず・大乗と申すは法華経の名なり、阿含経は外道の経に対すれば大乗経、華厳・般若・大日経等は阿含経に対すれば大乗経、法華経に対すれば小乗経なり、法華経に勝れたる経なき故に一大乗経なり、 』

『 法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり、譬えば一の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、 』

『 女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し、小火を衆草につきぬれば衆草焼け亡ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆるのみならず衆罪かへりて功徳となる毒薬変じて甘露となる是なり、 』

『 人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如し〓なる事兜羅緜の如し。 』

『  佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん、譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん、 』
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2013-07-25(Thu)
 
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 法華初心成仏抄 (557P) 
『 凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、 』

【 通解 】 
『 そもそも妙法蓮華経とは、われら衆生の仏性と、梵天や帝釈などの仏性と、舎利弗や目連などの仏性と、文殊や弥勒菩薩などの仏性と、三世の諸仏が悟ったところの妙法とが一体不二である法理を、妙法蓮華経と名づけたのである。 』

【 指導 】
* 衆生の仏性も、仏・菩薩の仏性も、仏が悟った妙法も、まったく「 一体不二 」である。 それこそが「 妙法蓮華経 」なのであるとの仰せである。
いわば「 平等 」こそが、「 妙法蓮華経 」の魂なのである。 いわんやだれかの仏性は「 特別 」であるとか「 上 」であるとか、そんな差別はない。 すべてが徹底した平等観に貫かれている。

< 御書とその心 >より


御書には、随所にこのようなことが記されています。

ともすると、「 そんなはずはない 」と思いがちですが、そう信じるか信じないかで、大きく違ってきます。 信じないで唱える題目に境智冥合する力はありません。 生死一大事血脈抄には『 久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、 』 とあります。 

所詮は、御本尊に心をよせて、唱題していくことに尽きるのですが、肝心なことは「 広宣流布のため 」にという想い・行動のなかで唱えてゆくことにあります。 名字即の凡夫ですから、泥まみれになりながら、もがきながら唱えていけばいいのです。 
小さな祈りでは小さな功徳しかありません。 最高の祈りだから、最高の功徳が湧いてくるのです。
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2013-07-15(Mon)
この御書は、文永10年(1273年)に佐渡・一谷において、弟子の日昭及び日昭縁故の辧殿尼御前に宛てて書かれた、日蓮大聖人52歳の時の御手紙です。

日蓮大聖人が佐渡に流されて2年目にあたります。 前年には「開目抄」そしてこの年に「観心本尊抄」と、重要な御書が著わされております。
日昭は六老僧の内の一人ですが、日蓮大聖人が流罪となった後の鎌倉に留まり、留守を守っていました。 辧殿尼御前のことは、妙一尼あるいは日昭の母との諸説があり、詳しくは判っておりませんが、迫害の中にも退転せずに、自らの身の回りの世話をする従者を、日蓮大聖人のもとに遣わしています。


【 要 文 】

『 第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし、しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり、 』
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2013-07-10(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 松野殿御返事 (1388P) 
『 但在家の御身は余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩を以て八の道をさかひ、天より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん、 』

【 通解 】 
『 在家の身としてあなた(松野殿)は、ただ余念なく、昼に夜に、朝に夕に、南無妙法蓮華経と唱えて、最後の臨終の時を見てごらんなさい。 妙覚の山に走り登り、四方をご覧なさい。 法界(全宇宙)は寂光土であり、大地は瑠璃でできていて、黄金の縄で八つの道をしきり、天からは四種類の花がふり、空中に美しい音楽が聞こえ、諸仏・菩薩は皆、常楽我浄の四徳の風にそよめかれている。  われらも、必ずその仏・菩薩の列に連なるであろう。 』

【 指導 】
* 人生を山に例えれば、 「 臨終 」 は山頂といえよう。 山頂からは、広々とした下界が見渡せる。 「 死 」 の頂から見てはじめて、生涯の幸、不幸の光景も、勝利と敗北の実相も見えてくる。 また死後、すなわち来世という新しい出発を望むこともできる。 荘厳な大光につつまれた山頂もあろう。 噴火口のような地獄への山頂もあろう。 さまざまであるが、必ずそこにいたることだけは、間違いない。
人生は、この頂への登攀である。ゆえに山頂(死)を見つめずに歩む人は、目的地から目をそらして山登りするようなものであり、道に迷うのはむしろ当然かもしれない。 ここに 「 死 」 の解決を教えゆく正しき信仰が必要となる一つの理由がある。 日蓮大聖人は、私ども門下の臨終は 「 妙覚(仏の最高の悟り)の山 」 に登ることであると仰せである。 なんとすばらしい、燦爛たる光の世界であろうか。 宇宙の広がりをつつみ、永遠の時を自在に遊戯される御本仏の偉大なご境界が仰がれる。 そして、門下をどこまでも慈しみ、包容されるあたたかさ。
妙覚の高みから望む全宇宙は、煌々と輝く寂光土であり、妙法につつまれた生命は、瞬時にその遊楽の都に入っていくとのこ断言である。 御本仏のお約束は絶対である。 微塵の狂いもない。

< 御書とその心 >より


「 最後の臨終の時を見てごらんなさい。 」
あたたかくも、確信に満ちた、お言葉ではないでしょうか。
わたしは、この御書を読むたびに、涙が零れてきてしまいます。

臨終のときに、いままで歩んできた出来事に感謝して、常楽我浄の風に抱かれながら、次の人生を迎える自分でありたいと、しみじみ思います。
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2013-06-30(Sun)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 上野尼御前御返事 (1580P) 
『 一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり、法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり、 』

【 通解 】 
『 法華経以外の教えでは、先に善根(因)を積んで、後に仏(果)になると説く。しかし、法華経では、手に取れば(因)その手がそのまま仏(果)となり、ロに唱えれば(因)そのロがそのまま仏(果)となる 』

【 指導 】
* まことにすばらしき妙法の力である。
皆さまもよくご存じのとおり、 「 蓮華 」 は、仏法上、深き意義を託されている花である。 くわしくは略させていただくが、その一つとして 「 蓮華 」 は、花(因)と実(果)が同時に生長していく。 他の花には見られない特徴がある。これは妙法蓮華経の因果倶時の法理を表している。

何度も生まれては修行を繰り返し、ようやく仏になれる、というのではない。 また、過去の暗い罪業に縛られることもない。 今世の日々の生活のなかで、妙法を今、信じゆく 「 信心 」 の一念によって、瞬間瞬間、この生身の五体に、そのまま尊極な仏の生命を脈動させていける。 これが大聖人の仏法である。

総じては、広布に徹しゆく、信心強き人は、そのまま仏であると説かれている。 ゆえに、この人々を軽んじ、見くだしていくことは、仏を見くだすことである。 仏を軽んじては、罪をつくることは当然である。 一人の妙法の友に対しては、どんなに尊敬しても、尊敬しすぎることはない。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人(御本仏)が、仰っているのです。
広宣流布の大願に生きる人が、一生成仏しないわけがありません。

御本尊に唱題し、妙法を語り、広宣流布ために尽す人が、その時は、仏とは見えないかもしれませんが、仏に成りゆく人であり、生々世々、金剛の身を備え、福徳に囲まれ、崩れざる勇気と、尽きることのない智慧と、深き慈悲をたたえた境涯で生きていくことができる、とのお約束です。

反対に、法華経の行者を誹謗する人は、その時には何事もないように見えても、地獄の人なのです。 立正安国論には、『 仁王経に云く「 人仏教をやぶらばた孝子無く六親不和にして天竜もたすけず疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん、若しいでて人と為らば兵奴ひょうぬの果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復またまた是くの如し 」 』また、聖人御難事には 『 過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにてついにほろびざるは候はず、 』とあります。
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2013-06-23(Sun)
この御書は、別名、法華経兵法事ほけきょうへいほうのことといわれおり、弘安2年(1279年)に身延において、鎌倉の四条金吾に宛てて書かれた、日蓮大聖人58歳の時の御手紙です。

日蓮大聖人が数々の迫害を乗り越えられ、身延に入られてから、今度は弟子檀那への迫害が顕著になりはじめます。
四条金吾も、讒言により主君の不興をかい、一時は領地を失うなど、逆境にみまわれますが、日蓮大聖人から信心の励ましや、立い居振舞い・言動など、こまごまとしたことを助言していただきながら、信心を根幹に主君への忠義を貫いてゆきます。 そして、その結果、讒言だと悟った主君は、四条金吾にたいして前にも増して領地を与え、信頼を寄せるようになりました。 しかし、それをよく思わない連中が、今度は四条金吾の命を狙って、密かに襲ってきたのです。


【 要 文 】

『 前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし、夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり、ことに法華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし属累品にして誓状をたて給い 』

『 法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず、まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給う、「 臨兵闘者皆陣列在前 」の文も法華経より出でたり、「 若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法 」とは是なり、これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず。 』

『 ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし。 』

『 なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「 諸余怨敵・皆悉摧滅 」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候。 』
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2013-05-15(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 四条金吾殿御返事 (1143P) 
『 ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、 (中略) 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、 』

【 通解 】 
世間のさまざまな難が起こっても、いちいち悩んで相手にすることはない。たとえ賢人や聖人であっても、難を受けることは逃れられないのである。 (中略) 苦しみは苦しみと達観し、楽しみは楽しみと開いて、苦しくても楽しくても、南無妙法蓮華経と唱えきっていかれることである

【 指導 】
悩みのない人生、また問題のない世界など、どこにも存在しない。 むしろ、いろいろなことがあるからこそ、人生はおもしろいのである。 そして、妙法とともに生きゆく人生は、何があっても最高の 「 知恵 」 を発揮して打開していける。 「 所願満足 」 の価値ある一生を勝ち取ることができる。

< 御書とその心 >より


日寛上人は、自ら死期を悟り、好物の蕎麦を用意させ、食されてから莞爾として笑われ 「 嗚呼面白や寂光の都は 」 と言われると、身を正して御本尊に向かい、一心に合掌し、題目をあげられてから微動だにせず亡くなられた、と伝えられております。 そう、妙法に生き抜いた人生は、実に思い出深く、その苦楽のすべてが、境涯の深化をいざない、常楽我浄、所願満足の人生へと昇華させていくのです。
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2013-05-14(Tue)
この御書は、弘長元年(1261年)4月、鎌倉において、椎地四郎に与えられた、日蓮大聖人40歳のときの御手紙です。

椎地四郎は駿河国駿東郡(静岡県沼津から御殿場のエリア)に住んでいたといわれ、四条金吾、富木常忍とも親交があったようです。 どのような方か詳細は不明ですが、日蓮大聖人の葬送に参列した記録が残されており、地道に信仰を続けられた方ではないでしょうか。
日蓮大聖人は、この年の前年には松葉ヶ谷の法難、そして、この年の5月には伊豆流罪と、 「 立正安国論 」 を上奏してから、矢継ぎ早に、念仏者たちに狙われ、讒言によって迫害されます。 そして、いよいよ、末法の法華経の行者として、これに続く大難に立ち向かわれてゆきます。


【 要 文 】

『 末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ、天台の云く「衆流海に入り薪火を熾んにす」と云云、法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし、 』

『 法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり、 』

『 生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべから。 』

『 抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひてをえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取り・多宝如来はつなでを取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとこぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、 』
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2012-11-26(Mon)
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今日は、大白蓮華12月号に掲載されている、池田SGI会長の御書講義 「 上野殿御返事 」 の一部を紹介させていただきたいと思います。


* 追伸には、 『 かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし 』 とあります。 法華経如来寿量品第16の自我偈にも、 『 皆く恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生は既に信伏し 質直にして意は柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまざれば 』 とあります。
御本尊を信じ、妙法を求める心は、どこまでも強盛にして一筋で、また素直であることです。 自身の宿命転換を願い、広宣流布の実現を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。 生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です。 最後に勝つ人です。 ここに信心の極意があります。

苦闘の中でこそ、真の人間が鍛え上げられます。
苦闘の中でこそ、強靱な鋼の意志が育つのです。
苦闘の中でこそ、人生の真実の涙を知ることができます。
そして、苦闘の中にこそ、偉大な人間革命があるのです。

< 勝利の経典「御書」に学ぶ > より


” 素直な信心 ” こそ信心の要ではないでしょうか。 どのような人でも成仏できる理由がここにあります。 成仏には余計な知識や学識は必要ないとさえいえるでしょう。 日蓮大聖人は、他の御書で 『 夫信心と申すは別にはこれなく侯。 妻のをとこをおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり 』 とも仰っています。 御本尊を信じ抜いて、御本尊に祈り抜いて、広宣流布に生き抜いていく人が、結局は成仏していくということです。 釈迦が垢衣を脱いで、宝塔を開き、多宝塔に入ったという意味がここにあります。 釈迦は多宝如来と並座して生死不二の成仏を示されているのです。
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No title * by 智太郎
はじめまして!12月の大白には目を通してませんが、信心:活動に対しては、確かに体験を積んだ私は、強盛にして一筋の信心でいます。でも、また素直であること。この事に関しては、強盛一筋の信心だとまでは思っておりませんが、素直になれぬ時が、たまにあります。

No title * by 夕焼け
智太郎さん、こんばんわ。

素直な信心とは、何の前提条件も無く信じ、祈り、行動していくことを意味していると思います。 ” 無疑曰信 ” という言葉がありますが、信心とは信じる心と書くように、もとから素直であるはずのものです。 それを、あえて ” 素直な ” とつけるのは、人はなかなか御本尊を、日蓮大聖人の言葉を信じることができないからではないでしょうか。 智太郎さんは、たまにとおっしゃいましたが、わたしなどは、ことあるごとに素直ではありませんでした。 (^^; 
日蓮大聖人の言葉を、御本尊を信じることは、そう簡単なことではありませんでした。 信心をしていて、頭では理解しているようでも、実のところ信じていないことに、気付かされることが少なからずあります。 信心する側からいえば、心に信じる心を確立するために修行することを ” 信心 ” と言っていいくらいです。 これからも、心の垢を落としながら、信心を深めていきたいと思います。

2012-11-23(Fri)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 撰時抄 (P271) 
『 浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり 

【 通解 】 
浅い教えは信じやすく理解しやすいが、深い教えは信じ難く理解し難い、とは釈尊が説かれたところである。 浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である

【 指導 】
この御文は、伝教大師の言葉であるが、これをとおして日蓮大聖人は ” 深き教え ” につくべきことをお示しになっている。 いかなる分野にも、 ” 浅深 ” がある。 人生にあっても同じである。 自分一人のために生きるのか、より大きな価値のために生きるのか。 もとより、自分のことのみを考えて生きることはたやすい。 大いなる理想のために生きるには、強靱なる決意と勇気が必要である。 その決意と勇気に立てるか否か。 そこに人間としての真価が問われるといえよう。

< 御書とその心 >より


人のため、社会のため、広宣流布のために生きるためには、丈夫の心が必要であります。 自身の目の前の問題の解決に関係ないように見えるようでも、このように生きることが、根本的で迅速な解決をする、一番の近道だと仏法は教えてくれています。 創価の草創の方々は、まさにそのようにして、宿命転換、人間革命して所願満足、衆生所遊楽の人生を築いてきたのです。
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2012-11-07(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 中興入道消息 (P1247) 
『 されば身をすてて信ぜん人人は・やまぬへんもあるべし・又やむともたすかるへんもあるべし、又大悪鬼に値なば命を奪はる人もあるべし 』

【 通解 】 
わが身を捨てる覚悟で妙法を信じる人々は、悪鬼に負けず疫病にかからないこともあるであろう。また、病んだとしても、助かる場合もあろう。また、大悪鬼にあえば、命を奪われる人もあろう

【 指導 】
くれぐれも用心しなさいとの、お心と拝する。 私の四十年以上の信仰の経験から見ても、広布の組織でまじめに学会活動をしきった人は、いざという時に必ず守られている。 かりに病気になっても、軽くすみ、また命が助かっている。 寿命を延ばしている。亡くなる場合でも、いったんよくなり、宿命転換の姿を示してから、安らかなすばらしい臨終を迎えておられる。 また苦痛がない。 法華経に説く 「 更賜寿命 (更に寿命を賜う)  」 という法理の一つの表れであろうか。 そうした 「 死 」 は、福徳に満ちた、幸福な来世への荘厳なる出発である。 また、あとの一家、一族も守られていく。 仏法の活動には、こうした厳たる大功徳が備わる。 その意味で、今、健康な時、また若いうちに、真剣に仏道修行に励みきっておくことだ。 人生と仏法を甘く考え、要領よく手を抜いて、将来、悔いるようなことがあっては、あまりにも不幸である。 ゆえに、あえて厳しく言っておきたい。

< 御書とその心 >より


真面目に学会活動をしきった人は、無量の福徳に包まれる。 それは間違いありません。 必ずそうなります。 幹部だから、そうなるわけではありません。 どこまでも、誰が見ていなくとも、どのように言われようとも、まじめに実践していくことが大事であります。 それが本当の主体性ある信心といえるのです。
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2012-10-23(Tue)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】四条金吾殿御返事  (P1165) 
『 夫れ仏法と申すは勝負をさきとし 』

【 通解 】 
仏法は勝負を第一とする

【 指導 】
勝たなければ幸福はない。 そして真の勝利とは、人間としての勝利である。 弱い者が泣き寝入りをし、強い者がのさばる。 社会の、そうした動物性を百八十度ひっくり返していく勇者こそ、真の勝利者であり、菩薩である。 「 人間 」 の名にふさわしい文化と平和の戦士である。 権力や権威をカサにきて弱者をいじめる傲慢な心は、じつは自分自身の人間性を踏みにじっているのである。 それはもはや、人間としての敗者の証となっていることを知らねばならない。 絶対に人を見くだしたり、あなどったり、感情的に叱ったりしてはならない。 いかなる人もすべて平等であり、最大に尊重していく心を持つべきである。 それが、本当の「人格」であると私は思う。

< 御書とその心 >より


仏法のうえでは、魔に勝ち、宿業を転換し、仏と成ることが、 ” 真の勝利 ” であります。 しかし、わたしたちは仏に成ることを、なかなか信じることが出来ないでいます。 世間はもとより、創価の信心をしている人でさえ、そうであります。 自らが道を閉ざしていては、永遠に仏になることはできません。 南無妙法蓮華経と唱えているのは、御本尊に ” 仏のように生きてゆきます ” という誓願なのです。 身も心も尽くして、どのような苦難があろうとも、仏の道を懸命に生き抜いてまいりますという誓いです。 須弥山に近づく鳥は金色に輝き始めると言われていますが、仏のように生きてゆくことを願い、行動してゆく祈りが、すべての願いを包み込んで、所願満足の勝利へと、金剛不壊の境涯へと導いてくれるのです。
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2012-10-22(Mon)
【 要 文 】

『 高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり 』

『 日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。 』

『 日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。 』
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2012-10-15(Mon)
【 要 文 】

『 日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く 「 其罪畢已 」 等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二茀とせり其中に識神をやどす 』

『 過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし、 』

『 般泥□経に云く 「 当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり 」 等云云、 此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、 』

『 今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し 歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば 烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす 』
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2012-10-08(Mon)
この御書は、文永9年(1272年)3月、佐渡の塚原において、富木常忍および四条金吾などの信徒方々にむけて書かれたものです。 日蓮大聖人51歳のときの御書です。

佐渡でいちばん寒い時期を過ごされてきて、念仏の檀信徒から命を狙われ、寒さと飢えから、いつ死んでもおかしくないような状況にもかかわらず、信徒の安否を心にかけ、また、大聖人の身を案じて心配している信徒の心を思いやり、経文どおりの難であるから、今こそ不退転の信心を確立するときであると、励まされています。


【 要 文 】

『 雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、 

『 男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。 

『 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし 

『 正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。 』

『 外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、 』
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2012-10-01(Mon)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 四条金吾殿御返事 (P1143) 
『 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ、 』

【 通解 】 
苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。 これこそ自受法楽 ( 法による楽しみを自ら受けること ) ではなかろうか。 ますます強盛な信力を出していきなさい

【 指導 】
これは建治2年(1276年)、四条金吾が同僚にも憎まれ、主君・江間氏からも冷遇されていたころのお便りである。 短い一文であるが、ある意味で、私どもにとっての信心の精髄を教えられた御文と拝される。 何があろうとも、私どもは御書に従い、善意に従い、悪意に満ちみちた行為をすべて見おろしながら、妙法の「 歓喜の中の大歓喜 」 を楽しんでいける。 その 「 強盛の信力 」 の境涯にこそ、幸福の実体がある。 何もないことが現世安穏なのではない。 最後まで悠々と現実に挑戦しきっていける不動の境涯 ― そのなかに現世安穏はある。 他人や環境に支配されて、幸、不幸を感じる生き方には、真実の幸福はない。 強き一念をこめ、朗々と唱題しつつ、洋々たる心境で、すべてを功徳と勝利の方向へ、広宣流布の方向へ、と導いていける勇士であっていただきたい。 私どもは皆、広布の同志である。 ゆえに何があっても仲良く、「 苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経 」 の信心で進みたい。 この団結の前進にこそ 「 世界広宣流布 」 を教えられた御本仏のご精神にかなった姿があると信ずる。

< 御書とその心 >より


この御文は、あまりにも有名な御文です。 ” どんなことがあっても、強き信心で生きていきなさい ” との、日蓮大聖人の深き慈愛の込ったお言葉です。
この御文の前には 『 一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、 』 また 『 遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり 』 とあります。 一喜一憂するのは凡夫の性でありますが、それはそれとして、そのままの姿で南無妙法蓮華経と唱え、苦難を勝ちこえてゆくことが、現世安穏のほんとうの姿なのであります。 人間の最高の喜びは仏に成ることにありますが、苦難が無ければ仏に成ることはできません。 苦や楽に負けない崩れざる信心に、崩れざる仏の境涯が築かれていくのです。 崩れざる信心を築いていく秘訣は、異体同心で、広宣流布に進む創価の活動の中にあります。
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2012-09-17(Mon)
【 要 文 】

『 返す返す今に忘れぬ事は頚切られんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給ひしをば・いかなる世にか忘れなん、設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給ふとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、 』

『 又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給ふな、若しさるならば賢人には・はづれたる事なり、 』

『 人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人々の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、 蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。  』

『 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬ひしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云ひはかなきを畜といふ。 』
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2012-09-10(Mon)
この御書は、建治3年(1277年)9月に、身延において四条金吾に書かれた、日蓮大聖人56歳のときのお手紙です。 この年は熱原の法難の2年前で、弟子や信徒の法難が顕著になり始めていました。


【 要文 】

『 たとひ上は御信用なき様に候へども・との其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞなり候らん、大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきをえてさかうる事に候。 』

『 仏法の中に内薫外護と申す大いなる大事ありて宗論にて候、法華経には 「 我深く汝等を敬ふ 」 涅槃経には 「 一切衆生悉く仏性有り 」 馬鳴菩薩の起信論には 「 真如の法常に薫習するを以ての故に、妄心即滅して法身顕現す 」 弥勒菩薩の瑜伽論には見へたり、かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり、 』

『 いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ、 』

『 末代のありさまを仏の説かせ給ひて候には濁世には聖人も居しがたし大火の中の石の如し、且くは・こらふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、賢人も五常は口に説きて、身には振る舞ひがたしと見へて候ぞ、 
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2012-09-05(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 乙御前御消息  (P1220) 
『 日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし、 』

【 通解 】 
この日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一切の人々が害しようとしたが、いままでこうして無事に生きていられることは、日蓮は一人であっても法華経を信ずる心が強いゆえに諸天が守護されたのであると思いなさい。

【 指導 】
信心の 「 心 」 が強かったゆえに、万人を向こうに回しても殺されなかった、勝ったのだとの仰せである。 私には、この御文が深く胸に迫ってきてならない。 周りがどうかではない。 たとえ敵は多くとも、一人、戦う。 それでこそ、大聖人の弟子である。 その人を、大聖人は必ず守られる。 大事なのは 「 強き心 」 である。 「 信心 」 である。 「 学会精神 」 である。 組織も、数に頼って 「 だれかが、やるだろう 」 という心があれば、もはや 「 心 」 が負けている。 「 心 」 が崩れている。 そうではなく、たった一人であっても、 「 自分がやる! 」 と引き受ける人。 その人こそ「勝利者」である。

< 御書とその心 >より


創価の歴史は、第二代戸田会長が軍部権力と闘われ、戦後の焼け野原にたったお一人で立たれたところから始まっています。 さらに遡れば、世間の人々や軍部権力、日蓮正宗までもが弾圧し、多勢に無勢の真っ只中に、日蓮大聖人のお心を戴して、初代牧口会長お一人で立ち向かわれたのが、淵源となっているのであります。 いつの時代にも、この 「 一人 」 が大事なのです。 これからの広宣流布においてもそうであります。 だれが立つのか。 それは、誰でもない自分なのだと決めるのが、師弟不二であります。 そうすれば、 ” 諸天が守らないわけがない、わたしを見なさい。 ” との日蓮大聖人の御断言なのであります。
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2012-08-30(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 御義口伝 (P769) 
『 其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり云云 』

【 通解 】 
慢心の四衆( 僧・尼・俗人の男女 )に対して、あなた方も必ず成仏すると礼拝した。 その時、慢心の人々の仏性も、不軽菩薩を礼拝したのである。 鏡に向かって礼拝すれば、映った姿もまた、自分を礼拝しているようなものである

【 指導 】
これは弘教の根本精神を説かれた御文である。 弘教とは、相手をもっとも尊敬し、その仏界を礼拝しての行為なのである。 ゆえに、いささかも礼儀に反した、また非常識や傲慢な振る舞いがあってはならない。 相手の仏界に呼びかける思いで、ていねいに、穏やかに、またある時は厳父のごとき慈愛で、語っていくことである。 その時、相手の仏界が、鏡のように、こちらの誠実な姿を映して、礼拝し返すのである。 相手を仏のごとく大切にすれば、相手の仏性も、こちらを守ろうとする。 人を軽侮し、見くだせば、鏡に映したように、自分が見くだされる。 " いつかそうなる " のではない。 生命の世界においては、その瞬間に因果がきざまれている。 そして時とともに、それがはっきり表れてくる。

< 御書とその心 >より


仏法対話は、相手をやっけるために、言い負かすためにやっているのではありません。 相手のことを思いやり、なんとか、幸せになってもらいたい一心で、真剣に、全力投球で語ることなのです。 対話する自分の生命の置きどころが、とても大事になってきます。 仏の心を灯しながら、仏と同じように布教してゆくところに、自他不二の仏性の覚醒が、生命の交流する世界で始まります。
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2012-08-24(Fri)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 阿仏房御書 (P1304) 
『 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、 此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞.信・戒・定・進・捨.慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり 』

【 通解 】 
今、阿仏上人の一身は、地・水・火・風・空の五大である。 この五大は題目の五字である。 それゆえに阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である。こう信解するよりほかの才覚は無益である。 聞・信・戒・定・進・捨・慚という七つの宝をもって飾った宝塔である。 』

【 指導 】
多宝如来とともに出現した 「 宝塔 」 については、深い意味があるが、日蓮大聖人は高齢の阿仏房に仰せになった。 『 自分自身が、多くの宝で荘厳された 「 宝塔 」 である。 「 宝塔 」 とは自分自身のことである。 』 と、これだけ知っていれば充分だと仰せである。 大聖人直結で広宣流布に生きゆく人の生命こそが、 「 宝塔 」 なのである。

< 御書とその心 >より


阿仏房御書はとても大事な御書であります。

知に溺れるもの、才にうぬぼれるものは、必ず自分を見失ってゆきます。 世間でもそうでありますが、信心の世界でも、それは変わりがありません。 わたしは、そのような人を何人も見てきています。 八万法蔵の釈迦の教説、日蓮大聖人の極説、すべて ” 信心の御本尊 ” に納まっています。 御本尊に南無妙法蓮華経と唱え、人に信心を勧める以外の才覚は、成仏に無用であります。 信心している人でも、意外とこのことを忘れます。

『 心こそ大切なれ 』と日蓮大聖人は仰いました。 仏法の世界で、この ” 心 ” とはいろいろな意味があるのですが、人の仏性を信じてゆく、不軽菩薩の心もその一つです。 この反対にあるのが、自他の差異をひろげ、分断し、自分こそ勝れているとする心です。
また、『 蔵の財より身の財 すぐれたり 身の財より心の財 第一なり 』 とも仰っています。 才知は蔵の財・身の財にあたります。 知識も豊富で、頭がきれ、弁も立つ人が陥りやすいのは、心の醜さ、慢、卑しさに気がつかず、勝他の念をつのらせ、人を批判することに、喜びさえ覚える人間になってしまうことです。 とても残念なことです。 それは、広宣流布に生きゆく信心と行動を、失ってしまうことから始まってゆきます。
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2012-08-20(Mon)
【 要 文 】

『 罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり 』

『 設い大鬼神のつける人なりとも日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつしがたかるべしと存じ給うべし、月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし 』

『 我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はおそるる心なし 』

『 当時までは此の一門に此のなげきなし、彼等はげんはかくのごとし殺されば又地獄へゆくべし、我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず 

 『 ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ 

『 此れはこまごまとかき候事はかくとしどし・月月・日日に申して候へどもなごへの尼せう房・のと房・三位房なんどのやうに候、をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ 
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No title * by 履歴書の書き方
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

No title * by 夕焼け
履歴書の書き方 さん、こんばんわ。

いつでもいらしてください。 (^^


2012-08-13(Mon)
この御書は、弘安2年(1279年)10月1日に熱原の法難の渦中において、主要な信徒に向け書かれたものです。 日蓮大聖人は、この11日後に出生の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を顕されます。 日蓮大聖人58歳のときの御書であります。


【 要 文 】

『 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり 

『 而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし,日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり 

『 過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし、始めはしるしなきやうなれども今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば仏前の御誓むなしくて無間大城に堕つべしと・おそろしく想う間今は各各はげむらむ 』
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2012-08-09(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 上野尼御前御返事 (P1580) 
『 法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり 』

【 通解 】 
法華経というのは、手にとればその手がすぐに仏となり、口に唱えれば、その口はそのまま仏である 』

【 指導 】
妙法のため、広宣流布のために、手を動かせば、手が仏となっていく。 口を動かせば口が仏になり、足を使えば足が仏になっていく。 体も心も頭脳も、健康になっていく。 これが 「 妙 」 なる 「 法 」 である。 不思議の大法である。 この一点を確信し、誠実に行動していく 「 心 」 こそ大切なのである。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人は、この後 『 譬えば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・音とひびきとの同時なるが如し、故に経に云く 「 若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し 」 云云  』 と書いておられます。
因果倶時とゆうことです。 御本尊に南無妙法蓮華経と唱えれば、そのまま仏となるのです。 頭も悪く、根性も曲がって、貧乏で、病気もあるのに、どこが仏なのだろう。 そう思うでしょう。 わたしも、そう思っていました。 しかし、始めはしるしがないように見えても、まちがいなく仏だと、釈迦も日蓮大聖人も仰っています。 仏となるからこそ仏になってゆくのです。 泳がないで、泳げるようになる人はいません。

わたしは、若き日に、神経の病気があって、人と会うのがとても苦しかったのですが、仏法対話のため行動し、一生懸命語りました。 お金がないから、何度も遠くまで苦労して会いにいきました。 能力がないから、馬鹿にされ、嘲笑され、とても悩みました。 しかし、仏法のため、広宣流布のために苦しみ、苦労し、悩んだことは、そのことの反対の状況を生んでくれました。 病気のため苦しんでいれば治り、お金が必要となればでき、社会では必要とされる人間になることができました。 全部、信心の力、功徳です。 功徳は、自己中心的で身勝手な信心、臆病で疑い深い信心からは生まれてこないようです。 仏と同じ心、仏と同じ振舞い、仏と同じ行動をするところ、努力のなかから、生まれてきます。
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2012-08-01(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 一念三千法門 ( 416P ) 
『 法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し 』

【 通解 】 
法華経の行者は、如説修行( 仏の教説のとおりに修行すること ) するならば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる

【 指導 】
広宣流布へ、御書の仰せの通りに行動する人は、皆、仏になれる。 三世永遠に、何もかも 「 所願満足 」 の偉大なる大指導者になる。 そうお約束である。 頑張りましょう!
皆さまが喜んでくだされば、私もうれしい。 皆さまが悲しめば、私も悲しい。 元気で生き抜いていただきたい。 御本尊を持つ人は、決して行き詰まらない。 妙法は、永遠の宇宙の法則だからである。 それを持っているのだから、何があっても困らない! 絶対に負けない! この確信が信仰である。 それなのに、すぐに悲観し、弱気になるのは、信仰ではない。 そういう 「 弱い心 」 だから、苦しんでしまう。 永遠の大法則であるゆえに、勝つに決まっている! 幸福になるに決まっている! 楽しい人生になるに決まっている! そう 「 決めて 」 胸を張って進んでいただきたい。
妙法に 「 帰命 」 すれば、自分自身が大宇宙の仏の生命の中に入る。 わが身が即、妙法の当体と輝き始める。 この秘術を日蓮大聖人は教えてくださっているのである。
ゆえに大事なのは 「 法 」 を中心に生きることである。 「 自分 」 を中心に生きれば、成仏とは反対の方向になる。

< 御書とその心 >より


この日蓮大聖人のお言葉があるだけで、そのほかの教えが、何もなくてもいいほどに、尊く、深いお言葉です。 南無妙法蓮華経を説いておられるのです。
創価は、御書を根本に実践してきました。 創価三代の会長の精神と行動はもちろん、その信心指導する内容は、すべて御書のなかから出てきているのです。 あくまでも 「 法 」 を中心として、実践してゆくのが創価の魂であります。
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2012-07-23(Mon)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 四条金吾殿御返事 (1121P) 
『 法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、 』

【 通解 】 
法華経を一字一句でも唱え、また人にも語っていく人は、教主釈尊のお使いである。 そうだとすれば、日蓮は賎しい身ではあるが、法王の教主釈尊から勅命をいただいて、この国に生まれてきたのである。

【 指導 】
皆さまは、久遠からの誓いをもって、みずから望んで、それぞれの国に生まれてこられた尊い仏の使いであられる。 どうか、それぞれの国を、楽しい平和な国土へ変えゆく、尊き使命に生きぬいていただきたい。
なかには 「 自分の国は、まだまだ、これからだ 」 と悩む人もいるかもしれない。 しかし、決してあせる必要はない。 あせってはならない。 広宣流布は万年の建設である。 「 万年 」 は 「 永遠の未来 」 の象徴ともいえる。 皆さまは、この間、繰り返し生まれてきては、広布のために戦うであろう使命の人である。 今はその壮大な未来のための土台をつくっているのである。 ゆえに大切なのは、お一人お一人が成長し、幸福になり、信頼を勝ちとることである。

< 御書とその心 >より


この日蓮大聖人のお言葉は、御自身のことを仰っていますが、それはそのまま、わたしたちであります。 御本仏の使いとして 「 繰り返し生まれてきては、広布のために戦う 」 のが、わたしたちの使命なのです。 広宣流布は弟子の戦いです。
病気であろうが、貧乏であろうが、悩みがあろうが、一歩一歩成長してゆくため、境涯を開いてゆくための病気であり、貧乏であり、悩みなのです。 広宣流布のために唱題し、語ってゆくならば、必ず久遠本来の姿を顕してゆくことができるのです。
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2012-03-30(Fri)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。

【 本文 】 四条金吾殿御消息 (P1113) 
『 日蓮過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくか・ありけむ、或は山にすて海にすて或は河或はいそ等・路のほとりか、然れども法華経のゆへ題目の難にあらざれば捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず、成仏のためならざれば捨てし海・河も仏土にもあらざるか。 』

【 通解 】 
『 日蓮は過去において、妻子・所領・眷属などのために身命を捨てたところは、どれほど多くあったことであろう。 あるいは山に捨て、海に捨て、あるいは河、あるいは磯等、また道ばたで命を捨てたのであろうか。 しかしながら、法華経のゆえ、題目のゆえの難ではないので、捨てた身命も、受けた難等も、成仏のためのものではなかった。 成仏のためではないから、身命を捨てた海や河も仏土ではなかったであろう。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人も過去世において、妻や子ども、また所領や一族・郎党などのために、命を捨てたであろうと述べられている。 御本仏の示同凡夫(仏が凡夫と同じ姿を示すこと)のお姿であろうか、成仏の道を貫くことはむずかしく、しばしば踏みはずしてしまうことをお示しくださっていると拝される。 もとより、何の苦難もない人生などない。 ただ同じ苦労でも、仏法上の苦労、難は、すべて自分の永遠の大福徳に変わる。 ゆえに勇んで正法広布のため、正しき信心を守るために戦う人が、成仏へと歩む人である。

< 御書とその心 >より


人は必ず死にます。 あっという間の人生です。
はかない一生ではありますが、会い難き仏法に巡り会えた、これほど大事な一生もありません。 一日でも長生きして、信心のため、広宣流布のために、一歩前に進んでいかなければなりません。 この一歩は苦労してこそ意味があり、価値のある一歩となります。 勇気をもって前進をしていきましょう。
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2012-03-22(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 崇峻天皇御書 (P1173) 
『 人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ 』

【 通解 】 
『 人間として生まれてくることはむずかしい。 あたかも爪の上の土のように、わずかなことである。 また、たとえ人間として生まれてきても、その身をたもつことはむずかしい。 太陽が昇れば消えてしまう草の上の露のように、はかない。 百二十歳まで長生きし、汚名を残して死ぬよりは、生きて一日でも名をあげる事こそが大切である 』

【 指導 】
* 長生きしたから、いい人生とはいえない。 何を残したか、どんな価値を生んだか、どれだけの人を幸せにしたかである。
その意味で、結論的にいえば、広宣流布に生きることが、即、最高の人生となる。 広宣流布に生きぬくことは、そのまま、社会への最大の貢献になっている。 自他ともに幸福になる。 仏法は即社会、そして信心は即生活であり、一体である。 ゆえに大聖人は、法華経のため、広宣流布のために働き、名を上げなさい、限りある一生に、自分はこれだけやりきったという悔いのない歴史をつくりなさい、残しなさい、と教えられているのである。

< 御書とその心 >より


人として生まれ来ることは、とても稀である。 そのように仏法では説いています。 やっと人として生まれてきたのです。 それでは、何のために? ” 仏に成るため ” と三仏は教えてくれています。 
しかし、この身は儚く、人生もあっというまであります。 この御文は ” 毀誉褒貶に流され、わずかの幸せに執着し、山野に朽ちるくらいなら、仏の道を歩ゆむために身命を惜しんで、なんとしようか ” との日蓮大聖人のお言葉と拝したい。 仏の道とは、広宣流布に生き抜く道であります。 今になって、つくづく、解るようになりました。 馬鹿の智慧は後から出てくると言われていますが、口惜しい限りではあります。 ですが、本因妙の仏法でありますから、今の今が久遠元初でありますから、容易ではないですが、その道を生き抜いていきたいと思っております。
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2012-03-19(Mon)
【 要 文 】

『 末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪死罪に及ばん、然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかにをふべきぞ 』

『 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや 』

『 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし 』

『 既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり 』

『 一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし 』
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2012-03-19(Mon)
2012年2月23日の「 十四誹謗の根源 」という記事のコメントを削除いたしましたが、連絡事項008で触れましたように非公開コメントとして復活させていただきます。 このブログの機能上、一度削除するとコメントでの復活ができないために記事とさせていただくことにしました。


1. No.1 2012年03月07日 22:59
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2. 夕焼け 2012年03月08日 16:47
ようこそ、N0.1さん。
コメントありがとうございます。

> 功徳はないと断言されているのでしょうか?

” 此の経 ” とは、法華経です。  ” 此の経の心 ” とは、ここでは、法華経の中でも譬喩品第三と宝塔品第十のことを指しています。 つまり、その後に出てくる 『 此の経の四の巻には 「 若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり 」 と見へたり、或は 「 若実若不実 」 とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか 』 のことです。
松野殿御返事(十四誹謗抄)では ” 背いて唱えば其の差別有る ” と日蓮大聖人は記されていますが、今回の記事の御書では ” 功徳なしかへりて罰をかほるなり ” と明確に仰っています。 このことから思うに、” 差別 ” とは功徳と罰を指していると思います。 簡単に言えば、 1-1=0 あるいは 1/3-1=-2/3 あるいは 2/3-1=-1/3 ということでしょうか。 功徳は無いといってよいでしょう。

その他のお尋ねは、 ” 此の経の心に背く ” ことが無く、信行学に励み自行化他の唱題をするならば  ” 釈尊の御功徳と等しかるべし ” でよろしいのではないでしょうか。 なかなか出来なくて悩みながら唱題をするのは、求道心から来るところの煩悩ですから、おおいに悩んで唱題してください。

3. No.1 2012年03月08日 19:59
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4. 夕焼け 2012年03月08日 21:00
No.1さん、こんばんわ。

信ずる心と自行の勤行・唱題と化他の仏法対話がないと、功徳はとても少ないです。 宿命転換するためには、この3つがどうしても必要です。 随力演説とは、今月の座談会御書の諸法実相抄にあるように、 ” 力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし ” でいいのです。 今日の新・人間革命にあるように、体験からくる信心の確信(決意)と相手を思う唱題があれば、あとは、自分らしく、素直な気持ちで語っていけばいいのです。 悩みながら唱題し、仏法対話していくところに功徳が増していくのです。 喜びが大きいのです。 勇気を出して一歩を踏み出せば出来ます。

5. No.1 2012年03月08日 23:10
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6. 夕焼け 2012年03月09日 06:44
No.1さん、おはようございます。

非公開No.1さんが一闡提ですか? 唱えがたき題目を唱えている非公開No.1さんが一闡提なんてありえません。 仏法対話するのは、とても勇気が要ります。 なぜならば、仏法や御本尊のことをすばらしいと人に話すと、とても功徳があるからです。 魔はそれをとても嫌います。 御本尊に唱題するときに、少しでも広宣流布のお役にたちたい、たたせてくださいと祈っていくといいですよ。 この信心をしていて、御本尊に唱題していて、変わらないはずはありません。 前にも言いましたが、求道の心があるのですから、” 法華経の心 ” に背く形になっていることなどありえません。

信ずる心と自行の勤行・唱題と化他の仏法対話、この3つをちゃんと揃えて信心するのは誰でも簡単ではありません。 一時はそうでも続けていくのが大変です。 しかし、悩みながらも信心をしていくと、自然と、話したい、唱題したい、ありがとうございます、と思えるようになります。

< N0.1さんとのQ&A >より


わたしも以前活動しなかった時期があります。 申し訳ないという気持ちや罪の意識にとらわれたこともあります。 このようなことは、信心以外でもあります。 学生時代には ” 勉強しないと ” 社会人のときには ” 仕事に真剣に取組まないと ” と思うけれど、出来ない自分が情けなく、不甲斐ないと責めていましたが、これは向上心があるからこそです。 向上心がなければそんな思いは生まれません。 信心も求道心がなければなにも感じないし思うこともないでしょう。 求道心はとても大切なものなのです。 しかし、求道心はあっても出来ないというのが現実です。 だけれども、悩みながら御本尊に唱題していくならば必ず出来るようになります。 人間の身体だって生まれてから1日や2日で大人には成長しません。 また大人に成長するまでいろいろとあります。 創価から離れずに唱題を重ねていくならば、自分でそうなることもあれば、そうならざるおえない状況に不思議となっていきます。 それが御本尊、創価の信心の力なのです。
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