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2011-08-28(Sun)
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(写真:SGIグラフ)


日本全国で地区座談会が行われました。 創価の伝統の行事です。
そこで話される功徳の体験談、新入会者の感激の報告、男女青年部の決意、一人一人の近況、友好活動の報告、学会歌、未来部ビデオ、日蓮大聖人の御書の研鑽と、もう盛りだくさんの内容に、笑ったり、感動したり、ほんとエネルギーをいただきました。 座談会はいいですね。 (^^

8月27日付けの聖教新聞には、スペインの " ZADANKA I" の様子が紹介されていました。 全土250箇所の会場で開催されるそうです。 記事の内容は、3つの地域の活動家が座談会の様子や、どのように開催しているかという活動をレポートしたものです。 その中から、記事の言葉を切抜きして紹介しましょう。


・ スペインのカブート理事長
「 池田先生が教えてくれた 「 一人を最大に尊敬する 」 心こそ、座談会の根本姿勢です。 」

・ バルセロナ女子部グループ長
「 深刻な経済危機に、メンバーの多くが悪戦苦闘しました。 しかし、一人一人が信心で現実の壁に挑み、今では全員が仕事に恵まれています。 その原動力となったのが座談会です。 」
「 励ましあって共に前進しています。 支えてくれる同士がいる暖かなSGI(創価学会インターナショナル)の集いこそ、皆の勇気の源泉です。 」
「 座談会には、多くの新来者が集いますが、こちらが誘うよりも、友人の方から行ってみたいと言われるケースがほとんどです。 なぜなら、私たちは職場や地域で、日常的に仏法対話を行っています。 功徳の体験、信心の歓喜を語らずにはいられないからです。 まさに「実証に勝る雄弁なし」ですね。 」

・ ラ・パルマ島地区部長
「 私が島に移り住んだ2007年当時、メンバーは2人だけでした。 ならばと、私自身が折伏の先頭に立って対話に挑戦。 一昨年には、待望のラ・パルマ地区が誕生し、現在は3グループの体制です。 (中略) 会合参加者は、4年間で実に40人に拡大しました。 」
「 リーダーが心を一に題目を唱え、綿密な準備をします。 事前の訪問激励も重要です。 メンバーの家庭の状況によっては、わたし達の家に招いて共に唱題するなど、必ず「会う」ように心がけています。 」
「 座談会には、未入会の家族や新来者も出席しますが、皆、良い印象を持って還っていきます。 新会員が多く、信心即生活の新鮮な体験に満ち溢れているからこそ、誰もが喜んで参加するのです。 」  

・ トレモリーノス婦人部グループ長
「 メンバーは今、この不況下にあって全員が仕事を勝ち取り、その顔ぶれは会社経営者、演劇監督、マッサージ師など多種多彩です。 誰もが題目を根本に苦境を乗り越えた体験を持ち、毎回の座談会では喜びの報告が後を絶ちません。 」
「 最近では、友人が新たな友人を誘って再び集うなど、体験談を通して、宿命転換の仏法への共感が広がっています。 (中略) 座談会成功の秘訣―それは「題目」と「激励」です。 」
「 リーダーは一人一人のもとに足を運び、じっくりと語り合っています。 特に新会員の友とは毎回、勤行・唱題を行うようにしています。 リーダーが祈り、動き、成長した分しか人は成長しませんから。 」


これを読んで信心してる方でも、身につまされる方もいるかもしれません。 世界の同志に負けず、励ましの最高の座談会を作り上げましょう。 信心してない方は、 ” ウソだろう ” 、 ” 宣伝にすぎない ” 、 ” 誇張だ”と思うでしょう。 残念ですね、こんな世界があることを知らないなんて、もったいない。 これが今の創価の姿であり " ZADANKAI " なのです。
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Category : SGIComment : (10) |

No title * by 圓蔵
こんにちは。

なぜ学会では豁然として悟りを開いた体験談、すなわち即身成仏した体験談がないのかが不思議なのですが。

朝夕の勤行時に佛界が涌現している等の指導で誤魔化されてはいませんか。佛道修行の目的が願望実現になっているように思えますね。

No title * by 夕焼け
圓蔵さん こんばんは。 質問ありがとうございます。

圓蔵さんは、悟りを開いた方なのでしょうか?
悟りを開いた仏の境涯から、仏とは何なのか、その境涯と振舞い、どんな生き方なのか教えてください。
また、圓蔵さんがおっしゃる悟りは、なにをもって悟りとするのか教えてください。

No title * by 圓蔵
>圓蔵さんがおっしゃる悟りは、なにをもって悟りとするのか教えてください。

学会員さんは嫌がるかも知れませが、一例として愛宮真備「禅 悟りへの道」明治時代の著名な禅僧・今北洪川の体験を抜粋します。

《ある夜、座禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光りが私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。私の見、聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現したのであった。あまりの喜びに私は思わず両手を上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ。本当に不思議だ。』》

そして、西洋ですが1971年、アポロ14号の月着陸船に乗り組こんだエド・ミッチェルの類似の体験が「宇宙からの帰還」ありますね(立花隆、中央公論社刊)。←図書館で借りるなりしてください。最近はネットを見ても類似の体験をされている方々がおられるようですね。宗教を信仰していない一般の方々ですが、逆にその体験がもとで仏門に入る人もいるようです。

No title * by 圓蔵
>悟りを開いた仏の境涯から、仏とは何なのか、その境涯と振舞い、どんな生き方なのか教えてください。

衆生本来仏なり、という言葉がありますが究極的には我々衆生が仏でしょう。しかし、先に挙げた開悟体験をしないと凡夫の拙さでそれがなかなか解らない。

管理者様のいう、境涯、振舞い、生き方が悟り体験というなら、ゴータマ・ブッダが菩提樹の下で坐して瞑想して得た悟りは何だったのでしょう。振舞い、生き方から縁起の理法や四諦八正道は出て来るのでしょうか。それに時代を経て空の思想や大乗経典の編纂に繋がると思いますか。

天台大師の大蘇山の開悟は、学会員さんのいう境涯、振舞い、生き方だったのですか? それで一念三千の思想が出て来るとでも思いますか?

もちろん振舞いや生き方を否定する訳ではありませんが。しかし、学会の指導でいう勤行時の仏界の涌現は違うでしょうね。それは薄々、学会員さんたちも気が付いているとは思います。

No title * by 圓蔵
連投申し訳ありません。

しかし、人間は誰しもブッダになれる可能性があるとは法華経の思想ですが、悟るのに宗教の有無、信仰の有無は関係ないでしょうね。

信仰の次元ならばともかく、学術的には日蓮の言説がそのままでは現代には通用しないように(全否定をしている訳ではありません)。

No title * by 圓蔵
すみません。もう一つ。

>圓蔵さんは、悟りを開いた方なのでしょうか?

私はまだその体験をしていません。ただ興味はあります。しかし、衆生本来仏ならば、ただ今の人生を当たり前に生きるのも悪くはないと思っています。もちろん、人生ですから酸いも甘いも色々あるでしょう。嫌なこともあります。人間ですから、それでも日々に感謝でしょうか。

楽も感謝ですし、労苦もまた感謝です。

No title * by 夕焼け
圓蔵さん、ご意見ありがとうございます。

お互い、まだ真に仏の姿を顕していないという点では一致しているようです。 (^^

即身成仏とは、人間がそのままの姿で仏に成るという意味にわたしは理解しています。 鼻くそをほじくりながら、話すおばちゃんのままということです。
悟りがないと成仏したと言えないというのが、圓蔵さんの立場でしょうが、神秘体験がウソとは思っていませんが、神秘体験が仏の悟りとは思いません。 そのような神秘体験が仏の悟りなら、獄中で戸田会長の悟達体験(http://situmon30.blog122.fc2.com/の生命論)も仏の悟りといえるでしょう。 わたしが体験したことも(http://blog.livedoor.jp/yuyakeci/archives/5292732.html)そう言えるかもしれません。 イエス・キリストも覚知した一人です。 ただし、宇宙の菩薩界と己心の菩薩界の感応であったとわたしは見ています。 さらに、デカルト・キルケゴール・ニュートン・ベートーベンの体験などは、独覚と言われる縁覚界の境地冥合だと見ています。 
仏の境涯、振舞い、生き方について、お聞きしたのは悟達が真実かどうかは、悟達した人の生き方に見てとれるとわたしは思っているからです。 ただ独り悟るだけなら、何の価値も無いことです。 そんなものに興味はありません。 釈迦は三世に通達した後に八軍の魔を破りさり、民衆救済の旅に就きます。 命を狙われ、誹謗され、弟子の不信にも見舞われ、それでも一人の人間を仏に成さんと渾身の激励と法を説いていきました。 釈迦が説いた経々の内実は釈迦の振舞いにあるとも言われているくらいです。 仏としての振舞い、生き様が見えない人の悟り(悟達体験)は、ウソか勘違いか、そのどちらかです。

No title * by 夕焼け
圓蔵さんは、ばかにしていますが、御本尊に南無妙法蓮華と唱えることで、己心にある仏界を開き、仏と同じように生きようとするならば、もうそれは仏だとするのが、日蓮大聖人の教えです。 みすぼらしい仏だとお思いになるでしょうね。 たとえ、智慧が足りなくても、病気をしていても、貧乏でも、薄氷を踏むような苦しみの中に居ようとも、耳が聞こえなくても、目が見えなくても、五体不満足でも、南無妙法蓮華と唱えれば御本尊の仏界と境地冥合して、そのままの姿で仏と成っていくというのです。 煩悩即菩提、生死即涅槃の姿です。 単なる、高揚感でないことはわたしも含め創価の人間が一番良く覚知しています。 

>悟るのに宗教の有無、信仰の有無は関係ないでしょうね。

仏を除いてはそうでしょうね。 仏に関して法華経はそうは言っていません。 この経を信じないで、受持しない人は仏に成ることは出来ないし、無間地獄の業を積むと説かれています。 仏の経々を意味が無いとする考えは禅宗の考えに通じ、仏の教えを愚弄する、自分勝手な考えです。 仏になる方法は一つしかないのです。 釈迦が仏に成ったのは、過去世に南無妙法蓮華経と御本尊に唱え、菩薩の行をしてきたからで、もともと仏になっていたから今世でも仏と覚知できたのです。 創価の信心している姿は、釈迦の過去世の姿と同じなのです。 
宗教の高低、信仰の浅深はとても大切なのです。 関係が深いのです。 「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」とは、日蓮大聖人の教判です。

大乗非仏説の立場の圓蔵さんとは、かみ合わない議論かもしれませんね。(笑)

功徳と願望実現については、ブログのテーマとしていずれ書きますので、今回はここまでとします。

No title * by 夕焼け
追伸

わたしは、生も感謝、死も感謝です。

No title * by 圓蔵
御返事ありがとうございましたm(_ _)m

>釈迦が仏に成ったのは、過去世に南無妙法蓮華経と御本尊に唱え、菩薩の行をしてきたからで、もともと仏になっていたから今世でも仏と覚知できたのです。 

これは歴史的事実ではないですし、日寛教学ですよね。私の私見ですが学会教学は少しずつ日寛教学(大石寺教学)から離れて行くと思います。

>大乗非仏説の立場の圓蔵さんとは、かみ合わない議論かもしれませんね。(笑)

同感です(笑)

追伸について、

私の掴んだ生命観は、すべてに感謝でした。

あと、たびたびコメントして申し訳ありませんでした。ついつい学会員さんのブログを拝見すると意見?を言いたくなってしまいまして。

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