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2011-06-14(Tue)
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(写真:HUBBLESITE PD N90)


宇宙にある塵とガスの雲です。 この雲の中で星が生まれようとしています。 少しぼやっとした光の点はすべて銀河です。 この雲の大きさがどれほどのものか想像してみてください。
宇宙は虚無な空間だという印象を持っていましたが、実際は違いました。 濃密でダイナミックで躍動感に溢れた空間のようです。 この写真の中だけでも星々の誕生と成長、衰退と死、消滅と分散のドラマを見ることができます。

人の体には生と死が常に存在しています。 
10年前の体と今の体はほとんどの細胞が入れ替わってしまうと言われてます。 それなのに誰も10年前の自分と今の自分が別人とは思っていません。 体は細胞の死と再生を繰り返すことで生きており、再生が不可能になったときに死を迎えます。 体は生(成長)の遺伝子を持っているとともに、死(老化)の遺伝子も持っているからです。 死は形体の終焉ではあっても、体を構成する物質が無になる訳ではけっしてありません。 形と質を変えて総てこの地球・宇宙に還っていきます。 そしてそれは、巡りめぐってやがて誕生の要素となり構成の核となって人(生物)の生を彩ります。
人は体に、五つの感覚のほかに意識-自我(心)-業識-生命と深層的に内包されていて、この四つには記憶と働きと特質があり、生命を淵源として相互に影響しあいながら、五感側に向かって体との拘束性を強めていると仏法では達観しています。 いわゆる九識論と言われるものです。 この達観をもとに、人はいったい死んだらどうなるのだろうかということをすこし考えてみました。

人は死ぬと外界への反応と働きかけが、まず最初に無くなります。 次に終局の死に至るまでに五感と意識が徐々に段階的に喪失していくと考えられます。 死んでも細胞・神経の総てがすぐ死滅するわけではないからです。 終局の死に至っても自我と業識と生命は存在し、終局の死からさらに進むと自我が薄れ、薄れた自我と業識と生命が宇宙の生命の海原とより強く結びつくようになります。 体もそのときには形と質を変えて、総てこの地球・宇宙に還ってしまいます。 その後、自我の一部と業識と生命の在り様はどうなるのでしょうか。 生命の大海に溶け込んでいるようですが、その在り様は一様ではなく、そのエンタルピーに従い様々に宇宙とともに存在することになると思われます。 
次の生は瞬時である場合もあり、長い間かかる場合もあるようです。 
生の迎え方も様々で、必ず人として生まれるわけではなく、また地球とは限ず、その自我と業識と命にふさわしい生の採り方となるようです。 昆虫に生まれ、他の昆虫に卵を産み付けられ、生きたまま餌となり苦しみながら死んでゆく実体もあるでしょう。 あるいは人に生まれ、聡明にして慈愛に満ち、困難を乗り越える力と智慧を持ち、人々の中にあって楽しみ、満足のうちに死んでゆく実体もあるでしょう。 自我と業識と生命の在り様によって様々な生死を迎える。 生死の在り様(人か動物か植物か微生物か・・・・・・)で実体における五感-意識-自我(心)-業識-生命の発現と状態のレベルも異なってきます。 生と死はこの宇宙とともにあり、あの世や天国も地獄もこの現実の世界を離れては存在しない。 と教えるのが日蓮仏法です。

死を考えるということは、生の中でどういう生き方をしていくのかを問うもので、過去の業のバランスシートをどう清算し、未来に生命のレベルをどう高めていくかを、今世で見つめ行動することが大事だと教えてくれるでしょう。
13歳の時にそう教えてくれたのが、戸田先生の 「 生命論 」 でした。
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