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2015-07-09(Thu)
宗教の要は本尊にありますが、大概の仏教宗派は本尊に迷っています。 この、本尊の迷い、つまり何を本尊とすれば良いのか知らないことが、人々を不幸に導いているのです。

釈迦が入滅してから、残された弟子たちは釈迦の教えだけを支えにして修行を続けていました。 しかし、やがて、寂しさからか、釈迦の遺骨を大事に思ってか、遺骨を納めた塔を建て始め、さらに寺院に釈迦の絵や像を作って納め、それを拠りどころとするようになりました。 そして、釈迦以外の如来像や菩薩像そして守護神まで造立して、それぞれに崇めるようになってしまいました。 今では、仏教の本尊といえば絵や像がほとんどであり、それが正しいと思っています。 

はたして、釈迦は、根本とすべきものについて、どのように言及しているのでしょうか。
釈迦は法華経の法師品で「 薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復(また)舎利を安んずることを須(もち)いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す 」と説き、涅槃経の如来性品では「 復(また)次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり 」と説き、普賢経には「 此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり 」と説いております。
そのことを受けて、天台大師は法華三昧懺儀で「 道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け 」と指南しております。 つまり、法華経の教えを根本とし、修行の場において舎利や絵像を置いてはならない、ただ法華経一部を置くように、と定めているのです。

本尊というのは宗教の命だというのに、現在の仏教宗派のほとんどが、この釈迦の教えを守っていません。 残念なことに、守っていないのはこのことだけではなく、釈迦の遺言である「 義に依りて語に依らざれ 」「 智に依りて識に依らざれ 」「 了義経に依りて不了義経に依らざれ 」「法に依りて人に依らざれ」 という法の四依においても、悉く師敵対している、というのが実情です。 ただ日蓮大聖人お一人は、『 法華経の題目を以て本尊とすべし 』と仰って。 法華経の肝心を本尊とされています。 涅槃経には「 若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり 」 とありますから、日蓮大聖人以外の宗派はすべて師敵対している邪宗教と言わざるおえないのです。

日蓮大聖人を敬っているようにして、日蓮大聖人を下している日蓮系の宗派や悪しく敬っている日顕宗も、この本尊というものに迷っていて知りません。 じつに情けないことです。 天台大師が「 唯法華経一部を置け 」と言った” 義 ”をよくよく心に想うべきであります。 日蓮大聖人は『 此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり 』と、また、『 釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり 』と仰って、法華経の文の底に秘し沈められた妙法を取り出だし、それを記し顕わされたのが御本尊であります。


※ 2015/07/11改訂
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