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2015-04-16(Thu)
日蓮系の系統で、富士派は本尊にとてもうるさい。 まあ、その他の日蓮系は本尊に迷い、御本尊(文字曼荼羅)の価値を知らないから、当然かもしれません。 本尊にうるさいのはいいのだが、特に、戒壇の大御本尊を誰が持っているかで、その正当性を誇示しているのは、どうかと思う。 大御本尊を免許皆伝の巻物と、どうも間違えているようであります。 ほんとうにくだらないことです。

前にも触れましたが、戒壇の大御本尊を持っているということよりも、信心の血脈のほうが大事なのであります。 はたして、日蓮大聖人の心を持っているのか、日蓮大聖人の振る舞いと同じなのか、日蓮大聖人の御遺命どうりに、広宣流布のために死身弘法しているのか、そのことのほうが肝心なのであって、それがなければ、正当性はありません。

戒壇の大御本尊は偉大であるし、その力は絶大ですが、肝心の我々に信心の血脈がなければ、それは、" 猫に小判 ”、” 豚に真珠 ”であります。 その、信心の血脈とはなにかといえば、いろいろと言えるのでありますが、畢竟、日蓮大聖人の心を持っているのか、というところにつきます。 具体的には、不幸にあえぐ人に寄り添い、励まし、幸福へと導いていくことに、どれだけ心血をそそいでいるか、ということです。 しかも、その連帯を地域に、日本に、そして世界中に広げているのか、ということであります。 戒壇の大御本尊を持っているぞ、と、威張ったところで、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布はできません。 信心の血脈がなければ広宣流布はできないのです。 

その信心の血脈は、創価三代の会長に流れており、創価という和合僧団にしかありません。

戒壇の大御本尊は広宣流布の暁にお出ましいただければ、それでよいのです。 それまでは、紫宸殿御本尊と同じように、どこかで静かにお持ちいただくのが本来の姿であります。
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