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2015-03-04(Wed)

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。
【 本文 】 秋元御書 (P1072)
『 信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、 』
【 通解 】
『 完全な器のように、信心の心に欠けるところがなければ、一切の人を平等に利益する仏の広大な智慧の水は、決して乾くことがない 』
【 指導 】
* 「 信心 」ほど偉大なものはない。 これが一切の結論である。
仏の智慧は、あらゆる人々を、平等に絶対の幸福へと導く智慧である。 その智慧の水を、わが生命の宝器に満々とたたえていくために必要なのは、ただ「 信心 」なのである。 「 信心 」の器が壊れていたり、汚れていたり、閉じていたり、不純物がまじっていたり ― それでは清らかな「 智水 」は得られない。 ゆえに信心なき日顕に、仏の智水などあるわけがない。 あるのは、ただ仏法を利用し、信徒を食いものにしょうとする魔性だけである。
< 御書とその心 >より
日蓮大聖人の仏法は、御本尊に総て説かれています。 だからこそ御本尊は出生の本懐といわれているのであります。 御本尊には、「 南無 」と打たれ、続いて「 妙法蓮華経 」とあります。 さらに、その左右には釈迦・多宝が並座しています。 この仏と仏が頷きあっているところに「 南無 」があり、仏と仏のみが知る悟りというのは、妙法を深く信じる心のこと、つまり、「 信心 」ということに尽きるのであります。
御本尊とわたしたちの間には「 信心 」というものがなければ、ダメなのです。 また、御本尊はわたしたちの「 信心 」によって御本尊となりうるのです。 「 隨縁不変・一念寂照 」とはこのことであり、妙法蓮華経という一極に帰することが成仏の要(かなめ)であり、信心なき二乗は畜生とその境涯において同じであります。
※ 2015/03/04 改訂
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