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2015-02-19(Thu)
第二代会長の戸田先生は信心について、「 お勤め(勤行・唱題)をして、御本尊に、あれをくれ、これをくれと、功徳をねだるような横着な信心ではなく、ほんとうに、折伏に身を入れて、人々に悪口をいわれ、バカにされて、ますます御本尊様を護持したとき、そこに厳然として、功徳が現れるのです。 」と仰っていました。

この話しから、日蓮大聖人の信仰とゆうものは、巷にみられる願かけの信仰とは違うということが判ります。 願かけの信仰でない、といっても、御本尊に願ってはいけないということではなく、願ったうえで身口意の三業で広宣流布のために尽くし、悪業を切っていく作業が必要だということであります。 それもなく功徳をせがむような信心を” 横着 ”と言われているのではないでしょうか。

悪業が不幸の原因であれば、報いを受けていけば、悪業は消えていきますが、それだけではダメなのです。 悪業の因となるものを消してしまわなければ根源的な解決とはならず、また悪業を作って苦しむことになります。 場合によっては、報いを受けている最中に悪業を積んでしまう場合もあり、六道輪廻といわれるように、地獄の中で這えずりまわるようなことになります。 やはり、生命の転換が必要であり、善業を尽くして悪業の因を消していく道筋が必要となってまいります。

願いというものの多くは、悪業に起因する苦しみから生じていますが、戸田先生は、それを解決するには善業に起因して生ずる苦しみを受けて、そこから善業をかなえる願いに転換してゆけば、悪業の因は消え、願わずとも自然と功徳が現れてくると仰っているのだと思います。 勤行・唱題し、悩める友に寄り添いながら、広宣流布のために日蓮大聖人の仏法を一人一人に語っていくことが、功徳の源泉であるというのが創価の哲学であり、それは日蓮大聖人の生涯のお姿と重なり、仏の歩む道を歩むのがわたしたちの信仰の要諦だということであります。

最極の功徳というのは、仏の境涯を得ることに尽きます。
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