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2015-02-03(Tue)
仏教の説話として、十王の話があります。
人が死ぬと、中陰(中有)にいる間に十人の王に一生の善悪を裁かれて、どこに生まれるか裁可されるという話なのですが、そのなかに閻魔法王が使う浄玻璃の鏡というのがあります。

この鏡は、閻魔法王が住む光明院・中殿の裏にある九面の鏡のことで、業鏡といいまして、死者が生きているときに行った善悪の総てを映しだすとされています。 死者が嘘を証言して逃れようとしても逃れられないという鏡であります。
この説話は、釈迦のたとえ話が基になり伝承されてきたものでしょうが、釈迦はいったいなんのために説いたのでしょうか。、

はたして浄玻璃の鏡というのが本当にあるのでしょうか。

仏教の低い教えでは、あの世があり、そこで裁かれ、行いにより地獄や天国に行くということなのですが、三世の生命観から捉えていくならば、鏡に映しだされるのは、生きているときだけではなく、生まれ変わる姿も映しだされたに違いありません。
このことについて、第二代会長の戸田先生は、「 この娑婆世界においては、私どものこの身、その境遇が、浄玻璃の鏡なのでございます。 過去世にわたくしどものなした業が、この現世にわれわれの身心に業報として感ずるのであります。 」と仰っております。  閻魔法王が持つ浄玻璃の鏡は過去や未来の因果を投影した自分自身だとゆうことになります。

このことを、現代の人はなかなか信じることができないでいますが、生命は永遠(無始無終)だというのが仏教の要であり、釈迦が法華経で説いたのもこのことであり、寿量品第十六の眼目であります。

 
 
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Category : 仏 教Comment : (2) |

* by みかん。
こんにちは。

鏡には、生まれ変わる姿も映し出される……なんだか凄い(゜ロ゜)

十王の話は初めて知りましたが、閻魔王は以前御書(「種種御振舞御書」)の勉強をしていた時に登場してきて(「わづかの小島のぬしらを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」)、その存在と意味をマイ講師さんから教えて頂いた事を思い出しました。

十王の話みたいに、自分の一生の善悪を裁かれるとか、子供の頃によく聞いた「嘘をついたらえんま様に舌を抜かれる」というのに似ていてなんだか面白いような(笑)

けど、結局、「閻魔王のせめ」というのは、自分が死ぬ間際(最期)に自分の人生・生き方を自分自身で審判する事だと聞きました。
善悪含めて、もっとああしていればこうしていれば…もっと戦えば良かった…あんな事をしなければ…等々、最後の最期に“後悔”する事ほど苦しいものはないのだ、と。

その時勉強したその御書の御文は、
死ぬ間際に、後悔の姿、後悔の状況・境涯になってはいけないんだよという、大聖人のご教示的な御文でした。

閻魔法王の持つ浄瑠璃の鏡は、過去や未来の因果を投影した自分自身であるーーー。
凄いっすね。
結局全て、自分自身の生命に内在するものという事なんすかね。

* by 夕焼け.
みかんさん、こんばんわ。

十王の話は、エジプトの「 死者の書 」のような死後の世界を描いていますが、一つ一つの話に隠された意味があるような気がします。 閻魔法王の浄玻璃の鏡が自分自身だという、戸田先生の透徹した眼力は鋭いですね。 実はこの鏡は、紹介したような話の使い方以外にも使い方がありまして、いずれ紹介いたします。 

>結局全て、自分自身の生命に内在するものという事なんすかね。

そう考えて良いと思います。
御本尊に描かれている生命の縮図は、わたし達の生命でもあり、わたし達は一念三千で満たされた宝塔といえます。

コメント





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