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2014-12-17(Wed)
六壺
( 写真: ja 1973 may vol.48 )


かつて、大学生の頃、わたしは大石寺の大客殿の隣にある六壺に入る機会がありました。 そして、そこに御安置されていた御本尊に一人きりで唱題させていただくことができました。 当時はその御本尊のことをよく知らなかったのですが、題目を唱えていて、実にすばらしい御本尊だと体感することになります。 この体験から、わたしは後に、” 御本尊には違いがあるのだろうか ”と考えるようになり、いまでも御本尊はどれも同じだと思い切れないでいます。 もちろん、総じて御本尊に違いはないのですが、やはり、日蓮大聖人直筆の御本尊と日興上人直筆や代々猊下の御本尊では違いがあるように思えます。
どうゆう違いか? と問われると説明が困難ではありますが、御書に「 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ 」 とあるように、書写する人の信心の血脈が、そこに顕れてくるのではないでしょうか。

御本尊の違いにより、信仰するうえで問題になるのかといえば、それはなりません。 信心の血脈がある方の御本尊であればなりません。 それは、わたしたちの信心の厚薄、浅深、強弱のほうが、御本仏と感応するための重要なファクターとなるからであります。 境智不二の法理であります。
唱題をしていればよいというわけではなく、唱題を根本とし、広宣流布のために行動し、仏の道を歩んでいくことが、罪障消滅・無量授徳の直道であり、事の観心となるからであります。 わたしたちが” 大法弘通慈折広宣流布の大願 ”のために、地涌の菩薩として日蓮大聖人に連なる風景こそ御本尊の姿なのです。 事の三大秘法はそこにしかありません。 

本来は日蓮大聖人直筆の御本尊の御形木を、分身の御本尊とするがよいのでしょうが、そうしないのは深い配慮があるからです。 
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Category : 御本尊Comment : (2) |

* by 摩訶衍
こんにちは。


>本来は日蓮大聖人直筆の御本尊を御形木として、分身の御本尊とするがよいのでしょうが、そうしないのは深い配慮があるからです。 


そうしないのは、創価学会に日蓮直筆の御本尊は存在していないし所有していないからですよ。

四十数年前に創価学会が日蓮正宗創価学会と名乗っていた頃、日蓮直筆の御本尊を所有している某寺院、二ヶ寺に対して売買交渉した事があったようですが一つは途中で立ち消えになり、もう一つは寺院の貫首にきっぱり断られたそうです。





* by 夕焼け.
摩訶衍さん、こんばんわ。

確かに、創価は大聖人真筆の御本尊を所有していませんが、所有しているかどうかにたいした意味はないし、必要もないでしょう。 また、所有しているからといって、日蓮大聖人の真筆御本尊の御形木をやたらと信徒に授与するような宗派があるでしょうか。 日寛上人の御形木の御本尊でも、もったいないくらいです。
ちなみに、創価が戴いている御本尊は、栃木県小山市の本如山浄圓寺にある日寛上人真筆の御本尊を、寺院の許諾を得て御形木とした御本尊ですが、その寺院には日蓮大聖人の板御本尊があります。

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