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2014-01-27(Mon)
「 経弥実位弥下 」というのは、妙楽大師が天台大師の「 摩訶止観 」を解釈した書に示された言葉で、「 教、弥(いよいよ)実なれば、位、弥(いよいよ)下る 」と読みます。 もう少し砕いて言うと、「 教えが真実であればあるほど、修行の位は下がっていく 」となります。

一般的には、衆生の機根が悪ければ、真実の教えでなければ救えない、という意味に使われています。 逆の言い方をすれば、機根が良ければ、真実の教えでなくても悟ることができる、ということです。 しかし、このような考え方はあるにせよ、わたしは、この言葉の意味として使うことに少し違和感を感じています。

妙楽大師が天台大師の「 摩訶止観 」のどの部分を解釈したのか見てみますと、それは、魔訶止観第六にあります。 「 前教に其の位を高うする所以は、方便の説なればなり、円教の位下きは、真実の説なればなり」というところであります。 この部分を、妙楽大師は「 経弥実位弥下 」と表現したのであります。

どうです、違うと思いませんか。

この“ 位 ”というのは、ここでは、修行の段階を指しており、前教である蔵教・通教・別教と円教の修行内容に焦点を当てて、教えの高低浅深を判定しているのです。 つまり、「 真実の教えであればあるほど、その修業は核心的で肝要なものになっていく 」と言っていたのです。  逆の言い方をすれば、一時的な方便の低い教えほど、修行の位を高くして、難しい修行となっていくということです。 
爾前権経が二百五十戒などの修行を説いているのは、方便であり、たとえ難しい修業を積んでも、仏に成るには長遠な時間がかかってしまいます。 それは、事を成し遂げていくときに、やり方がまずいと時間も労力も必要だ、ということと同じであります。 

小乗教が大乗教に差別的な扱いを受けることになる、これが、もう一つの理由であります。
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