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2014-01-13(Mon)
蓮華-2 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

涅槃経には「 法に依って人に依らざれ 」という有名な文がありますが、これは釈迦の遺言であり、死して後の弟子たちのために、規範とすべき指針を遺されたのであります。

この文は、いろいろと深い意味を含んでいますが、一義的には、法とは、仏が説いた経をいい、人とは、仏以外の菩薩はもちろん諸宗の人師を指しています。 つまり、仏の金言を拠りどころとして、人師の作り事に依ってはならないと諫めた文になっているのです。

日蓮大聖人は、この文を挙げて、律・禅・念仏・真言の諸宗を厳しく切り捨てています。 たとえば、日本の真言宗の元祖である弘法は、「 理同事勝 」といって、法華経は理(一念三千)で同じだが事(内実)において大日経に劣ると言い、揚句には、教主釈尊は仏ではあるが、大日如来に比べれば無明に覆われた境涯に等しく、大日如来が皇帝ならば釈迦は虜囚のような身だと言い放っています。 はたして、釈迦の金言である経典にそのような言説があるのでしょうか。

釈迦は法華経の安楽行品で「 法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中において最もその上にあり 」と説き、法師品では「 我諸説の経典は無量千万憶にして己に説き今説き当に説かん而も其の中に於いて此法華経は最も難信難解なり 」と説いております。 仏が説いた金言と弘法が主張とどちらを信用するべきでありましょう。 ましてや大日如来は、大梵天に広長舌を付けて「 法華経は真実なり 」と証明した十方の諸仏の一人ではなかったでしょうか、舌も乾かぬうちに、法華経よりも優れた経があるなどと説いたとしたら、誰が信用するでしょう。 日蓮大聖人は、釈迦の説いた経典に、弘法が言うような内容はどこにもないと断言せられております。

釈迦の説いた経典を依処としているために、一見は仏教に見えますが、我見によって、釈迦の心を蔑ろにし、「 依法不依人 」の遺言に逆らい、仏の金言に敵対しているのが邪宗の本質であります。 邪宗というのは、まさに” 謗法 ”の宗なのです。
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Category : 仏 教Comment : (2) |

* by うなぎ犬
依法不依人はよく理解できるのですが。
法は普遍的に存在していますが、それだけでは何が正しい法なのかを多くの人は惑ってしまうのではないでしょうか。
人法一箇がいまいち理解できません。
法が大事なのはわかるのですが、それを説く人の存在もクローズアップすると、依法不依人に反しているのではないでしょうか?
そこのところをもう少し掘り下げてご教授下さい。
よろしくおねがいします。


* by 夕焼け.
うなぎ犬さん、こんばんわ。

” 法 ”が尊ければ、その法を行ずる” 人 ”は尊いというのが、人法一箇の基となる考え方です。 それは” 法 ”に依って、その価値が決まってくるという意味で、この場合の” 法  ”は善悪や正邪を含んだうえでの法という捉え方であります。 

依法不依人の” 法 ”とは正しい道を示した法のことであり、仏が説いた法のことであります。 ” 人 ”とは、その法を知る仏以外の人のことを指します。
それでも、人は仏に成ることができますから、その仏と成った人に依ってはいけないのかという疑念も浮かびますが、仏が説く法と、仏と成った人が説く法が違うということはあり得ないのです。 それは、釈迦や十方の諸仏の覚知した”法”は同じものだからです。

同じ字でも意味や使い方が違いますから、同じ次元で比較すれば混乱するだけだと思います。

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