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2013-12-10(Tue)
かつて、第2代戸田会長は「 広宣流布は戸田がやる 」と言われました。 広宣流布というのはいろいろと意味があるのですが、当然、信心をする人が増えなければ広宣流布はできません。 その広宣流布を" 会長である自分がやるから、皆さんは折伏をして宿業を転換し、福運を積んで幸せになりなさい "と仰っておられるのです。
折伏は成果主義ではありません。 成果を目当てでするのも、それを嫌ってしないのも、実にもったないことです。 折伏して信心するしないは、相手の自由ですし、相手が信心しなくても、ちゃんと功徳はあるのです。 不軽菩薩のようにどんな相手にも、この信心を語っていくことが、とても重要なことなのです。

わたしの経験から言えば、折伏を一人の人だけにこだわるのではなく、多くの人に語ってゆけば、信心する人が必ず現れます。 折伏された人が身近な人に話を聞いていても、なかなか決断ができなかったところに、わたしとの対話で決断をしたということもあります。 また、この逆もあります。 違った人と違った視点で話すことで、それぞれが補完され、信心を始める一歩を踏み出せたのです。 いずれにせよ、唱題しながら、如来の事(じ)を行ずる思いで折伏してゆけば、必ずその願いは叶います。 

折伏をして、話は聞いてくれるのに、なかなか信心しない人がいます。 また、折伏をして悔しい思いや、腹立たしい気持ちになることもあります。 折伏をしていやな思いをすることも、いじめられることもあります。 ひどいときには、罵声を浴びせられ、物をぶつけられ、塩をまかれることもあります。 これらは全部「 これも修行ぞ 」であります。 苦しみながら、悩みながら唱題し、信心を続けてゆけば、自身の生命の垢を落として、やがて人間革命することができます。 あるいは、悪い宿業を清算し福運がついてきます。

折伏は、人を救済する行為ではありますが、自身を救済する行為ともなっているのです。 それは、仏の道を歩む尊い行為であり、歩みながら仏と成っていく姿は、ちょうど、須弥山に近づく鳥が、金色に輝いていく姿に似ています。
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