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2013-07-23(Tue)
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創価では、「 仏教 」という言葉をあまり使いません。 ほとんど「 仏法 」という言葉のほうを使います。 当初、このブログを始めたころ、「 仏教 」という言葉に違和感を感じながらも、世間一般で使われている言葉であったために、「 仏法 」と使いたいところでも、あえて使ってきました。 しかし、これからは気にせず、使っていこうと思います。

そこで、「 仏教 」と「 仏法 」について、少し触れておきたいと思います。

「 仏教 」というのは、紀元前550~750年前頃に、インドに出現した釈迦によって説かれた教えのことを言いますが、「 仏法 」というと、その教えにある、真理を捉えて言っています。 世間一般では、要するに同じことだという解釈が多いのですが、もう少し掘り下げて見ていくと、あることが見えてきます。 

釈迦の説いた教えは八万法蔵ともいわれ、膨大なものになります。 しかし釈迦自身が言うように、それらは、衆生の求めに応じ、機に従い、方便を巧みに使いわけ、ある一面の真理を説いたものがほとんどであります。 そのため、なかには、背反する様な内容のものも少なくありません。
釈迦は無量義経で「 四十余年 未顕真実 」と宣言し、法華経で初めて重大な真実を語り始めるのですが、法華経方便品第二では、さらに次のように述べています。

  十方仏土中 唯有一乗法
  無二亦無三 除仏方便説
  但以仮名字 引導於衆生 
  説仏智慧故 諸仏出於世
  唯此一事実 余二則非真
  終不以小乗 済度於衆生 

  十方仏土の中には 唯一乗の法のみ有り
  二無くまた三無し 仏の方便の説を除く
  但仮の名字を以て 衆生を引導したもう
  仏の智慧を説かんが故なり 諸仏世にいでたもうには
  唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず
  終に小乗を以て 衆生を済度したまわず

続いて同じように、過去・現在・未来の三世の仏についても、一乗の法を説かんがために、世に出現して方便力により種々説いてきた、と述べています。 つまり、あらゆる仏の覚知したものは等しく一つであり、二無く三も無いと説いているのです。 また、仏の出現の目的は衆生を仏にすることにのみ有り、様々に引導してきたものは真実ではないと断言しています。 
ここで少し説明しますと、法華経以前には、二乗(声聞・縁覚)やその他の不成仏が説かれていました。二乗はもっぱら阿羅漢果を得るために小乗教の修行に没頭し、もうこの世に生まれてこなくてよい無余涅槃を究極の悟りと思い込んでいたのです。 そこで釈迦は、涅槃の修行を説く小乗教や二乗を弾劾する諸経、つまり法華経以前の教えを”仮の名字 ”と言ったのです。 

このことから、「 仏教 」とは釈迦一代において玉石混在して様々に説かれた教えと、その教理・経釈を含めたものを言うのですが、「 仏法 」と言うときには、その教えにある種々の真理ということで終わらずに、釈迦だけでなく、十方の諸仏と、過去・現在・未来の仏が等しく覚った、普遍的で変わらない” 一乗の法 ”を指して言うのだということが解かります。 

釈迦は法華経でこの” 一乗の法 ”を説いているのですが、明示的に説かなかったために、宿縁深い弟子は覚ることができましたが、釈迦滅後、多くの修行者が迷いの海に沈んで、法華経を信じることができませんでした。 すべての仏の源流となる智慧がそこにあったのですが、それが明らかとなるのは、日蓮大聖人の出現を待たなければならなかったのです。 日蓮大聖人の弟子であるわたしたちが、そのことを語るとき「 仏教 」というよりは「 仏法 」という言葉を使うほうが、とてもしっくりとくるのです。
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