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2013-09-02(Mon)
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池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 一生成仏抄 ( 383P ) 
『 都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、 』

【 通解 】 
『 釈尊一代の八万聖教も、三世十方の諸仏菩薩もすべて、我が心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。 それゆえ、、仏教を学ぶといっても、みずからの心の本性を観じなければ、まったく生死の苦しみから離れることはできないのである。 もし、我が心の外に道を求めて万行万善を修めようとするならば、たとえば貧しさに窮している人が、日夜にわたって隣の人の財産を数えたとしても、半銭の得分もないようなものである。
そうであるから、天台の釈の中には、「 もし、心を観ずることがなければ、重罪を滅することは出来ない。 」 とあり、「 もし、心を観ずることがなければ、無量の苦行となってしまう。 」 と、天台は判じているのです 。 』

【 指導 】
* 多くの宗教は、この人間の心から離れた、どこか別のところに、すばらしい絶対者が存在すると説く。 そして、「 人間 」 と、その 「 心 」 を、そうした絶対的な権威に服従し、すがるべきものとして低め、卑しんでいる。 日蓮大聖人の仏法はそうではない。 すべては、わが心にあり、「 仏 」 もわが心中にあると説かれる。 その教えどうり、胸中に、限りなく広々と光輝満つる大境涯を開きゆくための、日々御本尊根本の仏道修行なのである。
大切なのは自分自身である。 この自分という原点を見失い、自分の尊厳を忘れ、何かに隷属していくような弱々しい卑屈な生き方では、全てが『 無量の苦行 』 となってしまう。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人の仏法ほど、仏と我らは同じであると、徹底した平等観に立つ教えはありません。 世界中を探してもどこにもありません。 自分自身が、かけがいのない存在であり、無限の可能性を秘めていることに気がつくかどうか、そして、それを開き、倶し、蘇生させてゆくことができるか、人間革命とはその実践のことをいっております。
主体的な自我の確立と他者への尊厳は、相乗的に増してゆくものなのです。 逆に自分を卑しめ、権威に服従する人ほど、上慢の虜になり、他者への尊厳を失ってゆきます。 ようするに、他人のお金を数えて、金持ちになったと勘違いすることと同じです。
外に求めても、永遠に得ることはできません。 仏法は因果応報(無量の苦行)ではなく因果倶時(境智冥合)であり、「 どこかに 」、「 だれから 」 ではなく、自らに仏の根源の泉があることを知るべきであり、それを開くための実践をすることが、仏法を学ぶ者の正しき道ではないでしょうか。

信心も、「 やらされる 」 よりも 「 やる 」 ほうが功徳も大きいのであります。
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