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2013-08-22(Thu)
体あるいは心の病を抱え、とっさに死を選ぶ人もいれば、必死に生きていこうとする人がいます。 今日の出来事を知り、考えさせられました。 

それは、歌手だった藤圭子さんの訃報です。 警察では自殺したとの見方をしているそうですが、真相はまだハッキリとしていません。 報道によると、長年、原因不明の病を抱えていたということで、それが原因かもしれません。 藤桂子さんの死の真相はわかりませんが、病を抱えて、死を選ぶ人は世の中にたくさんいます。 しかし、その反対に、病を抱え必死に生きていく人もいます。
昨日のTVでは、オートバイ事故で頸椎を損傷し、下半身不随となった青年が、懸命の努力を重ね、口を使ってコンピューターを操り、イラストレーターとしての才能を開花させていることが紹介されていました。 この違いはどこからくるのでしょう。 

人生においては、絶望の淵に立つような思いになることは、誰にでもあります。 これは、絶対的な状況によってというよりも、個人の相対的な感受性によってもたらされるものです。 感受性というのは、その人の生命の感受性です。 他から見れば ” ? ” と思うようなことでも、人によっては追い込まれていくことがあります。 仏法から捉えれば、 ” 縁 ” は同じでも、 ” 因 ” である生命の状態により、 ” 果 ” が違うということでしょうか。

今日の聖教新聞には、進行性筋ジストロフィーと闘い、その内面の響きを、五行詩にして綴った「 点滴ポール 生き抜くという旗印 」(ナナクロ社刊)を、ベットに横たわるなかから出版した青年の記事がありました。 彼も地の底を這いずりまわるように苦悶し、命を絶つ葛藤に苛まれていました。 しかし、創価の信仰で、逃げても逃げても追いかけてくる宿命と闘うことを選び、ついには生命の輝きを放つまでになっていったのです。

彼の詩には次のようにあります。

・ 嗚呼 僕も
  生きているんだ
  青空の
  真っただ中に
  溶け込んでいる

・ 自分の力で
  見いだした
  ことのみが
  本当の暗闇の
  灯火となる

・ 生きようと
  向かえる気持ちは
  芽吹きのように
  炎に焼かれた
  幹の心は生きている

死は、その有無も重大ですが、どのように死んでいくのか、死ぬ生き様とでもいいましょうか、そのことのほうが、とても重大なことのように思えます。 わたしは、それが次の生をかたちづけるものだと信じています。

夕焼けのように沈み、旭日のごとく出でたいものです。
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