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2011-07-19(Tue)
広布の記念式典
(写真:SGIグラフ 昭和33年3月大石寺)


仏と人の捉え方に、日蓮大聖人の仏法と世間の宗教観とでは大きく違うところがあります。 一般的には仏と人を差別して、仏は我々人間とは別物で、神のように力を持った、他力本願の根源的な存在として観ています。 ところが仏教のもともとの考えは違っております。 釈迦は法華経で「如我等無異」と説いて、総ての衆生を自分と等しい仏にするとして、十界の衆生ことごとくの成仏を約束したのです。 これはどうゆうことかといいますと、仏と人は、師と弟子の関係にあるということを意味しております。 仏があまりにも立派で、人は苦しみに沈んでいる為に、しだいに神のような絶対的能力者と見るようになってしまったのでしょうが、それは本来の仏法から見れば根本的に誤った捉えかたなのであります。
 
創価に対する世間の見方もこの延長線上にあり、SGI池田会長と会員が、主従的関係あるいは専制的関係にあると決め付けております。 しかしそれは誤解であり、意図的な悪意で見ている人々の宣伝によるものなのです。 仏法の本質は師弟関係にあり、創価も創立以来、広宣流布のために実践する師弟不二の組織として発展してきました。 信心の上では、日蓮大聖人が本源の師でありますが、広宣流布遂行のための実践の師が代々の会長ということになります。

師弟についてSGI池田会長は次のように指導しております。


* 「 仏法の師弟不二とは、師匠と弟子が、同じ仕事を、同じ境涯で、同じようにしていくことである。 」

* 「 仏法でいう師弟の意味は、けっして前近代的ななものではない。 師弟不二といって、師と弟子という立場はあるが、その根本は人間として平等である。 師は弟子を自分以上にしなくては、師ではない。 弟子も師と断絶があってはならない。 」

* 「 仏法の究極は師弟不二であるといっても過言ではない。 師は原理を示し、弟子は師匠の教えを、微塵も誤りなく実践し、応用化して、師匠の理想を身をもって実現していくのである。 」

<指導メモ>より


弟子は師の所有物ではありません。 皆、平等な仏の生命を持った尊極な当体であり、人間なのです。 その根本にたった、師と弟子の峻厳な契りに供に生きるのが師弟不二であり、如我等無異の本当の意味ではないでしょうか。
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Category : 創 価Comment : (2) |

No title * by しもべ
はじめまして。
ワタシのブログでコメントありがとうございます。

関西で今月まで男子部の者です。この度壮年部になりました。(笑)
素晴らしい記事ですね。

『師弟』を持つ人は尊い。

ですね。
自身に深くまた『師弟』を胸に刻めました!
ありがとうございます!

No title * by 夕焼け
しもべさん。 おはようございます。
思春期の頃に、写真をやっていました。
いろいろと選択肢もあって、今は趣味の範囲で楽しんでいます。

これからも、よろしくお願いいたします。 (^^

コメント





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