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2012-09-22(Sat)
日蓮大聖人は 『 日蓮・仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず 』 と仰っています。 「 信じよう、しかし検証を 」 とゆうことです。

仏法を実践するときには、仏の言葉が第一原理となるため、その言葉がほんとうに仏の言葉であるのか、そのことが、まず求められます。 つぎに、その言葉の内容が道理にかなって、納得できるものでなければなりません。 さらに、なによりも、仏の言葉に従い実践して、その通りにならなければ価値がありません。 日蓮仏法では、これを文証・理証・現証の三つの証明、 「 三証 」 といっています。 初代牧口会長は、創価の伝統である座談会を 「 大善生活実験証明座談会 」 と銘うって、少人数での研鑽と信仰体験の対話を大事にされていました。
どんなに高邁な理論があっても、現実の生活に反映され実践されなければ、絵に書いた餅であります。

宗教の対極にあるのが科学だとされていますが、その科学は、物質世界の現象の謎解きから始まっていて、現象を観察・分析して、その法則性を探り、それを理論化していきます。 これは ” ? ” ” 疑う ” という部分にあたります。 その内容が論理的に矛盾がないか検証され、論理的に矛盾がないと判断されれば、科学では ” 仮説 ” として認められます。 科学が最初は仮説でしかないということは、とても重要なポイントです。 最初から、謎解きができたわけではないのです。
それでは、それがどう法則として認められるようになってゆくのでしょうか。 最近、ある素粒子の存在を探るため、世界的な規模で実験が行われました。 そう、TVや新聞でも話題になったヒッグス粒子の実験です。 まだ100%の確証ではありませんが、それを裏付ける結果が出たと報道されていました。 このように、仮説は、理論にあてはまる現象の発見や実験により確かめられて、初めて科学の法則として認められているのです。 実験は、 ” 疑い ” から始まって、論理的な仮説をたてたうえで、それを仮に ” 信じて ” 行われます。 実験して、結果が実際にそうであれば、仮説は、確かに ” 信じて ” よい法則となるのです。 しかし、現実には簡単に実験が成功するわけではなく、仮説が間違いであったり、修正しなければならなくなることもあります。 ときには、実験の過程で、おもわぬ疑問に遭遇し、新たな仮説が生まれることもあるのです。 科学は演繹的な論理の構築と実験証明を繰り返して、真実に迫ってゆこうとしているのです。 しかし、科学は相対的な世界を前にして、何度も法則を深化させながら、塗り替えてきています。 何が本質で、何が真実なのか、深い疑問と対峙しているのが、いまの科学の現状であります。

「 三証 」 のうち、文証・理証は科学でゆう仮説の部分で、現証は実験の部分といってよいでしょう。 しかし、仏は、縦には三世に、横には無限に全宇宙を了解して、真実を知るひとでありますから、仏の言葉は、無限の過去から体験し実験してきた事実と真実を語っています。 仮説というよりは、すでに法則といえるものです。 科学が演繹的であるのに対して、仏法は帰納的なのです。 そのため、科学は疑問から始まって、実験しますが、仏法は信じることから始めて、実践するのです。 実験あるいは実践をして、そうならなければ、それが間違いであることは科学も宗教も同じです。 それによって、科学は新たな仮説を構築し、宗教は正邪をわかちます。
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