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2011-07-08(Fri)
第2代会長の戸田先生は、獄中で唱題するなか法華経を身読し、仏とは ” 生命 ” のことなのだと悟達されますが、そのとき、自身が虚空会の儀式にまちがいなく居た、ということを感得されています。 出獄をして自宅に戻り、御本尊をまじまじと見すえ ” このとうりだ、このとうりだ ” と言って涙したと聞きます。 また、日蓮大聖人は霊山一会儼然未散の真実を示すため、虚空会の儀式を末法に移して御本尊を顕されたとされています。 その御本尊を観ると釈迦・多宝は、南無妙法蓮華経を中央に左右に配されています。

この虚空会の儀式とは、法華経の中で、宝塔品から神力品までに説かれた二処三会の中間にあたる会座のことです。 釈迦の説く法華経が真実であることを証明する為に、東方宝浄世界からきた多宝如来が七宝の宝塔と供に大地から湧現して、多宝が半座をわかち、釈迦が塔中に入って、霊山の大衆を虚空に置くところから儀式が始まります。
この部分をわたしたちに約していえば、 「 半座をわかつ 」 とは、わたしたちに受戒を促すということです。 「 釈迦が塔中に入る 」 とは、わたしたちが信を以って宝塔に入るということです。 「 うなづき合う 」 とは、わたしたちが御本尊に唱題し境智冥合するということです。 わたしたちが唱題するとき、我等の五体が霊山となり、胸中の宝塔が開き、その総在が南無妙法蓮華経の当体となっていくということです。 日々信心するということは、日々虚空会の儀式に居るということと同じだといえます。 多宝が境で釈迦が智ですから、二仏並座はわたしたちが南無妙法蓮華経を抱きて成仏する姿を象徴しております。 わたしたちが 「 本来仏である 」 ということは、 “ 境 ” であり、そのことを覚知するのが ” 智 ” であり、仏としての振る舞に起つことが境智冥合の姿であり、御本尊に唱題し、人に仏法を語り続ける姿ということになります。
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Category : 御本尊Comment : (2) |

No title * by うなぎ犬
非常に分かりやすい解説ありがとうございました。<BR>私は音楽隊に入隊し15歳の夏に、五時間唱題しているときに虚空会の儀式を体験しました。<BR>太陽の光と月の光を融合したような光に包まれ確かに日蓮大聖人と池田先生が中央にいらっしゃいました。<BR>この話をすると皆嘘だと言うのですが本当のことなんです。<BR>信じてもらえるかどうかはわかりませんが、虚空会の儀式は架空のおとぎ話でもなんでもなく、真剣に信じ祈りきっていく中で確実に体験できるものなのです。

No title * by yuyakeci
うなぎ犬さん こんばんわ。<BR><BR>虚空会の儀式の体験ですか、わたしには経験がありません。<BR>地涌の菩薩の自覚を持って、広宣流布に邁進してまいりましょう。 法華経の意味は、”今”が常に虚空会の儀式だということだと思います。

コメント





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