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2012-09-07(Fri)
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(写真:2012年9月7日付聖教新聞 本部幹部会 東京)

宗教の生命は、なんでしょう。

わたしは、布教だと思います。
布教は宗教を宗教たらしめるものではないでしょうか。

今の僧侶仏教の多くが、この生命を失っています。 生命がないから、形だけのコスプレ仏教に堕してしまっているのです。 葬式と法要と護符の守銭奴に成り下がってしまったのです。 布教は宗教の生命です。 世界の三大宗教と言われる釈迦やキリストやモハンメッドは、皆、布教の人です。 布教の生涯です。 その行動の師なのです。
では、 ” なぜ布教なのか ” といえば、宗教の目的が人の救済にあるからです。 端的にいえば、布教は神や仏の使命なのです。 その神の子であり、仏の子が布教もしないで、生活のために、祈るだけなど言語道断だと言われても、いたしかたありません。 釈迦などは自分の葬儀に僧侶が出席することさえ戒めています。

わたしが、 ” 宗教の生命は布教にある ” と思うのは、もう一つ理由があります。 仏教以外はおくとして、仏教では、仏の救済の目的は、一つしかありません。 それは、人を仏にすることです。 これしかありません。 病気を治す。 苦しみを取り除く。 悩みを消す。 金持ちにする。 そんなものは枝葉の問題でしかありません。 本質的な目的ではありません。 釈迦が大金持ちでしたか? 悩みがなかったですか? 苦しみませんでしたか? 病気をしませんでしたか? 人に憎まれなかったですか? 命を狙われませんでしたか? ウソで卑しめられませんでしたか? 弟子に裏切られませんでしたか? 親族を殺されなかったですか?  もし、そのようなことが救済の目的なら、仏教は程度の低い教えといえます。 必要なときに必要なお金があればいいのです。 どうしたら人を仏にすることが出来るのか悩むのは当たり前です。 苦しみを知らないで、人に寄り添うことなどできないことです。 病と死は生命の理(ことわり)であり、自然なことです。 仏教の目的は、釈迦のような仏に、一人も漏れずにすることです。
布教しない仏は、一人としていません。  見たことも聞いたこともありません。 布教しなければ仏ではありません。 仏と判るのはその振舞いにあります。 仏と同じ振舞いに起てば、仏の生命が湧いてくるのです。 わたしは、仏法対話をしていくと、生命が躍動し、清浄に澄むような心になって、深い喜びに満ちてくるのを感じます。 仏と同じ心を持ち、振舞えば、もうその人は仏なのです。 だから、布教は宗教の生命だというのです。  ” ほんとうに ” と思うかもしれませんが、そうなのです。 修羅と同じ心を持ち、振舞えば、もうその人は修羅ではないですか。 そう成っていくのです。 南無地獄、南無修羅、・・・・・ではなく、南無妙法蓮華経こそが仏と成る秘薬なのです。 法が根本の仏教の根幹は 南無仏などではなく、南無妙法蓮華経でなければなりません。  南無妙法蓮華経の ” 経 ”とは布教する振舞いのことであり、仏法対話のことであります。 創価の歴史は、布教の歴史しかありません。 布教は人としての最高の振舞いであり、生きた宗教である証なのです。
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