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2012-08-27(Mon)
そもそも、仏教は絶対的な神の存在も仏の存在も認めていません。 ” 法 ”  が絶対的な存在としてあるだけです。 したがって、罰も功徳もだれかが ” 与える ” ものでも ” 下す ” ものでもありません。 しかし、このことは誤解しやすいことのようです。

勉強して大学に合格するのは、功徳です。 勉強もしないで受けても不合格になるのは罰です。 試験の成績に関わらず、だれかが恣意的に合格・不合格を決めているとすれば、そうはなりませんが普通はそうであります。 当然の道理であります。 仏法はこの道理を説いているのです。 罰も功徳もこの道理から説かれているものなのです。 道理を説かれて、反発するのはナンセンスであります。

仏は ” 覚者 ” ともいわれるように、 生命の ” 法 ” を知る人であります。 その仏が、 ” 法華経の行者を軽んじ誹謗すれば、罪報を無数劫に受ける ” と説いたのは、生命の ” 法 ” なのです。 仏はその理由も明確に説いています。 ” 仏種を断ずること ” だからと。 地獄の門を開いて、数知れぬほどの人を、地獄に連れて行くからだと。 仏がそう説いていることなのに、仏教を志すものでさえ、その言葉を受け止めようとしません。
考えて、考えて、しまいには解らないから、 ” 違う ” と結論を出してしまう人さえいます。 馬鹿なことです。 愚かなことです。 『 我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はおそるる心なし 』 と日蓮大聖人は仰っていますが、胸を衝かれるような思いがいたします。
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Category : 仏 教Comment : (2) |

No title * by SHIn
皆、相対的幸福獲得の為には努力するのにいざ獲得してしまうとそこに甘んじてしまう事が多いように感じます。福運は絶対的幸福境涯を成く事により積まれていくと思うのですが。心の財を積んだ人は強いです。ひとつの言葉、振る舞いをとっても万人に勇気と希望を与えていく事ができますから。

No title * by 夕焼け
そうですね。 
” 心の財を積んだ人 ” とは、我らが師匠ですよね。 (^^

コメント





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