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2012-05-16(Wed)
今、日本の仏教教団では三宝(仏法僧)を示して、在家は僧を援助し、尊仰して、その教えに従わなければいけないと言いいます。 大乗仏教が主流の日本の宗派でも、民衆は僧の庇護者でしかありません。 また大衆もそのように甘んじています。

しかし、よく調べてみると、もともと出家・在家の差別はなかったのです。 仏の説法を聞き、仏と成る為の修行をする和合の衆で構成された集団のことをサンガ・僧伽・僧と言っていたのです。 本来階級を区分するためのものではないのです。 「 如我等無為 」 と説いているのですから、あるはずがありません。 また釈迦は三宝について涅槃経ではっきりと説いています。 階級としての三宝の捉え方・考え方は誤りであり、ことさら在家を下に置くような三宝観は正しい捉え方ではありません。 さらに日蓮大聖人の教えにおいては、なおさら階級などありません。 法を守り、法に従い修行する者の集まりが三宝のうちの僧なのです。 出家・在家で切り離す考えは破和合僧の考えに陥る危険があります。 出家は在家を敬い在家は出家を尊んでゆかなければなりません。 いずれにせよ、仏の道を行く者として平等なのであります。 それを忘れ、在家を差別し出家を僧として権威化し、貫首を仏の代理者・遂行者としてカトリック化してしまったのが日顕宗であります。 出家には特別な法があり特別な修行をして成仏するのだとしてきたのは既成の仏教であります。 日蓮仏法では、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えながら、苦悩する自身と他の人を救う以外に仏となる法と修行はありません。 成仏するのに出家も在家も修行に差別はありません。

日蓮仏法において、三宝(仏法僧)とは三大秘宝(本尊題目戒壇)のことであります。 広宣流布に生き抜くところにしか三大秘宝の実質はありません。 仏の道を歩む民衆の連帯と運動の中にしか三大秘宝は現出しないのです。 広宣流布に生きる和合の僧であるSGI(創価)を守り、共に広宣流布に生きてゆくことこそが三宝を尊仰する真の姿といえるのです。 僧とは出家・在家を分け隔てることなく、総体としての修行者。 仏の道を歩んでいく者同志の連帯の姿をいうのが正しい捉え方だということを、わたしは、はっきりと理解することができました。
その上で、わたしは三宝が二仏並座の宝塔の儀式を意味し、また、成仏の根幹である師弟不二を意味していると考えています。
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Category : 仏 教Comment : (2) |

No title * by アイスコーヒー
<僧侶とはなんやねん?>なんとなく気にはなるものの、普段の日常生活の中では、冠婚葬祭という儀式の場でしか目にしない故に、また、その正体は深い霧におおわれ、えたいが知れない故に、<触らぬ神にたたりなし>的に、出来れば無視しといたほうが無難そう・・・・・・・。                 私、を含めて多くの人たちの普通の感覚だと思います。                     だから現実に袈裟、衣を着た僧侶を目の前にしたとき、多くの人のとる対応は一応はかしこまった対応をしてしまう習慣がついてしまっていると思います。
私も子供のころから多くの大人たちの、影響で、そんな習慣が身についてしまっていました。 
なんとなく普段目にする世間一般の人々よりも袈裟、衣を着ているものたちは、なにか特別な能力がありそうな、根拠のない錯覚の故、私は創価から法華講に行って、貴重な、二度とかえらぬ15年の歳月を失った。本当に悔しい、無念である。夕焼けさんの、僧に関する記事は、記事にとりあげにくいけれども、簡潔でよくわかります。若い人には、特によく読んでいただいて、<僧とは何か?>を見抜いてほしいですね。

No title * by 夕焼け
アイスコーヒーさん、おはようございます。

たしかに、悔しい、無念といえばそうです。
わたしも、信心しないで、仕事に夢中になった時期がありました。
同じ想いです。

しかし、意味があったのだと思います。 使命があるのだと思います。 本因の立場に立つならば、使命としていかなければなりません。 齢のせいもありますが、わたしは、広宣流布に生き、信心に励むことに、ただただ想いが募るこの頃です。

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