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2012-05-06(Sun)
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(SGIグラフ 1972年ロンドン)


昨日の5月5日は、こどもの日でしたが、ちょうど40年前、昭和47年(1972年)5月5日にイギリスの歴史家A.J.トインビー博士とSGI池田会長との対談が、ロンドンのトインビー博士の自宅で行われた日であります。 この対談は、翌年の昭和48年(1973年)5月にも行われ、延べ10日間40時間にわたって対話が繰り広げられました。 そして数回の往復書簡を交わしながら、その内容が昭和50年(1975年)に 「 21世紀への対話 」 と題して出版されました。 対談当時SGI池田会長は44歳。 トインビー博士は83歳でした。 

事の発端は、昭和44年(1969年)に届けられたトインビー博士の手紙からでした。 そこには、 「 私個人としてあなたをロンドンにご招待し、我々2人で、現在、人類が直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します 」 と書かれてありました。 この対談は、その後の人類の知性と言われる人達と、SGI池田会長の対話の出発点ともいえる、記念碑的な出来事でありました。 「 歴史の研究 」 でトインビー博士は人類史を見つめ。 SGI池田会長との対談で人類の歩むべき道を模索していたようであります。 対談で結論は出たのでしょうか。 博士が 「 驚くほどの合致点がみられる 」 また 「 私の学問の整理が可能となった 」 と言われたように、両者の合致点が自身のライフワークとしての結論となったようであります。

その中で特に注目したいのは、両者が、宗教が人類史に幾多の忌まわしい汚点を残したことを指摘しながらも 「 宗教こそが人間生活の源泉である 」 としていることであります。 そして、 「 自我を ” 究極的実在 ” に合一させるべきである 」 としながら 「 究極的実在が人間の姿をした人格神ではない 」 ということで一致し、きたるべき未来の宗教の要件を見出していることであります。 西洋の知性が、東洋の叡智に合致した瞬間であります。 そして博士は、自己変革こそ 「 社会を向上させる唯一の効果的手段であり、諸制度の改革も、個々の変革の兆候として、かつ結果として現れてきたときに、初めて有効たりうる 」 と結論づけています。 言い方は違いますが、まさに、小説・人間革命のテーマである 「 一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする 」 と同じであります。
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Category : 記念日Comment : (3) |

No title * by ソドムとゴモラ
『歴史の研究』シリーズに関心が湧いてAmazonとか調べたんですが、ダイジェスト版(全3巻)しか現在は入手出来ないようなんですよね。残念。

『二十一世紀への対話』は最近再読しまして、2巻ラストの安楽死のくだりでしたっけ、ここら辺の対話は迫力がありましたね。

No title * by 夕焼け
ソドムとゴモラさん 始めまして。

” 安楽死 ” と ” 自殺 ” がテーマーとなったところですね。

トインビー博士は尊厳的自殺は人間の権利だと主張していました。 池田先生は、いかなる理由があろうと自殺は、生命の尊厳に反するものだと主張し、両者の違いを見せたテーマです。

このときに、池田先生は知性や感情は生命の一部であり、生命全体ではないとして、生命全体としての ” 自殺 ” は容認する発言をしています。 つまり、意識からくる ” 自殺 ” でなく、全体としての生命の働きとして死んでゆく ” 自殺 ” というべきものです。 「 全体的生命のみが、その生の終焉を決定する権利を持つ 」 と、説明していました。 これは、自他あるいは依正ともに、どのように力を尽くしても、体が死に向かっていくことを指しているのだと思います。 意識の上では、死にたいということもないのに、体はどんどんエネルギーが遮断されたように死に向かっていく。 あるいは、生きたいという気持ちの中で、抗し切れないほどに、体が衰退していく状況のことではないかと思います。 両者の違いは、意識からの死の容認と否定といえます。 

つづく

No title * by 夕焼け
つづき

ただ、 ” 安楽死 ” については、捉え方の違いはあっても、限定して認めていましたね。 でも、どう限定するか、とても難しいことだと思います。

” 安楽死 ” と ” 自殺 ” の問題を考えるときのキーワードとなるのが、わたしは ” 苦 ” だと思っています。 それに関して、池田先生が、ベートーベンの生き方を示して語っていましたが、わたしには、とても説得のある内容で、トインビー博士の主張を心情的には理解できても、価値ある選択ではないことがわかります。 仏法の生命観からすれば、意識の上で死をもって ” 苦 ” から逃れても、本質的な開放にはならないのです。 業は自らが書き換えなければなりません。 とてもむずかしい内容になるので省きますが、生も死も連続した生命の一断面に過ぎないのです。 依正不二、色心不二、諸法実相ですから、生命全体からくる苦のエネルギーは死のあとも続いていきます。 死をもってするのではなく、生をもって ” 苦 ” を克服し、”楽 ”を獲得すべきものだとわたしは考えています。

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