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2012-03-27(Tue)
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(写真:Hubblesite PD NASA Galaxy Triplet Arp 274


久しぶりに御本尊について、語ってみたいと思います。

「 少なくとも仏教の肝心は法華経にあり、法華経の肝心は寿量品にあり、寿量品の肝心は妙法蓮華経にあるのです。 さらに言えば、その文の底に秘し沈められている宝珠を、日蓮大聖人が取りいだして顕された南無妙法蓮華経の御本尊にあるのです 」 また 「 御本尊は五字が首題で、南無が境地の冥合を表わし、日蓮唱うるところの七字となっています。 しかし、それでいいのかというとそうではなくて、十界を互具と開き、五字相対して仏界即九界、南無相対して九界即仏界としています 」 と以前の記事で述べました。

このように、御本尊は仏が説きたかった核心となる内容を、諸法実相にあてて表現しております。 妙法蓮華経とともに南無を挟んで釈迦・多宝としていることに、わたしは、とても重要なメッセージが秘められていると思ったのです。 色々な意味があるのですが、成仏の鍵となるメーセージだと理解できたのです。 以前は、 ” なぜこのような文字が書かれた紙幅に、南無妙法蓮華経と唱えて仏の生命が湧現するのだろう ” 、 ” なぜ願いが叶うのだろう ” とだけしか思い至らなかったのですが、御書を学び思索するうちに、少しづつ核心に近づいて理解できるようになりました。
日蓮大聖人の御生命は、今も其処に慈愛と厳愛の眼差しで、仏の道を説いてくださっていると思えるようになったのです。 其処には、深遠な法理とありのままの実相( 宇宙の生命 )が欠けることなく収まっております。 御本尊は、仏の一切の教えを収めた宝塔とも言えるのです。 信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、仏の生命が其処に顕れ、生死一大事の血脈相承の儀式にも似て、生命と生命の触発に、我が仏の生命が呼び興され仏と等しい当体となっていくのです。 私たちもまた、仏の一切の教えが収められた宝塔だからです。

文字で書かれたもので、そんなことはおこらないと思うのが大多数です。 南無妙法蓮華経と唱え仏の生命が湧現し、願いも叶う、など信じられない、と、誰もが思います。 でも、これは、信じる信じないという問題ではなく、そうなるのです。 生命は深いところで繋がっていて、交流する周波数、チャンネルがある、と、仏法では捉えています。 悲しい人の傍にいれば、自分も悲しくなり、慈しみの心が満ちてくるではないですか。 元気な人に会えば、少しは元気になり、前向きになれます。 家の明かりを見れば、癒されます。 山の頂で見る風景に、感動の涙が零れます。 十如実相は御本尊とわたしたちの間にも相対的にあるのです。

ここで視点を変えてみましょう。 人間社会から、文字や言葉を無くした世界を考えてみてください。 さてどうなるでしょうか。 まず人と意志の疎通が極端に狭まります、それは受ける感性も狭まることを意味しております。 読書して感銘したり、泣いたり、恐がったり、決意したり、癒されたり・・・・・が無くなります。 紙に文字が書かれた書物でさえ、目にして読めば、人を変え、社会を変えることがあります。 人の言葉にはさらに力があり、直接の影響力が出てきます。 文字や言葉を無くしたら、今の文明と社会は崩壊することはまちがいありません。 文字や言葉には、他者の心に働きかける、人を変える力があることを、わたしたちは知っているはずです。 そう思っているはずです。 そう思わない人はとても少数ではないでしょうか。
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Category : 御本尊Comment : (2) |

No title * by SHIn
大聖人の文字曼荼羅は思索をする上で又自分の今現在の生命を確認する上で非常に画期的であり日寛上人がそれを簡潔に書き顕して下さいました。御本尊への唱題それ自体が方便品、寿量品の通りでありまた望めばいつでも仏は我が生命に出現するのですね。御本尊に唱題する事で“蔵の財より身の財、身の財より心の財第1なり”の御文を噛み締めています。御本尊は究極の“心の財”です!

No title * by 夕焼け
SHinさん、おはようございます。

きのうは、急用で返事ができず、もうしわけありませんでした。
” 究極の心の財 ” いい表現ですね。 そう思えたらすばらしいことです。 そのこと自体が心の財だと思います。

毎日の勤行・唱題が二仏並座だと解ると、自分と自分を取りまく現実世界が御本尊の相貌と重なります。 御本尊は無量のことを語っているように思います。 日蓮大聖人の御書も、釈迦の法華経や生涯の教説も、御本尊を語っていると感じます。 諸々のこの世界が、宇宙が、御本尊そのものなのだと気づきます。 わたしたちが拝する御本尊はその中にある御本尊と言えるでしょう。

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