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2012-03-05(Mon)
この御書は、文永10年(1273年)5月に弟子の最蓮房に与えられた、日蓮大聖人52歳のときの御抄であります。
佐渡流罪中には、開目抄・如来滅後五五百歳始観心本尊抄を始めとして、生死一大事血脈抄・草木成仏口決・阿仏房御書・佐渡御書・如説修行抄・顕仏未来記・当体義抄など、法門上重要な内容の御書が書かれております。


【 要文 】

『 問うて云く法華経の第一方便品に云く 「 諸法実相乃至本末究竟等 」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く 「 依報正報・常に妙経を宣ぶ 」等云云、又云く 「 実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土 」 、又云く 「 阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず 」云云 』

『 されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり 』

『 地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く 「 如来秘密神通之力 」 是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり 』
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Category : 御 書Comment : (4) |

No title * by む-みん
先日は著作権の感想とは全く関係ない内容のコメントを 入れてしまいまして、失礼致しました。また丁寧に お返事を 有難う御座いました。
「諸法実相抄」 難解ですね。
しっかり 読ませて頂きます。
まだ、なかなか はっきりしないことが
ありまして・・・次回 書き込みます。
わからない者が、難解な事を 聞きたがりますが これからも宜しく お願い致します。

No title * by 夕焼け
む-みんさん、こばんわ。

こちらこそよろしくお願いいたします。
わたしにも、難しくて解らないことがまだまだあります。
知識を紡いでいくような作業と解いていく作業の繰り返しです。

No title * by む-みん
度々 申し訳ないのです。
十界論で 思うのですが、「一般の仏」とは違い 「闘う仏」ですね。
「内なる悪」に勝利するには、「外なる悪」に勝利しなければ ならない。
極悪と戦うから極善になる。とあります。
「外なる悪」を悪と思いきれないので、前に進めないのかも しれませんが。
仏、菩薩と言えば 救うはずなのに、戦って勝つということが、見捨てるような感じが してしまいます。
「極悪」に対して 「打倒」と掲げ 戦う。 どこまでが勝ったことで、最後に 誰が 救ってあげるんでしょうか。
釈尊も堤婆を師匠として いずれは仏になるとの 記別を与えました。
仏も十界互具なので 分かるような 分からないような気分です。

No title * by 夕焼け
むーみんさん、おはようございます。

>十界論で思うのですが、「一般の仏」とは違い「闘う仏」ですね。

申し訳ありません、何について、”「一般の仏」とは違い「闘う仏」”と仰ってるのか意味が掴めないでいます。

>「内なる悪」に勝利するには、「外なる悪」に勝利しなければならない。 極悪と戦うから極善になる。 とあります。

わたしは、順序が逆だと思っています。 「内なる悪」に勝利して、「外なる悪」に立ち向かうことが肝要ではないでしょうか。 一人の人間革命は・・・・で始まる小説・人間革命の主題はそのことを言っております。 その意味で、悪に立ち向かうことこそ善の証だということです。 ” 極悪と戦うから極善になる ” というのは牧口先生の価値論の意味から言われていることではないでしょうか。 牧口先生は善をなさないのは悪だと仰っています。 また極悪を ” 魔 ” 極善を ” 仏 ” と捉えることも出来ます。 日蓮大聖人はあらゆる魔と戦い、竜ノ口の難では仏の姿を顕されております。 

>仏、菩薩と言えば救うはずなのに、戦って勝つということが、見捨てるような感じがしてしまいます。 「極悪」に対して「打倒」と掲げ戦う。 どこまでが勝ったことで、最後に誰が救ってあげるんでしょうか。

打倒・戦うと言っても、人を殺したり、痛めつけることを意味するものではありません。 誤った考えを正していくということで、言論戦・慈悲の思いからくる戦いです。 要するに、敵を味方に、偏見を正見にしていく戦いです。 これを間違えると悪に引きずられて自らも悪に染まります。 そのことについては、このブログでも ” ソクラテスの言葉 ” の記事で触れていますので参考にしてみてください。

http://blog.livedoor.jp/yuyakeci/archives/6309654.html

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