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2011-12-06(Tue)
今日の聖教新聞 ” 名字の言 ” の中で、現役の農業技術指導者として活躍し、地域でも「100歳の青年」と称えられる、長崎県に住む100歳の壮年(多宝会)のことが次のように紹介されていました。


* 入会53年。 経済苦、家族との死別など、全て信心で乗り越えてきた確信を、こう語っていた。 「 学会と共に進めばね、貧乏が ” 愉快な貧乏 ” に変わる。 試練が ” 宝の試練 ” になるとよ 」。 ” 愉快な ” 、 ” 宝の ” と言えるまでには、大変な苦労と祈りがあったと思う。 だが今も日々、感謝と喜びに満ちて仏法対話に歩く姿は、人生勝利の証そのものだ。


この100歳の壮年の方の言葉は、信心の本質を端的に語っているように思います。 それは、やせ我慢でそう言ってるわけではなくて、宿業と向き合ったときに、苦難に押し潰されるのではなく、それを薪として燃やし、人生を明るく照らし、自身の境涯を高めながら ” 人間、人生にとって何が大事で、何がかけがいのないものか、それを実感出来るようになる ” ということを意味しているのです。 だから ” 愉快な ” 、 ” 宝の ” なのです。 信心を根幹とすれば、全てに意味があり、全てが成仏の種となり、苦難という薪を燃やしながら即身成仏できるということであります。 新・人間革命(共戦 20・21)に池田SGI会長が昭和32年(1957年)に山口開拓指導で行った座談会の様子が次のように描かれています。 すこし長いですが紹介いたします。

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(聖教新聞201年12月6日付 新・人間革命 共戦 20)

* 伸一が宿泊する旅館の二階で行われた、その夜の座談会は、活況を呈した。 参加者の半数ほどが、学会員の友人たちであった。 経済苦や病苦が転換できるかなど、さまざまな質問が伸一にぶつけられた。 宿命にあえぐ庶民の苦悶がひしめき合うようななかで始まった座談会であったが、伸一が語るにつれて、参加者の疑問は氷解し、会場は、希望と蘇生の光に包まれていった。 質問が一段落したころ、口ヒゲをはやした一人の壮年が発言した。友人として参加していた地域の有力者であった。

「 わしは、ここにおる者のように、金には困っとらん。 今、思案しとるのは、これから、どんな事業をしようかということじゃ。 ひとつ、考えてくれんか! 」
 
 参加者を見下したような、傲岸不遜な態度である。 伸一の表情が、一瞬、険しくなった。 皆が、息をのんだ。 伸一の鋭い声が響いた。

「 学会は、不幸な人びとの味方です。 あなたのように、人間を表面的な姿や立場、肩書で見て、蔑んでいるような人には、いつまでも、学会のことも、仏法もわかりません! 」

 地域の有力者は、山本伸一の厳しい言葉にたじろぎ、あっけに取られたように、目をぱちくりさせていた。 伸一は、諄々と語り始めた。

「 ここにおられる、同志の多くは、経済的に窮地に立ったり、病で苦しまれています。 しかし、その苦悩をいかに乗り越えていこうかと、真剣に悩み、考えておられる。 しかも、自ら、そうした悩みを抱えながら、みんなを幸せにしようと、冷笑されたり、悪口を言われながらも、日々、奔走されている。 わずかな財産を鼻にかけ、威張りくさっているような生き方とは対極にある、最も清らかで尊い生き方ではありませんか! 仏法というのは、何が本当の幸福なのか、何が人間にとって最高の善なのか、何が真実の人間の道かを、説いているんです。 社会では、ともすれば、金銭や地位、名誉にばかり目を奪われ、 ” 心の財 ” が見失われてしまっている。 しかし、本当に人間が幸福になるには ” 心の財 ” を積むしかない。 心を磨き、輝かせて、何ものにも負けない自分自身をつくっていくのが仏法なんです。 その仏法を弘め、この世から、不幸をなくしていこうというのが、学会なんです 」

伸一は、民衆の蘇生と幸福を実現する創価学会の使命と、真実の人間の生き方を訴えていった。

<新・人間革命 共戦 20・21>より


創価の信心は、現実的幸福を獲得しながら、絶対的幸福を掴むことのできる信仰なのです。 日蓮大聖人の仏法を実践する創価のことを ” 現世利益を追求し目的とするのはおかしい ” といって、いかにもまやかしの低俗な宗教の如く言う人もいます。 しかし、人を幸せにし、社会を平和にせずして、なんで仏と言えるでしょうか。 地獄にいてもそこを常寂光土に変えるのが仏であります。 いつまでも、仏が病気で、貧乏で、不和で苦しみ続け、三毒(貪・瞋・癡)にまみれているはずがありません。 創価の信心は自らの仏の生命を汲み上げ、仏と同じ利他の行為をするから、自然と、自身も廻りも変わっていくのです。 そして心を輝かせながら常楽我浄の境涯で人生を飾ることが出来るのです。 これは仏になるからこそ出来るのです。 一生成仏とはこのことを言うのであります。

生も感謝、死も感謝。 生も歓喜、死も歓喜。 生死を貫く境涯の確立こそが創価の信心の目的なのであります。
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