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2011-12-05(Mon)
禅宗は、不祖といいながら、祖師を立て、不立文字といいながら祖師の教えを誦しています。 自語相違といえば、そうなのですが、もっと重要な過誤がそこには見えてくるのです。 つまり、成仏するのに禅の祖師の教えや著作(文字)は仰ぎ、それに随うが、釈迦の教説や法華経には随わないということです。 不立文字といいながら、まさに師敵対の天魔の所為であります。 今の禅宗は時代の推移の中で法華経や、経々の言葉(文字)で繕い、飾るようになりますが、本質は変わっていません。 釈迦の言葉で飾り、感心させておいて、あたかも禅はすばらしいと思わせるなど言語道断の行為であります。 その本質は、釈迦が悟ったところを見て、 「 ああ、あのようにやればいいのだ 」 と考えて、釈迦が仏に成る教えを人々に話しているのを、横で 「 そんなことを聞く必要はない、釈迦のように禅定に入れば悟りを得て仏になれる、わたしの言うようにしなさい。 」 と吹聴している姿がそこには見えるのです。 まさに仏種を断ずる天魔のささやきといえましょう。 日蓮大聖人は 『 当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり。就中、三惑未断の凡夫の語録を用て、四智円明の如来の言教を軽んずる、返す返す過てる者か。 』 と厳しく指弾しております。

では、瞑想の釈迦の悟りとは何だったのでしょうか? それは、釈迦が三世を通達し、過去世の菩薩の修行を経て仏になった自分を観たのです。 菩提樹の下に居るときは、すでに仏であった釈迦です。 瞑想を契機に果末の境涯を顕したに過ぎないのです。 過去世の仏道修行がどんなもので、どのように修して仏になれたのか、その根本の法は何か、そして仏の威徳・智慧・慈悲を説いたのが、八万法蔵ともいわれる教えで、その中で唯一、随自意で説かれた法華経に、その根本、骨髄があり、成仏の秘密と神通之力を説いているのであります。 しかし、法華経は理の法門であり、過去世からの有縁の人を薫発し悟りに導くものでしたが、本未有善の宿業に苦しむ衆生には、何の効力も無い為、本仏である日蓮大聖人はその成仏の秘密と神通之力を南無妙法蓮華経の御本尊と顕され、事実の上で衆生が成仏できる事の法門を示して下さったのです。 生命の明鏡となる御本尊を、自身の仏の生命を顕す所縁の対境として、一心を定めて南無妙法蓮華経と唱える自力の唱題行と、十如実相の化他の菩薩行こそが、自身に仏を顕す真の止観の姿、三昧なのであります。 そして、その ” 一心 ” である ” 信 ” をもって成仏することが肝要であり、虚空会の儀式で釈迦が宝塔に入る姿はそのことを表しているのであります。 日蓮大聖人は 『 されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、 』 と仰っており、己が信力行力によって、我が身に仏力法力と現るとの意であります。 

人には人の振舞いがあるように、仏には仏の振舞いがあります。 仏の境涯そのものは見えずとも、十如是あるいは三如是(三徳・三身)の振舞いがその身に必ず見えてくるものなのです。 その偉大な姿が釈迦の振舞い・生涯であり、その本因の教主である日蓮大聖人の御振舞い・御生涯なのです。 よく、禅定で仏の悟りを得て、歓喜に打ち震えたという話がありますが、それは、まったくの勘違いか嘘です。 ただ禅とするような禅宗の修行では、とても無理なのです。 自分の心を所縁の対境として、自分の心で観るだけの禅宗では、闇の中でいくら観ても闇しか見えないのと同じで、心の無明の闇に迷い込み、心が朦朧として幻覚を観るか、天魔の声に心奪われるようになります。 日蓮大聖人は、禅宗は酒を入れてあった瓶(かめ)を蒙って壁に向かう様なものだと仰っていますが、本質を鋭く見抜いたお言葉です。 栄西・道元の教えを速やかに打ち捨て、本因の教主日蓮大聖人の仏法に、なかんずく、創価の信心に帰依することを強く勧めます。
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