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2011-11-28(Mon)
禅宗では、釈迦が瞑想に入って悟ったように、禅法を修すれば、仏の悟りを得ることが出来るというのです。 そのため釈迦の説いた経典は成仏に無用であり、菩薩の修行も必要ないとして、見性成仏・直指人心(人の心が直ちに仏性を見ることができる)を説き、悟り=仏であり、即心即仏であると主張しています。 しかし日蓮大聖人は、 『 涅槃経に云く 「 願つて心の師と作つて心を師とせざれ 」 云云、愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや。  』 と、きびしく破折しております。 禅宗は、釈迦が菩提樹の下において悟ったときの禅法だけを真似て、無我の境地を目指しているのでしょうが、無上菩提(仏)に至ることはけっしてありません。 悟るのは自身の過去世において積んだ境涯、あるいは三毒にまみれた心に相応したものでしかありません。 悟りといっても色々とあるのです。 たとえ悟ったところで天界までがやっとであります。 声聞・縁覚に至らないのは、教説を聞こうとする耳を塞ぎ、実相を如実に見つめる目を閉じているからで、菩薩に至らないのは、禅に執着して利他の修行を軽んじるからであります。 このように、三聖の悟りにすら至らないのに、どうして仏の悟りに至るでしょうか。 釈迦の教説・法華経は成仏に無用として、法華経で成仏の記別を受けた迦葉にも師敵対しますから、悟るといっても、それは驕慢の悟り、天魔に魅入られた悟りでしかないのです。

瞑想そのものは、インド古来からあり、バラモン教に多くの苦行を伴う瞑想法がみられます。 釈迦も心を定める方法として採用し、小乗禅として発展しました。 しかし、過去世に釈迦と共に修行してきた上根上機・有縁の人は、正直捨方便の法華経において成仏しており、禅定だけの修行などはしておりません。 禅定は戒定慧の中の四禅定や六波羅蜜の一つなのです。 禅定により天上界に至るのはとても難しく、仮に禅定で欲界の惑を離れて色界に至ったとしても、それは天上界の悟りであります。 凡愚の心では欲界の主である天魔に捕まり、惑わされるのがおちです。 禅定は、天台も大乗禅として止観の修行にも取り入れていますが、天台の止観は、法華経を捨てて、ただ観を正ととるような禅宗とはまったく違うものです。 日蓮大聖人は 『 若し達磨の禅観に依るといわば教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるる禅なり、祖師達磨禅は教外別伝の天魔禅なり、共に是れ無得道妄語の禅なり仍て之を用ゆ可からず、 』 と、また 『 故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法大邪見天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり。 』 と強く指弾しております。

釈迦が仏の因を積んだのは、過去世の法華経の受持と、その菩薩行にあることは、釈迦自身が法華経で明確に語っていますから、偏頗な修行を修しただけで仏と成ることは不可能であり、兎株に執着するならば、いずれ悪見を抱いて無間地獄の業を積むことになるでしょう。 日蓮大聖人は 『 禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり、 』 と、きびしく指摘しております。 いくら人に仏性があるといっても、ただ心を無我にすれば体現できる、というものではありません。 体現するためには生命の領域での変革が必要となってくるのであります。 それは、外界との全人間的な行為関係の往復を抜きにして、達成することは困難であります。 人の生命は縁に触れなければ現れません。 所縁は現実の世界からもたらされるのです。 禅だけで得る悟りより、現実の葛藤と苦闘の日々から、勝利して得られる悟りのほうが、ずっと価値があり、優れています。 三昧というのはそのことを言うのであります。 瞑想は心身を休める方法、内省・思索の道具として使うのは良いでしょうが、釈迦が説いた成仏(悟り)の真髄を退け、仏種を断じてしまう禅宗のような教えに従えば、かえって法華誹謗の罪人となり、命終して直ちに、無間地獄の業に焼かれることになります。 栄西・道元の教えを速やかに打ち捨て、本因の教主日蓮大聖人の仏法に、なかんずく、創価の信心に帰依することを強く勧めます。
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