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2015-04-28(Tue)
タンポポ
( 写真:by yuyake )


統一地方選が終わりました。

公明党は、擁立した1593人のうち、1589人が当選しました。

4人が当選できなかったのは残念でありますが、敗因は明確でありますから、今後の戦いにつなげてまいりましょう。 いずれにせよ、地域のために公明党の活躍に期待しています。

大勝利、おめでとうございます。 (^^
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2015-04-21(Tue)
日蓮大聖人が立宗宣言をされてから、今年で762年が経ちました。 そして、今、世界広布の潮流が増していますが、その淵源は創価の誕生からであり、それは、僅か85年前の事です。 さらに、焼け野原の荒野に一人出獄された戸田先生の決意から70年であります。

それまでも、法華講という古くからの信徒もおりましたが、日蓮大聖人のご遺命を時代の潮流にまで押し上げることはできませんでした。 原因はいろいろとあるでしょうが、戸田先生は、「 古くからの信徒は折伏をしないから功徳がでないのだ 」と仰っていました。
功徳がでなければ、信心が薄れていくのはあたりまえであり、僧侶は僧侶で「 末法は折伏の時だが、僧は折伏の中の摂受が本分だ 」と言ってはばからないのですから、信徒は、推して知るべしで、やかましく言われないことをいいことに、信心を形骸化させていったのだと思います。 さらに、天皇ファシズムのなかで国家権力の圧力が増し、一山謗法にまみれたため、法滅の危機にまでに至ってしまいました。 事実、相承もしないまま、時の法主が焼け死ぬという前代未聞の罰が現出してしまったのです。 恐るべきは国家権力ではなく、師弟違背、ご遺命違背の罪業であります。

今の邪宗門は折伏を盛んに言うようになったようでありますが、折伏とは名ばかりで、要は創価の会員の横取りが狙いであります。 静かに自分だけの信心をしていたいような人や、創価で問題を起こした人の受け皿にはなるかもしれませんが、それでは、功徳などあろうはずがありませんから、やがて、同じ道を歩んでいくに違いありません。 ましてや、破和合僧の大罪は広宣流布を破壊するものであり、けっして日蓮大聖人はお許しにならないでしょう。

戸田先生の言葉は、わたしたちの信心、創価の未来にとっても大事な言葉であり、広宣流布を忘れた信心に功徳はでないと知っておくべきであります。 仏道修行は、勤行・唱題、折伏、教学の3つが黄金の柱であり、いずれが欠けても、信心に行き詰まりを感じるようになります。 実はこの三つは切り離すことができないもので、一つが疎かになると、他の2つもいずれ疎かになってきます。 それぞれに功徳はあるのですが、なかでも折伏の功徳は絶大であり、地涌の菩薩として、如来の使いとして、御本仏の生命力と智慧と福運を一身に浮かべることができます。 過去遠々劫の悪業・謗法の罪を霜露の如く消え去ってくれます。 広宣流布の闘争にこそ、創価の創価たる道があり、絶対的幸福を掴む道があります。
Category : 信 心 Comment : (2) |

* by 王者の剣
夕焼けさん

こんばんは。いつも楽しく拝見しています。

>仏道修行は、勤行・唱題、折伏、教学の3つが黄金の柱であり、いずれが欠けても、信心に行き詰まりを感じるようになります。 実はこの三つは切り離すことができないもので、一つが疎かになると、他の2つもいずれ疎かになってきます。

仰る通りです。題目が良くあがると自然と折伏に通じていきますね。これからの学会を考えても、一人一人が立っていくしかありません。広宣流布に本当に生きているか・・・それは本人の自覚と冥の照覧しかありません。生きている間に悔いなき戦いをやらねばと思っています。大白牛車に乗るために・・・ですね。(笑)

* by 夕焼け.
王者の剣さん こんばんわ。

そうですね。 (^^

これからは、弟子が、真価を問われる時代がやってきます。
しかも、誰かがというのではなく、
わたしたち一人一人が問われる時代になってくるのだと、
わたしも思います。

2015-04-20(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 大白牛車御消息(P1584) 
『 法性の空に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ、我より後に来り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、 』

【 通解 】 
『 仏界の空に自在に飛びゆく車を、大白牛車というのである。 私より後に来られる人々は、この車に乗せられて霊山浄土へおいでになることであろう。 そのときは日蓮も同じ車に乗って、必ずお迎えに向かおう。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人のお言葉だけは絶対である。 真実である。 信受すべきである。 最高の宇宙ロケットも比べものにならない。 この大白牛車に乗って、自由自在に、次の使命の舞台へと飛んでいく。
法華経に「 生ぜんと欲する所に自在 」とあるように、自分が生まれたいと思う場所に、生まれたい姿で生ずるのである。 地球とは限らない。 知的生命の存在する星は、宇宙に数限りなくある。 これは現代の天文学でも、多くの学者が推定していることである。

今世で一生成仏すれば、その「 仏 」の境涯は永遠に続く。 「 生死 」「 生死 」と、生々世々、生まれるたびに、健康で、裕福で、頭もよく、最高の環境に恵まれ、福運に満ちみちた人生となる。 また、自分でなければならない使命をもち、使命にふさわしい姿で生まれてくる。 それが永遠に続く。 もう二度と壊れない。
この「 永遠の幸福 」のために、今世で仏界を固めなさい。 仏道修行に励みなさい、というのである。 私が勝手に言うのではない。 大聖人が、そう言っておられるのである。 

< 御書とその心 >より


この、大白牛車とは、南無妙法蓮華経のことであり、御本尊のことであります。  そして、それは、わたくしたち自身の生命の宝塔にほかなりません。 仏の境涯を開いた金剛不壊の自分自身こそ無量の宝を載せた大白牛車なのです。


※ 2015/04/21 改訂
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2015-04-17(Fri)
雨が降ると、聞くのは、つい、こうゆう曲になります。

よい週末を。 (^^

・ Jealous Guy


関 連 → Let It Be
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* by 夕焼け.
No.371さん、おはようございます。

いいでしょ。 (^^

2015-04-16(Thu)
日蓮系の系統で、富士派は本尊にとてもうるさい。 まあ、その他の日蓮系は本尊に迷い、御本尊(文字曼荼羅)の価値を知らないから、当然かもしれません。 本尊にうるさいのはいいのだが、特に、戒壇の大御本尊を誰が持っているかで、その正当性を誇示しているのは、どうかと思う。 大御本尊を免許皆伝の巻物と、どうも間違えているようであります。 ほんとうにくだらないことです。

前にも触れましたが、戒壇の大御本尊を持っているということよりも、信心の血脈のほうが大事なのであります。 はたして、日蓮大聖人の心を持っているのか、日蓮大聖人の振る舞いと同じなのか、日蓮大聖人の御遺命どうりに、広宣流布のために死身弘法しているのか、そのことのほうが肝心なのであって、それがなければ、正当性はありません。

戒壇の大御本尊は偉大であるし、その力は絶大ですが、肝心の我々に信心の血脈がなければ、それは、" 猫に小判 ”、” 豚に真珠 ”であります。 その、信心の血脈とはなにかといえば、いろいろと言えるのでありますが、畢竟、日蓮大聖人の心を持っているのか、というところにつきます。 具体的には、不幸にあえぐ人に寄り添い、励まし、幸福へと導いていくことに、どれだけ心血をそそいでいるか、ということです。 しかも、その連帯を地域に、日本に、そして世界中に広げているのか、ということであります。 戒壇の大御本尊を持っているぞ、と、威張ったところで、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布はできません。 信心の血脈がなければ広宣流布はできないのです。 

その信心の血脈は、創価三代の会長に流れており、創価という和合僧団にしかありません。

戒壇の大御本尊は広宣流布の暁にお出ましいただければ、それでよいのです。 それまでは、紫宸殿御本尊と同じように、どこかで静かにお持ちいただくのが本来の姿であります。
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2015-04-14(Tue)
真言宗というのは、釈迦が説いた教えではなく、大日如来が説いた教えを信仰する宗派であります。 したがって、釈迦とは無関係の宗教と言ってよいのですが、釈迦の説いた教え、いわゆる仏教の思想的、哲学的背景を持っているために、仏教の範疇とみられているようでありますが、はたして、そうなのでしょうか。 調べていくと、わたしは別物だという思いを強くしてゆきました。 説いた教えがある以上は、説いた大日如来も実在するのが普通ですが、歴史上その存在が確かめられたことはなく、経典の説かれた場所や時期も、具体的には全く不明であります。 

モーセが神の啓示を受けたように、大日如来の声を聴いてそれを書き写した者がいたのでしょうか。 それとも、十戒の石版のように、経典がどこからともなく現れたのでしょうか、考えてみると不思議であります。 密教ですから、そうゆうこともあるのだと割り切ってしまえばそれまでですが、それでは仏教が魔法や魔術となんら変わりがないことになってしまいます。 また、ユダヤ教やイスラム教と同じような預言者の宗教となってしまいます。

真言宗は、原始宗教であるシャーマニズムとよく似ており、真言や印を道具だて、仏教の衣を着たシャーマニズムと捉えると、よく理解できると思います。 事実、密教はバラモン教の影響を色濃く受けており、ゾロアスターの祭式とも共通点がうかがえます。 釈迦の弟子はバラモンの高位の者も多く、釈迦滅後に、バラモンを取り入れて仏教と融合させた人師も現れたにちがいありません。 また、密教が栄え始めた7世紀ごろは、釈迦の仏教もインドでは衰退し、ゾロアスター、ヒンズーといったインドにあった宗教との融合が密教を生んでいったといわれています。

大日如来は法身仏とされていますので、ちょうど神のような仏と言えます。 この教えは金剛薩埵(さった)という、やはり実在しない法身の菩薩が受けて、この菩薩から龍猛菩薩(龍樹)に伝えられ今に至ったとされていますが、実在しない菩薩から、実在した龍樹への伝授というのは、どのように行われたのでしょうか、しかも、大日如来からでないというところに、なんとも怪しげな臭いを感じます。 いずれにせよ、預言者のように大日如来の言葉だと言って、真言と印を巷から掻き集め、あるいは創作し、釈迦や天台の教えを盗み取って作られた宗教であります。 日蓮大聖人も御書で『 大日如来は何なる人を父母として何なる国に出で大日経を説き給けるやらん、もし父母なくして出世し給うならば釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に仏出でて説法すべしと云う事何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり 』と仰っています。

真言宗のような密教は、原始の時代から、カメレオンのように擬態して生きてきた宗教でしょうから、これからも擬態して生き延びていくのかもしれません。 日本では、釈迦の仏教に、より強く擬態して、法華経を取り込み釈迦像を本尊とする宗派すらあります。 わけの分からない真言や印で権威づけ、神秘主義に彩られたシャーマニズムの宗教だというのが実体で、伝受に偽りの作為があり、釈迦の教えを盗み取った、その悪業から、信じれば家滅び国滅ぶ邪宗教であるといえます。


※ 2015/05/08 改訂
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2015-04-13(Mon)
一日目に来た道を戻り、伊豆長岡のところから、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、道に迷いながら、ようやく畑毛温泉に到着しました。 到着してすぐには旅館に入らず、旅の目的である「 雪山荘 」を探します。 下調べはしていたのですが、Googleのストリートビューの威力はすごいものです。 簡単に見つけることができました。 

ここが入口です。

雪山荘1


右側の石段は当時のものかもしれませんが、「 雪山荘 」と書かれた標識は比較的新しいものだと思います。

雪山荘2


石段を上がると、左手に当時のままを思わせる道がありました。

雪山荘3


雪山荘4


登りきったところで視界が広がり、その先にまた石段が見えます。

雪山荘5


その石段を上がると、広い平地に出ました。
どうもここが頂上のようです。
この平地の片隅に、石碑が見えます。

雪山荘6


雪山荘7


雪山荘8


石碑に何と書いてあるかというと、

        御堂関白系新田氏址
南無妙法蓮華経
        日目上人日道上人誕生地

と書いてあります。

雪山荘9


そして、その裏には、

日蓮正宗總本山三世日目上人同四世日道上人者出
自御堂關白系新田氏伊豆國仁田郡畠郷事雖在文獻 
未知其邸址在那邊予輓近依新田古文書斷定於畑毛
小字館之西南岡矣此地址富嶽聳愛鷹函根陪之東大
仙及玄嶽西在函南温泉眼下在畑毛温泉遠近眺望絶
佳四時風景明朗将是稀有浄界暫不可委隴畝也豆買
収寸地拓荊棘為山径移富士隠栖名雪山荘己齢傾勢
盡不能完經營矣願法裔基此建弘教道場起濟世利民
業顯彰乃祖芳躅云爾
  昭和十四年己卯季六月 日
    富士大石寺隠住日亨耄沙彌識
          江南阿慈旭房日明拜書㊞㊞

と書かれてあります。
( 劣化して読み取れないため他の資料から転載 )

あとで、調べたのですが、この石碑に寄り添うように「 雪山荘 」が建っていたようであります。
そこには、いまは僅かにそれらしき残骸が残っていますが、それ以外は何もありません。

雪山荘10


「 雪山荘 」は、日享上人が大石寺雪山坊の書庫兼書斎を移築したもので、なんの変哲もない日本家屋ですが、上人は建築に興味をお持ちで、御自分でプランを考えて、何回か改築や建増しをしていたようであります。
戦時中には、牧口先生が来られて「 大善生活実験証明座談会 」を開いて、創価教育学会の拠点として使われたこともあり、戦後は、「 富士宗学要集 」の再版、「 御書全集 」の発刊の舞台となったところであります。  
「 小欲知足 」を貫かれた日享上人は、1957年(昭和32)年11月23日、この地から霊山に旅立たれました。 91歳でした。
Category : 日 記 Comment : (3) |

* by ちよ
畑毛のげいかと戸田先生の対話が好きです
行かなくても こうやって写真で見える
ネット様様ですね(笑)
いつもありがとうございます

3つの題目 私のブログで紹介させていただいてもよろしいですか?
読んでからというもの 毎日 実践しています

* by 夕焼け.
ちよさん、こんばんわ。

どうぞ記事にしてください。
もとより、聖教新聞からの引用ですから、拡散、歓迎です。
元記事は2015年3月21日の聖教新聞です。

* by ちよ
ありがとうございます
今日の記事に貼り付けました

2015-04-10(Fri)
春本番だというのに、東京は寒々としています。

寒々と言えば、5月にウイーンを訪れたとき、やはり寒かったのを思い出しました。 こんな時には、ワルツでも聞いて、気持ちだけでも春のような気分を味わうのがいいでしょう。

ということで、ウイーンと言えばワルツ、ワルツと言えばアンドレ・リュウさんです。

よい週末を。 (^^

・ My Love Song Should Be a Waltz


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* by 夕焼け.
No.366さん、こんばんわ。

御心配おかけします。
いつものことですが、大変厳しいです。

お心遣い、ありがとうございます。

2015-04-09(Thu)
ちょっと前の聖教新聞に「 生老病死 」と題して、病と戦う体験談が紹介されていました。 その中で、三つの題目のことが触れられていたのを覚えておられるでしょうか。

その三つとは、懺悔、感謝、誓願の題目であります。

この記事を読んだとき、そうだ、御本尊に題目をあげるとき、大概は願い事ばっかしの題目ではなかっただろうか、過去遠々劫の罪障消滅のための懺悔、信心による転重軽受への感謝、広宣流布に生き抜く誓願、という祈りになっていただろうか、とそんな思いにかられました。
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2015-04-08(Wed)
2日目の朝です。 
朝日に照らされて南アルプスが見えます。

戸田の朝


皆さんもお気づきかもしれませんが、そう、この旅館からは前の旅館が邪魔して富士が見えないのです。

でも、旅館の近くにある御浜岬から念願の駿河湾と絶景の富士に出会うことができました。 波も静かで、こころなしか日差しも暖かく、時間が許す限りそこに留まって、松の木陰で富士を眺めていました。

ありがとうございます、と、心の中でつぶやきながら。

戸田港からの富士1

戸田港からの富士3

戸田港からの富士2


さて、この日は伊豆畑毛温泉に向かい、もう一つの目的である「 雪山荘 」を訪ねるわけですが、その途中に大瀬崎というところがあり、そこの大パノラマも素晴らしく、必見です。 (ブログでは大きすぎて納まりません)

大瀬崎

大瀬崎2


今回は天候にも恵まれ、いままで駿河湾からの富士がまともに見れていなかったのが残念で、気にかかっていましたが、これ以上ないというくらいの富士を見させてもらいました。 日ごろの行いはいいはずはないのですが、諸天に感謝、感謝でした。 
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2015-04-07(Tue)
先月の24日の早朝、文京の家を出て西伊豆の戸田(へた)に向かいました。

まず、車で東名の厚木まで行き、そこから新しくできた圏央道を南に下って平塚の近くで降り、そこから1号線に入り熱海を目指します。 熱海を過ぎてそのまま走りつづければ下田に向かうことになりますが、今回はそうはせず、熱海で芦ノ湖方面に向かい、伊豆スカイラインの下を通る鷹ノ巣山トンネルを抜けて、函南、仁田、長岡を経由して三津へ出ました。

この日は雲は少しあったものの晴天にめぐまれ、富士も早々と顔をだし、海も空も青々として、とても気持ちの良いドライブとなりました。 三津まで来ると、駿河湾からの富士が見え始めます。 

遠くに、雲をかぶった富士が見え、ローカルバスが走り、静かで穏やかな時間が流れ始めます。

三津より

 
朝早くに出たのですが、戸田の宿に着いたのは午後4時過ぎ。 少し休憩してから温泉にゆっくりと浸かり、しばらく部屋でくつろいでいると、西の空が徐々に色づきはじめ、夕刻が迫ってきました。

戸田の夕焼け


この後、みるみる暗くなり、遠くの街明かりがはっきりと見えてきます。 夕食を終えて部屋に戻ると、こんどは西の山並みの少し上に三日月が見え、部屋の明かりを消してみると、幻想的な風景が目に飛び込んできました。 月明かりが海面を照らし、山の尾根が影絵のように浮かび、その向こうには満天の星々が輝いています。 そこには、月と金星が、そしてオリオンがはっきりと見えていました。 
このような風景は都会ではなかなか見ることがないでしょう。

残念ながら、どうせコンパクトカメラでは無理だろうと思い、撮らなかったので写真はありませんが、記憶をたよりに描くと、こんな感じです。 (^^

戸田の夜


漆黒の海に、月明かりがあんなにも映えるものとは思いもよりませんでした。
きれいでしたよ。 (^^
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2015-04-06(Mon)
イスラム教過激派のテロが止みません。

テロには理由があるのでしょうが、テロは人種差別と本質的に変わりがない、とわたしは思っています。 
人種が、民族、宗教、であろうと同じです。 卑劣で身勝手な殺人は、けっして許されるものではありません。 人間の尊厳を踏みにじる忌むべき行為であり、地獄の門を開ける雷(いかづち)でしかありません。

同じ民族だから、同じ宗教だから、あいつは悪い人間だ、という価値観がそこにはみてとれます。 これは、テロだけではなく、国家の間にもあり、いまだにそこから抜け出せないでいます。 テロリストは、人という感覚が欠落し、物を壊すように平然と人を殺します。 自分たちの同胞が虐げられ殺されて、憤りを覚えるというのに、同胞をそのようにした人間と同じことをして平然としていられるのは、どこか狂っています。 

このようなテロを、被害者の側の国や民族や宗教にも問題があるとして弁護する風潮を、わたしは許容しません。 それは、人種差別のように人種の優劣や容姿によって弁護しようとするのと変わりがないからです。 殺された人は、彼らの同胞を虐げ殺した人なのでしょうか、またそのようなことを是とする人なのでしょうか、いいえ違います。 暴力は即効的で、人を隷属させる効果的な手段となりますが、暴力によって人を支配し続けることはできません。 それは、歴史が雄弁に語っています。
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2015-04-03(Fri)
あなたは、ほんとうの自分に逢えたでしょうか?

信心をまじめに、最後まで続けていくならば、
今はどうであれ、
かならず、いい人生だった、としみじみ思えるようになります。

そのとき、本来の自分と、握手をすることができるでしょう。

よい週末でありますように。 (^^

・ 君にサヨナラを


(桑田 佳祐 公式チャンネル)


関 連 → 明日晴れるかな
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2015-04-02(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 主師親御書 (P386) 
『 或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり、、 』

【 通解 】 
『 ある時は人間として生まれて、諸々の国王、大臣、貴族や、宮廷での昇殿を許される高い身分などになって、「 これほどの楽しみはない 」と思い、わずかなものを得て「 満足した 」と思い、喜び合っている。 このことを仏は「 夢の中の栄え、幻の楽しみである。 ただ法華経を持ちたてまつり、すみやかに仏になりなさい 」と説いておられる、 』

【 指導 】
* 仏法から見れば、ある時は” 動物 ”に生まれ、ある時は” 木 ”に生まれるかもしれない。 せっかく人間に生まれたのに、世間的な楽しみに溺れるのは愚かである。 その楽しみは幻にすぎない。 広宣流布のために働いている人は、そのための苦しみも、世間の楽しみの、何千倍もの楽しみに変わっていく。 永遠性の喜びにつながっていく。
ただ法華経を持つ ― 妙法を信じ唱えることである。 その人は、正しい社会観、生命観、宇宙観をもった、尊極の生命の当体になる。 本当の幸福、本当の仏の境涯を、つかんでいけるのである。

< 御書とその心 >より


日ごろ「 死 」という問題を考える人は非常に少ない。 病気になったり、年老いてから、はじめて真剣に「 死 」というものを考え始めることが多い。

以前、NHKの報道特集で、臨死体験を扱った番組が放映されました。 立花隆さんがレポーターとなり、世界各地の臨死体験者の話や脳神経科学の最先端情報などを紹介しておりましたが、立花さんは、奥様を癌で亡くされ、自身も癌に侵されて、死を現実のものとして感じられるようになり、はたして死んで自分というものはいったいどうなってしまうのか、自分という己の心というものはどこにいってしまうのだろうか、と深く考えざる負えなくなってきたと話しておりました。 
このような、疑問と探求は哲学的な希求からというよりは、死というもので自分の人生や大切と思っていた人の価値が意味のないものになってしまう、という喪失感からくるものだと思います。

この「 死 」というものは人間だれしも避けることはできません。 仏であってもそうであります。 生きてきた楽しみ、財産、名誉、社会的地位、交友関係、家族、総てと別れなければなりません。 死んで持っていくことはできないのです。 三世の生命観を信じない人でも、その永遠性に執着する姿はなぜでしょう、哀れというしかありません。
死んで持ってゆくことができるのは「 業 」であり、「 境涯 」であり、「 福運 」であります。 このことを考えて、行動してしていくことが生きていく意味であり、大事なことなのです。
仏法では永遠の生命を説いておりますが、死は一定であり、生命の理(ことわり)であり、三世の生命観にたって本当の幸福とは何なのかを説いております。 この永遠の生命観に立って生きていかなければ、人類の幸福、戦争のない世界というものを掴むことはできないでしょう。

日蓮大聖人の仏法、信仰というものは、そのために必要なものであり、自他共の本当の幸福を築いていくために、広宣流布という人生が不可欠となってきます。 日蓮大聖人(御本仏)はその舞台、その世界を用意してくださり、その中で、わたし(日蓮大聖人)のように生きていきなさいと示されているのです。 
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