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2015-03-31(Tue)
出発


久しぶりに西伊豆に出かけました。

伊豆は20代の頃からいままでに、何回となく訪れたところでありますが、どちらかというと東伊豆、特に下田周辺を父母を連れて訪れています。 それに比べ西伊豆は数えるほどしかなく、宿に泊まったのは2回しかありません。
今回は、駿河湾から望む富士が見たくて、どこがいいか調べてもらい、戸田(へた)にある旅館を見つけてもらいました。 そして、前から行ってみたかった伊豆畑毛の「 雪山荘 」も訪れることにしました。

信心されている方は、” 伊豆畑毛 ”と聞いただけでお解りになると思いますが、ここは、創価学会の日蓮大聖人御書全集を編纂された” 畑毛の猊下 ”、つまり日亨上人が晩年を過ごされた雪山荘があった所で、御書全集の発刊を目指し、戸田先生はもちろん教学部のメンバーが足繁く通ったところであります。

この旅で、日ごろの疲れをとるとともに、これからの仕事や活動のために力をたっぷりと蓄えることができました。

旅の様子は写真とともに改めて紹介させていただきます。
(^^
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2015-03-23(Mon)
仕事も一段落したところで、
有休を消化するために、伊豆に出かけることにしました。
今週は、筆を休ませていただきます。  (^^
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2015-03-21(Sat)
今日は、シンガーソングライターのBEBEさん。

この方は、持ち歌もあるのですが、Cover曲のほうがいいですね。 声に魅力がありますから、いい曲が出来れば、きっとヒットするはずです。 編曲も含めプロデュースする人がいるといいのですが、期待したいですね。

よい週末を。 (^^

・ 時代


( BEBE 公式チャンネル )
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2015-03-20(Fri)
今日は、地下鉄サリン事件から20年であります。
今でも、後遺症に苦しむ人がいることに、その凶行のむごたらしさを知る思いでいます。

世間では、宗教の恐ろしさを強調していますが、わたしたちは、間違った宗教の恐ろしさを、何度も、何度も、訴えてきました。 人間の不幸の原因は誤った思想・宗教にあり、宗教に無知であればあるほど、その危険にさらされるという警鐘を、改めて鳴らしたいと思います。 

話しは変わりますが、
この日の事件の夜に、那須の叔母から、突然電話がありました。

叔母は、長崎で被爆をして以来、戦後まもなく修道女となって、那須の修道院で暮らしていました。 叔母が修道院から出たのは、1度きりで、外部との接触は親兄弟親族ぐらいで、隔絶された世界で生きてきました。 そのころ、わたしたち家族は、年に1度、たいがい夏に修道院を訪れて、面会し食事をすることが許されていました。 また、手紙のやりとりも年に数回許されていました。 しかし、電話がかかってきたのはこのときが初めてで、こっちがびっくりし、叔母になにかあったのかと一瞬心配したほどでした。
叔母は、神父から事件のことを知らされ、「 霞が関 」「 丸ノ内線 」 という言葉を耳にして、わたしが通勤に使っていたことを覚えていたらしく、わたしのことが心配になり、特別に許可をもらってかけてきたのでした。 叔母は、姉(母)が死んでから、わたしたち家族を気にかけていて、会いに行くたびに、修道女になっていなければ、あなたたちの傍にいてあげられるのに、と話していましたから、ニュースを耳にして、いてもたってもいられなかったようです。 電話で話す声は、直に聞いていた声とちがうため、最初はとまどいましたが、そのうち、叔母だとわかってからは、その日は直接打ち合わせ場所に行ったこと、地下鉄を使った時間がずれていたこと、などを説明し、無事であることや、家族も元気でいることなどをしばらく話していました。 その電話で、叔母はほっとしたようで、「 神に守られましたね、感謝します、感謝します 」と何度も言い、そのときの叔母の優しい声を今でも思い出します。

わたしは、その晩、諸天(神)に感謝の題目を送りました。

この事件のあった日は、亡くなった叔母の事を思い出します。


関 連 → 恨みを持ち続けながら生きていくことは不幸だ
    → No More Nagasaki
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2015-03-17(Tue)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 千日尼御前御返事 (P1316) 
『 佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん、譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、 』

【 通解 】 
『 佐渡の国から、この国までは、山や海を隔てて千里にも及ぶのに、女性の御身として、法華経を信仰していらっしゃるゆえに、年々に夫を使いとしてお訪ねくださっている。 必ずや、法華経・釈迦・多宝・十法の諸仏が、あなたのお心を、よくご存じのことであろう。 たとえば、天の月は四万由旬も離れているが、その影を大地の池に即座に浮かべる。 また、中国の雷門にあった太鼓は、千万里の遠くにあっても、打てば即座に聞こえたという。 それと同じように、あなたは佐渡の国にいらっしゃるけれども、心はこの国に来ておられる。 仏になる道も、このようなものである。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人ご在世当時、佐渡の阿仏房は、高齢にもかかわらず、身延の大聖人のもとへ、三度も訪れた。 が、夫人の千日尼は、佐渡の地にあって、夫の留守を守った。 彼女自身、どれほど大聖人をお慕いし、お目通りを願っていたことか ― 。 そうした心を、大聖人は、すべて御存じであられたにちがいない。

大聖人は、たとえ「 身 」は遠くにあろうと、その「 志 」は身延の大聖人にまでたしかに通じていると仰せになり、求道の「 心 」強き千日尼が、成仏という無上の幸福道を歩みゆくことはまちがいないと励まされている。 妙法流布への純真な「 志 」が厚ければ、いずこの地にあっても、また、いかなる陰の立場にあろうと、御本仏はすべてご照覧なのである。

< 御書とその心 >より


大聖人のこの心に、わたしは涙を禁じえません。 このお手紙を拝した千日尼は、厳寒の中で、春のような温かさを心に浮かべ、きっと、涙が溢れてくるのを抑えることができなかったにちがいありません。

この御文を拝してみても、邪宗門の輩の心が、大聖人のお心とは、まったく正反対だということがわかります。

この御文の後に、『 我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、 』とあり、また、法華経寿量品自我偈には「 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山 」とあります。
大聖人の心の灯(ともしび)を、わたしたちの心に灯(とも)し、それを、どこまでも燃やしつづけ、御遺命のままに生きてゆくならば、御本仏はそこに居られ、わたしたちと共にある、ということです。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-03-16(Mon)
3.16というと、思い出すのが「 豚汁 」であります。

昔、登山会でお山に行くと、安くて美味しい「 豚汁 」を出すお店が並んでいました。 飲食店でもないのに「 豚汁 」を出すお店もあり、「 豚汁 」を食べることが登山会の楽しみの一つでありました。 
「 豚汁 」が、お山の名物のようになっていたのですが、それは、昭和33年3月16日に行われた「 広宣流布の模擬試験 」のとき、夜行列車に乗って明け方に集まる全国の男女青年部のために、「 本山の明け方は非常に寒い、冷たい弁当を震えながら食べては、青年は元気が出ない。 腹一杯あたたかい豚汁を食べさせてやろう 」との戸田先生の発案で、大釜で作られた「 豚汁 」がふるまわれ、青年たちの心と体を温めたことから、お山で、登山会に参加してきた人たちを、「 豚汁 」で暖かく迎える、という習慣ができたようであります。

寒さにかじかんだ手で、七味をかけてフーフーしながら食べる「 豚汁 」は、創価の意気と情熱を思い出させてくれる、熱い食べ物であります。 (^^

関 連 → 広宣流布記念の日
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2015-03-13(Fri)
1970年、ビートルズ最後のシングル盤となったタイトル曲です。 この曲は、ゴスペル風にアレンジするために、オルガンが使われています。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ Let It Be

井上陽水さんの「 少年時代 」のイントロは、このフレーズを使っていますが。 それでも、陽水さんの曲は独自の魅力を持っています。

関 連 → 少年時代
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2015-03-12(Thu)
御書に『 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず 』とあります。

これは、どうゆうことかといいますと、仕事もしないで、好きなことをして、あまった時間で楽に学会活動するよりも、仕事を一生懸命して、やっと家に帰って、疲れて休みたいけど、僅かな時間をさいて、苦労して学会活動することのほうが、功徳は大きいということです。 また、何千万円も儲けて、ポンと100万円御供養するよりも、このお金をだせば、晩のおかずが食べられないけれど御供養したい、という御供養のほうが、功徳は大きいということです。

このように、仏法では、絶対的な行為の形態よりも、相対的な行為の効果を見ているようであります。

大変だと思う気持ちの時こそ、また大変な状況のときこそ、少しでも唱題し、寸暇を惜しんで御書を学び、一人でも多くの友と対話し、励ましてゆけば、ほんとうの功徳が出てきます。

※ 2015/03/14 改訂
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2015-03-11(Wed)
青空をキャンパスに
( 写真:Photo by 倉治 )


3.11
今日はあまりにも重く、辛い思いを抱えた人々に、
題目を送りたいと思います。

死んだ人も苦しかったに違いありませんが、生き残った人はその苦しみを背負いながら、さらに辛い思いで生きてきたにちがいありません。 どうか、その思いを引きづりながらでも、明日の希望に生きていっていただきたい。 そして、少しずつ、生き残った意味、喜びを掴んでいってほしいと思います。
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2015-03-10(Tue)
御義口伝の「 第六此人不久当詣道場の事 」には、次のようにあります。

『 此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、 』

わたしたち創価の同志は、お互いにこのような気持ちで遇することが、最も大事であります。 創価の組織では、役職や世間的地位や男女に関係なくそうであってほしいものであります。 法華経の宝塔品には、多宝如来が半座を分けて釈迦仏を迎え入れ、二仏並座する様子が説かれていますが、このように互いに尊敬し、大事にしあっていく姿が創価の姿なのです。 広宣流布大誓堂にある八本の柱も、その意義を込めて八本となっています。

そうはいっても、組織には、様々な人間がいますから、表向きにはそのように振舞っても、心の中までそのようにはいかないかもしれません。 しかし、それが末法の修行であり、境涯を高めていくために必要な、心のせめぎ合いとなるのであります。 不軽菩薩は、相手が法華経の行者でなくとも、このように修行して、自らの心に勝ち、仏と成ったのであります。
仏法対話をして相手から悪口をさんざん言われ、それによって、過去の罪業を消すことができるといわれますが、それは、創価という組織内においても同じ原理で、人間関係のなかに自らの宿業が出てきます。 そして、それを解決するのは、やはり信心であります。 信心しかありません。 信心でそれを乗り越えていかないと人間革命はできません。 境涯は変わってゆきません。

世間だろうと、創価という世界であろうと、どこにいても、この原理は不変です。

わたしは、いままで、たくさんの創価の先輩、隣近所の創価のおばさん・おじさんに、親でもしないような面倒をみてきてもらいました。 信心を学ばせていただきました。 皆、いい人ばかりです。 感謝の念を禁じえません。 創価という世界は、同志の絆というものは、砂漠の中にあるオアシスのようなものです。 このような世界を、世界中に創り上げていくのが、わたしたちの使命であり、変わらぬ運動ではないでしょうか。
Category : 創 価 Comment : (4) |

* by 王者の剣
はじめまして。
王者の剣と申します。
いつもいい記事をありがとうございます。

「当起遠迎当如敬仏」私も大事にしている言葉です。
地区という場所、地域という場所こそが自分を映し出す鏡ですね。
まさに浄玻璃の鏡ですね。

そこで輝き、信頼を得ることが、境涯革命であり、広宣流布だと思います。

その人のことは、その地区に行って聞いてみればすぐにわかります。ネットでは曖昧にできても、地域では嘘は通用しません。そこに責任と本当の戦いがあると思います。

仏法のことをよく御存じの方からお話を聞くことは楽しいことです。これからも楽しみに拝見させていただきます。

私も陽水や拓郎世代です。今も彼らの歌は色あせませんね。私は「紙飛行機」が好きです。

* by 夕焼け.
王者の剣さん、ようこそ。

「 浄玻璃の鏡 」たしかにそのようにも言えますね。 仰るとおりです。

身近なところでの、人間関係に勝利することが、大事ですよね。 家庭、職場、地域に、妙法の華を咲かせていくことができる人こそ、本物だと思います。

これからも、お越しください。

「 紙飛行機 」ですか、ロックですね。(^^

管理人のみ閲覧できます * by -

* by 夕焼け.
No.375さん、こんばんわ。

ようこそ。(^^

このブログを始めて、そろそろ4年が経とうとしています。
色々と書いてきましたが、そこに流れる想いというのは、永遠の生命観にたって人生というものを考え、いかに生きていくべきなのか、知ってほしいということにあります。 時間は掛かりますが、少しずつ過去の記事も読んでみてください。

それはそれとして、わたしもそのような思いを経験していますから、よくわかります。 それは、信心をしていくうちに、必ず克服できます。 そのような痛みを受けることで、過去の悪業を消しているのですから、大丈夫ですよ。 ”よし、これで一つ消えた”と思って、御本尊に感謝の題目をあげていってください。 そして、そのような状況から逃げることなく、化他の信心を続けていくことが大事です。 落ち込むこともあるでしょうが、そのたびに、題目をあげていけば、知らぬ間に、その人を大きく包み込むことができるような境涯になっているでしょう。 そして、そんなことが気にならないようになります。 かえって、人の心の微妙な動きに気遣うことのできる人になっているでしょう。 信心をして、そのような人材になるために、そのような気質をもって生まれてきたのです。

物事にはなんでも理由があります。 いまは、落ちこんでもいいんです。 その悪業が切れれば、自然と落ちこまなくなります。 わたしは、そうでした。

境涯革命(成仏)するための信心ですから、手ごたえのある人生のほうが、いいんです。 なにごともなく、のほほんとした人生では、本当の喜び、幸福というものを味わうことはできません。

2015-03-09(Mon)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝 (P765) 
『 信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。 』

【 通解 】 
『 ” 信 ”とは「 疑いなきを信という 」とあるとおり、法華経に対して疑いがないということである。 ” 伏 ”とは法華経に帰依し、伏することである。 ” 随 ”とは心を法華経に移すことである。 ” 従 ”とは体をこの経に移すことである。 詮ずるところ、今、日蓮とその門下の南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である。 』

【 指導 】
* 「 信伏随従 」の文について述べておきたい。
 この経文は法華経の「 常不軽菩薩品第二十 」にある。 不軽菩薩を迫害した慢心の僧尼男女らが、やがて心を改め、不軽菩薩に「 信伏随従 」した。 すなわち「 信じ伏し随い従った 」ことをさしている。
 すなわち、末法における法華経とは、三大秘法の御本尊である。 「 信伏随従 」とは、御本尊を信じ、御本尊に帰命し、御本尊に心も身体もささげきっていく。 心でも信じきり、体でも自行化他の広布の実践に生ききっていくことである。
御本尊に広布の誓願を立てて唱題し、なにがあろうと不退転の行動を貫いていく。 妙法に信伏随従しきっていく。 そこに「 成仏 」への根本の因がある。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人は、「 南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は 」といい、けっして「 南無妙法蓮華経と唱え奉る信者は 」とは仰っておられない。 また、「 信伏随従 」するのは「 妙法に 」であり、けっして法主なんかではない。
Category : 御 書 Comment : (1) |

* by しいば
御義口伝御書の詳細、信伏随従の意味が分かりやすく記載されていていてよかったです。

2015-03-08(Sun)
春も、もうすぐそこですが、東京は雨が断続的に降り続いて、今日も寒さが身に沁みました。

雨上がり、東京ドームのイルミネーションの光に包まれて、家路についていると、ふと、小椋桂さんの「 六月の雨 」という曲が頭の中に流れてきました。 ちょっと、寂しい曲ですが、まわりの夜の風景と相まって、ひとり、歩きながら曲を口ずさんで、帰ってきました。 

・ 六月の雨(再掲)



わたしは、ときどき、外でなにかしているときに、曲が聞こえてくることがあります。 それは、外部からではなく、たとえばヘッドホンで聞いている様な、車の中で聞いている様な感じで、頭の中に曲が流れてくるのです。  中学生の時に初めて大石寺に登山したときもそうでした。 奉安殿の大御本尊にお目通りし、その後に大客殿で丑寅勤行に参加するため、暗い境内を歩いていて、壮麗なクラッシクの曲が体を包むように聞こえていました。 それは、ハッキリとした音でなく、静かで心地よい染み入るような音です。 

考えてみると、便利な頭です。 しかし、ジュークボックスのように望み通りにというわけにはいきませんから、そこは残念です。 モーツァルトのように、頭の中に流れるメロディを、譜面にしていったというようなことも、わたしにはありませんから、ただの幻聴なのでしょう。 (^^;

でも、わたしは、けっこう、これを楽しんでいます。 (^^
Category : 日 記 Comment : (2) |

* by みかん。
こんにちは。

なんだか不思議っすね!(◎-◎)
それに、素敵な幻聴!
幻聴にも色々あるんすね~☆

私は、幻聴はないけど、とにかく聞き間違いが多くて…(>_<)(x_x)
なんでこのタイミングでそんな事を言うのかな??と一瞬思うけど、
実は自分がもっすご聞き間違いをしているだけ。
一瞬の間に、頭の中で「○○○って聞こえたけど、いや、この会話の流れだから、きっとこう言ったんだろう」と変換作業(修正作業?)をする事があります。
慣れって凄いっすね。
とにかく私の耳は基本的に“空耳アワー”です(゜∀゜;)

* by 夕焼け.



みかんさん、こまった耳ですねぇ。 (^^


2015-03-06(Fri)
今回で、わたしの好きな曲の紹介が、ちょうど100回目となります。

どんな曲を紹介しようかと、いろいろと考えてみたのですが、そういえば、好きな曲に初めて出会ったのは、「 ハリマオ 」
だ、と思い出しました。 いやぁ~、今見ると、ちょっと気恥ずかしい感じを覚えますが、当時は” カッコイ~ ”と思っていたんですよね。

よい週末を。 (^^

・ ハリマオ
Category : 音 楽 Comment : (2) |

* by ちよ
100曲目 おめでとうございます
でも なぜか 聴けなかった(涙)
これからも 紹介してください

* by 夕焼け.
ちよさん、こんばんわ。

はい、そろそろ、持ちネタは尽きかけていますが、 (^^
気が向いたら、立ち寄って、聞いてみてください。

たぶん、Flash Playerを更新すれば聞けると思います。

2015-03-05(Thu)
今日は、戸田先生の指導から、永遠の生命観からみた話を紹介したいと思います。


* 「 われわれは、過去に生きてきたのである。
そのときに、謗法があったか、なかったか。 過去世に謗法のないものが折伏に行くと、反対した相手に、すぐ罰がでる。 謗法したものは、折伏しても、相手になかなか罰がでない。 しかし、反対され、悪口を言われて、自分の謗法の罪が消えるのである。 
次に、入信するときも、謗法のなかったものは、すぐに入る。 謗法のあるものは、その程度によって、入信まで日数がかかる。 法力・仏力を示すために、初信の功徳が現れるが、その後が大変なのである。 過去に謗法のなかったものは、その調子で、ずんずん良くなる。 反対に、謗法のあったものは、それを消すために、いろいろ事件が起こる。 このときこそ、たいせつなときなのである。 」

< 戸田城聖先生 講演集 >より


戸田先生の言うことに、思い当たるふしがあるのではないでしょうか。 信心していて、どうしてこんなことになるのか、と思う人もいるはずです。 そんなとき、どうか、最後まで信心を貫き通してください。 そして、諦めずに広宣流布のために生き抜いてください。 それが、最後に勝負を決しゆく鍵となるのです。
先週、 「 夢の扉 」というTV番組で、「 けっして夢をあきらめなかった 」主人公たちの言葉として、「 ” やる ”ではなく” やり抜く ” 」という言葉を紹介しておりましたが、それほどまでに、夢を現実化した人の壮絶な生きざまというのは、仏法に相通ずるところがあります。

信心も、どんなことがあろうとも「 ” 信じる ”ではなく” 信じ抜く ” 」というところに、功徳が湧き出てくるのです。
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2015-03-04(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 秋元御書 (P1072) 
『 信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、 』

【 通解 】 
『 完全な器のように、信心の心に欠けるところがなければ、一切の人を平等に利益する仏の広大な智慧の水は、決して乾くことがない 』

【 指導 】
* 「 信心 」ほど偉大なものはない。 これが一切の結論である。
仏の智慧は、あらゆる人々を、平等に絶対の幸福へと導く智慧である。 その智慧の水を、わが生命の宝器に満々とたたえていくために必要なのは、ただ「 信心 」なのである。 「 信心 」の器が壊れていたり、汚れていたり、閉じていたり、不純物がまじっていたり ― それでは清らかな「 智水 」は得られない。 ゆえに信心なき日顕に、仏の智水などあるわけがない。 あるのは、ただ仏法を利用し、信徒を食いものにしょうとする魔性だけである。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人の仏法は、御本尊に総て説かれています。 だからこそ御本尊は出生の本懐といわれているのであります。 御本尊には、「 南無 」と打たれ、続いて「 妙法蓮華経 」とあります。 さらに、その左右には釈迦・多宝が並座しています。 この仏と仏が頷きあっているところに「 南無 」があり、仏と仏のみが知る悟りというのは、妙法を深く信じる心のこと、つまり、「 信心 」ということに尽きるのであります。
御本尊とわたしたちの間には「 信心 」というものがなければ、ダメなのです。 また、御本尊はわたしたちの「 信心 」によって御本尊となりうるのです。 「 隨縁不変・一念寂照 」とはこのことであり、妙法蓮華経という一極に帰することが成仏の要(かなめ)であり、信心なき二乗は畜生とその境涯において同じであります。

※ 2015/03/04 改訂
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2015-03-03(Tue)
義和団事件
( 写真:PD 1900年 北京 紫禁城前 )

義和団事件を題材に描いた「 北京の55日 」という映画があります。 1963年に公開された映画ですから、わたしが12歳の頃の作品です。 監督は「 理由なき反抗 」のニコラス・ケイ、主演はチャールトン・ヘストン、主演女優はエヴァ・・ガードナー、といったアメリカ大作映画全盛の時代のおなじみの人たちであります。 さらに、この映画には、故・伊丹十三さんが日本公使館の駐在武官役として出演しており、前から一度は観てみたいと思っていました。
そこで、最近、レンタルビデオを借りて観てみることにしました。 伊丹十三さんは主役ではないので、出る場面はとても少ないのですが、チャールトン・ヘストンやデヴィッド・ニーヴンに交じって、違和感無く、堂々と演技していたのには驚かされました、さすがです。 わたしは、エッセイストとしての、また、映画監督としての伊丹さんしか知りませんでしたから、貴重なものを見させていただきました。 ところで、映画の内容はというと、やはり同年に日本で公開された「 史上最大の作戦 」や「アラビアのロレンス 」と比べると、やはり見劣るような気がいたします。 もう少し史実に近づいて、丹念に描いてゆけばよかったのではないでしょうか。

わたしはこの映画を見ていて、この義和団事件の日本の派兵が、今、議論されようとしている集団的自衛権を考えるうえで、恰好の材料となるのではないかと思いました。 与党内で公明党は、集団的自衛権といっても、ごく限定的な集団的自衛権を模索しており、自民党は、限定的な集団的自衛権とはいっていても、一般的な集団的自衛権に限りなく近づけようとしています。 このようなときに、歴史を振り返り、同じ道をたどることがないように、しっかりと議論しなければなりません。

1900年に起こった義和団事件は、日本の近代史の中でも、欧米の帝国主義列強に仲間入りをするエポックとなる事件で、その後の日露戦争・日韓併合・対独宣戦布告・満州事変・日中戦争・太平洋戦争へと流れてゆきます。 侵略戦争が明確となった日中戦争の遠因となる出来事の始まりであるといわれています。 義和団事件への派兵の名目は、日本公使館と欧米の公使館員とその居留人の保護でありました。 映画にも描かれているように救援のためであり、けっして侵略とは言えない自衛の派兵といわれました。 事実、事件の初端から清国の暗躍があり、清国が八か国に宣戦布告をするに至っています。 国際的には典型的な集団的自衛権の行使といってもよいでしょう。 しかし、自国あるいは同盟国を侵略されて、自国あるいは同盟国を自衛する集団的自衛権とは明らかに違います。 このような海外派兵を、今回の限定的な集団的自衛権で許すべきなのでしょうか? 自民党は、” 日本の周辺事態 ”を取って、” 場所に制約されない ”と目論んでいますが、紛争の相手国(攻撃してきた国の領土)への派兵の道が開かれてしまう危険があり、現行憲法下では許されてはいけないことであります。

過去の歴史は、理由はともあれ、自衛の名目で派兵し、にっちもさっちもいかない情勢と事件の対応に右往左往するうちに、恨みと報復の感情に突き動かされて、戦争へと突き進んでゆきました。 時代は変わり帝国主義は鳴りを潜めていますが、報復の連鎖のなかで、逆戻りしていこうとしています。 日本は憲法の精神を後退させるのではなく、世界にその精神を伝えてゆかなければんらないのではないでしょうか。 ただし、日本に紛争を仕掛け、支配しようとする帝国主義を跳ね返すだけの力は持たなければなりません。 それは武力というのではなく、国際的な圧力を形成する信頼関係を構築する必要があり、平和国家としての地位を揺るがすような、戦争をする” 普通の国 ”であってはならないと思います。
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