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2015-02-28(Sat)
テレサ・テンさん、久しぶりの紹介ですが、
この方の優しい日本語には、とても癒されます。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ あなたと共に生きてゆく


関 連 → 香 港
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2015-02-25(Wed)
信心していて、やっては損なことといえば、” 愚痴 ”であります。 信心の愚痴は煩悩魔の一つであり、自身と他の人の信心を奪う能奪命者となります。 とくに、信心浅い人や、信心していない身近な人に信心の愚痴をこぼすのは止めたほうがいいでしょう。 この愚痴は、信心の種を植える仏の行為の真逆にあって、信心の種を引き抜いていく魔の働きを持っています。 不特定多数を相手にするネットではけっしてやってはいけないことです。
ま、そうはいっても、愚痴というものは他の人に言うからこそ愚痴であり、言いたくなるのも愚痴でありますから、どこかで言わなければ気が済まないのかもしれません。 そうであるならば、信心豊富な先輩にだけ愚痴るのがいいでしょうし、できれば、罰は出ますが、御本尊にぶつけるのがよいでしょう。 そのほうが、よっぽど罪業は浅くなるからです。

わたしは愚痴の人が、組織の中に身近にいて、ひどく苦しむ姿を見せつけられたことがありますから、どうしてもこのことは言わなければならないのです。  その方は、それまで謗法がなかったのでしょう、すぐ現象が出てぜんそくで15年近く苦しんで亡くなられました。 せっかく信心できたのに、愚痴のために、苦しまなくてもいい苦しみを味わうのは、本当に損であります。

関 連 → 愚痴と批判
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管理人のみ閲覧できます * by -

* by 夕焼け.
No.358さん、おはようございます。

はい、子供はよくみていますからね。 (^^
お互いに気を付けていきましょう。

2015-02-23(Mon)
広宣流布というのは、日蓮大聖人の願いであり、地涌の菩薩の誓願であります。 地球上で唯一、創価だけが日蓮大聖人の心を心として、その流れを創ってきました。
この流れ、潮流を断じて止めてはなりません。

一閻浮提総与の御本尊(大御本尊)を所持しているとされる大石寺の邪宗門に、広宣流布が果たしてできるでしょうか。 所持して700年以上経とうとしていますが、どうだったでしょう。 大御本尊を所持していることが大事なのか、広宣流布することが大事なのか、わかりきったことであります。
ちょうど、年頃の娘さんが、結婚式に使う純白のウェディングドレスを後生大事にして、婚活をしないのと同じです。 結婚していく同じような年頃の娘さんに、” 安物のウェディング ”なんか着ても幸せになんかなれない、と毒づいているようなもので、哀れと言う以外にありません。

大御本尊は広宣流布が実現し、戒壇である本門寺が建立されたとき、そこに懸ける御本尊であるとされています。 広宣流布の儀式を行うための御本尊でありますから、本来はその時まで、御宝蔵に厳護されているものなのであります。 邪宗門が邪まな心で” 根本の御本尊 ”と言っていますが、権威で身を飾るために利用しているだけであって、けっしてだまされてはいけません。 大御本尊を所持していなければ、その他の御本尊に力が無くなるかのような論理は破綻しています。 ハッキリ言って邪義であります。 御本尊の功力は絶対でありますが、唯一絶対の御本尊など宇宙のどこにも存在しません。 宇宙に存在するのは南無妙法蓮華経という法と自受用身如来(日蓮)という人(にん)であります。 しかも唯一ではなく遍満しているのです。 仏法の法理を知らない輩の戯言に惑わされてはいけません。
他の星にある御本尊が、一閻浮提総与(全世界)でなく、全宇宙総与だったらどうするつもりなのでしょう。 地動説を頑迷に信じるようなものであり、くだらない論争に必要以上にかまけることはありません。 毎日、わたし達が勤行で御本尊に読み上げている、法華経寿量品第十六の自我偈には、何と書かれているでしようか。 よく心に留めるべきであります。 誓願に生きる処が常寂光土であり、御本仏は常にそこに居られるのであります。 日蓮大聖人の心を持たぬ邪宗門に何が出来ようというのでしょうか。

広宣流布の闘争こそが、地涌の菩薩の使命であります。
御書には『 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、(中略) なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。 』とあります。 たとえ、大御本尊の前を遮る者がいて、創価の信心を止めよ、と脅そうとも、広宣流布の誓願に生きるのです。 広宣流布は日蓮大聖人の 『 ちかいし願やぶるべからず 』との厳命であります。
Category : 御本尊 Comment : (1) |

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2015-02-20(Fri)
先週の” Oh! Darling ”にどこか似たフレーズのある曲だと思いませんか?

井上陽水さんは、ビートルズの曲からインスピレーションを受けて作った曲があるそうですから、
この曲も、そうかもしれません。 (^^

良い週末をお過ごしください。 (^^

・ クレイジーラブ


関 連 → 結 詞
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* by ちよ
うちの養父
たまにカラオケで歌いますよ

* by 夕焼け.
ちよさん、こんばんわ。

そうですか。(^^
お父さん、イケてますね。

2015-02-19(Thu)
第二代会長の戸田先生は信心について、「 お勤め(勤行・唱題)をして、御本尊に、あれをくれ、これをくれと、功徳をねだるような横着な信心ではなく、ほんとうに、折伏に身を入れて、人々に悪口をいわれ、バカにされて、ますます御本尊様を護持したとき、そこに厳然として、功徳が現れるのです。 」と仰っていました。

この話しから、日蓮大聖人の信仰とゆうものは、巷にみられる願かけの信仰とは違うということが判ります。 願かけの信仰でない、といっても、御本尊に願ってはいけないということではなく、願ったうえで身口意の三業で広宣流布のために尽くし、悪業を切っていく作業が必要だということであります。 それもなく功徳をせがむような信心を” 横着 ”と言われているのではないでしょうか。

悪業が不幸の原因であれば、報いを受けていけば、悪業は消えていきますが、それだけではダメなのです。 悪業の因となるものを消してしまわなければ根源的な解決とはならず、また悪業を作って苦しむことになります。 場合によっては、報いを受けている最中に悪業を積んでしまう場合もあり、六道輪廻といわれるように、地獄の中で這えずりまわるようなことになります。 やはり、生命の転換が必要であり、善業を尽くして悪業の因を消していく道筋が必要となってまいります。

願いというものの多くは、悪業に起因する苦しみから生じていますが、戸田先生は、それを解決するには善業に起因して生ずる苦しみを受けて、そこから善業をかなえる願いに転換してゆけば、悪業の因は消え、願わずとも自然と功徳が現れてくると仰っているのだと思います。 勤行・唱題し、悩める友に寄り添いながら、広宣流布のために日蓮大聖人の仏法を一人一人に語っていくことが、功徳の源泉であるというのが創価の哲学であり、それは日蓮大聖人の生涯のお姿と重なり、仏の歩む道を歩むのがわたしたちの信仰の要諦だということであります。

最極の功徳というのは、仏の境涯を得ることに尽きます。
Category : 信 心 Comment : (0) |
2015-02-18(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝 (P790) 
『 一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。 』

【 通解 】 
『 きわめて長遠の間にわたって尽くすべき辛労を、わが一念に尽くして広宣流布に戦っていくならば、もともと自分の身に備わっている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる。 』

【 指導 】
* 戸田先生が「 この御書だけは命に刻んでおきなさい。 学会の闘士になるためには、この御書は忘れてはならない。 」と言われ、教えてくださった御聖訓がこの一節であった。
本当に広宣流布に徹すれば、人生の真髄の生き方に徹すれば、自然のうちに仏の境涯が薫発される、という意味である。

< 御書とその心 >より


会合で、7000万遍の唱題をしてきた半生を語る方にお会いしましたが、死ぬまでには1億遍をなんとしてもあげたいと言っておられました。 それを聞いて、” 素晴らしい ”と思いました。

仏道修行というのは、生きている間にしかできないものです。 それゆえ、人の一生というものは本当に貴重なのであります。 宿業のバランスシートを書き換えて、仏の境涯を掴むために生まれてきているのです。 どれだけ、広宣流布のために辛労を尽くせるのか、どれだけの人に、この仏法を語っていけるのか、今世にあらん限り、祈り、行動してゆく人生ほど素晴らしいものはありません。

苦しくても、悲しくても、唱題しながら、なんとしても広宣流布の闘争に生き抜いていこう、とする一念が、すべてを決しゆくのであります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-02-17(Tue)
戸田先生は御本尊について、
” 紙 ”だと言ったことがあります。

それは、信心していない人が、御本尊のことを、” ただの紙 ”ではないかと言って馬鹿にしていることに対して、 たしかに御本尊は” 紙 ”だが、その” 紙 ”に何が書かれているのかが問題であり、” ただの紙 ”ではないと反論されたときに、御本尊は” 紙 ”と言ったのです。

紙幣だって、証文だって、” ただの紙 ”ではない。
ゴッホの絵や、北斎の版画だって、” ただの紙 ”ではない。
独立宣言書や、聖書だって、” ただの紙 ”ではない。

人間だって、細胞でできているが、
” ただの細胞 ”ではないのです。

究極から言えば、人間を含み、みんな物質であり、原子や電子や陽子や素粒子からできているのです。
Category : 御本尊 Comment : (1) |

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2015-02-15(Sun)
明日は、1222年(貞応1年)2月16日に日蓮大聖人がお生まれになった記念の日であります。 その日は、新暦(グレゴリオ暦)でいうと4月6日にあたり、ちょうど春の桜が咲いていたのではないでしょうか。
日蓮大聖人の誕生は人類の幸福の曙であり、長い長い冬の時代に、春の桜花爛漫のふくよかな風が吹き始めた瞬間であります。

わたしは、いずれこの日は新暦で祝うことになると思っています。 様々な生命の息吹が満ち溢れる春こそ、祝うのにとてもふさわしいと思うからです。
いまはまだ、創価ではそれを祝う行事などは、記念の勤行会がせいぜいですが、いずれ、世界中で庶民が祝うようになると、どんなふうになるでしょうか?
楽しみであります。 (^^

わたしは、これから、勤行・唱題をしたあと、御書の生死一大事血脈抄を拝し、正月から御宝前にあげてあった奉献酒を戴き、床に入ろうと思います。
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2015-02-13(Fri)
ひさかたぶりのビートルズです。 (^^

この曲はポールが作った曲ですが、ジョンお気に入りの曲でもあります。 六本木にあったライブハウスでは、酒にまかせて、みんなして叫んでいました。 青年時代の良き思い出です。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ Oh! Darling


関 連 → The Beatles 50Th 7
Category : 音 楽 Comment : (2) |

* by みかん。
こんばんは。

うわ~い、この曲久しぶりに聴きました♪

夕焼けさん、ライブハウスで叫んでたんすか(゜∀゜)
ちょっと意外な感じもして、かっけーです!

私、フリーのイラストレーターの人達のブログもめっちゃ見てコメントも書かせて頂いてるんすけど、特に大好きなfさんもビートルズ(特にジョン)やオアシスが大好きで、音楽の話も合うから超嬉しい。
夕焼けさんともビートルズfan同士っすね♪

私はビートルズの中では「in my life」がめっちゃ好きです(≧∀≦)一番好きかも。
リクエストしたいくらいっす。

* by 夕焼け.
みかんさん、こんばんわ。

「 in my life 」は、ジョンの育った街リバプールを偲んだ曲ですね。 わたしも好きです。 リバプールにはジョン・レノン空港があり、ジョンの銅像があるそうですよ。 行ってみたいですね。(^^

2015-02-12(Thu)
第二代会長の戸田先生は、「 末法の悟りと申しますのは、御本仏・日蓮大聖人様の御観心たる御本尊を一途に信じ切るのが悟りでありまして、それ以外に、悟りは絶対にないのであります。 」と仰っています。
世間一般では、仏の無尽蔵の智慧そのものを” 悟り ”だと思っていて、小難しい経論や修行を学んでおりますが、そうではなくて” 御本尊を信じる ”ということが” 悟り ”なのだというのです。

な~んだ、そんなことかと思う方もいると思いますが、これが、そう簡単なことではないのです。 御本尊を本当に信じきれればいいのですが、一時は信じられても、何があっても心底から信じられるのかというと、自信がないのが普通であります。 何があっても信じきれれば、それはもう成仏の境涯といってよいでしょう。 

わたしたちの信心というのは、この” 信 ”を確立するための闘争であり、魔もあり、悪業もある中で、壁にぶつかり、悩み、もがきながら、広宣流布のために行動するしかないのです。 煩悩即菩提で勝ちとる以外にはありません。
Category : 信 心 Comment : (0) |
2015-02-11(Wed)
今日は、創価の第二代会長戸田先生の誕生日であります。

わたしは、戸田先生の「 生命論 」を読んで感動し、
信心するようになりました。
わたしの信心の親ともいうべき、大恩の方であります。

戸田先生は昭和26年5月3日に創価の第二代会長に就任され、折伏の総大将として広宣流布の指揮を執られますが、それを知ってか知らずか、わたしは、それからほどなくして、この世に生まれてまいりました。 戸田先生にはお会いしたことはありませんが、深い縁(えにし)を感じます。

高校生の頃、古い大白蓮華の戸田先生の特集記事や小説・人間革命を読んで、戸田先生の御本尊に対する絶対の確信に、心が震えました。 ほんとうに偉大な方であります。 

今日は、戸田先生が好きだったお酒を飲みながら、
先生の誕生日を祝いたいと思います。 (^^
祝うと同時に、戸田先生が作詞された学会歌をかみしめたいと思います。

・ 同志の歌

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2015-02-09(Mon)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 佐渡御書 (P960) 
『 日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし 』

【 通解 】 
『 日蓮を教えさとして、自分の方が賢いなどと思っている。 このような悪人が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不憫としかいいようがない。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人の時も、増上慢の弟子がいた。 ” 大聖人が大難に遭うのは、大聖人のやり方がおかしいせいだ ” と非難する門下がいたのである。
罪なくして大難に遭うことこそ「 法華経の行者の証明 」であることが、わからなかったのである。 そうゆう人間は、” 他宗の謗法の人間よりも、もっと長く、地獄で苦しむことになる。 かわいそうなことだ ”と大聖人は仰せである。

「 師弟 」の道を壊す罪は、それほど重い。 

< 御書とその心 >より


仏法はあくまで師弟不二であります。
日蓮大聖人を根本の師としながら、その心を持つ師を現実の師とし、弟子として生き抜いていくのです。
” 師敵対 ”ほど愚かな道はない。 堕地獄の道である。 日興上人が「 この法門は、師弟子を正して仏になり候。 」というのはこのことであり、邪宗の根源的な過ちも、この” 師敵対 ”にあります。
浅薄な常識や倫理観に自己を投影させて、さも賢げに、師を教訓する傲慢さほど、恐ろしいものはありません。
Category : 御 書 Comment : (3) |

* by みかん。
おはようございます(^o^)
この間のコメントのお返事ありがとうございましたm(_ _)m
勉強になりますm(_ _)m



「さも賢げに師を教訓する傲慢さ」…なるほど。色んな意味で、なるほど。

師匠には謙虚そうに見えても、同志(他人)に対して、えらく増上慢な人もネット上で見かけます(゜ロ゜;)
「さも賢げに同志を教訓する傲慢さ」と言いたいくらい。なんちゃって(>_<)

ちなみに、池田先生を尊敬できないとか、池田先生の偉大さを理解できないとか、池田先生の悪口を他の人に言うとか…
こういうのは「師敵対」ではなく、たんに池田先生に対して無知なだけなのかな?と、ふと思った自分でした。

* by 夕焼け.
みかんさん、こんばんわ。 (^^

そうですね。 先生の生身の人格と、その生きかたに触れてみないと解からないことがあるかもしれませんね。 でも、それを知る弟子がそれを受け継いで伝えていかなければいけませんね。

「 師敵対 」といっても、提婆達多や五千の上慢のように、根底にあるのは妬みや恨み、そして増上慢であるように思います。 また「 師敵対 」は「 獅子身中の虫 」の異名でありますから、必ず同志や弟子の中から出てまいります。

獅子身中の虫に、信心を食い破られないように、気をつけてまいりましょう。

* by みかん。
こんばんは。

お返事ありがとうございます。

増上慢、本当に怖い。
決して他人事じゃないっすけどね。
増上慢の極みみたいな、見てるとどんどん重暗ーくなって歓喜が失われていくようなブログがあって、バカだからちょっと気にして見ていたんすけど(「さも賢げに同志を教訓」が度を超して、寄ってたかって純粋な同志に対する非難と中傷の塊。…に、途中からなってしまったブログ。的な)、
もう見ない事にしてます(・∀・)

はい、色々、気をつけていきますm(_ _)m

お返事はいりません(・∀・)

2015-02-07(Sat)
ひと昔前の日本のシンガ―ソングライターのほとんどが、若き日にビートルズに夢中になっていた時期があります。

今日は、井上陽水さんと加山雄三さんが歌う「 Here There And Everywhere 」を紹介いたします。

よい週末をお過ごしください。 (^^

Here There And Everywhere
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2015-02-05(Thu)
第二代会長の戸田先生は、ある講演で「 初めに信仰したときには、初信の功徳といって、思いがけない大利益を得ている。 ところが、一年でも、三年でも、強盛に信仰をつづけていけば、壁につきあたったような感じで、身動きのとれなくなるときがある。 幸福になるために信仰したはずなのに、どうして、こんな罰ばかりだろうといって、かえって仏を怨むこともある。 」と話されたことがあります。

信心している人で、
このような思いをした人は、必ず居るはずです。

このようなことは、三世の生命観から考えるとはっきりと見えてきます。 わたしたちは過去遠々劫から何度も生まれてきては死んでいます。 この間に、良いこともしてきているでしょうが、どれだけ悪いことをしてきたか、はかり知れないものがあります。 今世を振り返ってみれば、おのずと判ってまいります。 本来ならばその業を、長遠な時間をかけて、一つ一つ消してゆくところなのですが、縁あって入信し、信心を強盛にしたことによって、過去遠々劫の悪業を今生で受けるのです。 しかし、それに負けないで、さらに強く信心を起こし、懸命に行じてゆくならば、それを消してしまうことができます。 そして最後に、一生成仏という最高の境涯を幸福を掴むことができるのです。

過去遠々劫の業報を受けると言っても、まともにいっぺんに受けていては堪りません。 信心で多くは受けずに消すことができますが、しかし、それでも受けなければならない業報もあります。 また、境涯を高めていくための試練となって顕れることも必要です。 しかし、信心をしていると、その護法の功徳力によって業報を軽く受けていくのです。
難を呼び起こす信心というのはこのことであり、嘆くよりも、” いよいよ ”と強く信心を起こしていくべきであります。 難は境涯を高めるシグナルであり、成仏のチャンスなのです。 

参考のためにどんな業報があるか記しておきましょう。

人の悪業には殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴(邪見)と十悪があり、まえの三つが” 身 ”の悪、次の四つが” 口 ”の悪、最後の三つが” 意 ”の悪で、華厳経には、この十悪の度合いにより、地獄・畜生・餓鬼の順に生じると説かれています。 そして、人に生まれた場合には、次のような報いを受けるとされています。

殺生は多病あるいは短命、
偸盗は失財あるいは貧窮、
邪淫は婦が貞実でない、あるいは眷属不良、
妄語は身に誹謗多い、あるいは人に誑惑される、
綺語は眷属に離反される、あるいは弊悪な眷属を得る、
悪口は悪声を聞くこと多い、あるいは訴訟を受ける、
両舌は信を得られない、あるいは言語が明瞭でない、
貧欲は多欲で飽ことがない、
瞋恚はすきをうかがわれる、あるいは殺される、
愚痴は邪見の家に生まれ心諂曲となる、

この他に、五逆罪や法華経誹謗の業報もありますが、いずれにせよ因果の理法は避けられず。 本因妙の仏法、なかんずく広宣流布の修行(仏の道)でなければ、転換することはできません。
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2015-02-03(Tue)
仏教の説話として、十王の話があります。
人が死ぬと、中陰(中有)にいる間に十人の王に一生の善悪を裁かれて、どこに生まれるか裁可されるという話なのですが、そのなかに閻魔法王が使う浄玻璃の鏡というのがあります。

この鏡は、閻魔法王が住む光明院・中殿の裏にある九面の鏡のことで、業鏡といいまして、死者が生きているときに行った善悪の総てを映しだすとされています。 死者が嘘を証言して逃れようとしても逃れられないという鏡であります。
この説話は、釈迦のたとえ話が基になり伝承されてきたものでしょうが、釈迦はいったいなんのために説いたのでしょうか。、

はたして浄玻璃の鏡というのが本当にあるのでしょうか。

仏教の低い教えでは、あの世があり、そこで裁かれ、行いにより地獄や天国に行くということなのですが、三世の生命観から捉えていくならば、鏡に映しだされるのは、生きているときだけではなく、生まれ変わる姿も映しだされたに違いありません。
このことについて、第二代会長の戸田先生は、「 この娑婆世界においては、私どものこの身、その境遇が、浄玻璃の鏡なのでございます。 過去世にわたくしどものなした業が、この現世にわれわれの身心に業報として感ずるのであります。 」と仰っております。  閻魔法王が持つ浄玻璃の鏡は過去や未来の因果を投影した自分自身だとゆうことになります。

このことを、現代の人はなかなか信じることができないでいますが、生命は永遠(無始無終)だというのが仏教の要であり、釈迦が法華経で説いたのもこのことであり、寿量品第十六の眼目であります。

 
 
Category : 仏 教 Comment : (2) |

* by みかん。
こんにちは。

鏡には、生まれ変わる姿も映し出される……なんだか凄い(゜ロ゜)

十王の話は初めて知りましたが、閻魔王は以前御書(「種種御振舞御書」)の勉強をしていた時に登場してきて(「わづかの小島のぬしらを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」)、その存在と意味をマイ講師さんから教えて頂いた事を思い出しました。

十王の話みたいに、自分の一生の善悪を裁かれるとか、子供の頃によく聞いた「嘘をついたらえんま様に舌を抜かれる」というのに似ていてなんだか面白いような(笑)

けど、結局、「閻魔王のせめ」というのは、自分が死ぬ間際(最期)に自分の人生・生き方を自分自身で審判する事だと聞きました。
善悪含めて、もっとああしていればこうしていれば…もっと戦えば良かった…あんな事をしなければ…等々、最後の最期に“後悔”する事ほど苦しいものはないのだ、と。

その時勉強したその御書の御文は、
死ぬ間際に、後悔の姿、後悔の状況・境涯になってはいけないんだよという、大聖人のご教示的な御文でした。

閻魔法王の持つ浄瑠璃の鏡は、過去や未来の因果を投影した自分自身であるーーー。
凄いっすね。
結局全て、自分自身の生命に内在するものという事なんすかね。

* by 夕焼け.
みかんさん、こんばんわ。

十王の話は、エジプトの「 死者の書 」のような死後の世界を描いていますが、一つ一つの話に隠された意味があるような気がします。 閻魔法王の浄玻璃の鏡が自分自身だという、戸田先生の透徹した眼力は鋭いですね。 実はこの鏡は、紹介したような話の使い方以外にも使い方がありまして、いずれ紹介いたします。 

>結局全て、自分自身の生命に内在するものという事なんすかね。

そう考えて良いと思います。
御本尊に描かれている生命の縮図は、わたし達の生命でもあり、わたし達は一念三千で満たされた宝塔といえます。

2015-02-02(Mon)
後藤さん殺害のニュースが日本中を駆け巡ていたとき、NHKで「 イスラム国 」を取り上げた特集番組があり、イスラム国が台頭してくる足がかりとなった、シリアでの様子を伝えていました。

イスラム国は石油油田を手に入れるときに、その地域の部族たちの協力を得ていましたが。 そのとき、協力しなかった複数の部族を虐殺しており、女・子供のみさかいもなく2000人余りが殺されています。 生き残った部族の一人は「 彼らはイスラム教徒なんかではない、宗教を利用しているだけだ。 」と言いはなっていました。

いままでの一連の報道をみると、わたしもそう思います。

イスラムを利用したファシズムと言ってよいでしょう。 暴力と恐怖を使うやり方はナチスと同じですから、ナチズムと言うほうがいいかもしれません。

前にも記事にしましたが、イスラム教は神の代理人(預言者)による宗教のため、このようなことになりやすいのです。 特にマホメットは武力に拠って勢力を拡大してきましたから、このような連中に免罪符を与える結果となってしまっています。 しかし、彼らは同じイスラムのスンニ派部族を虐殺してはばからないところを見ると、他化自在天という魔が身に入ったイスラム教徒のナリスマシかもしれません。

そうであるあらば、彼らは必ずアッラーの怒りをかうことになるでしょう。
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