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2014-01-31(Fri)
第二代会長就任式 
(写真:SGIグラフ 第二代戸田会長就任式 昭和26年5月3日 常泉寺 )

1月も終わり、2月を迎えます。

創価では伝統の2月闘争といって、仏法対話の季節となります。 信心されていない方たちには、ちょっと面倒かもしれませんが、創価の友人たちの言葉に、どうか耳を傾けてください。

ところで、創価では” 2月闘争 ”と、この時期になると盛んに言われるようになりますが、わたしにはピンと来ないところが、実はあります。 それは、わたしが信心を始めるようになってから、社会人になるまでの、中等部、高等部、学生部、男子部と、ねんがらねんじゅう2月闘争だったような気がするからであります。
宴会の席で歌われる” 酒飲みの歌 ”というのがありまして、月ごとに酒を飲む口実があるわけですが、それと同じくらいに、毎月毎日が仏法対話の日々でありました。 まぁ、特別に強調するまでもないくらいに、仏法対話は創価での日常だったのであります。

2月闘争の原点である、昭和27年(1952年)2月の若き日の池田先生が指揮した鎌田支部の躍進は、そのまま脈々と受け継がれ、現在に至る創価の未曾有の発展と、世界広宣流布の流れを生んできたわけでありますが、経文にも「 毎自作是念 」とあるように、間断なく仏法対話の流れを進めていくことが、創価の真の伝統であります。

とはいっても、歴史の重みというか、意義と言いますか、やはり心が燃えますね。

 (^^)/
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Category : 創 価 Comment : (2) |

管理人のみ閲覧できます * by -

* by 夕焼け.
No,316さん、ありがとうございます。

写真は「 常泉寺 」です。

2014-01-27(Mon)
「 経弥実位弥下 」というのは、妙楽大師が天台大師の「 摩訶止観 」を解釈した書に示された言葉で、「 教、弥(いよいよ)実なれば、位、弥(いよいよ)下る 」と読みます。 もう少し砕いて言うと、「 教えが真実であればあるほど、修行の位は下がっていく 」となります。

一般的には、衆生の機根が悪ければ、真実の教えでなければ救えない、という意味に使われています。 逆の言い方をすれば、機根が良ければ、真実の教えでなくても悟ることができる、ということです。 しかし、このような考え方はあるにせよ、わたしは、この言葉の意味として使うことに少し違和感を感じています。

妙楽大師が天台大師の「 摩訶止観 」のどの部分を解釈したのか見てみますと、それは、魔訶止観第六にあります。 「 前教に其の位を高うする所以は、方便の説なればなり、円教の位下きは、真実の説なればなり」というところであります。 この部分を、妙楽大師は「 経弥実位弥下 」と表現したのであります。

どうです、違うと思いませんか。

この“ 位 ”というのは、ここでは、修行の段階を指しており、前教である蔵教・通教・別教と円教の修行内容に焦点を当てて、教えの高低浅深を判定しているのです。 つまり、「 真実の教えであればあるほど、その修業は核心的で肝要なものになっていく 」と言っていたのです。  逆の言い方をすれば、一時的な方便の低い教えほど、修行の位を高くして、難しい修行となっていくということです。 
爾前権経が二百五十戒などの修行を説いているのは、方便であり、たとえ難しい修業を積んでも、仏に成るには長遠な時間がかかってしまいます。 それは、事を成し遂げていくときに、やり方がまずいと時間も労力も必要だ、ということと同じであります。 

小乗教が大乗教に差別的な扱いを受けることになる、これが、もう一つの理由であります。
Category : 仏 教 Comment : (0) |
2014-01-24(Fri)
春よ来い、
早く来い、

春を呼ぶには、まだ早いかもしれないが、
それでも、早く・・・・来い。

良い週末を。 (^^

・ Haru Yo Koi
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2014-01-22(Wed)
「 信心すれば何とかなる 」なんて思っている人がいるとすれば、大きな間違いであります。 何とかなるわけがありません。 そもそも、自分というものを横に置いといて、” なにか成せるはず ”と考えるのは誤りであります。

「 信心しているからこそ、為してゆく 」という行動と祈りが大事なのであります。 為してゆく自分というものを磨いて、築きあげていくための信心であり、人間革命なのだということを知ってほしいと思います。 「 信心すれば何とかなる 」ではなく「 何とかするための信心 」なのです。

今日の聖教新聞に、インド創価学会の婦人の方が、SGI池田会長と故ラジブ・ガンジー首相の家族との交流に接し、次のように語っていました。


「 先生はどこまでも目の前の人に寄り添い、深く励まそうと全力を尽くされていました。 私は、先生の姿に触れて、自分の甘さに気づいたのです。 ” 信心すれば何とかなる ”のではなく” 信心しているからこそ、人間として、最高の振る舞いをしていかなければいけない。 人のために、真剣に行動していかなければいけない ”と 」

< 地平線を越えて -SGI会長との心の絆- >より
Category : 信 心 Comment : (0) |
2014-01-21(Tue)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 崇峻天皇御書(P1173) 
『 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、 』

【 通解 】 
『 罪が深いために、あなたが地獄に入られたなら、たとえ釈迦仏がわたしを仏に成らせようとしたとしても、わたしも同じく地獄に行こう 』

【 指導 】
* 本来、聖職者とは、人々と「 ともに苦しみ 」「 ともに生き 」「 ともに進む 」ものなのである。 これは仏法の精神でもある。 大乗仏教の菩薩は、人々が成仏するまでは自分の成仏を後回しにしても、人を救うことを誓う。 自分だけが仏であり、自分だけが偉いとし、皆を見くだすのは仏法の心に反する。 「 ともに苦しみ 」「 ともに喜ぶ 」――この「 和合 」のなかに仏法は脈動する。
SGIは、こうした日蓮大聖人の大慈大悲を仰ぎながら、仏法の根本精神のままに「 人間の連帯 」を広げてきた。 この一点だけ見ても、SGIこそ大聖人の仏法を正しく実践していることは明らかである。 ゆえに真の功徳もある。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人の、これほどまでの慈愛に、わたしは涙を禁じ得ません。 師がそうであるならば、弟子も同じであります。 広宣流布の征くてに地獄が待っていようとも、そして、なにがあろうとも師弟の契りに変わりはありません。 

日蓮大聖人のお心は、創価三代の会長の心であり、学会歌「 ああ黎明は近づけり 」に詠われた 「 君が憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う 」との一節は創価同志の永遠の精神であります。
Category : 御 書 Comment : (2) |

* by ちよ
おはようございます
「 ああ黎明は近づけり 」
私も大好きな学会歌です

* by 夕焼け.
ちよさん、こんばんわ。

かつては、会合のはじめと終わりは常に学会歌でした。
声をからして何曲も歌った日々が忘れられません。

それは、形式というよりも、意気に駆られて歌わずにはいられない、というものでした。 広布への情熱が歌と共にあったような気がいたします。

2014-01-17(Fri)
明日晴れるかな。

それはわからないけど、いつか必ず晴れるに決まっています。

若いころの、明日への希望と不安が交錯した日々は、
今は懐かしくも大切な時だったように感じられます。

よい週末をお過ごしください。 (^^)


・ 明日晴れるかな


(桑田 佳祐 公式チャンネル)


関 連 → 100万年の幸せ
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2014-01-16(Thu)
昨年11月の「 広宣流布大誓堂 」の落慶に際して贈られた、SGI池田会長のメッセージに次のような言葉があります。


* 「 広宣流布の大願 」と「 仏界の生命 」とは一体です。 だからこそ――この誓いに生き抜く時、人は最も尊く、最も強く、最も大きくなれる。 この誓いを貫く時、仏の勇気、仏の智慧、仏の慈悲が限りなく湧き出でてくる。 この誓いに徹し切る時、どんな悩みも変毒為薬し、宿命をも使命へと転じていける。

< 2013年11月19日付聖教新聞 >より


三大秘法の真髄がここにあります。 仏の道を歩むところにしか、成仏はないのであります。 仏の願いはなんだったでしょう。 仏の誓いはなんだったでしょう。 仏の宝とはなんだったでしょう。 御本尊と共に対話し、御本尊と共々に生きてゆくのが創価の精神であります。
Category : 創 価 Comment : (0) |
2014-01-15(Wed)
池の鯉 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

日本にある律宗、禅宗、浄土宗、真言宗は、師匠である釈迦の言葉を遮って、わが宗こそが一番だと言っています。 しかも、その論拠には身勝手な考えや嘘も多く、もはや釈迦の仏教ではなくなっています。 涅槃経には、やがて白法穏没の時に魔が仏の姿に化身して正法を破るときがくる、と予言されていますが、まさにそのとうりになりました。 

このように批判すると、「 他宗を否定するのは良くない 」、「 自分だけが正しいとするのは間違っている 」と反発されますが、自分たちが釈迦の言葉を否定しておいて、そんなことが言える立場でしょうか。 たとえば、泥棒が盗んだものを、取り戻しに来た人に向かって、人のものを盗むのは良くない、と言っているようなものであります。

釈迦は法華経の中で、法華経を信じない人は無間地獄の業を積むと明確に説いています。 真言の善無畏三蔵は死んでから遺体が縮み、皮膚が黒く骨がむき出しになった、と記録されていますが、経典を見ると、それは地獄の業によるものであることがはっきりと判ります。 人師が勝手に作り上げた物語に騙されて、邪宗を信じる愚かさ、怖さを知らなければいけません。

日蓮大聖人が、四宗を強く責めるのは、深い慈悲の上からであり、地獄の門を塞ぎ、人々の盲目を開かんがためであります。
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2014-01-13(Mon)
蓮華-2 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

涅槃経には「 法に依って人に依らざれ 」という有名な文がありますが、これは釈迦の遺言であり、死して後の弟子たちのために、規範とすべき指針を遺されたのであります。

この文は、いろいろと深い意味を含んでいますが、一義的には、法とは、仏が説いた経をいい、人とは、仏以外の菩薩はもちろん諸宗の人師を指しています。 つまり、仏の金言を拠りどころとして、人師の作り事に依ってはならないと諫めた文になっているのです。

日蓮大聖人は、この文を挙げて、律・禅・念仏・真言の諸宗を厳しく切り捨てています。 たとえば、日本の真言宗の元祖である弘法は、「 理同事勝 」といって、法華経は理(一念三千)で同じだが事(内実)において大日経に劣ると言い、揚句には、教主釈尊は仏ではあるが、大日如来に比べれば無明に覆われた境涯に等しく、大日如来が皇帝ならば釈迦は虜囚のような身だと言い放っています。 はたして、釈迦の金言である経典にそのような言説があるのでしょうか。

釈迦は法華経の安楽行品で「 法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中において最もその上にあり 」と説き、法師品では「 我諸説の経典は無量千万憶にして己に説き今説き当に説かん而も其の中に於いて此法華経は最も難信難解なり 」と説いております。 仏が説いた金言と弘法が主張とどちらを信用するべきでありましょう。 ましてや大日如来は、大梵天に広長舌を付けて「 法華経は真実なり 」と証明した十方の諸仏の一人ではなかったでしょうか、舌も乾かぬうちに、法華経よりも優れた経があるなどと説いたとしたら、誰が信用するでしょう。 日蓮大聖人は、釈迦の説いた経典に、弘法が言うような内容はどこにもないと断言せられております。

釈迦の説いた経典を依処としているために、一見は仏教に見えますが、我見によって、釈迦の心を蔑ろにし、「 依法不依人 」の遺言に逆らい、仏の金言に敵対しているのが邪宗の本質であります。 邪宗というのは、まさに” 謗法 ”の宗なのです。
Category : 仏 教 Comment : (2) |

* by うなぎ犬
依法不依人はよく理解できるのですが。
法は普遍的に存在していますが、それだけでは何が正しい法なのかを多くの人は惑ってしまうのではないでしょうか。
人法一箇がいまいち理解できません。
法が大事なのはわかるのですが、それを説く人の存在もクローズアップすると、依法不依人に反しているのではないでしょうか?
そこのところをもう少し掘り下げてご教授下さい。
よろしくおねがいします。


* by 夕焼け.
うなぎ犬さん、こんばんわ。

” 法 ”が尊ければ、その法を行ずる” 人 ”は尊いというのが、人法一箇の基となる考え方です。 それは” 法 ”に依って、その価値が決まってくるという意味で、この場合の” 法  ”は善悪や正邪を含んだうえでの法という捉え方であります。 

依法不依人の” 法 ”とは正しい道を示した法のことであり、仏が説いた法のことであります。 ” 人 ”とは、その法を知る仏以外の人のことを指します。
それでも、人は仏に成ることができますから、その仏と成った人に依ってはいけないのかという疑念も浮かびますが、仏が説く法と、仏と成った人が説く法が違うということはあり得ないのです。 それは、釈迦や十方の諸仏の覚知した”法”は同じものだからです。

同じ字でも意味や使い方が違いますから、同じ次元で比較すれば混乱するだけだと思います。

2014-01-10(Fri)
元初 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

日蓮大聖人は、16歳(1237年)の時に千葉・清澄寺で出家して以来、18歳(1239年)で鎌倉に遊学し、21歳(1242年)で比叡山に登り、修行を重ね、仏教を学んでこられました。 そして、32歳(1253年)の時に清澄寺に戻り、報恩の心を携え、旭日を浴びながら、連綿と続く山々の峰を眺めながら、立宗宣言を行います。

このころまでには、あらゆる経典を読破し、主な仏教の典籍に目を通しておられ、各宗派の内容も熟知されました。 当時の比叡山は、延暦寺を中心にして多くの寺が存在し、仏教の最高学府のような存在になっております。 日蓮大聖人もここを拠点としながら各地(高野山、四天王寺、奈良、滋賀、京都)を巡っておられます。

12歳で清澄寺に登り、虚空蔵菩薩に「 日本第一の智者となし給え 」と誓願されてから、時代の様相と仏教界の混乱を目のあたりにしてきた大聖人は、なぜ、天変地異が起こっているのか? なぜ、主従が逆転して戦乱がおきているのか? なぜ、多くの宗派に分かれて争っているのか? 様々な疑問を抱きながら仏教や諸般の学問を学んでいました。 そのようななかで大聖人は、天台や伝教と同じように、原点である釈迦の経典を徹底して学ぶことの必要性に気づいてゆきます。 そして、仏の金言に従い、学びと思索を重ねてゆくにしたがって、何が正しく、何が誤りなのか、明らかに判ってくるのでした。 さらには、釈迦の経典の中で、法華経が最高の教えであることが理解でき、釈迦並びに十方の諸仏の淵源となる” 法 ”を覚知するに至ります。

虚空蔵菩薩に誓願してから20年にして、声も惜しまず” 南無妙法蓮華経 ”と獅子吼されたのであります。
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2014-01-08(Wed)
パラソル 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

日蓮大聖人は、有名な四個の格言で、律宗、禅宗、念仏宗、真言宗を徹底して批判しました。 この四つの宗が、人々を不幸にし、国を亡ぼす根本原因であるとして” 邪宗 ”と断定しております。 さらに、釈迦が説いた経典を依処とする、ほぼ総ての宗派をも” 邪宗 ”と呼んでいます。

言われた宗派の坊主をはじめとして、その檀信徒は怒りに満ち、憎しみに身を震わせ、大聖人の命を奪おうとしたほどでした。 現代でも、創価の邪宗撲滅を掲げた折伏には、嫌悪感と怒りを隠さない人間は大勢います。 まあ、仕方がないと言えばそうかもしれませんが、あまりにも理性に欠けた、感情論ばかりが目立ちます。
そもそも、なぜ” 邪宗 ”なのか、日蓮大聖人の言うことに耳を傾けるべきであります。

日蓮大聖人は『 智者に我義やぶられずば用いじとなり 』と仰っているように、その理由は、道理に基づき、道筋だったものであります。 わたしは、邪宗を信仰する人々に、あたりまえのことを、あたりまえだと思えない、病理を感じています。
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2014-01-07(Tue)
昨日の聖教新聞、「 太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志 58 」の中で、「 世界広布の火 」のことが紹介されていました。

この” 火 ”は、日蓮大聖人御生誕の前年、承久三年(1221年)に、岐阜県明宝村の千葉家の囲炉裏で灯されて以来、煌々と燃え続けてきた” 千葉家いろり火 ”から採火され、岐阜県の婦人部の方が千葉家当主から譲り受け、当時の村長の一筆を添えて、平成4年(1992年)4月26日の中部総会に参加するため、名古屋を来訪していたSGI池田会長のもとに届けられたものであります。

千葉家のいろり火

翌年(1993年)、東京・信濃町で行われた新年勤行会の席上で紹介されて、点火式が行われ、「 創価永遠の火 」と命名されました。 それ以来、学会本部・師弟会館の御宝前に供えられていたのですが、「 世界広布の火 」と新たに命名されて戸田記念国際会館に移された後、先頃完成した創価総本部に納められました。

世界広布の火 
 
日蓮大聖人と時を同じくして生まれ、793年間ものあいだ燃え続けてきた” 火 ”が、今、創価総本部に納められたというのは、とても不思議な巡りあわせであり、意義深いものを感じます。
Category : 創 価 Comment : (2) |

* by 河越武蔵守
歴史、尊い歴史を感じますね。
連祖大聖人様の、御在世時の火が燈されてる。
素晴らしいですねぇ。

* by 夕焼け.
武蔵守さま、おはようございます。

大聖人時代から残っているものは、この” 火 ”以外にもあるでしょうが、このように変わらず生き続けてきたものは少ないでしょう。
すばらしい!のひとことです。

2014-01-03(Fri)
今日は、去年の続きで、ララ・ファビアンさんの歌を紹介いたします。

ララさんの代表的な歌です。

よい正月をお過ごしください。 (^^

・ Je t'aime
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2014-01-02(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 撰時抄(P287) 
『 身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず 』

【 通解 】 
『 身は随えられているようであるが、心まで随えられはしない。 』

【 指導 】
* たとえ、やむなく束縛の身となったとしても、心までは絶対に従がわない。 これが、真実の自由の精神である。 人間の魂の強さである。

< 御書とその心 >より


真実の自由の精神と人間の魂の強さは、創価の精神の中にあります。 日蓮大聖人がそうであり、創価三代の会長がそうでありました。
人は耐え難い苦境に見舞われたとき、その境涯によっては 不自由と弱さだけが身につまされ、ひどいときは、心が不幸という鎖に縛り付けられてしまいます。 いわゆる、地獄の境涯であります。 その反対に、真の自由と魂の強さは、仏の生命の特質の一つであり、どのような状況にも、その輝きを失わせることはありません。

この2つがあれば、人生にどのようなことがあろうとも、崩れざる生き方を可能とし、人生を楽しむことができるでしょう。 その源泉は、御本尊への唱題にあり、一人一人を励まし、妙法を語り抜いていくところに生まれます。 
Category : 御 書 Comment : (0) |
2014-01-01(Wed)
新年明けましておめでとうございます。

朝日
( hoto by カナダグース )

本年の、皆様方のご健康とご活躍を、お祈り申し上げます。
「 世界広宣流布 」の新時代に、 乾杯!!

2014年 元旦
Category : 挨 拶 Comment : (0) |
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