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2012-11-30(Fri)
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(写真: PD 東京電力 福島第一原発4号機)

原子力発電所の稼動を止めれば危険は無くなる、と思う人がいれば、それは大いなる誤解です。 運転しているよりはいいだろう思いたいでしょうが、稼動を止めていても同じように危険がそこにはあるのです。 それは福島第一原発の4号機が爆発した現実をみれば明らかです。 福島第一原発の4号機は稼動を停止し、燃料棒も炉から出され、使用済核燃料棒(燃料棒)と同じように冷却プールに保管されているとき、あの地震と津波に襲われたのです。

原子炉で使われた燃料棒は、炉の傍にある冷却プールで3年から5年ほどかけ、安定的に冷やされていなければなりません。 電源が失われて、冷却水が沸騰し水が無くなれば同じような結果を招きます、稼動していようがいまいが、同じ事故が発生する可能性があるのです。 というより、科学反応ですから同じ条件で発生します。 稼動停止しても、燃料棒を処理して廃棄場所に収めるまで、危険は同じように残されることになります。 燃料棒は冷却後に処理施設に運び出され、高濃度放射性廃棄物に処理され特殊ガラスと混ぜて固化されます。 固化された廃棄物は容器に密閉し、さらに何十年か冷やされた後、何万年も安定していると考えられる地層に保管するのです。 しかし、そのようにしてもまだ問題は残ると言われています。 保管場所が4万年も安定している地層だと、100%確約できないからです。 そこで、高濃度放射性廃棄物をできるだけ減らすため、また、燃料となるウランとプルトニウムをリサイクルするために、プルーサーマル計画が生まれてきました。

今は、燃料棒を処理するところも稼動できないでいますから、各原子力発電所の燃料プールには燃料棒が行き場を失って溜まっている状態です。 行き場がなければ、プールで保管し続けることになり、危険が放置されることになります。 廃炉にするにも出来ない状態が生まれてきます。 たぶん、それぞれの原子力発電所の原子炉自体は使わなくなっても、燃料棒や廃棄物はそこで保管するしかない事態となることも考えられます。 それは最も危険な場所に保管するということを意味します。 日本の原発は住民の理解を得られずに、廃棄物を処理することもできない状態ですから、破綻するのは時間の問題だったといえます。 政府が返す当てもない借金をし続けるのと同じ構造です。

政党や政治家が、原発ゼロを ” 原発の稼動を止めれば問題はすべて解決する ” という意味で使っているとしたら、あきれるしかありませんし、 ” 廃炉にする ” と簡単に確約しているとしたら、その問題意識の低さ、知識の無さを嘆かずにはいられません。 そんな政治家や政党に政治を委ねることは、自殺行為と同じであります。
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2012-11-29(Thu)
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選挙の勢力地図がほぼ固まったようです。 主要政党の政策も揃ってきました。 そこで、 ” 原発ゼロ ” について考えてみたいと思います。

今、盛んに選挙の争点として報道されている ” 原発ゼロ ” は原発を総て無くすという意味ではありません。 相変わらず、あいまいな標語が氾濫しているようです。 2字しか違わないのに、なぜ ” 原発稼動ゼロ ” と言わないのでしょう。 なにか意図があるのでしょうか。 中には廃炉も含め ” 原発ゼロ ” と言っている政党や政治家もいるので混乱しかねません。 論点を明確にするためにも、 ” 原発稼動ゼロ ” と ” 原発廃炉 ” と立て分けをして、報道してほしいものです。

以前にも話しましたが、わたしは日本での原子力発電に反対です。 それは、放射性廃棄物(廃棄物)の処理や事故が起きたときの被害が甚大で、大きなリスクを抱えているためです。 廃棄物は必ず出ますし、事故はあると考えておかなければいけませんから、狭くて地震の多い日本での利用は、とても難しいエネルギーだと思っています。 使うのであれば、廃棄物を処理する施設と技術と場所を、しっかりと確保しておかなければいけませんし、事故が起きたときのことを考えて、少なくとも300km圏内に人が住んでいないことが必要ですから、日本ではこの条件をクリアすることはできません。 したがって ” 原発稼動ゼロ ” にするのは賛成ですし、 ” 原発廃炉 ” はなお賛成であります。

ところが、選挙では ” 原発ゼロ ” 、 ” 原発ゼロ ” というスローガンは聞こえてきますが、 ” 稼動ゼロ ” にせよ ” 廃炉 ” にせよ、それぞれについての具体的な方策やロードマップが示されないでいます。 これでは原発を推進するときに、廃棄物の処理と安全をあいまいにしてきたのとまったく同じ構図です。 どのようにして ” 稼動ゼロ ” 、 ” 廃炉 ” にしていくのかということが置き去りにされています。  ” 沖縄の基地を国外か他県にする ” と約束しても、どのように ” 沖縄の基地を国外か他県にする ” のかかが明確でなければ、それは夢物語でしかありません。 将棋をやるように、詰めていく策がなければ、とても政治とは言えません。 それがなければ ” 原発ゼロ ” という耳あたりのいい言葉で、有権者の票を狙っているとしか思えません。

とはいえ、この問題はとても難しい ” 現実 ” があります。 そのために、そう簡単に方策は見つからない、という事情があることも承知しています。 しかし、だからこそ、簡単に ” 原発ゼロ ” と約束する政党や政治家を、わたしは信用することはできません。 どの政党や政治家が、この問題を真剣に捉えて、現実を明確にして、国民に問いかけ、議論してロードマップを作ろうとしているのか、よく見ていく必要があります。
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2012-11-28(Wed)
今週末、休みを利用して、PCのオペレーショソフトの変更をしようと思います。

Windows XP を長年使ってきましたが、もうそろそろ限界のようです。 今のPCの性能が対応できるうちにWindows 8にステップアップします。 Windows 8 はどうも不評のようですが、使ってみないと判らないので切り替えてみます。 変更そのものは時間が掛からないと思いますが、PC内のデーターやアプリケーションソフトの設定の整理に時間が掛かると思います。 もしかしたら、ブログの更新ができないことも予想されますので、ご承知おきください。
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2012-11-26(Mon)
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今日は、大白蓮華12月号に掲載されている、池田SGI会長の御書講義 「 上野殿御返事 」 の一部を紹介させていただきたいと思います。


* 追伸には、 『 かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし 』 とあります。 法華経如来寿量品第16の自我偈にも、 『 皆く恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生は既に信伏し 質直にして意は柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまざれば 』 とあります。
御本尊を信じ、妙法を求める心は、どこまでも強盛にして一筋で、また素直であることです。 自身の宿命転換を願い、広宣流布の実現を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。 生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です。 最後に勝つ人です。 ここに信心の極意があります。

苦闘の中でこそ、真の人間が鍛え上げられます。
苦闘の中でこそ、強靱な鋼の意志が育つのです。
苦闘の中でこそ、人生の真実の涙を知ることができます。
そして、苦闘の中にこそ、偉大な人間革命があるのです。

< 勝利の経典「御書」に学ぶ > より


” 素直な信心 ” こそ信心の要ではないでしょうか。 どのような人でも成仏できる理由がここにあります。 成仏には余計な知識や学識は必要ないとさえいえるでしょう。 日蓮大聖人は、他の御書で 『 夫信心と申すは別にはこれなく侯。 妻のをとこをおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり 』 とも仰っています。 御本尊を信じ抜いて、御本尊に祈り抜いて、広宣流布に生き抜いていく人が、結局は成仏していくということです。 釈迦が垢衣を脱いで、宝塔を開き、多宝塔に入ったという意味がここにあります。 釈迦は多宝如来と並座して生死不二の成仏を示されているのです。
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No title * by 智太郎
はじめまして!12月の大白には目を通してませんが、信心:活動に対しては、確かに体験を積んだ私は、強盛にして一筋の信心でいます。でも、また素直であること。この事に関しては、強盛一筋の信心だとまでは思っておりませんが、素直になれぬ時が、たまにあります。

No title * by 夕焼け
智太郎さん、こんばんわ。

素直な信心とは、何の前提条件も無く信じ、祈り、行動していくことを意味していると思います。 ” 無疑曰信 ” という言葉がありますが、信心とは信じる心と書くように、もとから素直であるはずのものです。 それを、あえて ” 素直な ” とつけるのは、人はなかなか御本尊を、日蓮大聖人の言葉を信じることができないからではないでしょうか。 智太郎さんは、たまにとおっしゃいましたが、わたしなどは、ことあるごとに素直ではありませんでした。 (^^; 
日蓮大聖人の言葉を、御本尊を信じることは、そう簡単なことではありませんでした。 信心をしていて、頭では理解しているようでも、実のところ信じていないことに、気付かされることが少なからずあります。 信心する側からいえば、心に信じる心を確立するために修行することを ” 信心 ” と言っていいくらいです。 これからも、心の垢を落としながら、信心を深めていきたいと思います。

2012-11-24(Sat)
フランシス・ゴヤさんのギターは、わたしの心に染み入るような感覚で旋律を届けてくれます。

氏の奏でるギターの音色は、何度聞いてもいいものです。

・ La Playa
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2012-11-23(Fri)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 撰時抄 (P271) 
『 浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり 

【 通解 】 
浅い教えは信じやすく理解しやすいが、深い教えは信じ難く理解し難い、とは釈尊が説かれたところである。 浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である

【 指導 】
この御文は、伝教大師の言葉であるが、これをとおして日蓮大聖人は ” 深き教え ” につくべきことをお示しになっている。 いかなる分野にも、 ” 浅深 ” がある。 人生にあっても同じである。 自分一人のために生きるのか、より大きな価値のために生きるのか。 もとより、自分のことのみを考えて生きることはたやすい。 大いなる理想のために生きるには、強靱なる決意と勇気が必要である。 その決意と勇気に立てるか否か。 そこに人間としての真価が問われるといえよう。

< 御書とその心 >より


人のため、社会のため、広宣流布のために生きるためには、丈夫の心が必要であります。 自身の目の前の問題の解決に関係ないように見えるようでも、このように生きることが、根本的で迅速な解決をする、一番の近道だと仏法は教えてくれています。 創価の草創の方々は、まさにそのようにして、宿命転換、人間革命して所願満足、衆生所遊楽の人生を築いてきたのです。
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2012-11-20(Tue)
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(写真: PD NASA 石垣島 )

昨日、NHKの家族のルーツをたどる 「 ファミリーヒストリー 」 という番組を観ました。 今回のゲストは具志堅用高さんです。 沖縄の苦難と貧困の歴史の中で、懸命に生きてきた祖父と両親を紹介しながら、具志堅さんのボクシングへの道と両親との葛藤を描きながら、現在の具志堅さんの思いを綴っていました。

具志堅さんは、石垣島から那覇の高校に進学し、生活に苦労している両親を幸せにしたい、との思いのなかで、何をすればいいのか、なにがしたいのか分らず、気の優しい性格から、隅っこに小さく縮こまるようにして生活をしていました。 そんなとき、ふとした友人のアルバイトの誘いから、ボクシングと出会います。 そして、水を得た魚のように、龍の如く、ボクシングの頂点に登りつめてゆきます。 その後の活躍は皆さんも御存じだと思いますので省きますが、日本のボクシング史上未だに破られていない、13度の世界王者防衛の記録を持つ不屈のチャンピオンが、初の世界王者になったときの気持ちをつぎのように語っていました。 

「 チャンピオンになったとき、うれしかったですね。 ボクシングを辞めようと悩んだことや、辛かったこと、苦しかったことが、全部、幸せなことに変りました。 」(要旨)と。

” 幸せなことに変る ” というのは、実感でしょうね。 わたしにもよ~く解ります。 人は苦難に会わないことが幸せだと思いがちですが、そうではありません。 苦難に負けず勝利していくことが、人生ではとても重要なことなのであります。 また、苦労しなければ、大きな幸せを実感することはできません。 信心していても苦難と葛藤と苦労が付いてきますが、それは最高の幸せを得るための、大切な糧なのです。 辛かったこと、苦しかったことが、全部、最後には幸せなことに変わるような生き方をしたいものです。
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No title * by カイ
>辛かったこと、苦しかったことが、全部、最後には幸せなことに変わるような生き方をしたいものです。

同感です。

「何故こんなに辛いことばかり」と思うことも一時的にはありますが、

私が負けずに乗り越えた時には、
今まで経験してきたことがどう活きてくるのか、楽しみなだな、
と感じながらお題目をあげています。

No title * by 夕焼け
カイさん、おはようございます。

信心があるから、希望が持てます。
希望があるから、勇気が湧きます。
勇気があるから、前に進むことができます。
創価の信心に巡り会え、
御本尊に唱題できることの幸せを、
今、わたしは、感謝しています。

ともに、乗越えていきましょう。 (^^

2012-11-19(Mon)
ついに、任期を10ヶ月あまりをのこし衆議院は解散しました。

またぞろ、TV、新聞、週刊誌は、都合よく選別した評論家の口を通して、世論の誘導を図り始めています。 自分達がさんざん民主党政権誕生のお膳立てをしてきたことの反省がまったくありません。 マスコミが第4の権力と言われるようになって久しいですが、国民は賢くならなければいけません。 マスコミの報道や論評を鵜呑みにするほど危険なことはないのです。 自分で考え情報を多角的に集め判断してゆくべきであります。 選挙では各党が出してる資料を手に入れて、政策の内容をしっかり吟味してください。

今回の選挙は、この3年間の反省の上に立って、実現可能な、一歩一歩前進していけるような、現実的な政策を、各党には出してもらいたいものです。 いまだに、成長戦略を掲げ、目先だけの経済発展を目指すような、愚かなことはして欲しくありません。 日本は農業を基本として、教育に力を注ぎ、技術・科学・芸術・文化と様々な分野で有為な人材を育てあげ、世界に排出していくべきであります。 環境破壊と人間の欲望の拡大が止まらなければ、食料や水はかならず世界的な問題となってきます。 原発の問題を考えても、生活は裕福でなく、質素がふさわしい時代になってゆきますから、そのような国作り、社会機構を組み立てていくべきだと、わたしは考えています。物質的な豊かさの中でなく、自然と共生し、人としての生きかたと繋がりの中に、本物の幸せがあるのではないでしょうか。
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2012-11-18(Sun)
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(写真: PD Lisa randall)

今日は現代物理学の話を紹介いたします。

アメリカの粒子物理学者のリサ・ランドールさんという方がおられます。 この方は1999年に5次元世界の存在を提唱し話題を呼び、理論物理学の分野で一躍時の人となられた方です。 現在、フランスとスイスにまたがる、ほぼ東京の山手線ほどある素粒子加速器を使って、5次元世界の証拠を探しだすために実験が行われようとしております。

わたしたちの生活する世界は3次元に時間を加えた4次元(4次元時空間)と言われています。 そして、さらに次元を加え、わたしたちからは見ることも感じることもできない世界が存在すると推測されているのです。 荒唐無稽のような話しのように思われるかもしれませんが、宇宙の謎、特に、物質の本質や、重力の謎の解明にかかせない理論だと考えられています。 この5次元は4次元の住人が行くことも感じることもできない世界であるため、リサ・ランドールさんは、1次元差し引いた次元のモデルを使って、5次元の特質をイメージしやすいように説明しています。
「 フラットランド 」 という2次元の世界を描いた小説をとりあげ、4次元の宇宙で認識しているものが5次元では違う実体を持っているというのです。 たとえば、球体が、2次元の世界を通るとき、2次元人には、最初はそれが点に見え、やがて広がりながら線となり、こんどは縮んで点となり消えていくように見えますが、3次元人には、2次元で点が膨らんで円になりやがて縮んで点となり消えてゆくように認識できます。 と同時に、4次元では球体が2次元を通り移動していることが認識されます。 3次元の球体・円柱、円錐が2次元に投影される影は、同じ円になり、2次元ではその影はすべて線にしか見えません。 また3次元の正立方体の影はひし形・長方形・六角形と様々な影の形があります。 これは、影が元の図形のもつ情報の一部しか表さないためです。 逆をたどれば、4次元で認識できるものの実体は、5次元で認識できる一部の情報だということになります。 

このことは、仏法の概念を思推していくうえでとても役に立ちます。 わたし達には御本尊も文字にしか見えませんが、生命という次元からみれば、日蓮大聖人の御命がそこには厳然とあるということなのです。

余談になりますが、数学から解いていくと、空間は10次元であることが古くから知られていました。 最近では、粒子物理学の理論をスーパーコンピューターでシュミレーションしていくと、宇宙の誕生は9次元から始まり、膨張する過程で3次元となり、最終的に今の宇宙が現れたという結果が得られているそうです。 ほかの次元はいったいどこにいってしまったのでしょうか。 人の5感で認識できるのは4次元(4次元時空間)までかもしれませんが、ほかの次元も現実世界とともにあり、次元同士が確実に影響を及ぼしあっているに違いありません。 どこかに存在するのではなく、今ここに、わたし達とともに存在しているのではないでしょうか。 現代物理学では物質の最小単位である粒子が ” 次元を行き来している ” と推測しているのですから驚きであります。
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2012-11-17(Sat)
ボジョレーヌーボーも解禁になり、コンビニでも見られるようになりました。

創価の創立記念日の前夜ですから、今宵は、フランシス・ゴヤさんのギターを聞きながら、ゆっくりと味わうことにいたしましょう。 

よい週末をお過ごしください。  (^ ^

・ Nostalgia
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2012-11-15(Thu)
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人生は不思議です。
知りえない因果がそれぞれの人にはあるようです。
創価の体験談の中から、死とゆう問題を考えてみましょう。

生まれたばかりの子供が先天性疾患と判り、医師からはいつ死んでもおかしくないと告げられ、治療を始めますが、芳しくありませんでした。 そんなとき夫婦は近所の知合いから、創価の話を聞き、必死の思いで信心を始めます。 母親は生命維持装置に繋がれた小さな我が子の体を見ながら、心の中で必死に題目をあげ、家では父親が懸命の題目をあげていました。 創価の同志も題目を送り続けました。 するとどうでしょう、徐々に治療の効果があらわれ始め、2週間後には赤ん坊の赤黒い体がピンク色に変わりはじめ、一端の危機を脱していったのです。 両親は安堵の開放感に包まれながら信心の功徳を実感しました。 それでも、成長を待って、手術が出来るようになるまで病院での治療が続きます。 夫婦は一途に信心に励み、多くの人に信心の話をし、題目をあげ続けていきました。 その間、子供も一進一退を繰り返していましたが、2年後にやっと手術を受けることができて、夫婦に笑顔を見せるまでに回復します。 しかし、完全に治ったわけではなく、さらなる手術の必要がありました。 夫婦は苦難の中で絆を強め、夫は子供の治療のために会社を辞め夫婦で商売を始めます。 それは、いつでも子供の傍にいてあげられるように考えたすえでした。 そして、自宅を地域の座談会場として提供し、こんどは同志を励ましながら信心を続けていったのです。 そんななか、3回目の手術を受けることになります。 そして、手術の最中に子供は亡くなってしまいました。 手術に耐えられなかったようです。 そのときも夫婦は懸命に題目をあげていたのですが、祈りも叶わずわが子は霊山へと旅立っていきました。 夫婦は悲しみにくれ涙があとからあとから零れ落ち、ひどく悲しみました。 それでも、同志の暖かい励ましによって立ち上がることができ、悲しみを決意に変えて、その後も信心をまじめに続けていきます。 そして、やがて地域の同志の要となり、商売も発展し、3人の子供も授かり、いまではたくさんの孫に囲まれて信心の喜びを実感できるようになりました。 「 苦しい思いをしたけれども、死んだ子供のお陰で信心をすることができたのです。 そして今の商売もするようになった。 あの子が私たちを救ってくれたようなものです。 」 と語っています。

戸田先生は 「 子供が親に信心をさせるために生まれてくることがある。 子供の病が契機となって信心して、折伏をし、題目を懸命にあげていけば、かならず子供の病気は治ります。 信心の功徳で、親に子供の病で苦しむ業が無くなるから、子供は病気である必要が無い、だから治るのです。 親が信心するようになり、信心がゆるぎないものとなれば、もしも、治らないような病気なら、いつまでも親を苦しめないで子供は安らかに死んでいきます。 そのどちらかです 」 と語られたことがあります。 死は悲しい出来事ですが、死そのものは必然であり、死を前に、どのような生き方をしたのかという視点から、幸・不幸の本質を見ていく必要があります。 熱原の三烈士は拷問を受けながら死んでいます。 初代牧口会長も過酷な環境に置かれ獄死しています。 線路に落ちた人を助けようとして死ぬ人もいます。 創価の人が子供を病で亡くすのはおかしいではないか、と批判する人がいますが、表層的で浅薄な見方ではその本質を知ることはできません。
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2012-11-13(Tue)
しばらく、ピンチヒッターで宝城会の任務に就いたり、守る会の担当にもなったため、記事がなかなか書けません。 その換わりといってはなんですが、今日は、わたしの気に入っている曲を紹介させていただきます。 

Secret Garden という、アイルランドとノルゥェーの音楽家の曲です。

・ Nocturne
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2012-11-09(Fri)
バーで飲みながら聞くと、リラックスしてきてなんともいえません。 ギターを弾くのは、フランシス・ゴヤさんです。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ Gipsy Cafe
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2012-11-08(Thu)
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今月号の 「 大白蓮華 」 の巻頭言で、池田SGI会長は、御書の 「 立正安国論 」 の主人と客人の対話の妙を捉えて、薫り高い蘭の花のある部屋に入ると、その人まで香しく看過されるとの 「 蘭室の友 」 の故事を引き、 「 よき友との交流によって、正しき哲学と貢献の行動に目覚めることができる 」 として、 「 心の垣根をつくらず、胸襟を開いて、気さくに対話をしていくことが、どれほど大切か 」 と訴えておられました。
また、 『 どの人の生命にも、必ず仏性が内在している。 その仏性に、妙法を唱える 「 地涌の菩薩 」 の勇気と誠実の声が響かないわけがない。 師・戸田城聖先生は言われた。 「 誰もが悩み多き衆生ではないか。 かりに反発しても、命の奥底では、仏法を求めている。 話をした以上、妙法と永遠の縁を結んだのだから、相手は必ず変わっていくんだよ 」 この確信の対話で、尊き多宝の友は広布の原野を開拓してきたのだ 』 と述べておられます。

” 気さくに対話していく ” ことが、なかなかできないのが現状ですが、仏法対話とはそのようにして、友の心に種を植えていくことなのです。 気張らず、気負わず、気にせず、対話を縦横に広げていくことが大事なのであります。
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2012-11-07(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 中興入道消息 (P1247) 
『 されば身をすてて信ぜん人人は・やまぬへんもあるべし・又やむともたすかるへんもあるべし、又大悪鬼に値なば命を奪はる人もあるべし 』

【 通解 】 
わが身を捨てる覚悟で妙法を信じる人々は、悪鬼に負けず疫病にかからないこともあるであろう。また、病んだとしても、助かる場合もあろう。また、大悪鬼にあえば、命を奪われる人もあろう

【 指導 】
くれぐれも用心しなさいとの、お心と拝する。 私の四十年以上の信仰の経験から見ても、広布の組織でまじめに学会活動をしきった人は、いざという時に必ず守られている。 かりに病気になっても、軽くすみ、また命が助かっている。 寿命を延ばしている。亡くなる場合でも、いったんよくなり、宿命転換の姿を示してから、安らかなすばらしい臨終を迎えておられる。 また苦痛がない。 法華経に説く 「 更賜寿命 (更に寿命を賜う)  」 という法理の一つの表れであろうか。 そうした 「 死 」 は、福徳に満ちた、幸福な来世への荘厳なる出発である。 また、あとの一家、一族も守られていく。 仏法の活動には、こうした厳たる大功徳が備わる。 その意味で、今、健康な時、また若いうちに、真剣に仏道修行に励みきっておくことだ。 人生と仏法を甘く考え、要領よく手を抜いて、将来、悔いるようなことがあっては、あまりにも不幸である。 ゆえに、あえて厳しく言っておきたい。

< 御書とその心 >より


真面目に学会活動をしきった人は、無量の福徳に包まれる。 それは間違いありません。 必ずそうなります。 幹部だから、そうなるわけではありません。 どこまでも、誰が見ていなくとも、どのように言われようとも、まじめに実践していくことが大事であります。 それが本当の主体性ある信心といえるのです。
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2012-11-06(Tue)
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人には記憶があります。 しかし、過去の限られた記憶しか思い出せません。 一説には、生まれてから死ぬまでの総てが脳に記憶されているといいます。 しかし、すべてを思い出すことは普通は出来ません。 わたしは、生まれて3日目の記臆があります。 また、断片のように1歳のときの記臆もあります。 それは、母の話と写真が残っていたため、後でわかったことですが、そんなに古いことを覚えているのに、昨日のことすら、初老の身では思い出せないことが多々あります。

脳やその中にある海馬が萎縮すると、記憶障害が起こることが判っています。 死んで脳が破壊されれば、すべての過去の記憶は無くなると考えるのが当たり前ですが、はたしてそうなのでしょうか。
心理学では、人の記憶は、思い出せなくても意識の奥深くに刻まれているとしています。 また、人智学では、アカシックレコードに総ての記臆と出来事が遺されているとしています。 人の心が脳によって作り出されているのであれば、やはり記臆は脳にあるといえるでしょうが、過去世の記憶を持つ人や、催眠療法で、生まれる以前にまで記憶がおよぶ現象は、それでは説明がつきません。 わたしは、脳は生命という電波の受信機であり、発信機でもあると考えています。

人の脳は神経細胞の集合体で、その一つ一つが生命体です。 記憶はどのように神経細胞に蓄積されているのでしょう。 脳の細胞の働きは、いろいろな化学物質やイオンによって伝えられ。 微弱な電流を使って機能しています。 脳波は脳の電気的な活動や磁場を捉えたものです。 人の記臆は、神経細胞の中に化学物質の配列として、また磁気信号として刻まれているのでしょうか。 いまだにそのことは解明されていません。 もし、脳の記臆の貯蔵庫が解明されれば、SFの世界にあるように量子コンピューターを使って、過去の記臆を映像化することも可能かもしれません。

仏教では、同名同生天といって、人の一生を残らず記臆している天子が、両肩の上に影が身に添うように、片時も離れずにいるとされています。 一人では間違いが起こるといけないので、ダブルチェックしている、というわけではなく、善と悪を別々に記臆する役割とされています。 まさに業のバランスシートを記録する書記といってよいでしょう。 釈迦は悟りを開くときに総ての過去世を思い出したとされていますが、どこにその記臆があったのでしょう。 仏が言うのですから、たしかに記臆はどこかに残されていたのでしょう。 まさかそんなことはありえないと思うかもしれませんが、時間が伸縮したり空間が曲がったり、五次元の世界が存在すると真剣に考えている現代の科学のことを思えば、簡単には否定できません。

脳にしか記憶がないとして、三世の生命について考えると、この仏法に縁して、信心を始め、来世でも同じ信仰を持ちたいと思っても、一切の知識や記憶は死と共に無くなる訳ですから、生まれ変わって仏法に会えたとしても、また信心するとは限りません。 裕福な家に生まれ、健康で、頭もよく、容姿に恵まれて生まれたならば、はたして信心するでしょうか。 どんな人にも悩みはありますから、信心するようになるかもしれませんが、紆余曲折はいなめないと思われます。 その意味で、生まれて多少のリスクやハンデがあったほうが、早く信仰に目覚め、信心するようになるのではないでしょうか。
わたしが、貧乏で、体も弱く、頭の悪い、容姿も劣る人間に生まれてきたのは、その為なのか、と、思ったりしていますが、裕福な家に生まれ、健康で、頭もよく、容姿に恵まれて生まれ、すぐ信心ができたら、もっといいのにとも思います。 (^^;

福子の皆さん、最高の生まれ方をしてきたんですよ。 (^^
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2012-11-04(Sun)
やっと仕事が一段落しました。

締切り日の月末は、順調に終わると見込んでいたのですが、意に反して、終わったのが月を越して1日の午前2時になってしまいました。 やっと家に帰って寝たのが午前3時、その3時間後には起きて、予約してあった温泉宿に向かう羽目になってしまいました。 天気もまあまあで、車窓を流れる景色を楽しもうと思っていましたが、ちょうどいい揺れと車内の暖かさに、眠気のほうが勝ってしまい、ついにシャットダウン。 そして目が覚めたのが午後1時過ぎでした。 本当は、途中で、街道沿いにある永井食堂のモツ煮込みを食べるはずだったのですが、わたしがあまりにも暴睡していたので、起こさずにそのまま通過したらしく、食べることが出来ませんでした。 楽しみにしていたのに残念です。 ところが、トンネルを潜って遅い食事を取るために立ち寄ったお店が ” 当たり ” でした。 思わぬところで、おいしいお店(ちゃんこ谷川)を発見することになりました。 旅は味覚を楽しむのも大きな要素で、そのお店に寄るために旅先を決めることもあるくらいです。

初日は誤算もありましたが。 事故無く無事目的地に到着し、目に良いとされる温泉の湯にたっぷりと浸かることができました。 その日は、トンネルを潜ってから雲ゆきが怪しく、宿に着いて雨になり、その晩から朝方まで降り続けることになるのですが、雨の温泉宿もなかなかのものです。 しっとりとした静けさに、心も体も疲れが飛んでゆきました。

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満足、満足。 (^^

翌日は雨が少し降っていましたが、帰る頃にはやんで、日も差し始めていました。 宿の廻りを改めて眺めてみると、紅葉が綺麗に映えてなかなかの景色です。 多くの動植物が冬の準備に入ってゆき、総てが黄昏てゆきますが、それはそれで、美しいものです。

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宿を出てから、秋の景色に見とれていたせいなのか、次の目的地に向かう途中で道に迷ってしまい、 ” まいったな ” と思いつつ道を探していると、なんとそこで、夏場の渓流釣りに最適な場所を発見。 道具があれば今からでも釣りたくなるような渓相でした。 (^ ^

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今回の旅は、新たな発見があり、思い出に残るものとなりました。

みなさんも、時間を作って、実りある秋をぜひ味わってください。
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