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2012-10-28(Sun)
今、仕事の追い込みで、忙しい日々を過ごしています。 そんなとき、頭をリラックスさせてくれるのが、異文化の香りを感じる音楽です。

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(写真:Youtube The Best Most Beautiful Arabic Song)

・ Arabic Song 

それに、沙漠の風景に安らぎを感じてしまうのは、なんなんでしょう。
忙しい中で、なぜか、生活と関係ない小難しい科学誌を通勤電車で読み耽ってしまうのは、現実逃避の兆候でしょうか。 (^ ^;

あと3日。 がんばるぞ!
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2012-10-25(Thu)
今日は、ちょっと長くなりますが、副題に 「 後継の希望・未来部 」 とついた池田SGI会長の随筆の中にある、一文を紹介させていただきます。


* 福岡県のある支部には、未来部育成の輝く伝統が脈打っている。 その陰には、一人の母による懸命な祈りと奮闘があった。

2人の子どもを抱える彼女は、若くして、がんとの闘病生活を強いられた。 医師からは、非情な余命の宣告を受けた。 しかし、決して下を向かなかった。 むしろ、未来を見つめ、今まで以上に信心の炎を燃え上がらせて、 「 わが地域から後継の人材を 」 と、限りある命を未来部のために注いでくださった。 毎月の少年少女部員会の前には、手作りのチラシを携え、宝の人材たちのもとへ足を運んだ。 どんな些細な悩みにも耳を傾け、若き生命に希望の火を灯していった。 抗がん剤の副作用の、悶えるような苦しみにも負けなかった。 抜けた毛髪の代わりに、素敵な帽子や鬘をつけ、優しい笑顔で未来の宝を包んでいった。 彼女は、毅然と語った。 「 この信心と、この信心を教えてくださる師弟の道を、未来の宝の子どもたちに、そして私の大事な友人に語り伝えていくことをわが使命として、生きて生きて生き抜いてまいります 」。 この誓いのままに、彼女は最後の最後まで、わが使命を果たし抜き、霊山へと旅立たれた。

何と偉大な母であろうか。 何と気高き信心の英雄であろうか。 彼女の信念と真心に触れ、どれほど多くの人が立ち上がっていったことか。 この一人の母から始まった人材育成のうねりは、堂々たる 「 人材の大河 」 となっている。 まさに、日蓮大聖人が 『 一は万が母 』 (御書498ページ) と言われている通りの姿であった。 心の絆は切れない。 母を失い、涙に暮れていた小学生の息子さんも、地域の同志の励ましで気丈に立ち上がった。 母亡き翌年に挑戦した作文コンクールで力強く綴っていた。 「 母は人をはげます名人だったと思う。 これから、ぼくも、いろいろな人と出会うだろう。 その一人一人を大切にして、人のためにつくす生き方をしていきたい 」。 母の祈りは必ず通じる。 広布に生き抜く母の祈りは、絶対に通じる。 息子さんの中に、母は今でも生きている。 

<随筆 我らの勝利の大道 79>より


はたから見れば、 ” 信心しているのに、なんと不幸なのだろう ” と思うかもしれません。 あるいは、 ” そんな宗教に走るからだ ” と、陰口をする人がいるかもしれません。 しかし、この福岡の母の生き方は、とてもすばらしいものとなったのです。
以前にガンジーの言葉の意味について記事にしましたが。 福岡の母は、病に負けることなく人間としての価値ある生き方を、信心によってすることができたのです。 創価の信心で、病気を治した人は大勢います。 しかし、治らずに死んでいかれる人もいました。 それは、その人の病の重さ、宿業の浅深、信行の強弱もあるため、簡単に読み解くことは難しいでしょうが、福岡の母と同じように生き抜いてゆかれています。 苦難において価値ある生き方とは、どのような状況においても、それに負けることなく、社会や、人や、家族のために希望と勇気を贈り続け、生き抜いてゆこうとすることではないでしょうか。 死を感じながら、最後まで諦めないで、前をみつめ生きてゆくことは、とても勇気のいることです。 その生きる希望と勇気が、創価の信心によって生まれてゆきます。 試練によって、どのような生き方をするかで、その人の業のバランスシートが、どう書き換えられてゆくのかが決まります。
Category : 人 生 Comment : (2) |

No title * by 気分屋
いつも勉強になります。 有り難うございます。

No title * by 夕焼け
気分屋さん、こんばんわ。

見るのが遅くなりごめんなさいね。

今は、仕事も、生活も、活動も、めいっぱいの状況ですが、
ブログも忘れずに更新していきます。
これからも、気軽にお立ち寄りください。 (^^

2012-10-23(Tue)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】四条金吾殿御返事  (P1165) 
『 夫れ仏法と申すは勝負をさきとし 』

【 通解 】 
仏法は勝負を第一とする

【 指導 】
勝たなければ幸福はない。 そして真の勝利とは、人間としての勝利である。 弱い者が泣き寝入りをし、強い者がのさばる。 社会の、そうした動物性を百八十度ひっくり返していく勇者こそ、真の勝利者であり、菩薩である。 「 人間 」 の名にふさわしい文化と平和の戦士である。 権力や権威をカサにきて弱者をいじめる傲慢な心は、じつは自分自身の人間性を踏みにじっているのである。 それはもはや、人間としての敗者の証となっていることを知らねばならない。 絶対に人を見くだしたり、あなどったり、感情的に叱ったりしてはならない。 いかなる人もすべて平等であり、最大に尊重していく心を持つべきである。 それが、本当の「人格」であると私は思う。

< 御書とその心 >より


仏法のうえでは、魔に勝ち、宿業を転換し、仏と成ることが、 ” 真の勝利 ” であります。 しかし、わたしたちは仏に成ることを、なかなか信じることが出来ないでいます。 世間はもとより、創価の信心をしている人でさえ、そうであります。 自らが道を閉ざしていては、永遠に仏になることはできません。 南無妙法蓮華経と唱えているのは、御本尊に ” 仏のように生きてゆきます ” という誓願なのです。 身も心も尽くして、どのような苦難があろうとも、仏の道を懸命に生き抜いてまいりますという誓いです。 須弥山に近づく鳥は金色に輝き始めると言われていますが、仏のように生きてゆくことを願い、行動してゆく祈りが、すべての願いを包み込んで、所願満足の勝利へと、金剛不壊の境涯へと導いてくれるのです。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2012-10-22(Mon)
【 要 文 】

『 高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり 』

『 日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。 』

『 日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。 』
Category : 御 書 Comment : (0) |
2012-10-19(Fri)
最近、ラジオを聞いていると、ビートルズナンバーの曲が盛んに流れてきます。 おもわず ” おぉ~ ” といいたくなるような曲を耳にすると、歌ってしまいます。 ラジオでも ” 歌ってしまうよね~ ” 、 ” そうそう ” と言っていました。 
(^ ^

今週は、ビートルズナンバーで忘れてはいけない曲を、紹介させていただきます。

よい週末をお過ごしください。

・ Can't Buy Me Love


関 連 → The Beatles 50Th 6
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2012-10-18(Thu)
念仏の本質というのは、法華経誹謗です。 また、釈迦仏を遺棄し、他仏 ( 阿弥陀仏 ) を拠りどころとしている不知恩にあります。

日本の浄土宗の高僧である法然や親鸞は、始めから終わりまで ” 捨閉閣抛 ” であり、法華経を捨てよ、閉じよ、さしおけ、なげうてと主張しております。 さらには、釈迦仏でなく、どこにあるかしれない浄土を希求し、縁のない仏を尊んでいるのです。 念仏を唱えるということは ” 法華経はダメだ ” 、 ” 最悪だ ” 、 ” 釈迦は求める師ではない” 、と、言っているということになるのです。 釈迦はどんな思いでいるでしょうか。 念仏を信じている人は、いや、そんなことは思っていない、釈迦を尊んでいる、という人もいますが、それは、誹謗している人に同調していながら、わたしは誹謗していないと、トンチンカンなことを言っているのと同じであり、釈迦仏を足で小突きながら、手を合わせているようなものです。 念仏の本質が法華経誹謗だということを、しっかりと認識しなければなりません。

法華経誹謗は地獄の業を積むと、釈迦が説いていることを示し、浄土宗を破折したのは日蓮大聖人であります。 その日蓮大聖人を、 ” 他宗を誹謗する悪人だ ” と言って、殺そうとしたのが浄土宗の僧や信徒であります。 誹謗している人間が、その誹謗は誤っていると指摘されて、” 他宗を誹謗するのは良くない ” と、指摘した人を憎んでいるのです。 なんともおかしな話です。 道理が逆さまであります。 現代でも、したり顔でそんなことをいう人が居ますが、知らないとはいえ、宗教の高低、浅深、正邪を弁えない愚かな考えです。

釈迦が、 ” 今まで様々に、様々な人に請われ法を説いてきたが、それらは方便で、いまだ、真実を語ってこなかった。 今まさに、未来に説くであろう教えにも優れた、真実の教えを語ろう ” と、自ら進んで説きはじめたのが法華経なのです。 十方の諸仏も、それを知り、来集し、 ” まさに真実である ” と証言しました。 三方や四方というのは他の説法でもありますが、十方の諸仏が来集し、梵天に広長舌をのせて証明するのは、このときだけです。  そして釈迦は、 ” この真実の法を説いた法華経を、信じないで誹謗するならば、かならず無間の地獄の業を受ける ” と明確に宣言したのです。 法華経は人が仏に成ることが出来る法を説いているのですから、当然であります。

念仏を唱える業は、法華経を誹謗する業であります。
Category : 仏 教 Comment : (2) |

No title * by 一読者
どれ程の正論であっても、他を否定して、己れを肯定していては、永遠に争いは無くなりません。
他には敬意を、己れは慎みたいものです。

No title * by 夕焼け
一読者さん こんばんわ。

おっしゃる通りです。 法華経を否定せず、肯定していくべきであります。
釈迦の言葉に反して、何のために仏教を修するのでしょう。 否定するのは誤りです。 わたしの心は、章安大師の「慈無くして詐り親しむは是彼の人の怨なり、能く糾治する者は即ち是彼が親なり」との心にあります。

2012-10-15(Mon)
【 要 文 】

『 日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く 「 其罪畢已 」 等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二茀とせり其中に識神をやどす 』

『 過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし、 』

『 般泥□経に云く 「 当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり 」 等云云、 此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、 』

『 今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し 歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば 烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす 』
Category : 御 書 Comment : (0) |
2012-10-14(Sun)
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今日は日曜日。

と、いっても、わたしは今日も ” 仕事 ” です。
わたしの仕事は因果な仕事です。
この仕事で体を悪くする人は、結構います。

わたしは、大学を卒業して、この仕事に就いてから、すぐに体が悲鳴をあげました。 朝9時から翌日の夜中の2時までほとんど毎日のように働きました。  仕事を終えても、そのままでは、頭が冴えて眠れないため。  居酒屋で少しお酒を飲み、同僚とくつろいだ話しをしてから、眠りにつくのが日課となっていました。 家に帰るのは日曜だけです。 家に帰れないので、最初のうちは机の下にダンボールを敷いて寝ていましたが、会社の配慮(?)で、マンションの一室を借りて、そこに寝泊りするようになりました。 会社には御本尊が安置された仏間がありましたから、朝晩の勤行と唱題は問題なく出来ましたが、組織の活動はやはり悩みの種でした。 やはり、仕事に流されて、組織も信心も疎かになりがちでした。 しかし、地域の同志の暖かい見守りと励ましに、心が震えるように目覚め、時間をこじあけては、仕事の途中で地元に帰って活動し、家には帰らず、また仕事を始めるということをしはじめました。  大変でしたが、いい修行となりました。 一生懸命に苦労して日々頑張っていたことは、ほんとうにいい思い出として残ります。 振り返れば、信心で苦労したことはすべて財産となっています。 それを今はしみじみと感じています。 この仏法では、末法の功徳は顕益より冥益が中心であるといわれていますが、そのとうりであります。

信心と仕事で悩んでいる人はけっこういると思います。 それは信心活動と仕事というより、組織活動と仕事とゆうことになりますが、組織で活動できないことを必要以上に悩む必要はありません。 組織活動には大きな功徳はありますが、しないと功徳は無いとゆうのは幻想です。 「 御宮仕いを法華経と思し召せ 」 と日蓮大聖人は仰っているように、仕事のために努力し、真剣に唱題していけば、人間革命できるし、功徳も当然あります。 職場で創価宣言すれば立派な仏法対話となってゆきますし、同僚と、昼休みや、会社の帰りにミニ座談会を開けば、立派な活動になります。 信心豊かな自分がいて活動するところが創価なのです。 そう思って仕事を一生懸命、頑張ってほしいと思います。

” どうしても組織で活動をしたい ” (^ ^ とゆうなら、気合を入れて 「 仕事は人の3倍、信心は人の2倍 」 との気概で頑張れば必ず出来ます。 というより出来るようになってゆきます。 わたしの経験から言えば、仕事のために組織活動できないというのは長い人生で一時のものです。 信心即生活なのですから、やるべきときに、仕事をおろそかにして組織活動をやったところで、やがて、行き詰まってしまいます。 いずれ活動もできなくなるでしょう。 立派に仕事をやりきるのが信心の証だと思って、勤行・唱題・御書・仏法対話を原動力としてゆくことが大切なのです。 所詮は信心活動をしっかり行なうかどうかになるのです。 「 法華経の兵法 」 を用いるところに功徳は生まれ、人間革命があるのです。
Category : 信 心 Comment : (4) |

No title * by moguovsky
夕焼けさん、おはようございます。

>組織活動と信心活動

すごく、もつれた糸が解けていきました。
今まで私が混乱していたのはその区別ができていなかったのかもしれません。。。

>組織で活動できないことを必要以上に悩む必要はありません。

とても心が軽くなりました(^^)これからの活動で
あらためて、ひとつひとつ自分の心を整理しながら
一歩一歩進んでいきたいと思います(^^)

No title * by 夕焼け
moguovskyさん こんばんわ (^^

一つ一つ踏み越えていきましょう。 
あなたなら、必ずそれができます。

No title * by mitsu
はじめて夕焼けさんのブログを拝見させていただきました。学会活動と勉学の両立で悩んでいたのですが夕焼けさんのブログを読み、自分はこの三か月は勉学に集中させていただくことを決心させていただきました。これから夕焼けさんのブログから信心を学ばせていただきます。投稿ありがとうございます!

No title * by 夕焼け
mitsuさん、はじめまして。
返事が遅れて申しわけありませんでした。

勉学。 しっかり頑張ってください。
信心の基本(勤行・唱題・座談会参加)をしっかりやって、目標を実現してください。

2012-10-12(Fri)
この歌は、盲目の歌手アンドレア・ボッチェッリが歌っていましたが、歌詞の一部とタイトルを英語に変えて、サラ・ブライトマンと一緒に歌ったことで、爆発的にヒットしました.

題名から来る印象とは違い、あらたな船出の歌です。
人は未来を生きるためには、共に生きる希望が必要です。

よい週末をお過ごしください。  (^ ^

・ Time To Say Goodbye
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2012-10-10(Wed)
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今日は、痛ましいニュースを目にしました。
残念でなりません。

「 パキスタンのタリバーン運動 」 と名乗るパキスタンの武装勢力が、 ” 反タリバーンだ ” という理由だけで14歳の少女をスクールバスの中で頭と首を銃撃した。 と報じられていました。 愚かな行為であります。 こんな暴力に正当性は微塵もありません。 宗教の名を利用した悪魔の仕業というべきであります。 自らの信仰を汚し貶めるものです。 こんな行為は断じて非難されなければなりません。 このようなことをした人間はサタンであり悪魔の手先であります。 このようなことを非難しないのは、同じことをしたのと同じであり、信仰を持つものが看過していてはいけないことだと思います。 同じ信仰をする人ならば、なおさらに非難するべきであります。

神に正当性があるなら、人間が代わって行う必要はまったくありません。 神の専権事項であります。 このような蛮行は、自らの神に正当性がないことを認めているようなもので、あまりにも幼稚な精神性を顕すものでしかありません。 仏法の目で見れば、このような人間はいずれ三悪趣(貪・瞋・癡)にまみれ、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に生じて、苦しむことになるでしょう。 このような人間の生命の本質は修羅であります。 強い自我意識に執着し、勝他の念にとらわれ、心が曲がって物事を正しく見ることが出来ずに、争いのなかに漂う生命です。 天台大師の摩訶止観には 「 其の心、念々に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己を珍(とうと)むこと鴟(とび)の高く飛びて下し視るが如く、しかも外には仁義礼知信を掲げ、下品の善心を起こさば、阿修羅道を行ず 」 とあります。
日蓮大聖人は 『 いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かえぬ事に候なり 』 と仰っています。 それは、人が仏の生命を持ち、仏に成ることができる存在だからであります。 その生命を絶つ行為は、仏の命の種を絶つことと同じであります。 生命を尊ぶことのない宗教など人間に必要ありません。 そんなものは似非の宗教であり、宗教を利用したエゴイズムであります。 未来の宝である幼い命を、恐怖と苦痛にあわせたうえ、したり顔で、「 また襲う 」 とうそぶくようでは、まさに ” 外には仁義礼知信を掲げ、下品の善心を起こさば、阿修羅道を行ず ” であります。

少女が可哀想でなりません。

非難する人、弾圧し、命さえもねらう人を、救ってゆこうとする、不軽菩薩の精神こそ信仰する者の精神であるべきです。 暴力で他人を思うがままににしようとする心は、第六天の魔王の心なのです。
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2012-10-08(Mon)
この御書は、文永9年(1272年)3月、佐渡の塚原において、富木常忍および四条金吾などの信徒方々にむけて書かれたものです。 日蓮大聖人51歳のときの御書です。

佐渡でいちばん寒い時期を過ごされてきて、念仏の檀信徒から命を狙われ、寒さと飢えから、いつ死んでもおかしくないような状況にもかかわらず、信徒の安否を心にかけ、また、大聖人の身を案じて心配している信徒の心を思いやり、経文どおりの難であるから、今こそ不退転の信心を確立するときであると、励まされています。


【 要 文 】

『 雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、 

『 男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。 

『 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし 

『 正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。 』

『 外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、 』
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2012-10-05(Fri)
今日が、ちょうどビートルズがデビューして50年にあたります。 わたしが11歳のときでした。 1962年10月5日、「 Love Me Do 」 という曲でレコードデビューしております。 日本では、それから2年後の1964年3月、この曲がデビューレコードとなっています。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ I Want To Hold Your Hand


関 連 → The Beatles 50Th 5
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2012-10-04(Thu)
* 人生の師匠と仰ぐ戸田城聖先生の弟子として、いかなる苦難も恐れずに、前へ前へ突き進んできました。 何が起ころうとも、民衆の幸福のため、正義の勝利のため、世界の平和のため、断固として新たな価値を創造していくことが、「 創価 」 の魂だからであります。

< 聖教新聞 >より


この言葉は、昨日、創価学園の記念集会で、創立者である池田先生が、東京と関西に集った小・中・高の学園生に贈ったメッセージのなかにあったものです。 ” 幸福・勝利・平和 ” は ” 民衆・正義・世界 ” のためにあると訴えておられます。 そして、それを断固として創造していくのが ” 創価の魂 ” であると仰っておられます。 ” 何がおころうとも ” です。

創価は青年を原動力として、いままでの広宣流布の歴史を作ってきました。 これからもそうであります。 その青年の多くは、最初に個人的な様々な動機から信心を始めています。 しかし、 ” 創価の魂 ” に触れるにつれて、哲学を学び、正義に目覚め、理想に沸き立って、人間革命の闘士へと変貌していったのです。

個人的な祈りも大事ではあるけれども、その功徳は小さなものでしかありません。 隣人のため、社会のため、広宣流布のためにという、仏と同じ祈りで行動することが、とても大切なのです。
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2012-10-02(Tue)
わたしは、常々思っています。
” こんなすばらしい信心はない ”  と。

知れば知るほど、確信を深めていくことができるものなど、そうはありません。 宗教の世界では、仏教がそうでありますが、仏教の世界では、日蓮大聖人の仏法がそうなのです。 しかし、まだ多くの人は、業が弱っているというか、毒気深入というのか、まさに、法華経七つの譬えの如くであります。

御書に 『 たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見仏種純熟せる人は仏と見奉る、 』 とありますが、このことを言っているのでしょう。
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2012-10-01(Mon)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 四条金吾殿御返事 (P1143) 
『 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ、 』

【 通解 】 
苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。 これこそ自受法楽 ( 法による楽しみを自ら受けること ) ではなかろうか。 ますます強盛な信力を出していきなさい

【 指導 】
これは建治2年(1276年)、四条金吾が同僚にも憎まれ、主君・江間氏からも冷遇されていたころのお便りである。 短い一文であるが、ある意味で、私どもにとっての信心の精髄を教えられた御文と拝される。 何があろうとも、私どもは御書に従い、善意に従い、悪意に満ちみちた行為をすべて見おろしながら、妙法の「 歓喜の中の大歓喜 」 を楽しんでいける。 その 「 強盛の信力 」 の境涯にこそ、幸福の実体がある。 何もないことが現世安穏なのではない。 最後まで悠々と現実に挑戦しきっていける不動の境涯 ― そのなかに現世安穏はある。 他人や環境に支配されて、幸、不幸を感じる生き方には、真実の幸福はない。 強き一念をこめ、朗々と唱題しつつ、洋々たる心境で、すべてを功徳と勝利の方向へ、広宣流布の方向へ、と導いていける勇士であっていただきたい。 私どもは皆、広布の同志である。 ゆえに何があっても仲良く、「 苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経 」 の信心で進みたい。 この団結の前進にこそ 「 世界広宣流布 」 を教えられた御本仏のご精神にかなった姿があると信ずる。

< 御書とその心 >より


この御文は、あまりにも有名な御文です。 ” どんなことがあっても、強き信心で生きていきなさい ” との、日蓮大聖人の深き慈愛の込ったお言葉です。
この御文の前には 『 一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、 』 また 『 遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり 』 とあります。 一喜一憂するのは凡夫の性でありますが、それはそれとして、そのままの姿で南無妙法蓮華経と唱え、苦難を勝ちこえてゆくことが、現世安穏のほんとうの姿なのであります。 人間の最高の喜びは仏に成ることにありますが、苦難が無ければ仏に成ることはできません。 苦や楽に負けない崩れざる信心に、崩れざる仏の境涯が築かれていくのです。 崩れざる信心を築いていく秘訣は、異体同心で、広宣流布に進む創価の活動の中にあります。
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