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2012-09-28(Fri)
映画音楽にはすばらしい曲があります。 映画のストーリーと相まって、よりいっそう胸に響いてきます。 今日は、映画 「 ドクトル・ジバゴ 」 のテーマ曲を紹介いたします。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ Lara's Theme


(AndreRieuTV Lara's Theme - Vrijthof 2011

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2012-09-27(Thu)
何年か前、たしかダイヤモンド社の雑誌だったと思うのですが、政党と宗教団体の相関関係を扱った記事が、特集で組まれていたのを立ち読みしたことがあります。 その記事によると、政党と宗教団体は公明党だけが取りざたされていますが、他党でも宗教団体とのつながりがとても深いことを取り上げていました。 国会で創価のことを追求し問題化する議員が、長年、ある宗教団体から支援を受け、その宗教儀式にも頻繁に主席している様子を、また、民主党の支持にまわっている宗教団体が、創価に対抗するように、支援に動いている様子を調べあげ、解説しておりました。 民主党が大勝し、公明党を引きずりおろし、はしゃいで喜んでいた姿が、今は、滑稽で哀れに思えるのは、なぜでしょう。

創価は公明党を使って、他の宗教や宗教団体を国会で追及したことは一度もありませんが、民主党は政権与党についてから平然と行いました。 政教一致だと騒ぎ、国会に追求委員会まで作ろうとしたのです。 ” どっちがだ ” と言いたいくらいですが、公党や特定の宗教団体を国家権力で弾圧することは、許されることではありません。 仏法の目で見れば、あきらかに破滅の罪業を積んだことになります。 国家権力が行なったという事は、国の罪になったということであります。 日蓮大聖人の時代に影で権力者に寄り添い讒言し、無実の罪で、日蓮大聖人の首を切ろうとした、念仏や禅宗の輩がいたように、実態を報道しないので、国民は錯覚していますが、現代においても、陰で政治を利用している宗教団体がいるのです。 宗教団体が人々のために政治に声をあげ、参加することは、政教一致ではありませんが、権力を利用して他の宗教団体を圧迫することは、あきらかに政教一致であります。 民主党が反創価の支持を受け、時流の風にのって政権の座に着いて、創価を痛めつけたという事実は、日本の未来に暗い影を落としたことはまちがいありません。

嘘つきで、言葉だけで、親身のない、能力のない政党は、はやく政権の座から降りるべきであります。 国民も、こんどは、マスコミに躍らされることなく、しっかりと政策を検証し、実現するためのロードマップに、偽りや矛盾がないかを見定めて、議員や政党を選んでほしいものです。
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2012-09-26(Wed)
日本では、尖閣の国有化が、中国の反動を呼び起こしましたが。 世界ではイスラームを馬鹿にした映画の問題で、リビアのアメリカ大使と警護の人間が殺されてしまいました。 民衆の怒りは大きな力でありますが、暴力を伴うと、怨嗟の渦が竜巻の如く大地を駆け巡り、なにもかも破壊してしまいます。  物や命だけではなく、心まで破壊してしまうのです。

宗教が騒乱の原因のように見えても、その実は、人のエゴイズムや欲が宗教を利用して起こしているのです。 宗教の名を借りたエゴイズムです。 前にも記事にしましたが、神にかわって命を奪うことなど、あってはならないことであり、まやかしの行為です。 その人の生命の奥底に潜む魔の仕業であります。 邪まな心があるから、ウソをつき、暴力で思うがままにしようとするのです。 神や仏の仕業であるはずがありません。

今の仏教の現状も、釈迦の言葉を素直に受け止めることが出来ずに、勝手な人師の言葉に惑わされて、結果として釈迦に敵対してしまっています。 身勝手なエゴイズムから、巧みにウソを経典に練り混ぜ、仏の真言を覆い隠していることに、気づかなければいけません。 一代聖教の肝心は法華経にあります。 この娑婆世界は釈迦の土地であり、その住人は釈迦の子であります。 その子が釈迦でなく他土の仏を敬うことなど、普通に考えてもおかしな話であります。 地獄の門を開け、人々をウソの縄で絡めとり、引きずり込んでいる誤った考えが、人々の不幸の根本原因となるのです。 はやく目を開いて、正法に帰依しなければいけません。
Category : 仏 教 Comment : (3) |

No title * by M.T
こんにちは、僕は父方の祖父母の代から入会している、学会員三世です。
半年ぐらい前から、全く前に進めない自分を変えたいと思い、勤行と一日一時間の唱題に挑戦しています。
本題ですが、「宗教が騒乱の原因に見えて、実は人間のエゴイズム・欲が宗教を利用している」という夕焼けさんの考え方に、とても共感しました。確かに、人間の自分勝手な心が、宗教を歪めて見せてしまっている気がします。
しかし、「娑婆世界は釈迦の土地である」というのには、納得できません。お釈迦さまがとても偉大な人であるというのは理解できるのですが、そんな人が世界が自分のものであると考えるでしょうか?世界は、誰のものでもない。ただそこに、生物がいるだけだと思うのです。そしてそこに幸せな境涯を築くための宗教があると思うのです。
僕は、仏教を勉強したわけではないので、この考え方に確信があるわけではないのですが、少し気になったのでコメントさせて頂きました。
長文失礼しました。

No title * by 夕焼け
M.Tさん こんばんわ。

そうですね。 それに、わたしたちが釈迦の子供であるはずもありませんしね。 いい機会ですから、すこし話しをしましょう。

法華経以前では、この娑婆世界とは仏が住まない国土であり、苦悩が充満した世界であるとされ、忍土とも言われていました。 また、そこに住む人間は、悪道に落ちて、長い年月を経て生まれきた、不浄の者たちばかりだとしています。 仏はこの娑婆世界から遥か十方の国土にしか住んでいないとされていたのです。 ところが、法華経にいたって釈迦は 「 今此三界 」 と説き、自分がとても長大な時間の過去に成仏して以来ずっと、この娑婆世界に、かたときも離れずに住んでいたと明かしたのです。 「 娑婆世界は釈迦の土地 」 としたのは、そういう意味があります。 「 娑婆世界は釈迦が所領する世界 」 と書いても同じ意味になりますが、生命論から見てみると、釈迦は仏のことであり、仏とは生命のことでありますから、「 この宇宙には一念三千の生命が満ち満ちて、無始無終に亘って存在し続けている。」 というふうになります。 娑婆世界を離れて生命はないし、生命は娑婆世界にしかないということです。

仰るように、この世界は誰のものでもなく、ただ生命が存在する世界であり、人が仏となって幸せになる国土です。

No title * by M.T
わかりやすい答えをありがとうございます。
夕焼けさんの回答を読んでいると、僕の考えが全く至ってなかったことに気づきました。僕達のいる世界が即ち仏の存在する世界、仏になることができる世界であるという意味だったんですね。
創価学会員として恥ずかしくないように、これからしっかりと勉強していきたいと改めて強く思いました。ありがとうございました。

2012-09-24(Mon)
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今年も、財務の季節が近づいてきました。 (^ ^
わたしは、毎年参加しています。
金額ですか? それは秘密です。 (^ ^;

少なくとも、明日から食べていけないような金額ではありません。 広宣流布のためには、生きていかなければなりません。 生きて唱題し、仏法を語っていくことが大事ですから、そんなことをすれば、仏法を破壊するようなものです。 ” 財 ” の供養よりも ” 法 ” の供養のほうが幾千億万倍も優れているのです。

そもそも金額の云々などナンセンスなことです。 一輪の花のように、健気で美しい気持ちで財務をしたいものです。 参加できることに感謝することがとても大切なことではないでしょうか。 日蓮大聖人は心からのご供養を大切にされていました、足袋一つにも、コンブ一束にも、必ず感謝の言葉を添え、日蓮の命をつなぐものであり、父母に代わって、あるいは釈迦が身に入って守ってくれているようだと、最大限に賛嘆されて、来世にはこの恩を必ず報じます、と、お手紙に書かれています。 人に真心が通じるのと同じように、心から出るご供養は、御本仏の賛嘆するところであり、福徳を積むものとなるでしょう。 ならば、諸天も、その人を力の限り守りぬいていくことは間違いありません。

何度でも言いたいのですが、唱題し、仏法を語って、日蓮大聖人の遺言である広宣流布を実現するために、身も心も汗を流すことが肝要であります。 それ以上のご供養はないし、功徳はないとするのが、創価の精神であります。
Category : 創 価 Comment : (2) |

No title * by SHIn
今、経済苦で僅かばかりの金額を本部に収めておりますが法供養という事を聞いて安心しました(^O^)

No title * by 夕焼け
SHInさん こんばんわ。

広宣流布のために働く、行住坐臥の総てが供養になっていきます。
やることなすこと福運になっていくのですから、これは、凄いことですよ。 (^^
苦労しないで多くするより、苦労して僅かしかできないことのほうが価値があります。 苦労した分、福運となるのです。 しかし、絶対に無理してはダメですよ。 僅かでいいのです。 日蓮大聖人に健気な信心だと褒められるような信心と生活をしていきましょう。

2012-09-23(Sun)
先週、仕事で銀座を訪れたとき、フランク永井さんの 「 有楽町で逢いましょう 」 という歌の、歌詞を刻んだ碑が目にとまりました。 随分まえからそこにあったのでしょうか、いままで気がつきませんでした。  その歌詞を見たとたん、頭の中では曲がはじまり、おもわず歌ってしまいました。 歩きながら小さな声で口ずさんでいると、こんどは伊東ゆかりさんの歌が頭のなかに浮かんできました。

今日は、その伊東ゆかりさんの歌を紹介いたします。

・ 恋のしずく
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2012-09-22(Sat)
日蓮大聖人は 『 日蓮・仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず 』 と仰っています。 「 信じよう、しかし検証を 」 とゆうことです。

仏法を実践するときには、仏の言葉が第一原理となるため、その言葉がほんとうに仏の言葉であるのか、そのことが、まず求められます。 つぎに、その言葉の内容が道理にかなって、納得できるものでなければなりません。 さらに、なによりも、仏の言葉に従い実践して、その通りにならなければ価値がありません。 日蓮仏法では、これを文証・理証・現証の三つの証明、 「 三証 」 といっています。 初代牧口会長は、創価の伝統である座談会を 「 大善生活実験証明座談会 」 と銘うって、少人数での研鑽と信仰体験の対話を大事にされていました。
どんなに高邁な理論があっても、現実の生活に反映され実践されなければ、絵に書いた餅であります。

宗教の対極にあるのが科学だとされていますが、その科学は、物質世界の現象の謎解きから始まっていて、現象を観察・分析して、その法則性を探り、それを理論化していきます。 これは ” ? ” ” 疑う ” という部分にあたります。 その内容が論理的に矛盾がないか検証され、論理的に矛盾がないと判断されれば、科学では ” 仮説 ” として認められます。 科学が最初は仮説でしかないということは、とても重要なポイントです。 最初から、謎解きができたわけではないのです。
それでは、それがどう法則として認められるようになってゆくのでしょうか。 最近、ある素粒子の存在を探るため、世界的な規模で実験が行われました。 そう、TVや新聞でも話題になったヒッグス粒子の実験です。 まだ100%の確証ではありませんが、それを裏付ける結果が出たと報道されていました。 このように、仮説は、理論にあてはまる現象の発見や実験により確かめられて、初めて科学の法則として認められているのです。 実験は、 ” 疑い ” から始まって、論理的な仮説をたてたうえで、それを仮に ” 信じて ” 行われます。 実験して、結果が実際にそうであれば、仮説は、確かに ” 信じて ” よい法則となるのです。 しかし、現実には簡単に実験が成功するわけではなく、仮説が間違いであったり、修正しなければならなくなることもあります。 ときには、実験の過程で、おもわぬ疑問に遭遇し、新たな仮説が生まれることもあるのです。 科学は演繹的な論理の構築と実験証明を繰り返して、真実に迫ってゆこうとしているのです。 しかし、科学は相対的な世界を前にして、何度も法則を深化させながら、塗り替えてきています。 何が本質で、何が真実なのか、深い疑問と対峙しているのが、いまの科学の現状であります。

「 三証 」 のうち、文証・理証は科学でゆう仮説の部分で、現証は実験の部分といってよいでしょう。 しかし、仏は、縦には三世に、横には無限に全宇宙を了解して、真実を知るひとでありますから、仏の言葉は、無限の過去から体験し実験してきた事実と真実を語っています。 仮説というよりは、すでに法則といえるものです。 科学が演繹的であるのに対して、仏法は帰納的なのです。 そのため、科学は疑問から始まって、実験しますが、仏法は信じることから始めて、実践するのです。 実験あるいは実践をして、そうならなければ、それが間違いであることは科学も宗教も同じです。 それによって、科学は新たな仮説を構築し、宗教は正邪をわかちます。
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2012-09-20(Thu)
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ある一般紙のコラムに 「 疑え、しかし検証を 」 と題して、なんの裏づけもない事を、簡単に信じてしまう昨今の風潮を取り上げていました。

コラムで取り上げていたのは、「 大津市のいじめ自殺は、実は他殺なんでしょう。 マスコミはなぜ報じないのですか。 」 という学生の問いかけと、 「 大阪市営地下鉄の運転士が、喫煙で停職1年の懲戒処分を受けて自殺した 」 と自身のフェイスブックのページに掲載して、橋本市長の責任と、その事を報じないマスコミを非難した、ある大阪市議の顛末についてでした。
最初の大津の事件では、 「 実は他殺なんでしょう 」 という学生の発言について、それを裏付けるような根拠があるわけでもないのに、 「 ネットでみんながいっているから 」 という理由で、なんの疑いもなく 「 表向きはこう説明されているけれど、実は・・・ 」 という情報を信じてしまう人が増えていると指摘し、大阪市議の顛末では、自殺が事実無根の情報だと判り、フェイスブックに記載してから2日後に、閲覧できないようにしていたことが明らかになったことについて、容易に事実確認ができたはずなのに、それを怠り、そのまま誤情報を社会に広めた行為を責めていました。

そして、 『 疑うことが悪い訳じゃない。 そこから検証を始めることが、真実に近づく第一歩になるからだ。 だがしかし、検証なき疑いは何も生み出さないだけではない。 その 「 実は・・・ 」 に悪意が含まれていれば、信じるだけで被害を拡散させる “ 共犯者 ” になることを忘れないでほしい。 』と訴えていました。
まったく、然り、であります。
疑うことと、信じることは背反するもののように思えますが、表裏一体のものです。 真実を求めるから疑いが生まれ、信じるにたるものに近づいてゆくことができるのです。 信仰を語るとき、世間一般では疑うことがよいとされ、信じることは愚かなことだと診ます。 信仰する側からゆえば、まったくその逆であります。 コラムの記事では、疑うことに絶対的価値をおき、疑えばよいとして、疑いをそのまま信じてしまう愚かさを指摘しています。 疑うとゆうことはとても大事なことですが、検証もしないで ” 疑い ” を ” 信じて ” しまうことは、盲目的に信じることと同じなのです。 盲目的な疑いは、盲目的な信と同じように危ういとゆうことです。 検証の伴わない盲目的な疑いと信は、同じように真実を覆い隠してしまい、誤った判断を招いてしまいます。
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2012-09-18(Tue)
今日も、仕事で遅くなってしまいました。

勤行・唱題の後、
この曲を聴きながら、御書を読み、床につきたいと思います。

・ Concierto de Aranjuez
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2012-09-17(Mon)
【 要 文 】

『 返す返す今に忘れぬ事は頚切られんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給ひしをば・いかなる世にか忘れなん、設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給ふとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、 』

『 又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給ふな、若しさるならば賢人には・はづれたる事なり、 』

『 人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人々の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、 蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。  』

『 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬ひしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云ひはかなきを畜といふ。 』
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2012-09-16(Sun)
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新聞やTVで海外の情報に接すると、じつに、紛争や騒乱の多いのに気づきます。 丹念に情報を収集し前後の顛末を見ていると、ちょうど、スポーツの試合を全体から俯瞰して、隅々まで観ているようなもので、当事者同士では判らないことでも、ハッキリと判ってくることがあります。

ウソで塗り固められた発言。
付和雷同の姿。
愚かな偏見と決めつけ。
いきつくところのない、怨嗟と暴力。

地獄の住人を見ているように思えます。
エゴイズムからでたウソは悪の始まりであります。
悪は自他の身を滅ぼします。
いずれ、醜悪な地獄の香りに包まれた人生となってゆくでしょう。

人類は、いつまで、このようなことを繰り返さなければならないのでしょう。
人類は、今こそ、生命の変革、宿業の転換を可能とする仏法を実践し、終止符をうたなければいけません。

南無妙法蓮華経の七字は仏のメッセージであり、御本尊は仏(生命・宇宙)の遺伝子です。 御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることは、赤白一諦となって、人へと成長する胞芽が生まれるように、人が仏となる始まりであります。 仏の遺伝子を受継ぐのです。 生命の変革の瞬間です。
人にこのことを知らしめ、御本尊に唱えさせたいと思うのは、仏の所作であり、その願いと同じです。 仏の遺伝子をいだき、七字の法華経を唱え、弘教するがゆえの苦難を受けながら、黄金の人生を生ききることは、仏とまったく変らない生涯であります。 人はこのように仏の道を歩めば、宿業の転換ができ、仏に成れる、と、叫ばれたのが日蓮大聖人であり、創価であります。
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2012-09-12(Wed)
わたしは、60歳をすぎて、映画をシニア料金で観れるようになってから、映画館で必ず観るようになりました。 それまでは、よほどの期待作でないかぎりは、レンタルDVDで観ることにしていましたから、60歳をすぎてから、生活スタイルにちょっとした変化が生まれました。

シニア料金は1000円です。 うれしい料金です。 好きな映画を、街歩きを楽しみながら観れるのは、幸せなひとときであります。 浮いた800円は、気にせず好きなことに使えるので、ちょっとした贅沢な気分を味わうこともできます。 たとえば、+ 800円で回転寿司からお寿司屋さんにランクアップが楽しめますし、散歩の休憩のひとときに、コーヒー一杯に、おいしいケーキを付けることもできます。 (^ ^
800円ですが、意外と、心と胃袋を楽しませてくれます。

ブログで、観た映画の紹介をさせていただいたのが、去年の11月でしたから、もう1年近くになってしまいました。 そのあいだ、けっこう観ているのですが、紹介したいと思う作品をまだ目にしていません。 3DやCG映像はとても素晴しいのですが、映画ににかかせない、ヒューマニズムに裏打ちされた人間模様が、描ききれていないと感じています。

来週の土曜日には何件か観る予定ですが、その中に ” 放射線を浴びた 「 X年後 」 ” という作品の上映があります。 期待している作品ではありますが、日本の、しかもTVドキュメンタリーですから、期待はずれでないことを願いつつ、観てくるつもりです。 もし興味があれば、皆さんも観られてはいかがでしょう。

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(写真:Wikipedia CC 1954 U.S.D.E  Castle Bravo Blast
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2012-09-11(Tue)
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反創価の人は、池田先生が死んでいるかどうかとゆうことを、ことのほか話題にするのが好きなようです。 ” 死ぬのはおかしい ” とでもいいたげなほどの執拗さであります。 人間が齢をとり、死んでいくのは当たり前のことです。 動物も植物も地球も太陽も、この銀河でさえそうであります。 日蓮大聖人も亡くなられています。 牧口先生も戸田先生も亡くなられているのに、池田先生は別なのでしょうか。 変なことに執着している様子は滑稽であります。 他の宗教はともかく、仏教では人であろうと仏であろうと、死は必然の理(ことわり)です。

仏はその力で死なないはずだと考えて、死ぬのは力が無いからだという論理なのでしょうか、それは原始的な宗教観に基づいた考えです。 創価はそんな幼稚な考えは持っていません。

病気にしてもそうです。 仏教は生老病死を説いています。 死ぬときは病を経て死ぬとハッキリしています。 日蓮大聖人も胃腸炎を患った後に老衰で亡くなられました。 牧口先生は栄養失調と寒さ。 戸田先生は牢獄で痛めた肝臓・腎臓が弱って亡くなられています。 池田先生だって何らかの疾患を経て亡くなられるのは当たり前のことです。 信心していれば病気もしないし、死にもしないという論理がどこにあるとゆうのでしょう。 そんな論理は仏法にはありません。 あまりにも創価の信心を知らない空騒ぎといえるでしょう。 ” 自分勝手な宗教観で決め付けないでほしい ” と言いたいですね。

池田先生は、ほんとうに素晴しい師匠です。 厳父の如く、慈母のように、弟子を鍛え、そして慈しんでくれます。 人間性の手本となるような振舞いは、我らが修行の鏡なのです。 池田先生はいつか亡くなられるのはあたりまえです。 あたりまえでも、創価家族のわたしたちは、一日でも長く、生きていて欲しいと思うのです。 その思いは、自分の家族や親、友人を思う気持ちと、まったく同じです。
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2012-09-10(Mon)
この御書は、建治3年(1277年)9月に、身延において四条金吾に書かれた、日蓮大聖人56歳のときのお手紙です。 この年は熱原の法難の2年前で、弟子や信徒の法難が顕著になり始めていました。


【 要文 】

『 たとひ上は御信用なき様に候へども・との其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞなり候らん、大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきをえてさかうる事に候。 』

『 仏法の中に内薫外護と申す大いなる大事ありて宗論にて候、法華経には 「 我深く汝等を敬ふ 」 涅槃経には 「 一切衆生悉く仏性有り 」 馬鳴菩薩の起信論には 「 真如の法常に薫習するを以ての故に、妄心即滅して法身顕現す 」 弥勒菩薩の瑜伽論には見へたり、かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり、 』

『 いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ、 』

『 末代のありさまを仏の説かせ給ひて候には濁世には聖人も居しがたし大火の中の石の如し、且くは・こらふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、賢人も五常は口に説きて、身には振る舞ひがたしと見へて候ぞ、 
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2012-09-08(Sat)
この歌は、 「 夏の最後の薔薇 」 というアイルランドの歌です。 日本では 「 庭の千草 」 という題名で、小学唱歌として親しまれてきました。 日本では歌詞がだいぶ変えられ、バラは白菊となっていますが、胸に染み入るような、美しい旋律だけは同じです。 

夏も、もうそろそろ終わりのようです。
秋の気配が、わたしには感じられます。

よい週末をお過ごしください。 (^ ^

・ The Last Rose of Summer
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2012-09-07(Fri)
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(写真:2012年9月7日付聖教新聞 本部幹部会 東京)

宗教の生命は、なんでしょう。

わたしは、布教だと思います。
布教は宗教を宗教たらしめるものではないでしょうか。

今の僧侶仏教の多くが、この生命を失っています。 生命がないから、形だけのコスプレ仏教に堕してしまっているのです。 葬式と法要と護符の守銭奴に成り下がってしまったのです。 布教は宗教の生命です。 世界の三大宗教と言われる釈迦やキリストやモハンメッドは、皆、布教の人です。 布教の生涯です。 その行動の師なのです。
では、 ” なぜ布教なのか ” といえば、宗教の目的が人の救済にあるからです。 端的にいえば、布教は神や仏の使命なのです。 その神の子であり、仏の子が布教もしないで、生活のために、祈るだけなど言語道断だと言われても、いたしかたありません。 釈迦などは自分の葬儀に僧侶が出席することさえ戒めています。

わたしが、 ” 宗教の生命は布教にある ” と思うのは、もう一つ理由があります。 仏教以外はおくとして、仏教では、仏の救済の目的は、一つしかありません。 それは、人を仏にすることです。 これしかありません。 病気を治す。 苦しみを取り除く。 悩みを消す。 金持ちにする。 そんなものは枝葉の問題でしかありません。 本質的な目的ではありません。 釈迦が大金持ちでしたか? 悩みがなかったですか? 苦しみませんでしたか? 病気をしませんでしたか? 人に憎まれなかったですか? 命を狙われませんでしたか? ウソで卑しめられませんでしたか? 弟子に裏切られませんでしたか? 親族を殺されなかったですか?  もし、そのようなことが救済の目的なら、仏教は程度の低い教えといえます。 必要なときに必要なお金があればいいのです。 どうしたら人を仏にすることが出来るのか悩むのは当たり前です。 苦しみを知らないで、人に寄り添うことなどできないことです。 病と死は生命の理(ことわり)であり、自然なことです。 仏教の目的は、釈迦のような仏に、一人も漏れずにすることです。
布教しない仏は、一人としていません。  見たことも聞いたこともありません。 布教しなければ仏ではありません。 仏と判るのはその振舞いにあります。 仏と同じ振舞いに起てば、仏の生命が湧いてくるのです。 わたしは、仏法対話をしていくと、生命が躍動し、清浄に澄むような心になって、深い喜びに満ちてくるのを感じます。 仏と同じ心を持ち、振舞えば、もうその人は仏なのです。 だから、布教は宗教の生命だというのです。  ” ほんとうに ” と思うかもしれませんが、そうなのです。 修羅と同じ心を持ち、振舞えば、もうその人は修羅ではないですか。 そう成っていくのです。 南無地獄、南無修羅、・・・・・ではなく、南無妙法蓮華経こそが仏と成る秘薬なのです。 法が根本の仏教の根幹は 南無仏などではなく、南無妙法蓮華経でなければなりません。  南無妙法蓮華経の ” 経 ”とは布教する振舞いのことであり、仏法対話のことであります。 創価の歴史は、布教の歴史しかありません。 布教は人としての最高の振舞いであり、生きた宗教である証なのです。
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2012-09-06(Thu)
何日か前の聖教新聞に、不思議な写真を撮るアーティストのインタビュー記事が載っていました。

興味がわいて、インタビューを読みながら、作品を眺め、「ほほー」と思いました。 とても面白い写真です。  わたしも写真を撮るのが好きですが、こうゆう撮り方もあるのかと、新鮮な驚きを覚えました。 写実ですが写実で無いような、物語性のある作品となっています。 撮る楽しさを覚えた情熱が伝わってくる作品です。 作者は、まだ若い女性ですが、話題になっているようで、林ナツミさんという方です。 聖教新聞には数点の作品が掲載されていましたが、その中でわたしが、いちばん気に入ったのが下の写真です。

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(写真:2012年9月2日付聖教新聞 Fri.05.06.2011 林ナツミ)

つねづね、 ” 落ち着きなさい ” と言われて育ってきて、 「 地に足がついていない 」 自分がコンプレックスだったのが、 ” 地に足が着いていないなら浮いてしまえばいいじゃないか ” と撮り始めたそうです。 被写体はナツミさん本人です。

作者のHP→ よわよわカメラウーマン
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2012-09-05(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 乙御前御消息  (P1220) 
『 日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし、 』

【 通解 】 
この日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一切の人々が害しようとしたが、いままでこうして無事に生きていられることは、日蓮は一人であっても法華経を信ずる心が強いゆえに諸天が守護されたのであると思いなさい。

【 指導 】
信心の 「 心 」 が強かったゆえに、万人を向こうに回しても殺されなかった、勝ったのだとの仰せである。 私には、この御文が深く胸に迫ってきてならない。 周りがどうかではない。 たとえ敵は多くとも、一人、戦う。 それでこそ、大聖人の弟子である。 その人を、大聖人は必ず守られる。 大事なのは 「 強き心 」 である。 「 信心 」 である。 「 学会精神 」 である。 組織も、数に頼って 「 だれかが、やるだろう 」 という心があれば、もはや 「 心 」 が負けている。 「 心 」 が崩れている。 そうではなく、たった一人であっても、 「 自分がやる! 」 と引き受ける人。 その人こそ「勝利者」である。

< 御書とその心 >より


創価の歴史は、第二代戸田会長が軍部権力と闘われ、戦後の焼け野原にたったお一人で立たれたところから始まっています。 さらに遡れば、世間の人々や軍部権力、日蓮正宗までもが弾圧し、多勢に無勢の真っ只中に、日蓮大聖人のお心を戴して、初代牧口会長お一人で立ち向かわれたのが、淵源となっているのであります。 いつの時代にも、この 「 一人 」 が大事なのです。 これからの広宣流布においてもそうであります。 だれが立つのか。 それは、誰でもない自分なのだと決めるのが、師弟不二であります。 そうすれば、 ” 諸天が守らないわけがない、わたしを見なさい。 ” との日蓮大聖人の御断言なのであります。
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2012-09-04(Tue)
聖教新聞に、周に1回ほどの間隔で、ある連載が載っております。 この連載は、最近における、SGI池田会長の指導・激励の言葉を伝えています。 一昨日で29回目となりました。 その29回目の内容から抜粋して紹介させていただきます。


* 『 生きることは戦いだ。 戦いがあるから、人生はおもしろい。 悩みがあるから、人間革命できるのだ。 むずかしいことも、多々あるだろう。 しかし、そこから価値を創造していけるのが、妙法を持った人間の強さだ。 』

* 『 難と戦い、勝ち越えてこそ、成仏はある。 宿命転換のチャンスなのである。 』

* 『 きょう、苦闘の一日であっても、未来を見つめて生き抜いていけば、必ず、希望の太陽が昇る。 決して自分の弱さに負けてはならない。 たとえ倒れても、また立ち上がる。 思うようにいかなくても、あきらめない。 その人が真の勝利者である。 』

< 名誉会長と共に ― 今日も広布へ ― >より


信心すれば、ばら色の世界がだまって開けるものではありません。 創価ではそれが常識であります。 自らの努力と、自分を磨くことの大切さを最も大事にしているのが、創価の精神であります。 ところが、信心していない方は、わたしたちがそのような考えを持たない、夢想家の集まりだと思いこむことが多いようです。 しかし、それはおおいなる誤解であって、信心するようになると、人生を真剣に考えるようになり、真面目に努力するようになるんです。 また、そのような生命が湧いてくるのです。 人には仏の生命が内在されています。 その自力をいかに引き出すかを追求し、実践するのが創価の信仰です。 成仏するというのも、死んで仏になると言っているのではありません。 この世で仏になること、仏と同じ生き方、振舞いをしていくことを目的としているのです。 また、信ずるといっても、だれかにおんぶに抱っこで生きてゆこうとゆうのではありません。 正しく知見し、智慧を磨き、努力して、確かな自分を確立する、自己実現の人生を歩んでゆこうとしているのです。 日蓮大聖人の信仰を核として、現実の苦難から決して逃げることなく、励ましあいながら、乗越えているのです。 勇気と智慧と慈悲の人間となるための信心なのです。
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No title * by SHIn
どこまでいっても「道理に基づいた祈り」ですね(^O^)盲信でないからこそ創価は強い!

No title * by 夕焼け
SHInさん おはようございます。

そうですね。 創価は確信です。


No title * by ダック
信者の中にはまだ「信心すればすぐ~になる」といい加減な発言をする人が目立ちます。
特に婦人部の方に目立ちます。

純粋な人はその言葉をそのまま信じてしまいます。

こういう信者が多いのは本当に残念ですね…。

No title * by 夕焼け
ダックさん、こんばんわ。

創価はそういう信者が多いかもしれません。 (^^

” すぐ ” という言い方はTPOですが、かくゆうわたしも、悩んでいる人にはそう言うでしょう。 ” この信心をすれば、必ず幸せになります ” と。 信心即生活ですから、婦人の方のほうが、この信心の凄さを肌身に感じているんです。 体験しているから、ズバッといいきるんです。 信心すれば、人生や自分自身の境涯が開けていくことが判っているから言うのです。 信心しておられない方でも、凹んでいる友人や家族がいれば、 ” 大丈夫、きっとよくなる ” ” 君だけじゃないよ ” と、励ますことが多いと思いますが、 ” いい加減なことを言う ” とは思わないのが普通です。 それは、言うだけの励ましではないことが判るからです。

つづく

No title * by 夕焼け
つづき 

わたしが、信心したのは、やはり悩みがあったからです。 切実な苦しみであり、将来への不安、境遇の悲しみ、性格の弱さ、など様々に悩んでいました。 病気は、自分でも病院でもどうすることも出来ないほどのものでした。 しかし、御本尊に勤行・唱題を始めると ” すぐに ” 治りはじめました。 ” すぐ ” でした。 驚きでした。 初心の功徳というものは、こんなにすごいものなのか、まざまざと見せつけられ、うれしさで涙がとまりませんでした。 あれから48年。 わたしは、今までの自分自身の信心の歴史と今の境涯を想うと、この信心を知らない人には、 ” 病気だろうと、貧乏だろうと、悩んでいようと、この信心をすれば、必ず幸せになります ” と何度でも言いたいですね。 なかなか理解できないことですが、御本尊にはものすごい力があるんです。 その力を引き出すのはその人自身なんです。  御書には 「 一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり 」 とあります。 

ダックさん、ご心配ありがとうございます。 
言い方はあると思いますが、あたたかく見守ってください。 (^^

2012-09-03(Mon)
わが聖教新聞には、さまざまに、信心を喚起し、涵養する記事が載っています。  さらに、最近では、ニュースや文化欄、健康欄も充実してきており、普通紙がなくてもいいほどに多彩な内容となっています。 わたくしの記事の大半は、この聖教新聞から引用させていただき、活用した内容になっております。 毎日の新聞紙面を構成し、記事を作成している方たちにはとても感謝しております。 ありがとうございます。

というより、毎日ごくろうさまです、というべきでしょうか。 ブログを始めてから、記事を書くことの難しさを知り、毎日届く紙面を目にすると、記者達の果敢な敢闘の姿が思い浮かぶようになりました。 この新聞を届けてくださる無冠の友といい、新聞を支える多くの方々が、広宣流布に実質的な貢献をされていることは疑いようもありません。 ほうとうにごくろうさまです、ありがとうございます。

・ 聖教新聞社
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