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2012-08-31(Fri)
今日は、仕事で遅くなり、少々疲れました。
もう還暦を過ぎているのですから、体力が無いのはしかたありません。

でもね、体は老化していても、心にはいつまでも、若い頃のようなロマンを抱いていますよ。 (^ ^
わたしの年齢では、加山雄三さんの歌を聴いていると元気が出てきます。

よい週末をお過ごしください。 (^ ^

・ 光進丸
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2012-08-30(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 御義口伝 (P769) 
『 其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり云云 』

【 通解 】 
慢心の四衆( 僧・尼・俗人の男女 )に対して、あなた方も必ず成仏すると礼拝した。 その時、慢心の人々の仏性も、不軽菩薩を礼拝したのである。 鏡に向かって礼拝すれば、映った姿もまた、自分を礼拝しているようなものである

【 指導 】
これは弘教の根本精神を説かれた御文である。 弘教とは、相手をもっとも尊敬し、その仏界を礼拝しての行為なのである。 ゆえに、いささかも礼儀に反した、また非常識や傲慢な振る舞いがあってはならない。 相手の仏界に呼びかける思いで、ていねいに、穏やかに、またある時は厳父のごとき慈愛で、語っていくことである。 その時、相手の仏界が、鏡のように、こちらの誠実な姿を映して、礼拝し返すのである。 相手を仏のごとく大切にすれば、相手の仏性も、こちらを守ろうとする。 人を軽侮し、見くだせば、鏡に映したように、自分が見くだされる。 " いつかそうなる " のではない。 生命の世界においては、その瞬間に因果がきざまれている。 そして時とともに、それがはっきり表れてくる。

< 御書とその心 >より


仏法対話は、相手をやっけるために、言い負かすためにやっているのではありません。 相手のことを思いやり、なんとか、幸せになってもらいたい一心で、真剣に、全力投球で語ることなのです。 対話する自分の生命の置きどころが、とても大事になってきます。 仏の心を灯しながら、仏と同じように布教してゆくところに、自他不二の仏性の覚醒が、生命の交流する世界で始まります。
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2012-08-28(Tue)
「 不軽菩薩  」 という菩薩をご存知でしょうか。 この菩薩は法華経に説かれた菩薩です。 創価の方なら誰もが知る菩薩です。

どのような菩薩かといいますと、すべての人には仏性があると信じて、「 24文字の法華経を 」 を唱えながら、出会う、すべての人々を敬い、礼拝し続けた菩薩です。 ところが、これを見た人々は、 ” 凡夫が仏になれるわけがない ” と考えているために、不軽菩薩を批判し、悪口罵詈したのです。 それだけでなく、杖で打ち、瓦や石を投げて迫害しました。 しかし、不軽菩薩はけっしてくじけませんでした。 「 24文字の法華経 」 を唱えながら、出会う、すべての人々を敬い、礼拝し続けるのでした。 やがて、この功徳で六根清浄となって、仏になったと法華経には説かれています。

この菩薩は過去世の釈迦の姿です。

日蓮大聖人は 『 一代の肝心は法華経・法華経の修行は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ・教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ 』 と仰って、我らの修行は不軽菩薩の姿にあると教えてくださいました。 この不軽菩薩の姿は、まさに創価の人々の姿と重なります。 ” この信心をすれば、必ず幸せになれます。 一緒に幸せになりましょう。 ” と語りかけますが、 相手は ” そんなことは信じられない ” というように反発し、批判し、悪口罵詈します。 しかし、創価の人々はくじけません。 信心の素晴しさ、正しさを語り続けてきました。 そして、やがて人間革命し、人間としての真の幸福を知り、掴んできました。 まさに不軽菩薩のようであります。 経文に書かれている通りではありませんか。 難があるから本物なのです。 それが鍛えであり、罪障消滅であることは間違いありません。

冷静にみれば、創価を非難する人の振舞いほど卑しい姿はありません。 創価の人が不幸になることを願い、悲しむことを喜んでいるではありませんか。 馬鹿にして、蔑んでいるのが手に取るように判ります。 六根清浄ではなく、その反対の六根汚濁の姿です。 このことだけ捉えても、 ” 地獄の罪報を受ける ” と釈迦が法華経で説いていることが、真実だと判ります。
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2012-08-27(Mon)
そもそも、仏教は絶対的な神の存在も仏の存在も認めていません。 ” 法 ”  が絶対的な存在としてあるだけです。 したがって、罰も功徳もだれかが ” 与える ” ものでも ” 下す ” ものでもありません。 しかし、このことは誤解しやすいことのようです。

勉強して大学に合格するのは、功徳です。 勉強もしないで受けても不合格になるのは罰です。 試験の成績に関わらず、だれかが恣意的に合格・不合格を決めているとすれば、そうはなりませんが普通はそうであります。 当然の道理であります。 仏法はこの道理を説いているのです。 罰も功徳もこの道理から説かれているものなのです。 道理を説かれて、反発するのはナンセンスであります。

仏は ” 覚者 ” ともいわれるように、 生命の ” 法 ” を知る人であります。 その仏が、 ” 法華経の行者を軽んじ誹謗すれば、罪報を無数劫に受ける ” と説いたのは、生命の ” 法 ” なのです。 仏はその理由も明確に説いています。 ” 仏種を断ずること ” だからと。 地獄の門を開いて、数知れぬほどの人を、地獄に連れて行くからだと。 仏がそう説いていることなのに、仏教を志すものでさえ、その言葉を受け止めようとしません。
考えて、考えて、しまいには解らないから、 ” 違う ” と結論を出してしまう人さえいます。 馬鹿なことです。 愚かなことです。 『 我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はおそるる心なし 』 と日蓮大聖人は仰っていますが、胸を衝かれるような思いがいたします。
Category : 仏 教 Comment : (2) |

No title * by SHIn
皆、相対的幸福獲得の為には努力するのにいざ獲得してしまうとそこに甘んじてしまう事が多いように感じます。福運は絶対的幸福境涯を成く事により積まれていくと思うのですが。心の財を積んだ人は強いです。ひとつの言葉、振る舞いをとっても万人に勇気と希望を与えていく事ができますから。

No title * by 夕焼け
そうですね。 
” 心の財を積んだ人 ” とは、我らが師匠ですよね。 (^^

2012-08-25(Sat)
今日紹介するのは、Here, There And Everywhere(1966年)です。

何回も言いますが (^ ^ 
今年はビートルズデビュー50周年にあたります。
そこで、今年いっぱいは、いろいろと紹介していきたいと思っています。 興味のない方は、今年いっぱい、どうかご辛抱願います。

わたしが、30代の頃、防衛省(旧防衛庁)が今の市谷でなく六本木にありました。 そしてその近くには、ビートルズバンドが入ったライブハウスがありました。 飲んで食べて歌って、演奏されるイントロのところから伴唱し、皆で大騒ぎしていました。 楽しかったですね。 ほんとうに懐かしい思い出です。

よい週末をお過ごしください。 (^ ^

・ Here, There And Everywhere
Category : 音 楽 Comment : (2) |

No title * by さくら
懐かしいですね。
私も30年ほど前に行った事があります。
夜遊びも楽しかったですね~(^-^)

No title * by 夕焼け
さくら さん こんばんわ。

知っておられましたか。 (^^
今はもうありませんが、ビートルズナンバーを思い切り歌えるめずらしいお店でした。 バンドが上手くないので(あたりまえですが)、皆が歌うようになったのでしょうかね。 そんな気もします。 (^^

2012-08-24(Fri)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 阿仏房御書 (P1304) 
『 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、 此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞.信・戒・定・進・捨.慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり 』

【 通解 】 
今、阿仏上人の一身は、地・水・火・風・空の五大である。 この五大は題目の五字である。 それゆえに阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である。こう信解するよりほかの才覚は無益である。 聞・信・戒・定・進・捨・慚という七つの宝をもって飾った宝塔である。 』

【 指導 】
多宝如来とともに出現した 「 宝塔 」 については、深い意味があるが、日蓮大聖人は高齢の阿仏房に仰せになった。 『 自分自身が、多くの宝で荘厳された 「 宝塔 」 である。 「 宝塔 」 とは自分自身のことである。 』 と、これだけ知っていれば充分だと仰せである。 大聖人直結で広宣流布に生きゆく人の生命こそが、 「 宝塔 」 なのである。

< 御書とその心 >より


阿仏房御書はとても大事な御書であります。

知に溺れるもの、才にうぬぼれるものは、必ず自分を見失ってゆきます。 世間でもそうでありますが、信心の世界でも、それは変わりがありません。 わたしは、そのような人を何人も見てきています。 八万法蔵の釈迦の教説、日蓮大聖人の極説、すべて ” 信心の御本尊 ” に納まっています。 御本尊に南無妙法蓮華経と唱え、人に信心を勧める以外の才覚は、成仏に無用であります。 信心している人でも、意外とこのことを忘れます。

『 心こそ大切なれ 』と日蓮大聖人は仰いました。 仏法の世界で、この ” 心 ” とはいろいろな意味があるのですが、人の仏性を信じてゆく、不軽菩薩の心もその一つです。 この反対にあるのが、自他の差異をひろげ、分断し、自分こそ勝れているとする心です。
また、『 蔵の財より身の財 すぐれたり 身の財より心の財 第一なり 』 とも仰っています。 才知は蔵の財・身の財にあたります。 知識も豊富で、頭がきれ、弁も立つ人が陥りやすいのは、心の醜さ、慢、卑しさに気がつかず、勝他の念をつのらせ、人を批判することに、喜びさえ覚える人間になってしまうことです。 とても残念なことです。 それは、広宣流布に生きゆく信心と行動を、失ってしまうことから始まってゆきます。
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2012-08-22(Wed)
昨日の聖教新聞に、池田先生の写真が何気なく掲載されていました。 今月、撮影されたものです。

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(写真:2012年8月21日付聖教新聞  長野研修道場)

いままで、週刊誌はさんざんウソを並べ立て、” 死んだも同然で、寝たきりの廃人のようになっている ” と、何回も書いてきました。 そんなのはウソだと言っても、創価に反感をもっている人は聞く耳を待ちません。 週刊誌は、いかにも、いいきみだ、というような書き方で、純真な創価の人たちが、顔を曇らせながら心配するのを見て喜んでいるようでした。

ウソをついてまでそうする人たちの側に、正義などあるはずはありません。

池田先生は今、84歳になられました。 どうです、廻りにいる84歳の人と違いますか? 普通の84歳です。 そりゃぁ、見た目は40代・50代のようなわけにはまいりません。 でも、元気なご様子です。 精力的に執筆されています。 書簡で対談もされています。 海外や国内の一会員に励ましの言葉を送っておられます。 体は老化しても、心はますます若く、はつらつとして言論を展開されています。
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2012-08-21(Tue)
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人間の生命のことを考えるとき、いつも思い起こされるのは、自分という生命と、体を構成する一つ一つ細胞の生命は同じなのか、違うのか、とゆうことであります。 精子卵子のそれぞれの生命は、結合とともにどうなってしまうのか、精子が死に、卵子が人間の萌芽となり成長してゆきますが、自分はどこから、いつからが自分なのか、考えれば考えるほど、解らないことばかりでした。 人間の細胞は7年で新しい細胞に入れ替わるとされるように、人間の生は一つの細胞の生死の積み重ね、連鎖によって支えられています。

最初の頃は、人間の細胞は、自分という生命に司どられているもので、細胞一つ一つに別の生命があるというふうには考えませんでした。 しかし、生命のことを思索していくほどに、人間の体を形成する細胞の一つ一つは、別の生命なのではないか、 人間は、多くの生命に支えられて、個として、自分として、生命活動を行っている存在なのではないか、というふうに、思い始めるようになってきたのです。  そして、あるとき、法華経従地涌出品の文が頭に浮かび、 ” そうなんだ ” と気づかされました。

法華経従地涌出品には、地涌の菩薩を、釈迦が召しい出だす箇所があります。 その一々の地涌の菩薩には、六万恒河沙の眷属が伴っていると描写されています。 この、六万恒河沙という数ですが、恒河沙というのはガンジス河にある砂のことで、数えきれないほどの、という意味です。 ここで、わたしが注目したのは6万の6という数字です。 人の細胞は約60兆個あるそうです。 不思議な附合です。 この文により、わたしは、わたしという人間が、別の生命の有機的集合体とともにあるのだ、と気づくことができました。 そう気づくと、いろいろなことが理解できるようになったのです。

まさに、人間は、それぞれの使命に生きる生命とともに生きているのです。 生かされているともいえます。 自殺や、不摂生は、この生命体を傷つけ、生命の尊厳をあなどることになります。 60兆の眷属とともに地涌の菩薩として、使命を果していかなければなりません。 人間そのものも一念三千の当体なのです。 三世間も備わっているコスモス(小宇宙)なのです。

その意味で、くれぐれも、体(眷属)を大事にいたわって下さい。
Category : 生 命 Comment : (2) |

No title * by 真理子
大きな数のことをかんがえることとともに小さな自分の内面にもめがいきごぶっちをいただきましたね。

No title * by 夕焼け
真理子さん おはようございます。

コメントありがとうございます。

2012-08-20(Mon)
【 要 文 】

『 罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり 』

『 設い大鬼神のつける人なりとも日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつしがたかるべしと存じ給うべし、月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし 』

『 我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はおそるる心なし 』

『 当時までは此の一門に此のなげきなし、彼等はげんはかくのごとし殺されば又地獄へゆくべし、我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず 

 『 ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ 

『 此れはこまごまとかき候事はかくとしどし・月月・日日に申して候へどもなごへの尼せう房・のと房・三位房なんどのやうに候、をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ 
Category : 御 書 Comment : (2) |

No title * by 履歴書の書き方
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

No title * by 夕焼け
履歴書の書き方 さん、こんばんわ。

いつでもいらしてください。 (^^


2012-08-17(Fri)
今日は、音楽家の Yanni  という方の作品です。
最初のイントロ部分がとても気にいっています。

よい週末をお過ごしください。 (^ ^

・ Love Is All
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2012-08-16(Thu)
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また仕事が始まります。 やっと、中東の仕事が一段落したのですが、新たな仕事が待っていました。

わたしが仕事をしている場所には、いろいろな模型が置いてあります。 その中には創価大学の新校舎の検討用の模型もあります。 朝、コーヒーを注ぎにいく途中の打合せ机のところにあったり、窓際の腰棚のところにあったり、いくつかに別れて積み重なっていたりしています。 無事故で立派に完成して欲しいと、見るたびに思っていました。 ところが、最近見かけなくなったのです。 そのかわり、新たなプロジェクトの検討模型がスケッチや写真やCGとともにたくさん置かれています。 わたしが仕事をするところは、いろいろな人達の、未来の夢や希望がいっぱい転がっているところです。

人は夢見る動物と言えるかもしれません。 そしてそれを具現化する動物でもあります。 わたしの仕事は人の構想を具現化していく最初の段階のものです。 具現化していくには大変な苦労があります。 これでいいのか迷いがあります。 表現できないに苦しみに襲われます。 どうするか判断に迷います。 難問にぶち当たって逡巡することも何回もあります。 しかし、命を削るようにして、自らの羽根を一枚一枚抜いて織ってゆくような作業を、一つ一つ行ってゆかなければなりません。 そのようなことを経ないと、満足するようなものは生まれてこないのです。 いいものや人を感動させるようなものは、必ずそうやって生み出されているのです。

これは、ほかの仕事でも同じではないかと思います。 そして、人の人生や信仰においてもまったく同じだと、わたしは思っています。 なにごともなく、のほほんとしているほうがいいかもしれませんが、それでは、人生の大きな喜びや充足感、醍醐味を味わうことは、とてもできないと思います。

さて、仕事にとりかかることにしますか。 (^ ^
Category : 日 記 Comment : (2) |

No title * by 真理子
のほほんよりまだかなしみでもあじわえたわたしはしあわせかな、ああこころはかなしみとゆうたからものでいつぱいになりました。

No title * by 夕焼け
真理子さん おはようございます。

わたしは、10代から20代のころ、いろいろなことや、想いがあって、自分のことが悲しくてなりませんでした。 でも、いまは違いますよ。 自分のことでは悲しむことはありません。

2012-08-15(Wed)
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(写真:Fotopedia CC NASA Blue Marble

今日は終戦記念日。

周辺の国々は70年前の悪夢を忘れようとしません。
これは、とてもありがたいことです。
日本人は忘れかけていますが、
加害者であったことをけっして忘れていけません。

竹島や尖閣諸島や北方領土の問題がにぎやかになっていますが、非が相手にあったとしても、日本が心から過去を反省し、謝り、近隣諸国から尊敬されるようにならなければ解決することはありません。 領土獲得で武力行使する愚かしさ、人間として恥かしい行為であることを、わたしたち日本人は知っているはずです。 いつまでも ” 領土的競争 ” や ” 経済的競争 ” に囚われていてはいけません。 人間の皮を被った鬼や畜生のすることです。 このことに相手が気付けば、申し訳ないことをしたと言ってくる日が必ずきます。 そう言ってくるようにさせるのが日本の取るべき道ではないでしょうか。
個人的な意見で言えば、竹島や尖閣諸島や北方領土は一方的に日本が領土放棄を宣言するべきであると思っています。 そのときに ” 武力や実力行使による領土的競争や経済的競争は、人類の恥であり、戦争を招く愚かしい行為である。 日本人はそのようなことは永遠にしない、したくない。 ” と宣言するのです。

創価の思想は地球民族主義ですから地球が領土です。 どの国の領土も、わが天地です。 妙法広布の天地であります。 世界の人々は、銀河の奇跡ともいえるこの地球の同胞ではないですか。 このことに気がついてほしいものです。

広宣流布とは、この思想を広める運動の異名だと、わたしは思っています。
Category : 歴 史 Comment : (5) |

No title * by 大河
いつも読ませていただいております。

>非が相手にあったとしても、日本が心から過去を反省し、謝り、近隣諸国から尊敬されるようにならなければ解決することはありません。

池田先生から教えていただきました。
全くその通りだと思います。
ただ、残念ながら、池田先生を師匠と求めている
創価学会員でも、このようなケースだと、
まだまだ、なかなか、現在の事象だけで
あっちが悪い云々になりがちですね。

No title * by 夕焼け
大河さん こんばんは。

そうですね。
今回の問題は、理で考えれば、腹が立つと思います。

今回の問題の、わたしの意見は、ひとつの考え方です。
わたしは、江戸や明治の時期に手にした領土が無くなっても、武力衝突は避けなければいけないという価値観です。 負けるが勝ちとゆうこともあります。 相手が正しければ、日本は正しいことをしたことになります。 相手が不正をしたのなら、相手は日本に借りを作ることになります。 それで万代の友好ができるなら、それでいいとわたしは考えています。 創価の運動が進んで、今の国同士が、日本の都道府県のような関係になれば、どっちのものでも同じです。 そうゆう時代が必ずくると信じています。

No title * by 夕焼け
追記

それにしても、日本は国として、心から反省し、謝罪していません。 周辺国は、それを敏感に感じとっているのです。 恩ある国々だからこそ、その罪は深いといえます。

No title * by パタリロ
地球民族主義に基づくと、北方領土、尖閣諸島や竹島の日本領有を放棄することなのでしょうか?
確かに領土を主張することで隣国との摩擦は大きくなり大きな争いとなることは避けられない気配です。
しかし、今の脆弱な日本が生き延びるには、「負けるが勝ち」をとるしかないのでしょうか?
そもそも、地球民族主義とかグローバリゼーションは日本の国益を損じて世界に帰属することになるのでしょうか....。
きれいごとでは済まされぬドロドロした利害に足を取られ抜き差しならぬ状態に陥っています。
国家崩壊の無残を日本が負うことが正しい道なのですか?

No title * by 夕焼け
パタリロ さん こんばんわ。

> 地球民族主義に基づくと、北方領土、尖閣諸島や竹島の日本領有を放棄することなのでしょうか?

そうです。 世界中の国が国として領土を放棄することが必要です。 それは、国が国でなく、一つの地域・自治となることを意味します。 誰でも、どこにでも、居住し、生活することが保障されるようになります。 わたしたちが、故郷をどこにでも持てるようにならなければ、地球民族主義とはいえないでしょう。 すぐには無理ですが、そうなってゆきます。

>確かに領土を主張することで隣国との摩擦は大きくなり大きな争いとなることは避けられない気配です。 しかし、今の脆弱な日本が生き延びるには、「負けるが勝ち」をとるしかないのでしょうか?

正しいことは、相手が反発しても、声にして訴えなければいけません。 しかし、相手を痛めつけるのが目的ではないはずです。 領土で話し合うのはいいですが、喧嘩はナンセンスです。 領土の喧嘩は、実力行使、武力衝突、戦争へと突き進んでいきます。 人もすまない領土で多くの人が殺され、傷ついていくのは、馬鹿げています。 今の状況は喧嘩です。 相手が殴れば、殴り返さないでどうするのか、といきりたっているようなものです。 経済的な国益のほうが人命の国益よりも優先するのでは、第二次世界大戦前の日本とちっとも変わりません。 ” 金銭は糞土の如し ” とゆうわたしの価値観と相容れないものです。 ましてやプライド、自尊心、メンツなどクソくらえです。 戦争だけはしてはいけない。

>きれいごとでは済まされぬドロドロした利害に足を取られ抜き差しならぬ状態に陥っています。 国家崩壊の無残を日本が負うことが正しい道なのですか?

気持ちはわかりますが、それは戦前の軍の青年将校のセリフと同じです。
冷静に賢く対処するのが、日本のとる道だと思います。

2012-08-14(Tue)
月曜日に、天気がよかったので、スカイツリーに登ろうと行って来ました。

お盆なのに、なんと人の多いことか、びっくりしました。 お盆の東京は普段より静かで人も少ないのですが、ここだけは違っていたようです。 当日売りの入場券を買うための整理券は朝の10時には無くなったとのことでした。 予想はしていましたが残念でした。 こんどはインターネットで予約してから行きます。 それにしても、すごい人出でした。

スカイツリーは家の近くから毎日のように見えていますが、近くで見ると想像以上に ” でかい ” と感じます。

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真近で全体写真を撮るのはまず無理でしょう。 それこそ、寝て撮らないといけないくらいです。 それでも、何とか全体を撮ろうと、場所を捜して撮ったのがこの一枚です。(正確には3枚パノラマ)

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いいアングルでしょう。 (^ ^

人の波に体力が消耗し、ほかのいい場所を捜す気力もうせ、早々に近くの 「 駒形どぜう 」 に向かい、遅い昼食をとることにしました。

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夏は、例年どじょうを食べにきます。 生粋の江戸っ子だからではなく、このお店の風情が気にいっていますし、夏バテにはうなぎよりこちらのほうが効き目があります。 鍋のどじょうの上に、たくさんのネギを載せて、汗をふきながら、ハフハフしながら、冷たいビール。 最高でした。

ほんとうは、こちらが目的で、街歩きと言うよりは食べ歩きですね。

短い、つかの間の夏休みでした。 (^ ^
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2012-08-13(Mon)
この御書は、弘安2年(1279年)10月1日に熱原の法難の渦中において、主要な信徒に向け書かれたものです。 日蓮大聖人は、この11日後に出生の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を顕されます。 日蓮大聖人58歳のときの御書であります。


【 要 文 】

『 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり 

『 而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし,日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり 

『 過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし、始めはしるしなきやうなれども今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば仏前の御誓むなしくて無間大城に堕つべしと・おそろしく想う間今は各各はげむらむ 』
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2012-08-10(Fri)
この曲は 長崎の童謡 「 でんでらりゅうば 」 といいます。 歌うのは長崎少年少女合唱団の子供達です。 長崎には暗い歴史がありますが、この子供達のあどけない表情を見ると、心が洗われます。 

長崎は私の母が生まれ育ったところです。 

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ でんでらりゅうば
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2012-08-09(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 上野尼御前御返事 (P1580) 
『 法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり 』

【 通解 】 
法華経というのは、手にとればその手がすぐに仏となり、口に唱えれば、その口はそのまま仏である 』

【 指導 】
妙法のため、広宣流布のために、手を動かせば、手が仏となっていく。 口を動かせば口が仏になり、足を使えば足が仏になっていく。 体も心も頭脳も、健康になっていく。 これが 「 妙 」 なる 「 法 」 である。 不思議の大法である。 この一点を確信し、誠実に行動していく 「 心 」 こそ大切なのである。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人は、この後 『 譬えば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・音とひびきとの同時なるが如し、故に経に云く 「 若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し 」 云云  』 と書いておられます。
因果倶時とゆうことです。 御本尊に南無妙法蓮華経と唱えれば、そのまま仏となるのです。 頭も悪く、根性も曲がって、貧乏で、病気もあるのに、どこが仏なのだろう。 そう思うでしょう。 わたしも、そう思っていました。 しかし、始めはしるしがないように見えても、まちがいなく仏だと、釈迦も日蓮大聖人も仰っています。 仏となるからこそ仏になってゆくのです。 泳がないで、泳げるようになる人はいません。

わたしは、若き日に、神経の病気があって、人と会うのがとても苦しかったのですが、仏法対話のため行動し、一生懸命語りました。 お金がないから、何度も遠くまで苦労して会いにいきました。 能力がないから、馬鹿にされ、嘲笑され、とても悩みました。 しかし、仏法のため、広宣流布のために苦しみ、苦労し、悩んだことは、そのことの反対の状況を生んでくれました。 病気のため苦しんでいれば治り、お金が必要となればでき、社会では必要とされる人間になることができました。 全部、信心の力、功徳です。 功徳は、自己中心的で身勝手な信心、臆病で疑い深い信心からは生まれてこないようです。 仏と同じ心、仏と同じ振舞い、仏と同じ行動をするところ、努力のなかから、生まれてきます。
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2012-08-08(Wed)
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(写真:2012年08月7日付聖教新聞 イギリスSGI)

今日の聖教新聞に池田SGI会長の随筆と新・人間革命が掲載されています。 一読して、次の池田先生の言葉がわたしの心に染みてまいりました。


* 生命は永遠である。ゆえに、老いとは、終局を待つ日々ではない。 今世の人生の総仕上げであるとともに、次の新しき生への準備期間なのである。 命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生き抜いていくのだ。 そして、わが生命を磨き高め、荘厳なる夕日のごとく、自身を完全燃焼させながら、大歓喜のなかでこの世の生を終えるのだ。 希望に燃えるその境涯が、そのまま来世のわが境涯となるからだ。

< 新・人間革命 厚田 46 >より

* 一人の女子部の友から 「 折伏が思うように進まないのですが 」 との質問があった。 その悩みそれ自体が、仏の心に通ずる気高い悩みである。 私は最大に讃えつつ、申し上げた。 「 折伏については、結局は相手を思う一念です。 一人の不幸な人を救おうよ。 一人の命は地球よりも重いのです 」 と。
大聖人は 『 一人を手本として一切衆生平等 』 と仰せであられる。 「 一人 」 の中に、尊極無比なる生命を見出すのが、仏法の慈悲の眼である。 「 一人 」 の生命には、人類に広がり、大宇宙を包みゆく壮大な仏の力が秘められている。 その力を一人一人呼び覚まし、糾合し、広宣流布の大潮流を起こしゆく 「 仏事 」 こそが、われらの対話なのである。

< 随筆・我らの勝利の大道 青年は世界の宝 >より


我が最終章の人生の指針ともいえる内容であります。 「 命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生き抜いていくのだ 」 この言葉は、私の心のなかに大切に収め、しっかりと抱いていたい言葉であります。 創価の信心は、生涯をかけるに値するものです。 最初は解らないかもしれませんが、私のように、ただ、しがみついてきたような信心でも、そう確信することができるのです。 

日蓮大聖人が予言したように、「 一人 」 の 「 人間革命 」 を手本として、一人から二人、二人から三人と、今、世界中で広宣流布の大潮流が湧き起こっています。 創価は何度も踏まれ、足蹴にされ、憎まれ、馬鹿にされてきましたが、この潮流を、もう、だれも止めることはできません。 日蓮大聖人がそうであったように、 「 一人 」 を大事にして、真心からの対話をしてゆく、地湧の誉れに生き抜いてまいりましょう。

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(写真:2012年8月5日付聖教新聞 ブラジルSGI)
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2012-08-07(Tue)
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(写真:Hubble Site CC Barred Spiral Galaxy NGC 1672

ひさしぶりに、生命について語ってみたいと思います。

最近、ヒッグス粒子(ダークマター)の発見が話題になりました。 はたして、新粒子の発見が、宇宙の謎を解き明かしてくれるのでしょうか。 ほんとうにヒッグス粒子なのでしょうか。 人類はいままで、いろいろな発見をしてきました。 そして、多くの謎を解明してきました。 しかし、ひとつの発見が、あらたな謎を生んできたことも事実であります。 現象世界から根源の謎を探っていくのはとても難しいことのようです。

わたしたちは、中学のときに万有引力を習っています。 物には質量があり、その質量には引力が働き、重さが生じるとゆうものです。 物質になぜ引力があるのか、あることは判っていても、実は、なぜあるのか解っていなかったのです。 今回の発見は、物質が存在する謎を解明する手がかりとなるものだ、と言われております。 この粒子が存在しなければ、この世界は光だけの世界だったと理論的に推測されていました。 ところが、現実は千変万化の物質で宇宙は満たされています。 粒子のエネルギーを弱め、互いに結合できるようにする働きが存在しなければ、物質は生まれなかったと推測されていました。 今回の発見がその働きをするとされるヒッグス粒子だとゆうのです。

光だけの世界というのが想像できませんが、ビッグバンによってそのような世界が初めにあって、その後すぐに物質が生まれ、今のような宇宙になったという理論です。 ” 初めに光ありき ” というのは旧約聖書に出てくる言葉であり、天地を創造した神にちなんで ” 神の粒子 ” と言われるゆえんがここにあります。 今、科学が宗教の概念を追っているというのは、なんとも皮肉なことです。 科学の最先端に行くほど宗教を否定するどころか、それを肯定してゆくように見えてしまうのはなぜでしょう。 謎解きは、まだまだ続くにちがいありません。

心の世界が現象世界・物質世界とともにあって、引力のように働きあっているというのは仏教の色心不二の概念ですが、生命(実相)が遍満していて、一念三千と顕れ(諸法)宇宙となっていること(本末究竟等)に、人類ははたして、科学で気がつくことが出来るでしょうか?
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2012-08-06(Mon)
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(写真:フォト蔵 CC ぱんじー 原爆死没者慰霊碑


また、今日がきました。
わたしに出来ることは、祈ることと不戦の誓いに生きることしかできません。 

戦争は、いかなる理由があろうとも、起こしてならないものです。 銃を向けられても服従はしない。  意のままにはならない。 意のままにはさせない。 その心と行動が銃に勝つことができるのです。 命は奪われても、永遠の生命を奪うことはできません。 戦うのは銃を持つ相手ではなく、自分と戦うことが不戦の誓いには必要となります。 悲惨と悲しみを作り、悲惨と悲しみを味わう戦争は、人の心から生まれてくるのです。 欲望とエゴイズムが、相手を否定する心が、自己防衛という名のもとで、そうさせるのです。 

わたしは、そのような心を転換し、一人一人が仏の心を灯し、相手の幸福を願っていく創価の運動こそが、平和を築くのに、遠い道のように思えても一番の近道だと思うのです。
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2012-08-05(Sun)
SGIのホームページが4カ国新たに開設されていましたのでご紹介いたします。

ヨーロッパ
  ポーランド
  チェコスロバキア

南アメリカ
  コロンビア
  アルゼンチン
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2012-08-05(Sun)
※ このブログを始めたのは、創価に対する偏見を少しでも無くしたいということと、創価の精神というものを残しておきたい、知ってほしいとの想いからでした。 そのため、記事の内容は信心されている方には、二番煎じのように感じられるものもあります。 そのへんは、どうかご容赦願います。 これからも、どちらかというと、信心されていない方たちに向いて、記事を書いていくつもりでいます。
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2012-08-04(Sat)
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わたしは東京で生まれました。 埼玉の県境に近い板橋の小豆沢というところです。 それから生まれてすぐに、前野町に移り小学校5年生まで暮らしていました。 入信した頃はまだ小学3年生とゆうことになります。

その日はいつものように、近所の子供達と一緒に遊んでいましたが、兄が中学の同級生と出かけることになり、両親は働いて留守でしたから、兄はわたしを連れて池袋の常在寺に向かうことになりました。 当時はお金もないので、歩いていったと思います。 池袋の陸橋の上で熱くて喉が渇き、お腹もすいてきたのを覚えています。 そのころの常在寺は木造のお寺で、畳敷きの広い本堂の後ろのほうに座り、わたしは誰かが用意した麦茶を飲みながら儀式の様子を見ていました。 読経が終わり、僧侶が何か手に持ってこちらを向いたとき、本堂にいた大半の人が、その元に集まってゆきます。 僧侶は何やら唱えながら、布で覆われた板のようなものをさしだし、一人一人の頭にかざしてゆきます。 それを一人一人が受けているとき、その集まった入の中から手招きする人がいて、独りでぽつんと座っていたわたしは、何も考えずにそのなかに入ってゆきました。 当時は、暗い雰囲気の神社やお寺が嫌いだったはずなのに、そのときは不思議とそんな気持ちがありませんでした。 人が押し合うように接近し、僧侶のもとに進んでゆきますが、頭にかざされるのを見て、わたしもそこに頭を差し出すように伸ばしたのを覚えています。 記憶はそこまでで、その後どう帰ったか、さっぱり覚えていません。 翌日にはそんな出来事はとうに忘れて、遊びに夢中になっていました。

当時のお寺は、創価の折伏で大勢の人が来て入信していたようです。 そのときも、本堂のすべての人が僧侶のもとに集まってゆくような感じで、わたしもその人たちに揉まれるように御受戒を受けたのでした。 今では考えられないような光景です。 実は、母はその2年前に近所の人から熱心に勧められ、入信していました。 しかし、入信はしていましたが、勤行もせず、活動もしていませんでした。 兄もわたしも同様で、同じ家族で、お互いに入信しているのを知らない状況が続いていました。 そんななかで母が先に信心をし始めます。 貧乏と、病弱なわたしと、気分しだいで仕事を休む父に悩んでいたのでしょうか。 信心をし始めると母はやがて家族の太陽となってゆきました。 そして、家族に転機が訪れ、それまで、6畳ひと間の引揚者住宅に家族4人が暮らしていましたが、2DKの文化アパートで暮らすようになります。

どこの家庭でも母は家族の幸せを願い続ける存在です。 ほんとうにありがたいものです。 この母を含め、わたしの幸せを願う人がいたから、わたしは信心を始めることができるようになったのだと思います。 ” 広宣流布とは、互いの幸せを願う民衆の連帯の広がりである ” と池田先生は仰いましたが、そのとうりの創価です。 辛抱づよく、わたしを見守ってくれた創価の人々に感謝しています。 『 人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし 』 と御書にあるように、わたしの福運はすべてその人たちにも注がれるでしょう。 注がれるような信心をしなければいけない。 そう入信記念日には思うのです。
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2012-08-03(Fri)
今日は、SGIの愛唱歌を紹介いたします。

信心していない人は、学会歌を軍隊の歌と馬鹿にします。 イメージが先行して歌の内容や意味も確かめずに嫌悪感を抱く人も居ます。 歌は時代と共に移り変わりますが、創価の歌も同じであります。


・ Touch The World

どうです。 軍隊の歌に聞こえるでしょうか。 (^ ^

ほかにも、たくさんありますが、創価の歌を軍隊の歌と決め付けるのは、もうそろそろ卒業いたしましょう。 歌はいろいろとあるからいいのです。
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2012-08-02(Thu)
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(写真:SGIグラフ)

今月は池田先生の入信記念日です。 まことにおめでとうございます。

この、 ” おめでとうございます ” は、池田先生にとってという意味と、偉大な師匠を戴けた、わたしたちにとっての ” おめでとうございます ” という二つの意味があります。 常与師倶生の誉れに感謝が尽きません。 ” おめでとうございます ” というより ” ありがとうございます ” というべきかもしれません。

わたしは、昭和35年8月3日が入信の日で、明日がその記念日となります。 この月と日にちは、実は正確ではありません。 入信当時、わたしが幼かったのと、居合わせた流れのなかで、ついでのように御受戒を受けたために、だれも気にも留めず、時間の経過のなかで記憶が薄れ、記録も無くなってしまったためです。 昭和35年の夏であることは確かなのですが、兄が8月だったというので、自分でこの日にきめました。 入信の動機もなく、必要も不必要も思うことのない入信でした。 池田先生のような出会いと、物語があればうれしかったのですが、気がついたら ” 入信していたんだ ” と後から判るような状態でした。 しかし、このような出来事が、不思議なことといえば、いえるのかもしれません。

今のわたしは、仕事にも生活にも恵まれています。 若き日のわたしとは、まるで違います。 悲しく、辛く、苦しかった日々を振り返ると、以前と今では雲泥の差があります。 それほどに、創価の信心には力があるのです。 それを実感します。 人生でなにが価値あることなのかも解りました。 僅かではありますが仏の智慧も戴きました。 残る望みは、広宣流布に生ききる自分でありたい。 生ききる智慧と勇気と慈悲を身につけたい。 それだけであります。

明日は、静かに御本尊の前に端坐して、感謝の唱題をいたしたいと思います。
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No title * by Tassy
なぜかとても心が温かくなりました。ありがとうございました。 

No title * by yuyakeci
Tassy さん コメントありがとうございます。

2012-08-01(Wed)
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SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 一念三千法門 ( 416P ) 
『 法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し 』

【 通解 】 
法華経の行者は、如説修行( 仏の教説のとおりに修行すること ) するならば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる

【 指導 】
広宣流布へ、御書の仰せの通りに行動する人は、皆、仏になれる。 三世永遠に、何もかも 「 所願満足 」 の偉大なる大指導者になる。 そうお約束である。 頑張りましょう!
皆さまが喜んでくだされば、私もうれしい。 皆さまが悲しめば、私も悲しい。 元気で生き抜いていただきたい。 御本尊を持つ人は、決して行き詰まらない。 妙法は、永遠の宇宙の法則だからである。 それを持っているのだから、何があっても困らない! 絶対に負けない! この確信が信仰である。 それなのに、すぐに悲観し、弱気になるのは、信仰ではない。 そういう 「 弱い心 」 だから、苦しんでしまう。 永遠の大法則であるゆえに、勝つに決まっている! 幸福になるに決まっている! 楽しい人生になるに決まっている! そう 「 決めて 」 胸を張って進んでいただきたい。
妙法に 「 帰命 」 すれば、自分自身が大宇宙の仏の生命の中に入る。 わが身が即、妙法の当体と輝き始める。 この秘術を日蓮大聖人は教えてくださっているのである。
ゆえに大事なのは 「 法 」 を中心に生きることである。 「 自分 」 を中心に生きれば、成仏とは反対の方向になる。

< 御書とその心 >より


この日蓮大聖人のお言葉があるだけで、そのほかの教えが、何もなくてもいいほどに、尊く、深いお言葉です。 南無妙法蓮華経を説いておられるのです。
創価は、御書を根本に実践してきました。 創価三代の会長の精神と行動はもちろん、その信心指導する内容は、すべて御書のなかから出てきているのです。 あくまでも 「 法 」 を中心として、実践してゆくのが創価の魂であります。
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