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2012-02-28(Tue)
著作権の取扱いを明確にしたことに伴い、ブログのメンテナンスを行いたいと思いますので、申し訳ありませんが、記事の更新を2・3日休ませていただきます。
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Category : 連絡事項 Comment : (4) |

No title * by 河越武蔵守頼重
ユーチューブにアップロードする時点で
画面に、著作権クリアー条件の
画面が出てくるので
我々が気に成る必要無いかと思うのですが。

整理、ご苦労様です。

No title * by 夕焼け
頼重さん、著作権は大事な権利です。 注意して取り扱うつもりです。
しかし、仲間内で楽しみたいと思う気持ちもあり、難しい判断です。 商用音楽・動画の Youtube の埋め込みがダメだという人はあまりにも短絡的な浅はかな考えです。 埋め込んだ場所は Youtube が使う場所です。 公開の場所を提供しているようなものです。 その意味で埋め込みをわたしは今後も続けます。 しかし、Youtube で公開されたコンテンツが著作権を侵害していると申し立てられ、削除されている現状も否定できません。 そこで、わたしは一つの基準として、Youtube で公開されて1年以上経つものは、著作権者が善意あるいは意図して黙認をしている、と判断して埋め込みを行います。 また、Youtube での公式チャンネルのコンテンツは埋め込みます。 50年以上経った楽曲も当然埋め込みます。 あと、Youtube からダウンロードしたものをブログでは公開はしません。

いや~、零細な私的ブログで、ビジネスでなければ、考えなくても使えるようになれば良いのに、と願うばかりです。 (^^;

No title * by あべひ
夕焼けさん
以下のコンテンツなら自由に作成して公開できますよ。
また著作権の考え方も非常に参考になります。
作成した動画はブログ等に貼る事もできますので1度チャレンジされてみてはいかがでしょう。

NHKクリエイティブライブラリ
http://www.nhk.or.jp/creative/

No title * by 夕焼け
あべひさん、貴重な情報ありがとうございます。
有効に使わせていただきます。
著作権については今後も学習してブログの運営に生かしてまいります。

2012-02-27(Mon)
※ このブログでは毎週あるいは不定期で音楽動画の紹介をしております。 また多くの公開されている画像・文章を使用して記事にしております。 そこで、著作権の取扱について提示させていただきます。

1、 このブログで紹介する音楽動画の総ては 「 YouTube 」 で公開されている音楽動画を一定期間埋め込んでおり、埋め込まれた部分は、まったく 「 YouTube 」 での著作権の取扱うところに拠っています。 このブログにおいても、著作権の保護を尊重しておりますので、著作権者あるいは代理人の指摘があれば直ちに埋め込みを削除いたします。 

2、 このブログで使用する文章・画像は、書籍・新聞・雑誌・インターネット等をソースとしておりますが、引用の範囲での使用をして、著作権の保護に努めております。

3、 このブログで使用する画像は、このブログで許可を得て使用しているものであっても、使用するときには著作権者あるいは代理人の許可を得て使用し、著作権法に基づいて取り扱うことを要求いたします。 また、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス及びグニュー・フリー・ドキュメンテーション・ライセンスによるものは、ライセンス規定に従ってください。

4、 わたしのブログ記事は、わたしの許可なく使用する事を禁じます。 ただし上記の画像部分を除き、著作権法の範囲で使用することは認められています。

5、 わたしに著作権が存在する画像は、画像とともに ” by yuyake ” と併記し、画像記事へのリンクを貼ってもらえれば、自由に使用していただいて結構です。 ただし、商用として使われる場合には、このブログのコメント欄を使って連絡をください。


※ 画像注記

・ CCはクリエイティブ・コモンズのライセンス規約の略とします。
・ GFDL はグニュー・フリー・ドキュメンテーション・ライセンスの
  略とします。
・ PDはパブリックドメインの略です。
・ RFはライセンスフリーの略とします。
・ 使用の許可を得たものは、著作権者の名称を記しました。
・ 画像に by yuyake とあるものは、ブログ主催者の夕焼けに著作権があります。
Category : 連絡事項 Comment : (15) |

No title * by はじめまして
その通りと思います。Youtubeの利用についてバカの一つ覚えのように問題だと騒ぐ人がいますが難癖です。問題があるなら仕組みの問題で、利用者の問題ではありませんからね。

No title * by む-みん
はじめまして。
ひょんなことから、こちらのブログを見つけ とても 正直な方だと感銘しました。
私は 二世で いつも誰かに守られてきましたので、感謝の思いはありますが、弟子の行動には まだまだです。

最近 「法華経の智慧」を 読んでいます。(今頃?と思われるでしょうが)
難解で難解で 読みながら すぐに誰かに
質問したくなります。
ぶしつけですが、
先週の人間革命(聖教新聞)に、
死んだ方にお題目を送れば、死後も
成仏すると 書いてありました。
死後の成仏とはなんでしょうか。
六道のどこかで亡くなって、菩薩の境涯くらいに上がって生まれるんでしょうかね。

No title * by 夕焼け
はじめましてさん、ようこそ。
著作権。 難しいですね。 取扱いに悩みます。 基本的にわたしは著作権を尊重したい立場ですから、いろいろと熟考しました。 音楽動画に関して言えば、Youtubeでは、著作権を侵害する内容の投稿を禁じており、そのうえで、投稿されたコンテンツの著作権はYoutubeに付与されています。 当然、著作権の侵害があるコンテンツは削除され罰則規定も明確です。 コンテンツをダウンロードして公開することは、侵害のあったことが反映できないため問題がありますが、埋め込みはYoutubeの著作権に対する態度をそのまま反映することができ、埋め込み可能なビデオプレイヤーの配布をしていること自体にYoutubeがネット上で、埋め込み先を仮想的に借りて、そこでの再生を予測していると判断できますので、このブログでの埋め込みを行うことにしました。 ただし、3週間までとしました。 このブログには1日100のアクセスくらいですから、その人たちと楽しみを共有したいと思うと、Youtubeの埋め込みは必要な道具です。

No title * by 夕焼け
む-みんさん、ようこそ。

「 法華経の智慧 」 の読了、がんばってください。

基本として、これからお話することは、わたし個人の見解だということでお読みください。 そして、む-みんさんが教学上の知識を得て思索に及んだときに、参考としてくだされば幸いです。 生と死は、一人の人間に起こることですから、生中と死後の生命は同じものです。 まったく違いません。 ちょうど、母の胎内に居たときの生命は、20歳になったとき、60歳になったとき、と同一なのと同じです。 生きているときは十界の生命があって、死んだときは無くなるということはありません。 死んでも十界の生命があります。 これは、生死に限らず、人であるときも、そのほかの生物であるときも、想像も付かない存在のときも十界の生命があります。

つづく

No title * by 夕焼け
つづき
 
わたしたちは、御本尊に唱題し、仏法対話をすることで、仏の生命を顕していきますが、この仏の生命が住するところは、他の人の生命と意識しないところで繋がっているところです。 仏という大海原の生命から、わたしたちの仏の生命も漏れ出てきている、あるいは垂れてきている、と考えてもいいかもしれません。 御本尊に唱える南無妙法蓮華経はその脈動なのです。 題目は全宇宙、全生命に届くというはそのようなことから言われるのです。 仏の生命の脈動は苦しむ死後の生命に伝わり、苦しむ生命の中に仏の生命を湧き上がらせる、あるいは注ぐことが出来るというのです。 
本来、人は人界に生命の基底を置いていますが、生きている間に生命の基底を修羅界に染めていく人が居ます、畜生界や餓鬼界に染っていく人も居ます、悪業を重ね仏法を誹謗して地獄界に染まってしまう人もいます。 十界互具ですから基底となった生命で死んでいくと、その生命の大海原に引き寄せられ、不二の存在としてその業を感じていくことになります。 生あるものとして意識と五感が整うときは、その基底の生命に相応しい形をとって顕われます。 難信難解ですが、御本尊に唱題し、仏法対話をして、広宣流布に生き抜いた人の生命の基底は仏界に染まっていきますから、死後も仏の生命の大海原に吸い寄せられ、不二の存在となってその業を感じていけるのです。 ここで注意しなければいけないのは、生命とはこの現実世界と一体不二で存在していて、どこか別のところにある世界ではないということです。 一念三千というのはそのような世界観・宇宙観を言っているのです。

No title * by あべひ
少々勘違いをされているようです。
たしかにYOUTUBEは著作権の存在するコンテンツに対して権利を有している人からの削除の依頼を受け付けています。
しかしそれをもって、公開されている間はYOUTUBEが著作権を持っているわけでもなんでもありません。
YOUTUBEが包括的に認めているのは、楽曲を
演奏したり歌ったりした場合のみです。
もうひとつは著作権を有する人がオフィシャルから配信を許可している場合です。
夕焼けさんがカラオケ店でお金を支払って歌をうたっても「利用料」の中に著作権料が含まれているのと同じだと考えて下さい。
したがって、自分が作成、演奏している以外の楽曲や動画を視聴できるようにする事は配慮してしかるべきなのではないでしょうか。

No title * by あべひ
ともあれ、著作権に対して真摯にお考えになられて記事を書かれた事に関して感謝いたします。

これは創価学会員としての忠告だけではなく、社会人として不法行為を防ぐためにお互いが注意すべきことだと思うのです。

No title * by 夕焼け
あべひさん、こんばんわ。

いいえ、わたしは勘違いはしていません。
Youtube は著作権を侵害するコンテンツ以外はその著作権を保有する、とわたしは書いたのです。 Youtubeは著作権を侵害するコンテンツの投稿を禁止していることが前提でコンテンツの著作権の保有を規則でうたっています。  
あべひさんの勘違いです。


No title * by 夕焼け
あべひさんの考えは尊重します。

わたしは、ブログで Youtube を埋め込むのは不法行為と考えていません。 埋め込んだ部分は、Youtube なのです。 Youtube はHPでコンテンツの公開をしていますが、埋め込んだ部分も公開の場所として使っているのです。 そう理解しています。 なぜなら、再生のプレーヤーはYoutubeが独占していて、それがないとYoutubeのコンテンツは見れません。わざわざ、埋め込みが出来るように作られたプレーヤーを配布している意図は明確のように思います。 したがって、YoutubeのHPが不法行為なら、埋め込みも不法行為であり、YoutubeのHPが不法行為で無いなら、埋め込みも不法行為では無いと思います。

No title * by あべひ
>Youtube は著作権を侵害するコンテンツ以外はその著作権を保有する。

なぜYOUTUBEが上記のような書き方をしているかというと、投稿された動画自体を削除や管理したりする権利を有している事を明記してるだけだとおもいます。
たとえば夕焼けさんのブログに投稿した私の文章も書き込んだ私と公開されている夕焼けさんそしてライブドアブログに著作物を公開したり
消したりできる権利が有されます。

そして副次的に著作権を保有しているからといって公開されている動画が著作権違反のものであるかどうかまでYOUTUBEが判断できないからこそ「著作権を侵害するコンテンツ以外」と別記されているのです。(権利の放棄といいます)

でなければ、違法であっても動画投稿をしたユーザーとYOUTUBEが著作権をもつことになり、権利者に訴えられるとYOUTUBEも賠償をしなくてはならなくなります。

YOUTUBEが投稿された違法コンテンツの著作権を最初から放棄しているのと、ユーザーが投稿した違法動画を公開したままにしている事は全然別問題なのです。

2012-02-24(Fri)
今週は、世界複合遺産と音楽を紹介いたします。

マチュ・ピチュは15世紀ごろに作られたという事が解っています。 農業を中心として生活をしていたようですが、まだ多くの解明されていない謎があり、宗教的共同体、天文観測所、王族の避暑地と様々にいわれております。 人間が作り出した建造物が、山々の奥深く峰に這うように忽然とたたずむ様は、見るものを圧倒させてくれます。 コンドルは何事もなかったように、この景観を眼下にして今も飛んでいるのでしょうか。

よい週末をお過ごしください。 (^^

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(Fotopedia CC magnusvk Machu Picchu Overview

・ El condor pasa
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2012-02-23(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。

【 本文 】 日女御前御返事 (P1247) 
『 又法華経をば経のごとく持つ人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或は・しなじなのふるまひによつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり 』

【 通解 】 
『 法華経を経文のとおりに持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは貧り・瞋り・癡の煩悩によって、あるいは世間的なことによって、あるいはさまざまな振る舞いがよくないといって、憎む人がいる。 このような人は法華経を信じていても、信ずる功徳はない。 かえって罰を受けるのである。 』

【 指導 】
* 末法の法華経の行者、すなわち日蓮大聖人を怨嫉し、憎む罪を述べられている。 総じて、いかに御本尊を持っていても、自分の感情や、名聞名利などから、正法を正しく実践する者を憎んだ場合には、功徳がないばかりか、罰を受けるのである。 現代でいえば、大聖人の仰せのままに信・行・学に励む学会員を嫉妬し、憎み、誹謗する者が、この御文にあたる。

< 御書とその心 >より


戸田先生は 「 ろくろく仏道修行もせず、学会員を見くだす者は当然、たいへんな仏罰を受ける 」 と、仰っています。 また、日蓮大聖人は松野殿御返事で 「 法華文句記 」 の文を引かれて 『 「 悪の因に十四あり、一に慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり 」 此の十四誹謗は在家出家に至るべし 』 と十四誹謗を挙げて、法華経の心に背いて題目を唱えても功徳は無い、と断言せられております。 この十四誹謗の根源は ” 不信 ” であります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2012-02-22(Wed)
” Forever Sensei ” といえば、アメリカSGIで広く歌われてきた愛唱歌でありますが、今日は、あまり知られていない歌を紹介いたします。
題名に ” sensei ” が付いた、池田先生を慕う心情と苦難に立向かう決意に溢れた歌です。


・ I Seek Sensei


・ I have a dream
Category : SGI Comment : (0) |
2012-02-21(Tue)
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(Photo by ハーベス)


” 死 ” という問題について、思い浮かぶにまかせて綴ります。

人は ” 死 ” という問題を、不幸な出来事、遺棄したいものという観念を抱いてきました。 そのため、自らの意識の中から排除して、問題を見ないようにして日常を過ごすことが多いようです。 ” 死 ” を考えないことで、永遠の日常を手に入れているかのように、あえて錯覚させているのでしょう。 あるとき、現実を前にすると、愕然とし、恐怖して、怯えるしかないかのように苦悩し、不幸のシンボルに仕立て上げてしまいました。

わたしは、生も死も、生命の顕在化と潜在化の違いであり、生命から見れば、瞬間の中から解き放たれる永遠の出来事の瞬きにすぎないと思っています。 譬えで考えてみると、死は空気中に何も無いように見える状態で、生は寒い朝に窓ガラスに結露して出来る水滴のようであり、極寒の夜に漆黒の闇から、キラキラしながら降る雪の結晶のようでもあります。 雪の結晶の形ができる様相は、業の遺伝子が織りなして生まれる生物の彩りのように思えます。 

時間というのは変化に伴う記憶と痕跡のようなもので、世界に変化が無ければ時間は認識できません。 アインシュタインが導き出した、時間に長短が存在するという理論も頷けます。  ” 我思う故に我あり ” とした実存の哲学者が行き着いた場所は、 ” 思う我 ” という存在です。  ” 思う我 ” の未来は瞬く間に来たり過去へと過ぎ去っていきます。 しかし、 ” 思う我 ” は確かに存在し続けています。 常に、自覚する存在は、瞬間として永遠に存在しているのでしょうか。 仏法では、世界に終わりも無ければ初めも無いと説かれています。 この命題は難信難解ですが、人類の宇宙とミクロの世界の理論的探求や実証的探求が、この命題に近づきつつあるように、わたしには思えます。

” 死 ” は不幸でもありますが幸せでもあり、
” 生 ” は幸せでもありますが不幸でもあります。
” 死 ” は次の生の生みの親であり、
” 生 ” は死の準備ともいえるでしょう。

わたしは、 ” 死 ” は決して不幸のシンボルではないと思う。
Category : 生 命 Comment : (8) |

No title * by せんしゅ
お久しぶりです
死について考える事が多いのですが凡夫ゆえ難解な問題でなかなか…
夕焼けさんのわかりやすく美しい記述で癒されました


No title * by 夕焼け
せんしゅさん、おはようございます。

お元気でしたか?
そうですよね。 死なないで実際に認識するのはむずかしいです。
実はこうゆうことは、そこらじゅうに転がっています。

No title * by せんしゅ
>実はこうゆうことは、そこらじゅうに転がっています

とは?


No title * by 北のおやじ
先週葬儀が三つもあり色々
考えていたところです。
素晴らしいブログですね、たまにお邪魔させて下さい。60過ぎの一本指タイピンガー、北のおやじ

No title * by 夕焼け
せんしゅさん、こんばんわ。

返事がおそくなり、ごめんなさい。 (^^;
ちょっと、文章が長くなるので、近いうちに記事にします。

簡単に言うと、事象として当り前の様に存在しているにもかかわらず、
思義することが困難で、実認識できないことをいいます。

No title * by 夕焼け
北のおやじさん、ようこそ。

コメントありがとうございます。
三つもですか、それでは、考えないわけにはいきませんね。
わたしは、小さいときから考えていました。 
でも、漠然と散らかったような状態でした。 
ハッキリと考えが明確になったのは、つい最近です。

また、いらしてください。 (^^

No title * by トッシー
夕焼けさんこんばんは!
以前は死や時間の始まりを考え始めると、眠れなくなる夜がよくありました。
最近は仕事やその他が忙しくて^^;
その事について考える事自体忘れてました。

死は決して不幸のシンボルではない

夕焼けさんの考え方、好きです☆
そのように考え生きていくことで、ストレスも軽減され、死を不幸と捉えてしまい、おびえて生きている人よりも寿命も延びる事ができそうですね!

今日は、100回、目指して始まった壮年と男子部との唱題会(2回目)が朝ありまして参加しました。壮年の方の体験は、為になりますね。

みなさんブログやインターネットまったく知らないそうで。。
今度、大好きな夕焼けさんのブログ、紹介してもいいですか?

No title * by 夕焼け
トッシーさん、こんばんわ。

死んでどうなるか恐れ、死んだ人の幸・不幸を考えるより先に、生きているときの生き方の善悪を恐れ、自他ともの幸せを追求すべきだと思います。 死はその延長線上にあると思います。

> 今度、大好きな夕焼けさんのブログ、紹介してもいいですか?

ありがとうございます。
どんどん、紹介してください。 (^^

2012-02-20(Mon)
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(写真:聖教新聞2012年2月18日付 座談会)


昨日は、わたしの地域でも座談会が盛んにおこなわれましたが、インフルエンザで出席できないメンバーが目立ちました。 みなさん、流行は予想以上に進んでいるようです。 くれぐれも予防に注意をはらって、感染しないように気をつけてください。
最近は、座談会で男子部が御書講義を担当しているのが、多く見受けられるようになりました、頼もしい限りです。(地域により違うと思いますが) 今日の担当者は自分の体験から独自の視点で切り込んでいて、心に響く講義でした。 創価は永遠に青年を大事にし、育てていかなければなりません。 創価青年学会の今年は後継の育成に尽力をつくしたいと思っています。 人間性豊かな、誠実な、芯のある青年が陸続と躍り出ることを願って。  

今日の聖教新聞に、SGI池田会長の指導が載っていましたので紹介いたします。


* 戸田先生は、常々、言われていた。 
「 人一倍、後輩を育てなさい 」 
「 青年が思う存分、働けるように応援する人間が偉いのだ 」 
育てるといっても、会合で話すだけではない。 形式ではなく、大事なのは相手を思う心の深さだ。 後継の友を、弟・妹、また、わが子と思って、真心で接していくのです。 何があろうと、生涯、不退転の信心を貫いていけるように、たとえ一時は信仰から遠ざかることがあったとしても、必ずまた同志と共に進んでいけるように ― この根本の一点を忘れてはならない。 一人ももれなく、功徳に満ちあふれ、大いなる信心の喜びをつかんでいけるよう、祈っていくのです。

< 今日も広布へ > 3 より
Category : 創 価 Comment : (3) |

No title * by あべひ
ばっちりです
趣旨をご理解いただいてありがとうございました。

No title * by 夕焼け
あべひさん、おはようございます。

近いうちに、著作権に関して、
当ブログでの扱い方を堤示しようと思います。
著作権は、微妙で解りづらいですね。

話は変わりますが、
あべひさんのブログのコメント欄作ってほしいですね。
公開はあべひさんの判断ですが、
批判する場合、そこで直接批判も受け入れるべきです。

No title * by あべひ
>あべひさんのブログのコメント欄作ってほしいですね

私のブログは記事を公開するだけです。
というのは書き込めることでアクセスランキングに影響が出ないようにする意図があります。
また、コメント削除できる権利を最初から放棄しています。
コメント投稿に関しては富士宮ボーイ掲示板にお願いをして双方の意見が対等に扱われるようにしてあるのです。
わかりにくいようであれば、毎回記事の最後に「コメントは富士宮ボーイ掲示板で」とすべきかも
しれませんが、批判をされるのであればブログをお持ちの方は記事にされれば事足りていると思います。
同じブログ村であれば確実にチェックをいれていますので大丈夫です。

2012-02-17(Fri)
今週も世界文化遺産と音楽の紹介です。

ブラジリアは、1960年にブラジル内陸部の原野を切り開き、人口湖を作るなどして大規模な開発を経てブラジルの首都になりました。 1987年に世界文化遺産に登録されています。 都市計画はルシオ・コスタが手がけ、主要な建築群はオスカー・ニーマイヤーがデザインしています。 先週紹介したガウディーとは対照的な、モダニズムを追求したデザインとなっており、50年以上過ぎた今の時点で見ても ” 未来建築 ” と言えそうな洗練されたフォルムをもっております。 彼のデザインの原点は女性のシルエットだと言われています。

よい週末をお過ごしください。 (^^

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(写真:Wikipedia CC Thum Fel Palacio Alvorada

・ ブラジリア
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2012-02-16(Thu)
今日は特別な日なので、もう一曲、紹介いたします。

この曲に寄せられたコメントに、 「 SGI ありがとうございます。私はあなたを愛しています!! 」 というのがありました。

わたしの想いと一緒です。


・ Soka Gakkai International
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2012-02-16(Thu)
今日は日蓮大聖人が、安房の国長狭郡東条郷(現・千葉県鴨川市小湊)にお生まれになった日であります。 1222年ですから、今年が生誕790年目にあたります。 人類の宿命転換への曙となった日であります。 今日は一日、感謝と決意を込めて唱題いたしました。

日蓮大聖人を賛美する歌がないので、変わりに、昔の創価の会合で、よく歌われた歌を紹介いたします。

・ 嗚呼黎明は近づけり(大阪高等学校全寮歌)


                 作詞  沼間 昌教
                 作曲  吉田 丈二

      嗚呼黎明は  近づけり
      嗚呼黎明は  近づけり
      起てよ我が友  自由の子
      帝陵山下の  熱血児
      侃諤の弁  地をはらい
      哲人の声  消えんとす
   
      ああ暁鐘は  鳴り響く
      ああ暁鐘は  鳴り響く
      三州の野に  殷々と
      強き響きを  伝えつつ
      旧殿堂の  奥深く
      眠れる魂を  醒ますべく

      それ青春の三春秋
      交に友と  呼びかわし
      君が愁いに  我は泣き
      我が喜びに  君は舞う
      若き我等が  頬に湧く
      その紅に  血の響き
      その紅に  血の響き
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2012-02-15(Wed)
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今日、喫茶店で聖教新聞を読んでいたら、地涌の菩薩について、ふと考え始めていました。

みなさんもご存知のように、地涌の菩薩は釈迦から妙法蓮華経の付属を受け、末法での広宣流布を許された四菩薩を頭領とした無数の菩薩群です。 地涌の菩薩は地より舞いながら出てきたと法華経には書かれています。 その前には、地より宝塔の出現があり、三変土田があり、十方の諸仏の来集があり、多宝と釈迦の並座があり、多宝と十方諸仏の証明があり、皆成仏道が示され、久遠実成が明かされます。 地より舞いながら出てきたというと? そう、宗教では一般的に地の中は地獄をさします。 その地獄から舞ながら地上に現れたというのでしょうか?
仏教以外では、神は天にいます。 天使は天から降りてきて、人間に神の言葉を伝えたり、人間を助けます。 羽根があるのもその為です。  デーモンは天使が堕ちて悪魔(サタン)の手先となったのでやはり羽根があります。 天に神、地上に人間、地下に悪魔という図式が一般的です。 つまり、神の国(天国)と人間の国(地上)と悪魔の国(地獄)という世界観になっているのです。 菩薩が地より出てくるなど、仏教だけの表現ではないだろうか。 というより、法華経だけだと思う。

地涌の菩薩は地獄で布教していたのだろうか? 地涌の菩薩は世間で賤しいとされる人、苦労してみすぼらしい姿の人、悩みに苦しんでいる人、そのような人たちの中から現れるということなのだろうか? そういえば、創価の草創の人たちは、ほとんどそのような人たちだった。 信心の実証で、福徳と歓喜の姿となっていく姿は、舞うようにして現れるという表現にピッタリだ。 創価のシンボルマークが八葉蓮華とするのも、なるほどな、と思った。

地涌の菩薩は地獄に住所があるんだ。 本籍地はどこだろう?
と、最後につまらないことを考えていたら携帯が鳴って、友人と会うため、
喫茶店を後にしました。
Category : 日 記 Comment : (2) |

No title * by カイ
>創価の草創の人たちは、ほとんどそのような人たちだった。 信心の実証で、福徳と歓喜の姿となっていく姿は、舞うようにして現れるという表現にピッタリだ。


本当にそうですね。

すごい教学上の真実の発見だったりして!
喫茶店での悟達(^_^)?

そう言えば、西洋文学では、屋根裏は死の、地下室は生のイメージをもつ話を以前講義で聴きました。

No title * by 夕焼け
カイさん、おはようございます。
お元気ですか。(^^

そうですか、地下が生のイメージですか。
大地の恵みが生きる糧であったこと、あるいは、地下室がその貯蔵庫であったこと、収穫した後の藁を納屋の屋根裏に保存したことが、そのようなイメージにつながったのでしょうか。 興味深いですね。

2012-02-14(Tue)
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わたしは、入信して今年で51年になる。 先に母が信心しているので、二世と言えばそうだが、父は入信していなかった。(晩年に入信する) ある種の緊張関係にあったから、純粋の二世とは違うと思う。 また、入信当時は池田先生が会長に就任されたばかりで、信心し始めた中学の頃は、組織には学会精神が横溢しており、今の2世・3世とは違う環境で育ったと思う。  学会精神というものを直にこの目で見て体験してきた。 世間から見れば洗脳されたということだろう。 (^^
今振り返れば、とても幸運だったと思う。 (^^ 

高校生の頃は、池田先生の 「 指導メモ 」 を擦り切れるくらい読んで、自分を勇気づけながら、嘘のない正義に生きる人間に成長していこうと頑張っていた。 創価の社会は、一般の社会と比べ、真実の人間性があり、厳しくも暖かい庶民の優しさを感じることができた。 理想の心と純粋な行動があった。 そしてなによりも、会合や同志とのふれ合いが楽しかった。 今振り返っても、信心から離れた時期の世間的な楽しさや豊かさなど霞んでしまうほどの、心に染みる金の日々だった。 わたしは、信心の実践をまったくしなかった時期があるし、一生懸命に実践した時期もある、まともに実践してきたほうが少ないかもしれない。 その理由は、好きな仕事や色々な付き合いが、わたしを押しつぶすように支配してきたからだが、根本は信心が本物では無く観念だったのだと思う。 今となれば、非常に後悔している。 でも、身は退転していても、心は常に創価を想い池田先生を希求していた。

今、創価の同志の中には、かつてのわたしと同じような心で、同じような状況に置かれている人がいると思う。 そのままでは、必ず後悔することになる、と言いたい。 一歩踏み出して、組織の中で人間革命していってほしいと思う。 遠回りのように思うかもしれないが、それが社会で勝利する近道でもあるのです。 勤行と唱題と座談会をしっかりと押さえ、支部長・地区部長と顔を会わせ、連絡しあいながら組織と繋がっていくことが大事です。 それがあれば、あとは仕事や家庭を大切にしていくんです。 その場所で社会の善となるような生き方をして、身近なところで ” 信心している人はさすがだ、いい人だ、信頼できる ” と認められれば、もう、それが、あなたの広宣流布なのです。
Category : 信 心 Comment : (2) |

No title * by SHIn
私も先日信心10年目を迎えましたが青年部時代に10年迎えられて良かったなと思います。来年は創価班10年です。信心51年の中で培われた1つの結論勉強になります。御書に仰せの通り周囲に賛嘆されゆく日を目指してレッツゴー!です(^O^)

No title * by 夕焼け
信心10年目を迎えましたか。
よく頑張ってきましたね。

わたしは、もう先が短いので、今焦っています。(^^;

2012-02-13(Mon)
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先月は座談会御書で一生成仏抄を学びました。 この中に 『 妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずそ法なり、そ法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり 』 という御文がありますが、わたしたちは、この御文の意味を解っているようで、実は解っていないということが多いのです。 どうゆうことかといえば、わたしたちの信心が無意識に、御本尊に漠然と頼るような信心になっていることが多い、ということなのです。  自分でなく御本尊が何かしてくれるとゆう感覚です。 これでは、信心する前からの宗教観を引きずった信心といえるでしょう。 この御文は、 ” そうじゃないんだよ ” という日蓮大聖人の慈悲のお言葉であり、ご指南なのです。

子が親を求めるように御本尊を慕って、祈ることは正しいことなのですが、 ” なんとかしてください ” ではダメなのです。 御本尊はなんともできません。 一生成仏を目指すならば、この御文を胸に刻み、御本尊に対座して南無妙法蓮華経と唱え、考え、行動することがとても大事なのです。 この信心は、御本尊に唱題して、自らに具わる仏界の生命を湧現させ、己心の九界を仏界所具の九界としていく作業であり、その修行を現実の九界の世界の中で行い、顕わしていくものなのです。 「 一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて 一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする 」 という方程式です。 病気が治る、貧乏が裕福になる、悩みが喜びに変わる、人間関係が好くなる、仕事に意欲が生まれる、努力できるようになる、気力が充実する、勇気が湧く、人を思いやれる、真面目になる、悪にひきずられない・・・・・・等々。 全部、自分から出てくるものが淵源となって変わるものなのです。 自分が変われば廻りの環境・状況も変わるし、周りの環境・状況に負けることなく、随自意の生き方が可能となってくるのです。

本来、病気だって自分が治すものなのです。 人間の治癒力がなければ現代の医学ではなんだって治せません。 一ヶ月も生きていられません。 自分の骨髄から、幹細胞を採取して培養し、壊死しかけている足に定点注入して毛細血管の再生で壊死を食い止め、切断せずに済んだり、癌の最先端治療にワクチン治療が研究されているのも、IPS細胞の活用も、全部人間に元からある力の発現で治療するものなのです。  そうかといって、禅宗のように、自分がそう思えば、そうなるというものでもありません。 医者がいて、治療法があって、治癒力があって、励ましがあるから治るのです。

わたしたちの信心に当てて考えれば、同志の励ましに勇気を貰い、御本尊に南無妙法蓮華経と唱え、仏法対話をして、自身に仏の生命が満ちて諸天の守りが働くから、ちゃんと病気が治るのです。 信心の体験で、癌が無くなった、目が見えるようになった、歩けるようになった・・・・・・等々。 御本尊に力があるのは確かだが、御本尊が治すのは、体の病気ではありません。 悪い宿業です。 生命の病です。 九界即仏界から仏界即九界へと生命を治すのです。 そこから、驚くような治癒が自身や廻りから行われていくのです。 それだけの生命力が秘沈されているのです。 宇宙の働きを司る諸天も最大限に働くから、よい医者に巡り合ったり、治療や発見のタイミングが良かったり、副作用も無く薬が効いたり、となってくるのです。 貧乏だって、人間関係だって、商売だって同じです。 信心すれば頭だって良くなるのです。 脳に障害があって、身体もコントロールしづらく知能も未熟で、社会生活も危ぶまれるような子供が、成人する頃には、社会で働き、創価班員になって、自立していくのを、わたしはこの目で直に見てきました。 母と子の信心の賜物です。 持続の信心の凄さは計り知れません。 

わたしたちの信心は、現実の世界と交流しながら、南無妙法蓮華経を生命に染みわたらせ、御本尊を肉弾に顕わして生きて行くことが目標なのです。 病気していようと、貧乏であろうと、悩みがあろうと、迫害されようと、微動だにしない大我の境涯でいられ、それらを種にして、あるいは薪として、自在に価値や幸福を創造し感じていくことができるようになるのです。

「 我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり 」 のお言葉をよくよく思うべきであります。
Category : 信 心 Comment : (4) |

No title * by SHIn
“当体”と言う事ですよね。これを身読するには現実社会で切磋琢磨するしかないですね。人間革命の首題これ程一生成仏の定義を現代用語で簡潔に教えてくれている文章はないと思ってます。そこを目指しているわけですからね。

No title * by 夕焼け
SHInさん おはようございます。

社会や家庭や地域が、信心を鍛える道場と思えるようになれば、一歩前進です。共に頑張りましょう。

はじめまして。 * by すまいる
こんにちは、はじめまして(^-^)
過去の記事にコメントして、気づいてもらえるでしょうか?
仕事の人間関係で悩んでいた時にこの記事を何度も読み返しました。
今もずっと原点になるこの記事を見て奮闘しています。
今は自分を取り戻し、職場でも環境も人間関係も整ってきました。
本当にありがとうございます(^-^)
この記事で軸にさせてもらってます。
大好きな先生の元、今日も頑張ります(^^)

* by 夕焼け.
すまいるさん。 おはようございます。

よかったですね。 (^^

このブログを開設した意味がありました。
こちらこそ、ありがとうございます。

同じようなことが起こったとしても、
信心で開拓した境涯は崩れることはありません。
生命の財産となります。

先生と共に、題目をあげて、今日も頑張りましょう。

2012-02-10(Fri)
今週も世界文化遺産と音楽を紹介いたします。

バルセロナのサグラダ・ファミリアはとても有名ですが、一人の建築家の作品郡が世界文化遺産となっているのはとても珍しいことです。 アントニオ・ガウディは ” 情念の建築家 ” といってよいほど、彼の作品は独創性に溢れています。 スペインのバルセロナを中心として、住宅から教会そしてランドスケープデザインに至るまで幅広く作品を残し、外観、内装、ドアの隅々までデザインし尽した手法は見事なものです。 最初に見たときは驚きに支配されますが、その場にいるにしたがい、とても温かみのあるやさしさに包まれていくのを感じます。 倒錯と幻想に満ちているように思えながら、どこかユーモラスなのは彼の人間性でしょうか。 おどろおどろしくならずに、あのようなデザインを具現化していく才能は、並大抵のことではありません。

よい週末をお過ごしください。 (^^

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(Wikipedia CC Jordi ArmengolCasa Gaudi - Garraf

・ アントニオ・ガウディ 1

・ アントニオ・ガウディ 2
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2012-02-09(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 聖人御難事 (P1190) 
『 過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず 』

【 通解 】 
『 過去にも現在にも、末法の法華経の行者を軽蔑し、卑しめる者は、初めは何ごともないようであっても、最後には必ず滅びる 』

【 指導 】
* 平左衛門尉は、日蓮大聖人の戒めにも耳をかたむけることはなかった。 おごり高ぶる権力者。 いくら立派に見せ、立派なことを言っても、その本質は、民衆利用である。 魔性である。 平左衛門尉は、まさにこの御聖訓のとおりになった。 一族もろとも滅亡する無残な末路を遂げた。 因果の理法は厳然である。 その裁きからは、何人たりとも逃れることはできない。 長く見ていけば、必ず結果がでる。

< 御書とその心 >より


平左衛門尉頼綱は、その権勢に驕り、鎌倉を襲った大地震の混乱にまぎれて、主君の軍勢に屋敷を襲われ、屋敷もろとも焼き払われて悲惨な最期を迎えました。 地元の民間伝承では、焼けながら屋敷もろとも地中に没したと伝えられています。 実際に地中に沈んだのかは知るよしもありませんが、そのように見えたほどに凄惨な驚きの出来事だったのでしょう。 このとき、熱原の法難で、蟇目矢を射て神四郎ら信徒に念仏を強要した頼綱の次男・助宗も誅殺されております。 竜口の法難から22年目のことです。 創価を軽蔑し、卑しめる現代においても、同じ原理であります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2012-02-08(Wed)
聖教新聞の文化欄を何気なく見開いたら、「 月曜に乾杯 」 という字が目にとまり、わがブログと同じような言葉だ、と、見てみると、「 汽車はふたたび故郷へ 」 という新作映画の紹介と監督のインタビュー記事でした。 わたしが初めて知る監督で、オタール・イオセリアーニという方です。 資料を読んでみると、過去にカンヌ国際映画祭・ヴェネチア国際映画祭・ベルリン国際映画祭などで高い評価をされている監督と記されています。 旧ソ連のグルジアで生まれ、短編映画を何本か手がけてから「 四月 」という作品をはじめ、いくつか発表しましたが、ソ連政府によってたびたび上映禁止にされたため、フランスに活動の拠点を移して活動してきた監督です。 作品には日本でも上映された「 素敵な歌と舟はゆく 」 、 「 月曜に乾杯 」 、 「 ここに幸あり 」 があるそうです。 
今回は主人公が映画監督で、自国での映画製作に絶望し、新天地を求めてフランスに旅立つという、監督自身を投影したような作品になっているようです。

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(Wikipedia PD Alsandro)

監督はインタビューのなかで、「 権力を持つということは、一時的なことです。 しかし、思想を持つことは一時的なことではありません。 」 と、権力者は ” 期限付き ” であると指摘し 「 葛飾北斎であれば永遠です。 権力は短く、芸術は長いのです。 」 と、アーティストは、自らの思想や良心を貫いていくことが尊いと話しています。
また、 「 多くの人にとって貧しさは自然なものですが、不正に蓄財した人は絶えず良心がうずくのです。 彼らは幸福ではありません。 例えば、自ら額に汗しないで得たお金を持つ若者が、愛情ではなく外見だけで伴侶を選んだとしましょう。 彼にはさまざまな困難を共に乗り越えるとか、子どもを立派に育てて家族仲良く慕らそうとか、そういうことが結婚の中に入っていない。 そこには打算があり、高貴さが欠けています。 そういう人生は、あたかも死んでいるような人生です。 本当に生きるためには真面目なことをすべきでしょう。 不正な富を持つ人々は、本当の人生を見失ってしまった不幸な人です。 しかし、そういう人をも愛すべきだと、わたしは思っています。 」 と、私たちに、打算でなく本当の人生を生きてほしいと訴えかけています。

この記事を読み、わたしは興味を持ち、見に行きたいと思いました。 

2月18日(土)から東京の岩波ホールをかわきりに、順次ロードショーされるそうです。
Category : 趣 味 Comment : (2) |

No title * by 靖 司
初めまして。そして、まずはごめんなさい。月下さんブログのFT(No.4)にて夕焼けさんと他のゲストの方との会話に横レスをしてしまった事で月下さんより注意を受けた者です。万が一、夕焼けさが「非礼」だと受け止められる乱暴な表現があったとするば、それは私の本意ではありません。申し訳ありませんでした。

No title * by 夕焼け
靖司さん、ようこそ。

文章書いて、クリックして、見て、あ! しまった。
わたしもありますよ。 (^^
コメントは字数制限もあるし、コメント欄は小さいし、
前の文章(やりとり)見るのも手間かかるし、わかります。

あれは、彼に答える価値がないの意味です。

2012-02-07(Tue)
今日の聖教新聞の新・人間革命(薫風 9)を紹介いたします。

昭和52年(1977年)の北九州文化会館(現・北九州平和会館)で、池田先生の句碑の除幕式が行われ、その後、男子部幹部との懇談のおり、四年前に行われた九州青年部総会(1973年)で激励した歯科医師の青年たちが、今回の先生を迎える運営役員として来ていることを知って、池田先生が招き入れ、面談したときの様子が描かれています。


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(聖教新聞2012年2月7日付 新・人間革命 薫風 9)

* 「 みんな、よく知っています。 四年前、北九州で行われた九州青年部総会のあとに、お会いしました。 ほかの二人は元気かな 」
 
福富淳之介が答えた。
 
 「 二人とも、今日は役員として、この会館に来ております 」
 
 「 それなら、すぐにお呼びして! 」

 ほどなく三人の青年歯科医がそろった。 福富と、大内堀義人、三賀正夫であった。

 「 懐かしいな。 みんな、歯医者さんらしくなったね。 歯科医師が男子部の幹部となり、役員として、陰の力に徹し、黙々と頑張っている。 その姿が尊いし、私は嬉しい。 それが、創価学会の本当の姿です。
 社会的に、それなりの地位や立場を得ると、自分が特別に偉いかのように思い、学会員を見下したり、学会活動を軽んじるようになってしまう人もいます。
 しかし、医師だから、弁護士だからといって、特別に偉いわけではない。 どの職業も、社会に必要なんです。 優秀な医師でも、おいしいお米を作ることはできないし、有能な弁護士だからといって、家を建てることはできない。 職業に貴賤なしです。
 ところが、自分がいちばん偉いのだと勘違いしてしまい、地道な仏道修行を怠り、信心という一生成仏への直道を、踏み外してしまう。 これほど、愚かなことはありません。
 自他共の、生涯にわたる絶対的幸福を築くだけでなく、未来永劫の幸福の道を教えているのが仏法です。 永遠の平和と人類繁栄の哲理を説いているのが仏法です。
 ゆえに、その仏法を実践し、伝え抜いていった人こそ、いちばん尊貴で偉いんです。 どうか、皆さんは、社会的な地位や立場に幻惑されるのではなく、どこまでも一途に、真の仏法者として、創価の大道を歩み抜いてください 」

< 新・人間革命 薫風 9 >より


読んでいて、つくづく ” そのとうりです。 ” とわたしは心の中で繰り返していました。 納得し、自身の良心と共鳴する創価の心に、改めて誇りを感じます。 池田先生とお会いすることが出来てほんとうによかった。 うれしい。 牧口先生・戸田先生・池田先生がおられればこそ、信心修行に励み、功徳をいただくことが出来る。 勇気と確信をいただき、真のヒューマニズムで大きく暖かく包み込んでくれる師匠は、そうはいません。 同じ信心していても師匠によるのです。 創価の師匠の存在は大きく偉大なのです。 日蓮大聖人の信心の血脈は、今そこにあるとの想いに至ります。
Category : 創 価 Comment : (2) |

No title * by あべひ
差し出がましいようですが記事の引用と共に、イラストにも当然著作権がありますので、利用される場合は出典先を別途表記しておくとモアベターです。

No title * by 夕焼け
あべひさん、よくいらっしゃいました。 (^^

了解しました。 理由を自分なりに調べて対応します。
ありがとうございます。

2012-02-06(Mon)
この御抄は建治元年(1275年)5月に身延において、鎌倉に住む妙一尼御前に送られたお手紙で、日蓮大聖人54歳のときの御書であります。 この前年には佐渡流罪を赦免されて身延の地に移り、令法久住のための戦いを始められ、池上兄弟や曽谷教信の問題等も起こり、門下に対して多くの激励のお手紙を書かれています。 熱原の法難の端緒となった、日興上人の折伏による滝泉寺大衆の改宗もこの年であります。


【 要 文 】

『 大覚世尊・御涅槃の時なげいてのたまはく・我涅槃すべし但心にかかる事は阿闍世王のみ、迦葉童子菩薩・仏に申さく仏は平等の慈悲なり一切衆生のためにいのちを惜み給うべし、いかにかきわけて阿闍世王一人と・をほせあるやらんと問いまいらせしかば、其の御返事に云く 「 譬えば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し 」 等云云 』

『 文の心は人にはあまたの子あれども父母の心は病する子にありとなり、仏の御ためには一切衆生は皆子なり其の中罪ふかくして世間の父母をころし仏経のかたきとなる者は病子のごとし、しかるに阿闍世王は摩竭提国の主なり・我が大檀那たりし頻婆舎羅王をころし我がてきとなりしかば天もすてて日月に変いで地も頂かじとふるひ・万民みな仏法にそむき・他国より摩竭国をせむ、此等は偏に悪人・提婆達多を師とせるゆへなり、結句は今日より悪瘡身に出て三月の七日・無間地獄に堕つべし、これがかなしければ我涅槃せんこと心にかかるというなり、我阿闍世王をすくひなば一切の罪人・阿闍世王のごとしと・なげかせ給いき。 』

『 仏語むなしからざれば法華経ひろまらせ給うべし、それについては此の御房はいかなる事もありて・いみじくならせ給うべしとおぼしつらんに、いうかいなく・ながし失しかばいかにや・いかにや法華経十羅刹はとこそ・をもはれけんに、いままでだにも・ながらえ給いたりしかば日蓮がゆりて候いし時いかに悦ばせ給はん。 又いゐし事むなしからずして・大蒙古国もよせて国土もあやをしげになりて候へばいかに悦び給はん、これは凡夫の心なり、法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を 、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には 「 若有聞法者無一不成仏 」 ととかれて候。 』

『 故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや、彼の雪山童子の半偈のために身をすて薬王菩薩の臂をやき給いしは彼は聖人なり火に水を入るるがごとし、此れは凡夫なり紙を火に入るるがごとし・此れをもつて案ずるに聖霊は此の功徳あり 』

『 さどの国と申しこれと申し下人一人つけられて候は・いつの世にかわすれ候べき、此の恩は・かへりて・つかへたてまつり候べし 』
Category : 御 書 Comment : (4) |

No title * by カイ
はじめまして(゚-゚)
とりあげて下さる御書にいつも感銘をうけています。
これからも楽しみにしています。

No title * by 夕焼け
カイさん、初めまして。
御書に励まされますよね。

唱題と仏法対話と御書が、創価の三つの黄金柱です。
一つとして欠けても、信心が停滞します。
その反対に、三つ揃えば、鬼に金棒です。
その醍醐味を、ぜひ味わってください。 (^^

これからも、よろしくお願いします。

No title * by SHIn
池田先生は教学の面で青年にこう呼びかけておられます“求道の炎を燃やし五大部に挑戦をして頂きたい。その上に立って御書の一節でも良い身読していく事だ”と。夕焼けさんの御書の引用及び先生の指導の引用はその意味に於いて大変助かっております(^O^)さすがは広布の黄金柱!ですね☆唱題&仏法対話&御書が学会の信心における三大利剣なのですね!御書は難しいですが教学面ではこのブログを参考にさせて頂きます!

No title * by 夕焼け
SHInさん、おはようございます。

今、大白蓮華で連載の、
現代語訳の御書と一緒に進めるといいでしょうね。
五大部、頑張ってください。 (^^
創価の精神・先生の心とは、
日蓮大聖人の御心から出ているものと同じなのです。
御書を読むと、それがよく判ってきます。
理論も大事ですが、そこを掴んでください。

2012-02-03(Fri)
今週は世界文化遺産と音楽を紹介いたします。

誰もが知っている世界遺産のアルハンブラ宮殿。(グラナダの世界遺産) この建物は、14世紀に建てられたイスラーム建築です。 スペインにイスラム?とお思いでしょうが、グラナダはイスラーム教徒であるムーア人が長く住んで支配していた土地であります。 アルハンブラは、グラナダの丘の上にある小さな城塞に、増築するように建てられた中庭のある回廊建築で、後にキリスト教徒により改築されますが、イスラーム独特の文様やスタイルが残っており、往時の美しさを彷彿とさせてくれます。 この建物を見ると、人間というのは、実に多様な、すばらしい感性を持っているんだと痛感いたします。

よい週末をお過ごしください。 (^^

・ アルハンブラの想い出
Category : 音 楽 Comment : (0) |
2012-02-02(Thu)
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SGI池田会長は折々の会合で御書をひもとき、次のように語られております。


【 本文 】 十如是事 (P411) 
『 秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり。 

【 通解 】 
『 秋の稲には、早稲と中手と晩稲と、実りの時期が異なる三種の稲があっても、いずれも一年のうちに収穫できる。 それと同じように、この仏法においても、衆生の機根に上・中・下の違いがあっても、皆、平等にこの一生のうちに、諸仏如来と一体不二の仏となることができると思い合わせていくべきである 』

【 指導 】
* どんな人でも、皆、平等に一生のうちに最高の幸福境涯を開いていける ―― これが、日蓮大聖人の大仏法である。 一生のうちには、喜びの日もあれば、悩みの日もある。 天候だって、一年中、快晴というわけにはいかない。 しかし 「 煩悩即菩提 」 の信心によって、一切を成仏、すなわち絶対的な幸福境涯への糧にしていくことができる。 今世の信心の勝利は、即、三世永遠の勝利に通じていく。 ゆえに信心だけは貫ききっていくことである。 作物も、育てきってこそ、すべての労苦が生きてくる。

< 御書とその心 >より


信心を貫き徹すならば、一生の内に成仏できるとの日蓮大聖人のお約束であります。 一生成仏するならば、生々世々、自在に、桜梅桃李の使命にふさわしい所、ふさわしい姿で生まれてきて、崩れない幸福境涯を示しながら、常楽我浄を奏で、福徳に溢れ、所願満足の人生を、生まれるたびに続けることができるのです。 今世で、仏道修行に励むことの重要性がここにあります。 生命は峻厳です。 死しても、宇宙に遍満する仏の生命と不二の状態になって、歓喜のうちに包まれていくか。 地獄の生命と不二の状態になって、間断ない苦しみに捕まるか、一生の内で掴んだ境涯・業が生死を貫いていくのです。
Category : 御 書 Comment : (2) |

No title * by さば
夕焼けさん

BLOGの運営、いつもお疲れ様です!

創価系ブロガーに捧げたい「敵の攻撃に負けない為の5つのコツ」
と銘打って、駄文をつづってみました。

もしおひまがあれば、ご一読頂ければ幸いです。

ご多幸、ご成功を心より祈っております!

http://supersaba.exblog.jp/17732965/

No title * by 夕焼け
さばさん、おはようございます。

五つ目のコツ。
わたしは、「 ムダな戦い(論争)はしない 」でしょうか。
初期のネットの世界を経験して、
価値的な時間や効果を考えて行動することにしました。
もう、寿命も短いですから。(笑)

2012-02-01(Wed)
今月の2月11日は、創価学会第2代会長戸田城聖先生の生誕の日であります。 戸田先生2歳のとき、一家は石川県から北海道厚田村に移り住んできます。 そして戸田先生は幼少・少年時代を厚田村で過ごされて、両親が暮す故郷となります。 この詩は、池田SGI会長が、恩師戸田先生とこの地を訪れたおりに作られたもので、後に曲がつけられ、学会歌として広く親しまれるようになりました。

わたしは、26歳(昭和53年5月)のとき、開設まもない厚田墓園(戸田記念墓地公園)を訪れる機会があり、翌日、戸田先生の故郷である厚田村にも行きました。 今はインフラも整って開けておりますが、当時は、開拓地を思わせるような、小さな海辺の寒村でありました。 その日はあいにくの天候で、海は荒れて、銀色の海に白波が起ち、風が強く吹いておりました。 わたしは、海に突き出た小さな突堤の先までゆき、静止しているかのように、風に逆らいながら飛んでいる海鳥を見つめ、風と波と雲と廻りにある総てを感じ取ろうとして、しばらく、じっとそこに身を置いていました。

この歌を聴くと、その時のことを思い出します。

・ 厚田村 - 恩師の故郷に憶う -


                  作詞:山本 伸一
                  作曲:杉野 泰彦北
       
       海凍る厚田村
       吹雪果て無く貧しくも
       海邊に銀の家在りき
       是ぞ榮有る我が古城

       春夏詩情の厚田川
       鰊の波は日本海
       松前藩主の拓きしか
       斷崖屏風と漁村庭       

       少年動かず月明かり
       傳記と歴史の書を讀みて
       紅顏可憐に涙有り
       正義の心の鼓動樂       

       痛まし針の白髮に
       不正に勝てと厚司織る
       母の祈りに鳳雛も
       虹を求めて天子舞      

       暖爐に語りし父も又
       網を繕ひ笑顏皺
       權威の風に丈夫は
       征けと一言父子の譜       

       厚田の故郷忘れじと
       北風包みて美少年
       無名の地より世の爲に
       長途の旅や馬上行
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