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2011-08-31(Wed)
今日は、いままで御本尊について記事にしてきましたが、わたしが思索の基にした御書の文の一部を掲載したいと思います。


< 御義口伝 >
第五見大宝塔住在空中の事
『 御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり。 

第三唯以一大事因縁の事
『 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり 』

第十六得見恒沙仏の事
『 御義口伝に云く見恒沙仏とは見宝塔と云う事なり、恒沙仏とは多宝の事なり多宝の多とは法界なり宝とは一念三千の開悟なり法界を多宝仏と見るを見恒沙仏と云うなり、 

第十七不軽菩薩の礼拝住処の事
『 御義口伝に云く礼拝の住処とは多宝塔中の礼拝なり、 』

< 生死一大事血脈抄 >
『 釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、 』

< 諸法実相抄 >
『 釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、 』
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2011-08-30(Tue)
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博多に行くときに撮った富士山です。 今までで一番良く撮れたものです。 火口の形が八葉蓮華に似ていることから、多宝富士大日蓮華山とも呼ばれるようになったと言われています。

山というのは高みに行くほどに、厳しい環境となり、ときとして、寒風にさらされ、雨に打たれ、吹雪に覆われます。 その山肌には、苦闘に耐え忍んだかのようなシワが、深い筋となって幾重にも見えます。 それでも、泰然自若とした雄姿をこのように見せてくれる富士に、わたしは、凛とした美しさを感じます。
人間革命の道に飛び込み、額に汗を浮かべながら、友の幸せを祈り、心無い罵声に耐え、幾山河を乗越えた同志の姿にも似た富士山。

いいですねぇ。 
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2011-08-29(Mon)
先週から図書館で勉強。 日曜日、図書館に行くのに旧学会本部のあった西神田に寄ってみました。
学生時代、大学に近いために何回か訪れている場所ですが、久しぶりです。 学生時代には旧本部の建物は現存していましたが、いまは再開発のためにオフイスビル街と変貌し、建物も取り壊されて残っていません。

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記憶を頼りに在った場所を探してみましたが、取り壊されているとさっぱりわかりません。 そこで、勉強の合間に、古い住宅地図を調べてみました。すると、昭和28年の地図に東京建設信用組合と記したところがあり、ここが旧学会本部があった建物でしょう。 同じ場所で、昭和61年の地図には一茶庵と記されています。 インターネットで調べたところ旧学会本部が後に蕎麦屋一茶庵として使われていたことが判明。 古い一茶庵の写真を見ると、店の前に電話ボックスがあって、現在でも残っていますので、ほぼ位置が特定できます。(今の図書館はすごい) 電話ボックスが移動してる可能性も考えられますが、地図と航空写真を照らし合わせて、帰りに建物の位置を現地に落としてみると、ほぼ電話ボックスのところと一致しました。

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広宣流布の黎明の舞台となった牙城。
できれば跡地に銘版ぐらい置きたいですね。 (^^


※ 図書館で検索した参考URL(こちらのほうが、読み応えあります。) 
  http://tomonori-science.cocolog-nifty.com/blogwrite/2009/02/post-42ff.html
  このHPにある、当時の面影を忍ぶことができる建物は、工事中でした。



Category : 日 記 Comment : (0) |
2011-08-28(Sun)
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(写真:SGIグラフ)


日本全国で地区座談会が行われました。 創価の伝統の行事です。
そこで話される功徳の体験談、新入会者の感激の報告、男女青年部の決意、一人一人の近況、友好活動の報告、学会歌、未来部ビデオ、日蓮大聖人の御書の研鑽と、もう盛りだくさんの内容に、笑ったり、感動したり、ほんとエネルギーをいただきました。 座談会はいいですね。 (^^

8月27日付けの聖教新聞には、スペインの " ZADANKA I" の様子が紹介されていました。 全土250箇所の会場で開催されるそうです。 記事の内容は、3つの地域の活動家が座談会の様子や、どのように開催しているかという活動をレポートしたものです。 その中から、記事の言葉を切抜きして紹介しましょう。


・ スペインのカブート理事長
「 池田先生が教えてくれた 「 一人を最大に尊敬する 」 心こそ、座談会の根本姿勢です。 」

・ バルセロナ女子部グループ長
「 深刻な経済危機に、メンバーの多くが悪戦苦闘しました。 しかし、一人一人が信心で現実の壁に挑み、今では全員が仕事に恵まれています。 その原動力となったのが座談会です。 」
「 励ましあって共に前進しています。 支えてくれる同士がいる暖かなSGI(創価学会インターナショナル)の集いこそ、皆の勇気の源泉です。 」
「 座談会には、多くの新来者が集いますが、こちらが誘うよりも、友人の方から行ってみたいと言われるケースがほとんどです。 なぜなら、私たちは職場や地域で、日常的に仏法対話を行っています。 功徳の体験、信心の歓喜を語らずにはいられないからです。 まさに「実証に勝る雄弁なし」ですね。 」

・ ラ・パルマ島地区部長
「 私が島に移り住んだ2007年当時、メンバーは2人だけでした。 ならばと、私自身が折伏の先頭に立って対話に挑戦。 一昨年には、待望のラ・パルマ地区が誕生し、現在は3グループの体制です。 (中略) 会合参加者は、4年間で実に40人に拡大しました。 」
「 リーダーが心を一に題目を唱え、綿密な準備をします。 事前の訪問激励も重要です。 メンバーの家庭の状況によっては、わたし達の家に招いて共に唱題するなど、必ず「会う」ように心がけています。 」
「 座談会には、未入会の家族や新来者も出席しますが、皆、良い印象を持って還っていきます。 新会員が多く、信心即生活の新鮮な体験に満ち溢れているからこそ、誰もが喜んで参加するのです。 」  

・ トレモリーノス婦人部グループ長
「 メンバーは今、この不況下にあって全員が仕事を勝ち取り、その顔ぶれは会社経営者、演劇監督、マッサージ師など多種多彩です。 誰もが題目を根本に苦境を乗り越えた体験を持ち、毎回の座談会では喜びの報告が後を絶ちません。 」
「 最近では、友人が新たな友人を誘って再び集うなど、体験談を通して、宿命転換の仏法への共感が広がっています。 (中略) 座談会成功の秘訣―それは「題目」と「激励」です。 」
「 リーダーは一人一人のもとに足を運び、じっくりと語り合っています。 特に新会員の友とは毎回、勤行・唱題を行うようにしています。 リーダーが祈り、動き、成長した分しか人は成長しませんから。 」


これを読んで信心してる方でも、身につまされる方もいるかもしれません。 世界の同志に負けず、励ましの最高の座談会を作り上げましょう。 信心してない方は、 ” ウソだろう ” 、 ” 宣伝にすぎない ” 、 ” 誇張だ”と思うでしょう。 残念ですね、こんな世界があることを知らないなんて、もったいない。 これが今の創価の姿であり " ZADANKAI " なのです。
Category : SGI Comment : (10) |

No title * by 圓蔵
こんにちは。

なぜ学会では豁然として悟りを開いた体験談、すなわち即身成仏した体験談がないのかが不思議なのですが。

朝夕の勤行時に佛界が涌現している等の指導で誤魔化されてはいませんか。佛道修行の目的が願望実現になっているように思えますね。

No title * by 夕焼け
圓蔵さん こんばんは。 質問ありがとうございます。

圓蔵さんは、悟りを開いた方なのでしょうか?
悟りを開いた仏の境涯から、仏とは何なのか、その境涯と振舞い、どんな生き方なのか教えてください。
また、圓蔵さんがおっしゃる悟りは、なにをもって悟りとするのか教えてください。

No title * by 圓蔵
>圓蔵さんがおっしゃる悟りは、なにをもって悟りとするのか教えてください。

学会員さんは嫌がるかも知れませが、一例として愛宮真備「禅 悟りへの道」明治時代の著名な禅僧・今北洪川の体験を抜粋します。

《ある夜、座禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光りが私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。私の見、聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現したのであった。あまりの喜びに私は思わず両手を上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ。本当に不思議だ。』》

そして、西洋ですが1971年、アポロ14号の月着陸船に乗り組こんだエド・ミッチェルの類似の体験が「宇宙からの帰還」ありますね(立花隆、中央公論社刊)。←図書館で借りるなりしてください。最近はネットを見ても類似の体験をされている方々がおられるようですね。宗教を信仰していない一般の方々ですが、逆にその体験がもとで仏門に入る人もいるようです。

No title * by 圓蔵
>悟りを開いた仏の境涯から、仏とは何なのか、その境涯と振舞い、どんな生き方なのか教えてください。

衆生本来仏なり、という言葉がありますが究極的には我々衆生が仏でしょう。しかし、先に挙げた開悟体験をしないと凡夫の拙さでそれがなかなか解らない。

管理者様のいう、境涯、振舞い、生き方が悟り体験というなら、ゴータマ・ブッダが菩提樹の下で坐して瞑想して得た悟りは何だったのでしょう。振舞い、生き方から縁起の理法や四諦八正道は出て来るのでしょうか。それに時代を経て空の思想や大乗経典の編纂に繋がると思いますか。

天台大師の大蘇山の開悟は、学会員さんのいう境涯、振舞い、生き方だったのですか? それで一念三千の思想が出て来るとでも思いますか?

もちろん振舞いや生き方を否定する訳ではありませんが。しかし、学会の指導でいう勤行時の仏界の涌現は違うでしょうね。それは薄々、学会員さんたちも気が付いているとは思います。

No title * by 圓蔵
連投申し訳ありません。

しかし、人間は誰しもブッダになれる可能性があるとは法華経の思想ですが、悟るのに宗教の有無、信仰の有無は関係ないでしょうね。

信仰の次元ならばともかく、学術的には日蓮の言説がそのままでは現代には通用しないように(全否定をしている訳ではありません)。

No title * by 圓蔵
すみません。もう一つ。

>圓蔵さんは、悟りを開いた方なのでしょうか?

私はまだその体験をしていません。ただ興味はあります。しかし、衆生本来仏ならば、ただ今の人生を当たり前に生きるのも悪くはないと思っています。もちろん、人生ですから酸いも甘いも色々あるでしょう。嫌なこともあります。人間ですから、それでも日々に感謝でしょうか。

楽も感謝ですし、労苦もまた感謝です。

No title * by 夕焼け
圓蔵さん、ご意見ありがとうございます。

お互い、まだ真に仏の姿を顕していないという点では一致しているようです。 (^^

即身成仏とは、人間がそのままの姿で仏に成るという意味にわたしは理解しています。 鼻くそをほじくりながら、話すおばちゃんのままということです。
悟りがないと成仏したと言えないというのが、圓蔵さんの立場でしょうが、神秘体験がウソとは思っていませんが、神秘体験が仏の悟りとは思いません。 そのような神秘体験が仏の悟りなら、獄中で戸田会長の悟達体験(http://situmon30.blog122.fc2.com/の生命論)も仏の悟りといえるでしょう。 わたしが体験したことも(http://blog.livedoor.jp/yuyakeci/archives/5292732.html)そう言えるかもしれません。 イエス・キリストも覚知した一人です。 ただし、宇宙の菩薩界と己心の菩薩界の感応であったとわたしは見ています。 さらに、デカルト・キルケゴール・ニュートン・ベートーベンの体験などは、独覚と言われる縁覚界の境地冥合だと見ています。 
仏の境涯、振舞い、生き方について、お聞きしたのは悟達が真実かどうかは、悟達した人の生き方に見てとれるとわたしは思っているからです。 ただ独り悟るだけなら、何の価値も無いことです。 そんなものに興味はありません。 釈迦は三世に通達した後に八軍の魔を破りさり、民衆救済の旅に就きます。 命を狙われ、誹謗され、弟子の不信にも見舞われ、それでも一人の人間を仏に成さんと渾身の激励と法を説いていきました。 釈迦が説いた経々の内実は釈迦の振舞いにあるとも言われているくらいです。 仏としての振舞い、生き様が見えない人の悟り(悟達体験)は、ウソか勘違いか、そのどちらかです。

No title * by 夕焼け
圓蔵さんは、ばかにしていますが、御本尊に南無妙法蓮華と唱えることで、己心にある仏界を開き、仏と同じように生きようとするならば、もうそれは仏だとするのが、日蓮大聖人の教えです。 みすぼらしい仏だとお思いになるでしょうね。 たとえ、智慧が足りなくても、病気をしていても、貧乏でも、薄氷を踏むような苦しみの中に居ようとも、耳が聞こえなくても、目が見えなくても、五体不満足でも、南無妙法蓮華と唱えれば御本尊の仏界と境地冥合して、そのままの姿で仏と成っていくというのです。 煩悩即菩提、生死即涅槃の姿です。 単なる、高揚感でないことはわたしも含め創価の人間が一番良く覚知しています。 

>悟るのに宗教の有無、信仰の有無は関係ないでしょうね。

仏を除いてはそうでしょうね。 仏に関して法華経はそうは言っていません。 この経を信じないで、受持しない人は仏に成ることは出来ないし、無間地獄の業を積むと説かれています。 仏の経々を意味が無いとする考えは禅宗の考えに通じ、仏の教えを愚弄する、自分勝手な考えです。 仏になる方法は一つしかないのです。 釈迦が仏に成ったのは、過去世に南無妙法蓮華経と御本尊に唱え、菩薩の行をしてきたからで、もともと仏になっていたから今世でも仏と覚知できたのです。 創価の信心している姿は、釈迦の過去世の姿と同じなのです。 
宗教の高低、信仰の浅深はとても大切なのです。 関係が深いのです。 「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」とは、日蓮大聖人の教判です。

大乗非仏説の立場の圓蔵さんとは、かみ合わない議論かもしれませんね。(笑)

功徳と願望実現については、ブログのテーマとしていずれ書きますので、今回はここまでとします。

No title * by 夕焼け
追伸

わたしは、生も感謝、死も感謝です。

No title * by 圓蔵
御返事ありがとうございましたm(_ _)m

>釈迦が仏に成ったのは、過去世に南無妙法蓮華経と御本尊に唱え、菩薩の行をしてきたからで、もともと仏になっていたから今世でも仏と覚知できたのです。 

これは歴史的事実ではないですし、日寛教学ですよね。私の私見ですが学会教学は少しずつ日寛教学(大石寺教学)から離れて行くと思います。

>大乗非仏説の立場の圓蔵さんとは、かみ合わない議論かもしれませんね。(笑)

同感です(笑)

追伸について、

私の掴んだ生命観は、すべてに感謝でした。

あと、たびたびコメントして申し訳ありませんでした。ついつい学会員さんのブログを拝見すると意見?を言いたくなってしまいまして。

2011-08-26(Fri)
今日は、10年近く前に観た韓国の映画「猟奇的な彼女」からシン・スンフンさんが歌う「I Believe」を紹介します。
たいていの人は「冬のソナタ」でしょうが、わたしはこの映画を観て韓流にハマリました。 韓流にハマリましたが「冬のソナタ」は未だに観ていません。 (^^; 

よい週末をお過ごしください。(^^

・ I  Believe
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2011-08-25(Thu)
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創価の信心をされてない方と話をしてると、 ” 信心していても、病気していたり、貧乏じゃないか ” とか ” 信心してる人でも地獄の苦しみを受けているじゃないか ” と言って、他の宗教を批判する創価を非難します。 しかし、この非難はとても低劣なものなのです。 それは大半が裏づけのない感情から出ているものだからです。
 
まず、 ” 信心していても、病気していたり、貧乏じゃないか ” という非難ですが、これは、信心することと創価の会員であることを一緒くたにした非難です。 創価の会員であれば、全員が信心を正しく、まじめに実践していると決めつけて、都合よく評価しているのです。 よく考えれば、道理を無視しているのが判るのですが、感情がそうさせるのでしょう。 創価の会員になるだけで、宿命転換して幸福になるわけがありません。 ダイエット教室の生徒になっただけで、ダイエットできるなら苦労はありません。 そんな簡単にいくわけがありません。 この非難の背景には、世間のお粗末な宗教観があります。 それは、宗教が”棚からボタ餅”的な、他力本願なものだという認識です。 これは願望といったほうがいいかも知れませんが、自己の因果を置き去りにした一方的な論理なのです。 創価はそんな非科学的な立場はとりません。
それから、この非難は三世の生命観を知らない、あるいはわざと無視した非難なのです。 今でも非難しているのに、過去世にどれだけこの正しい仏法を非難してきたか、人には正法誹謗の罪がどれだけあるか知れないのです。 また、貪・瞋・癡の命で、どれだけ人の心と体を傷つけてきたか、その人の宿業のバランスシートがどうなっているのか、そういうことを無視して評価しているのです。 無明の雲に覆われて、命も濁っているのが末法の衆生だといわれています。 創価の会員は宿業に今世で苦しみ、道心から、発心して信心を始めた人も多いのです。 その宿業を、信心で転重軽受して転換する作業をしているのです。 信じれば何もかもチャラにしたいでしょうが、そんなことはできないのです。 それが生命の実態なのです。 そのために、病気や貧乏と向き合い、御本尊に唱題し、仏法対話をして、仏の生命を湧現させながら、その生命力と智慧と努力で、諸天善神の加護を呼び起こし、福運をつけて一つ一つ宿業を消していっているのです。 あるいはバランスシートを書き換えているのです。 その時点を見たときは不幸にみえても、そうではないのです。 その証拠に、まじめに着実に信心を実践している人は、みごとに苦難を乗り越え、人生の勝利を修めているのです。 それは仏法の永遠の生命の原理から見れば当然の歩みなのです。 同じ学生で、司法試験に合格するために、血の滲むような苦労をしている人を見て、苦しんで哀れなやつだと笑って、遊びふける人は愚かだと思うでしょ? 仏法は道理なのです。

それでも、信心してない方から見れば、まじめに信心していても、事故で死んだり、難病で死ぬ子供がいたり、地獄の苦しみを受けていると言いたいでしょう。 それについては、これからのブログ記事で体験談を紹介しながら触れていきますので、今後も引き続きこのブログを見ていてください。 (^^
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2011-08-24(Wed)
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(写真:SGIグラフ)


前にも書きましたが、御本尊は五字が首題で、南無が境地の冥合を表わし、日蓮唱うるところの七字となっています。 しかし、それでいいのかというとそうではなくて、十界を互具と開き、五字相対して仏界即九界、南無相対して九界即仏界としています。 仏像信仰のように五字でいい、としないのが日蓮大聖人の心なのです。 余の十界あるいは余の三千とは、御本尊の南無妙法蓮華経日蓮以外のことを指しています。 釈迦・多宝を含めた、ことごとくをいいます。 虚空会では十方の諸仏が出てきますが、御本尊には見当たりません。 実は多宝塔のもとに雲集した十方の諸仏は、霊山の衆悉くが記別を受け、虚空会で成仏している姿のことであり、御本尊の中では、日蓮大聖人を導師として余の三千総てが、そのままの姿で南無妙法蓮華経と唱えているのです。 如来秘密といいまして御本尊は法を説きませんから、わたし達には聞こえませんが、唱えているのです。
 
ここで、三大秘法について新たな視点で考えてみようと思います。 
ご存知のように、本尊とは、日蓮大聖人のことであり、滅後の御本尊のことであります。 題目とは、日蓮大聖人が唱えはじめ、我らも唱え伝える南無妙法蓮華経であります。 戒壇とは、我らが信をもって行ずる処であります。 これがいわゆる三大秘法です。 これを、二処三会に移してみようと思います。 すると、多宝が御本尊、釈迦が名字の凡夫で、唱えるところの題目、並座宝塔が戒壇で三つの秘法となります。 また、虚空宝塔が御本尊、十方の諸仏が霊山の大衆で、唱えるところの題目、虚空会が戒壇で三つの秘法となります。 更に、虚空会が御本尊、霊山の大衆が我らで、唱えるところの題目、霊山会が戒壇で三つの秘法となります。 広宣流布の暁には、御本尊に、我等が一同に南無妙法蓮華経と唱え、唱える処の師子の座で三つの秘法となります。 この三大秘法の中で題目は南無妙法蓮華経の文字ではありません。 唱える音声・一心としての南無妙法蓮華経のことです。 唱える主体、つまり「人」が必ずあっての唱えられる題目をいいます。 
三大秘法は御本尊に総在としてあります。 しかし、大法弘通慈折広宣流布がないと事の三大秘法は完結いたしません。 我等が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは、日蓮大聖人の仏法において大事中の大事、本懐中の本懐、秘法中の秘法といえるのです。 わたしたちが地涌の菩薩として日蓮大聖人に連なる風景こそ、三大秘法の峰であり、霊山一会儼然未散の文をあらわすものなのです。

戒壇の御本尊があれば三大秘法は揃ってると勘違いしているのが、番人ぼけした今の宗門・法華講であり邪宗門なのです。 700年あまり、日本で3万人程度の勢力にしかならず、最後は崩壊寸前の姿だったのが、創価の出現から80年、三代会長の不自惜身命の歴史、世界192カ国におよぶ1000万世帯の陣容が、なにを物語るのか、明々白々であります。 わたしたちを、戒壇の御本尊から遠ざけても、信の一字で行ずる生命の絆を断ち切ることは出来ません。 日蓮大聖人から信心の血脈を受継ぎ、一閻浮提広宣流布の道を行くのは創価において他にないのです。
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No title * by かどやよしたか
ごほんぞんのなかでは、にちれんだいしょうにんをどうしとして、よ、の、さんぜんすべてが、そのままのすがたでなんみょうほうれんげきょうととなえているのです。 わたしもいろいろとしさくしているうちに、あるひ、ふと、このことにきずきました。 そのひいらい、ごんぎょう、しようだいがいちばんのしあわせになりました。 このきじをよませていただいてあらためてこのことをさいかくにんできました。 どうもありがとうございます。 シエ、シエ

No title * by 夕焼け
かどや さん こんばんは。

わたしは、信心を始めたころ、実証の体験で、この信心は凄いと肌で感じましたが、南無妙法蓮華経と御本尊だけは理解できずにいました。本来は理解でなく感得することなのでしょうが、わたしは理解したいと思い続けていました。今でも理解できたとは思っていませんが、ほんのすこし、意味を見出すことができ、信心の確信を深めることができました。我見に陥らないよう、細心の注意と御書を徹底的に学び、思索を続けていきたいと思います。

2011-08-23(Tue)
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数年前、大島に運転免許を取得するため飛行機に乗って教習所に向かったときの景色です。 三浦半島と富士山と伊豆半島が一望に広がっていました。 いままで国内外の飛行機では、このような位置で見ることは無かったので、新鮮な風景でした。 一望に見えるところは、日蓮大聖人の有縁の地でありますが、わたしにとっても思い出深い地ばかりです。

30分の飛行でしたので、このあたりで着陸態勢のアナウンスが流れます。
え!もう?という感じでした。(^^
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2011-08-22(Mon)
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まえに聖教新聞の5面には毎日のように、信心の体験談が掲載されていることを記事にしましたが、この体験談記事の隅に、信心歴の長い高齢の方の紹介コラムが週に2・3回 「 多宝ここにあり 」 という題名で掲載されまています。 
この連載記事は、毎回、長い人生の中で信心で功徳を掴みながら、しかも宿業と戦って、それを信心で乗り越え、境涯を高め、最後には幸せになった人たちの姿を紹介しています。

今日は、今回の震災にみまわれた気仙沼の老婦人の記事を要約して紹介します。
 
19歳のときに病気で片腕を切断。 そんな時、 「 しあわせになっぺし! 」 と言われて、信心をはじめます。 それから5年。 昭和35年に東京で池田先生と面談。 そのとき、先生に 「 人生にはいろいろな悩みがある。 悲しいときもあれば、楽しい時もある。 さびしい時もあれば、うれしい時もある。 いいじゃないか。 そのままの姿で信心していけば、御本尊に祈っていけば。 必ず幸せになるんだよ。 女子部は幸せにならなければだめなんだよ。 」 と言われます。 彼女は、先生の言葉に勇気と希望を教えられて、ずっと信心に励んできました。 障害があるために、一人で生きていく覚悟でいましたが、昭和36年に縁あって地元の漁師と結婚。 子供も出来、おでん屋やスナックもやり、大好きな学会活動もやって、順調にきたのですが、娘が39歳のとき、くも膜下出血で34日間意識不明となってしまいました。 そのときはとても辛かったのですが、御本尊に懸命に祈りきって、苦境を乗り越えます。 娘は後遺症も無く元気を取り戻すことができたのです。 今回の震災では家は流され、基礎しか残っていませんでしたが、悲嘆な気持ちはなく 「 がんばなくちゃ 」 という気持だけしかなかったそうです。 信心で培ってきた、 ” 何があっても乗り越えていくんだ ” という心の宝珠をそこに見たような気がします。 今は、仙台で娘夫婦や孫に囲まれて 「 幸せになるんだよ 」 と先生に言われたとおりになり、 「 信心して本当によかった 」 と語っています。 

コラムには顔写真が載っているのですが、その75歳の笑顔はとてもステキです。 
聖教新聞を読んで確かめてみてください。 (^^
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2011-08-21(Sun)
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* 『 青年は力をつけなければいけない。誰にも馬鹿にされない力をつけるのだ。 日蓮大聖人は 「 仏法は勝負 」 と仰せだ。 人生すべてが戦いである。 どう勝つか、何かで光る力を持たなければいけない。 』

* 『 一つ一つの仕事を、丁寧に、深く祈って、歴史をつくっていきなさい。 一つ一つ歴史をつくっていくことだ。 』

* 『 現実の社会は熾烈な生き残り競争である。 たとえ、これまで安泰でも、これから先はわからない。 根本は、題目をあげている人が勝つ。 「 法華経の兵法 」 で勝つのだ。 妙法に生き抜くところに繁栄の道がある。 これが結論だ。 うれしいときも題目。 苦しいときも題目。 どんなときも題目。 万事にわたり、勝つ方法は、ここにある。 』
 

最近の聖教新聞に掲載された、仕事に悩む同志への池田先生の激励です。 とくに最後のところは、いままでもよく聞く内容ですが、とても重要な指導だと思います。 いま一度、心に刻みつけ、御本尊に向かいたいものです。
とはいっても、なかなか実行ができないものです。 同志のみなさんはどうでしょうか。 なにかあれば、御本尊に唱題するという方の境涯がとてもうらやましいですよね。 成仏させようとする仏がいれば、成仏させまいとする魔もいます。 御本尊には第六天の魔王がしたためられております。 わたしたちの己心に魔が存在するということです。 しかし魔は仏にはかないません。 しかし、仏は御本尊に題目を唱えないと湧現しないと言われています。 どうしましょうか。

日蓮大聖人は 『 一心に仏を見る心を一にして、仏を見る一心を見れば仏なり 』 とおっしゃってます。 この 「 一心に仏を見る心 」 とは、” 貧乏から脱したい ” ” 病気を治したい ” ” 性格を改めたい ” ” 境涯を高めたい ” ” 人を助けたい ” ” 社会を善くしたい ” という心でもありますが、 ” 広宣流布に生き抜きたい ” という心のことではないでしょうか。 つまり、仏と同じように生き抜いていこうとするところに、仏の生命が湧現するということを大聖人はおっしゃっているのです。 ここで注目したいのは 「 心を一にして 」 という ” 決意の力 ” です。 別な言い方をすれば ” 使命の自覚 ” ともいえますが、この決意をするという自発の力が魔を討ち破っていけるのです。 これしかありません。 法華経寿量品には 「 一心欲見仏 不自惜身命 」 とあります。 決意をして行動を起こすのは勇気と闘争なのです。 「 法華経の兵法 」 は ” 魔との闘争 ” の異名ともいえます。

決意の題目ほど偉大な力はありません。
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No title * by 不破 現
法華経の素晴らしさが分かる内容ですね。私も今、己心の魔と闘っています。

No title * by 夕焼け
不破 現さん、ようこそ。

最近、新聞で面白い記事を目にしました。
人が思考している段階で、脳の中では最初に神経細胞が二つの集団的働きを形成し、やがて一方の働きが優勢になっていくのが観察されるというのです。 それが、社会で賛成、反対の争論から、決定を下していく様子とよく似ているそうです。
釈迦でさえ魔と戦って成仏しています。 最後は善知識の力を得ながら、自身の決意と忍耐で突破するしかありません。

2011-08-19(Fri)
今日は、わたしが好きな小椋 佳さんの歌です。 3人メドレーです。

いいですねぇ。

よい週末をお過ごしください。 (^^


・ 少しは私に愛をください(来生・井上・小椋)
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2011-08-18(Thu)
浄土三部経は、釈迦が衆生の機根に合わせて種々に説いた方便の教えの一つです。 法華経を説けない、そして説かないときの教えですから、阿弥陀如来が仏となって法を説いている世界を示し、その仏の国はすばらしい世界だと賛嘆し、そのような世界に行くには、一心に阿弥陀如来を想いなさいとしか説ないのです。 当時は釈迦を仏と見ていない人も大勢いたでしょうし、いても初成道の若仏との認識しかなかったのですから、このような説きかたもしたのでしょう。 法華経寿量品の「一心欲見仏 不自惜身命」が本懐の心なのです。 釈迦は法華経にきて初めて久遠実成を説いて、この世で仏になったのではなく、遠い昔から仏であって、無量無辺の国土で衆生を教化し、成道に導いてきたことを明かします。 そして阿弥陀如来が説いてる法とは釈迦が説く法華経のことなのだと明かします。 さらに、この世界の衆生は尽く我が子なのだと宣言するのです。 しかし、法華経不信に落ちた念仏宗の人師・論師は、他土の仏を敬い、説いた釈迦を蔑ろにして、法華経をはじめとして三部経以外の総てを誹謗します。 これは自分の親を殺して、他人の子になろうとするもので、五逆罪免れがたく、これもまた弥陀の誓願叶い難しとなるのです。 念仏の迷宮には出口がないのです。
 
釈迦は方便権教であっても上手に仕組みながら説いていたのでしょう。 どれも釈迦が説いてるのですから当然といえば当然です。 「 四十余年未顕真実 」 なのですから、法華経を説いて初めて、方便権経の真の意味が解り、完結するようになっていると言えます。 ちょうど、相対性理論あるいは量子理論を知っていて、限定的な法則である古典物理学を、初門の生徒に教えるようなものだったのではないでしょうか。 
それは、法華経にも言えることで、日蓮大聖人の仏法から見れば、釈迦が説いた法華経は理の法門であり。 御本仏である日蓮大聖人が、法華経の文の底に秘し沈められている成仏の本因本果を取り出だして、御本尊と題目と修行を事実の上に顕されて、事の法門を明らかにしたのです。 日蓮大聖人の仏法なくして、法華経の真の姿は見えてこず、完結しないと言えます。 法然・親鸞の教えを速やかに打ち捨て、本因の教主日蓮大聖人の仏法に、なかんずく、創価の信心に帰依することを強く勧めます。
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No title * by 圓蔵
こんにちは。

>浄土三部経は、釈迦が衆生の機根に合わせて種々に説いた方便の教えの一つです。

これは明らかに、史実ではありませんよね。歴史上の人物、ゴータマ・ブッダは浄土三部経は説いていません。いえ、そもそも法華経を含む大乗経典は説いていません。

したがって、五時八教判に基づく教義を持って他宗を論難するのは日蓮の在世である鎌倉時代ならばともかくも現代では通用しません。

管理者様は、浄土系の檀信徒さんはみな無間地獄の苦しみを受けていると本気で思っているのですか? また、同様に死相も苦悶の表情だと本気でお考えなのでしょうか?

創価学会員の二世三世の世代で無間地獄のような生活をされている方もおられますよね。また毎年、日本では何人の方が亡くなられているのか、その中で浄土系や広く創価学会以外の檀信徒の方々の全員が死相が悪いと本気思っているのでしょうか?

冷静に考えてみれば容易に気づくと思うのですが。

No title * by 夕焼け
圓蔵さん こんばんは。 ご意見ありがとうございます。
大乗教非仏説の立場でおっしゃっているのはよく解りました。
わたしは、大乗教の総てを個別的にみれば疑われるものもあるようですが、総体的には釈迦が説いた教えを今に伝えているものだと思っています。 特に法華経の思想・哲学は秀逸なものであると認め、釈迦の本懐の教えであると思っています。
ところで、史実でないと断定しておられますが、歴史の研究で実証的あるいは考古学的手法はとても大事です。 それを否定するつもりはありませんし、今後の調査・研究を支持し期待もしています。 余談ですが創価には東洋哲学研究所という関連団体がありまして、リンクに載せてありますので一度ご覧ください。 世界中の仏教研究者が論文を寄せています。

いままで、歴史認識で覆ってないものがあるのでしょうか? 今時点で、考古学的に実証するものが見つかってないからといって、事実でないと言うのは、歴史の常識からいっても不思議な論理です。 遥か古代のことを云々する場合はとくにそうです。 1000年もたてば、圓蔵さんやわたしの存在すら事実でなくなるでしょう。 つづく

No title * by 夕焼け
大乗教非仏説は研究者の意図とはなれ、都合のいいように宗教界で使われています。 いま、研究者の間では懐疑的な説として扱われつつあります。 何故かというと、考古学的実証を厳密に進めていくと、大乗教だけでなく小乗教のなかでも疑わしいものが少なからず出てきてしまうからです。 いまの研究は、釈迦の行跡はもちろん、その思想体系の一貫性や、時代の背景から関連させてそれぞれの教えを、紐解いて紡いでいく研究に移行しています。 先にも言いましたが、実証的な手法を持ちながら今後の調査・研究を支持し期待します。

圓蔵さんのお立場とでは、これ以上議論しても意味がないと思われるのでやめましょう。 お互い、それぞれの立場で勉強してよい方向に向かうことを祈りましょう。 
わたしは少なくとも、他宗が大乗教を釈迦の説いた教えであるとしてそれぞれ依経としていて、法華経を誹謗しているから、釈迦の教説を挙げて間違いを訴えているのです。 他宗が誹謗しないなら問題にすることではないのです。

後の事柄は、ものすごく低劣な論議なので触れません。
圓蔵さん わたしのブログを最初から読んでいただけると幸いです。

No title * by 圓蔵
コメントへのお返事ありがとう御座いました。

>考古学的実証を厳密に進めていくと、大乗教だけでなく小乗教のなかでも疑わしいものが少なからず出てきてしまうからです。

ええ、その通りです。上座仏教が奉じるパーリ語聖典や漢訳阿含経のすべてがゴータマ・ブッダの言説ではありません。中には明らかに大乗仏教が興起した後に付加された内容も含まれていますから。

>特に法華経の思想・哲学は秀逸なものであると認め、釈迦の本懐の教えであると思っています。
法華経は、ゴータマ・ブッダの言説ではありませんが、だからといって法華経の思想を否定するつもりはありません。一切の衆生が等しくブッダになれる可能性があるという思想、恐らく法華経が成立した紀元後1、2世紀には仏教各派の閉鎖性、形骸化でゴータマ・ブッダの精神が失われつつあったのでしょう。そこに法華思想を奉じるグループが一石を投じたということでしょうか。

>後の事柄は、ものすごく低劣な論議なので触れません。

この低劣な論議(死相など)を大真面目に信じている活動家の創価学会員さんが実際におられます。もちろん管理者様が仏敵と思っている富士宮のお寺の檀信徒さんも同様ですが。あと、私も貴ブログを荒らすつもりはありませんのでこの辺で止めておきます。失礼いたしました。

2011-08-17(Wed)
念仏宗の最大の欠陥は、部分にこだわり釈迦の教判に逆らって、正しい法である法華経を誹謗したことにあります。 さらに問題だと思われるのは、浄土に生まれ変わってからの六道輪廻・三悪趣の自分自身をどうするのか、そこでの人生が見えないところにあります。 つまり、成仏の道筋が見えないのです。 極楽浄土にいけるというだけでは、キリスト教の死んで救われて天国に行くというのとたいした違いはありません。 釈迦の衆生救済の目的は人の成仏にあるのですが、それを委棄して、はたして仏教といえるのでしょうか。 

法華経化城喩品に明らかなように、阿弥陀如来は大通智勝仏の九番目の王子として、法華経によって成仏しているのです。 西方浄土で阿弥陀如来が衆生に説いているのも法華経なのです。 法然・親鸞は浄土に生まれ変わり、阿弥陀如来の説く法華経を誹謗するつもりなのでしょうか? 誹謗したら阿弥陀如来は許さないでしょう。 許せば与同罪でともに無間地獄の業に焼かれ、浄土が忽ち地獄土となるからです。 それとも阿弥陀如来の説く法華経で成仏するつもりなのでしょうか? 法華経は我らの機根にあわないと忌避したのですから、念仏でまたどこかに逃げるしかないでしょう。 こんどは東方でしょうか。 それでは元に戻りますから、北?いや南?それともさらに西? 迷宮に迷い込むに違いありません。 念仏の迷宮は、法華経誹謗という地獄の業を背負う、果てしない旅となるでしょう。
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2011-08-16(Tue)
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街歩きが好きなわたしですが、いろいろな発見をします。 これは街路樹の下にあったクローバーの喫茶店です。
 
いいですねぇ。 ” ブレンド、ブラックでひとつ ” と言いたくなります。(^^
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2011-08-15(Mon)
【要 文】

『 臨終已に今にありとは知りながら我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は志の程無下にかひなし、さこそは皆成仏道の御法とは云いながら此の人争でか仏道にものうからざるべき 』

* 『 流布の時は末世法滅に及び機は五逆謗法をも納めたり、故に頓証菩提の心におきてられて狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ、生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり 』

『 過去遠遠の苦みは徒らにのみこそ・うけこしか、などか暫く不変常住の妙因をうへざらん、未来永永の楽みはかつかつ心を養ふともしゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず、「三界無安猶如火宅」は如来の教へ「所以諸法如幻如化」は菩薩の詞なり、寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき 』
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2011-08-15(Mon)
※ 名前も告げない匿名のコメントには返事はできません。 当然公開もいたしません。 コメントにはハンドル名を必ずお願いいたします。
また、批判のための批判が含まれるコメントや、思い込みでわたしの考えを決めつけるようなコメントも公開いたしません。 公開しないコメントでも、テーマとして記事で取り上げることはあります。 議論したい場合には、なるべく記事の内容に限定していただくと助かります。

※ 私的なブログですので、基本的にわたしがこのブログにログインするのは、一日1回です。 記事は予約して、数日ログインしない場合もあります。 特にに土日は休養していますので、コメントの公開が遅れることもありますが、なにとぞご容赦のほどお願いいたします。
  
ようするに、気ままなブログということで、ご理解ください。(^^
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2011-08-14(Sun)
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(大白蓮華2011年8月号 昭和41年大石寺大講堂)


8月号の大白蓮華に、 「 鳳雛よ未来に羽ばたけ 」 という連載記事があります。 今回は昭和41年夏に行われた未来部の夏期講習会の様子が紹介されていて、その中でも、合同部員会で池田先生が松野殿御返事の 「 とても此の身は徒に山野の土となるべし 」 の一節をひいて講義されていく場面は圧巻であります。 師弟の峻厳なまでの絆を感じさせる会合であり、参加した未来部員は、生涯忘れることの出来ない感動と決意を胸に抱いたに違いありません。 わたしは昭和43年の高等部の夏期講習会に参加しましたが、いまだに鮮烈にそのときの事が思い起されます。 そのときの決意が、ず~と生命の核となっていることを、ひしひしと感じています。 もう今はなかなか直接お会いして先生の指導を受けられませんが、それでも信心において、池田先生との絆、出会いを求めていきたいと思います。 
 
師匠との出会いが、どれほど信心のエネルギーとなるか、
時が経てば経つほどに解ってきました。
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2011-08-12(Fri)
いままで男性ばかりでしたので、今日はわたしが好きなテレサ・テンさんの歌を紹介します。

よい週末をお過ごしください。(^^

・ 香 港
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2011-08-11(Thu)
念仏信仰の本願は、西方十万億土の彼方にある、阿弥陀如来の住する極楽浄土に生まれ変わることですが、この阿弥陀如来は因位のときの四十八の誓願を行っていて、この誓願の十八番目に、衆生の極楽世界への往生を約束しているわけです。 ところが、この誓願にはただし書きがあります。 その内容とは、”ただし、五逆罪を犯した者と誹謗正法の者を除く”という誓いです。 
このうちの”誹謗正法”とはなんでしょうか。 それは、釈迦一代聖教の真髄である法華経を誹謗するということです。 この”弥陀の誓願”が真実ならば、阿弥陀如来は法然・親鸞の極楽浄土への往生を許すことはありません。 その弟子も同然であります。 いくら念仏を唱えようとも、極楽浄土への往生は夢のまた夢なのです。 さらに阿弥陀如来は西方の仏であり、法華経神力品で広長舌を梵天に載せて、法華経が真実の教えであることを証明した十方の諸仏の一人でもあります。 真実であることを証明した法華経を誹謗する、浄土念仏の人師・論師・弟子旦那を許すはずがありません。 

阿弥陀如来の誓願は、阿難尊者に付属されていますが、この阿難尊者は法華経授学無学人記品において、 「 正直捨方便 」 とて方便権経(浄土三部経)を捨てさり、法華経を受持して山海慧自在通王仏と成ったのであります。 また、阿弥陀経を授けられた舎利弗も法華経譬喩品において、方便権経を捨てさって法華経を受持して華光如来と成ったのであります。 その成道機縁の法華経を誹謗するとは、言語道断であります。 本師(阿弥陀如来)にすら嫌われていることに、早く気づくべきです。 法然・親鸞の教えを速やかに遺棄し、正法である日蓮大聖人の仏法に、なかんずく、創価の信心に帰依することを強く勧めます。
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No title * by 菊川広幸
素晴らしい記事ですね。
読んで、感動しました。
ありがとうございます。^^


No title * by 夕焼け
菊川さん ありがとうございます。(^^;
ブログ村の仏教カテゴリーに居るので、各宗派の誤りに触れておきたいと思いまして、これから少しずつ記事にしていきます。 
 

2011-08-10(Wed)
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(Fotopedia CC Ben Tubby Taboche


功徳とは、色々な見方があるでしょうが、わたしは、信心のため、広宣流布のために苦労することが、実は功徳だと考えています。
 
信心をすれば、反対され、バカにされ、罵倒されたりします。 会社を首になったり、意地悪されたりもします。 折伏で苦労し、結集で苦労し、同志のために東奔西走して苦労します。 そんなことがイヤになって、初信の功徳を忘れて退転する人もいます。 しかしそんな苦労が人間を鍛え、境涯を豊かなものにしていってくれることを知ってほしいのです。 世間のことですら、若いときの苦労は買ってでもしなさいと言われます。 信心の世界ではなをさらに貴重な鍛錬なのです。 日蓮大聖人は、苦難を受けるのは、過去の宿業・正法誹謗の罪を、信心で今に鍛え出だすからだと言われております。 刀は火花を散らすほど叩いて、隠れた傷や不純物を取り除き、冷水で鍛え抜いてこそ名刀となっていきます。 わたしたちもこれと同じで、広宣流布のために苦難を受け、それを乗り越えることで、境涯を開き、福運をつけ、真の幸福を掴んでいくのです。 転重軽受・変毒為薬を思えば、信心のうえの苦難は即功徳であり福運を積む因といえるのです。 日蓮大聖人は、竜口の法難のときに四条金吾が覚悟の涙を流したのを見て 『 ふかくの殿ばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし 』 とおっしゃって、 「 一心欲見仏 不自惜身命 」 を身読せられました。 戸田先生は 「 難を乗り越える信心 」 と、池田先生は 「 絶対勝利の信心 」 と言われております。 目先の現象に紛動されず信心を生涯貫き通し、宝のような広宣流布の思い出と、幸せの因果を抱いて人生に勝利をしたい、とわたしは思っています。
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No title * by せんしゅ
すばらしい覚悟ですね
毎回感動しながらも我が身の不甲斐なさを感じます
お題目がなかなかあがらない、座れないなごという時はないのでしょうか
もし万が一ありましたら克服の手がかかり等少しでもご指南して頂きたいです…
もちろん良かったらの話です

No title * by 夕焼け
せんしゅ さん こんばんは

特効薬はありません。(^^

わたしは、なにかあれば、御本尊を思い浮かべ暗唱します。いつでもどこでも暗唱します。 御本尊の前では、ありのままの気持ちを向けています。 今の想いを御本尊に聞いてもらうような感じです。 御本尊の前では格好つける必要はなく、自分をさらけ出せば良いのでは。

No title * by せんしゅ
ご指南ありがとうございます
私でもすぐ実践できそうです
安心しましした早速行います
信心に特効薬も近道もないのですね
形にこだわって益々ずれていました
ありがとうございました

2011-08-09(Tue)
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(写真:PD U.S.A)


今日は、広島に続いて長崎に原爆が投下された日です。
昭和20年8月9日午前11時2分、忘れられない日です。
犠牲者の霊に、深く強く、追善の題目を捧げます。
 
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。

この日、わたしの叔母が被爆しています。 当時、佐世保にいましたが、すぐに市内に入り、その惨劇をまのあたりにして、心に深い傷を負いました。 核兵器は無差別な虐殺の兵器であります。 それを使う者は悪魔であり、魔物あるという思想を世界中に浸透させたい。 原爆・核兵器・大量破壊兵器と言われるが、これからは、 ” 悪魔が使う兵器 ” と呼んでください。
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2011-08-08(Mon)
【要 文】

『 然らば則ち仏性の種あるものは仏になるべしと爾前にも説けども未だ焦種の者作仏すべしとは説かず、かかる重病をたやすくいやすは独り法華の良薬なり、只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。 』

『 唯我一人能為救護の仏の御力を疑い以信得入の法華経の教への繩をあやぶみて決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず菩提の岸に登る事難かるべし、不信の者は堕在泥梨の根元なり、され経には「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり、受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ、同じく信を取るならば又大小権実のある中に諸仏出生の本意衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ 』

『 只願くは経を持ち名を十方の仏陀の願海に流し誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし、然れば法華経を持ち奉る人は天竜・八部・諸大菩薩を以て我が眷属とする者なり、しかのみならず因身の肉団に果満の仏眼を備へ有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば三途に恐れなく八難に憚りなし、七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ無垢地の園に花開け法性の空に月明かならん、是人於仏道・決定無有疑の文憑あり唯我一人・能為救護の説疑ひなし、一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり、頓証菩提の教は遥に群典に秀で顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり 』
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2011-08-07(Sun)
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(Fhoto by カツヤ38)


日蓮大聖人の信心を始めれば、ほとんどの人が初信の功徳を体験します。 素直な気持ちで信心を始めていれば、必ず現証として現われます。 この初信の功徳というのは、この信心をやり遂げれば必ず宿命転換して、一生のうちに成仏できるという証拠を示してくれているのです。 初信の功徳は、内面的な充実や、病気が治癒したり、商売が繁盛したり、人間関係が改善したり、事故から救われたり・・・・・・・・etcと、自身であったり、家族であったり、いずれにしても、そのときに思い悩んでいたことが解決し、いい方向に転換していくことが実感できるのです。 わたしも、信心を始めたときに体験しています。 ?と思う方は、論より証拠で、創価の信心を始めて、ぜひ体験してみてください。 (^^
 
信心したからといって功徳ばかりの生活がずっと続くわけではありません。 信心の実践が少し進んでくると、こんどは自身の境涯を高めていく作業と宿業を清算し福運を積むことと向き合うようになります。 ちょうど使っていなかった水道の蛇口を開けたときのような現象が起きてきます。 最初は蛇口から空気やサビや汚れた水が出てくるように、過去の罪や宿業の垢が少しずつ生活に現れてくるのです。 信心の実践が身につき始めたころや信心にたゆむ心が生じたころに、未来に受けるはずの罰や宿業が、転重軽受・変毒為薬の原理に従って現身に現われてくるのです。 いわゆる宿命転換の時を迎える場面がやってくるのです。 人によって宿業の軽重・浅深・多少の違いがあるため、時期や現れかたも様々になりますが、御本尊に唱題しながら、仏法対話を繰り返しながら、この苦難を乗り越えて、幸福の頂きに向かって登って行かなければなりません。 このサビや汚れが出れば、あとは清らかな水が滔々と流れ出すように、境涯も豊かになり、汲んでも汲みきれないほどの功徳が出てきます。 もう要らないと言っても出てきます。 
ところで、サビや汚れを全部出し切らないとダメなのかというと、これがまたいろいろとありまして。 すべての話をするのは煩雑になるのでやめますが、苦難の旅の連続では大変なので、ところどころで境涯に合わせながら、様々に功徳をいただいてリフレッシュしながら、旅をするようになっているのです。 また、釈迦在世と違い今の時代は、功徳や罰は ” 顕 ” ではなく ” 冥 ” を表としておりますので、真の功徳は海が満ちてくるように現れ、重い宿命は薄皮が剥れるようにして消失していきます。 信心の在り様で一進一退、七転び八起きの状態を経験することにもなるのですが、まじめに地道に信心をしていくならば、最後には必ず勝利の人生を飾ることが出来るのです。 

日蓮大聖人の仏法にはその原理と実践の方途が示されており、御本尊と南無妙法蓮華経の題目には限りなく、偉大な、そして確かな力があります。 この信心を知らない人で、いまそこに、苦難に沈みかけている状況があるならば、早く創価の陣列に加わり、一生成仏の法味を受けて、共々に幸せになっていきましょう。
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2011-08-06(Sat)
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(写真:PD U.S.A)


今日は、広島に原爆が投下された日。 
昭和20年8月6日午前8時15分、人類が悪魔の兵器を使った日であります。
犠牲者の霊に、深く強く、追善の題目を捧げます。
 
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。
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2011-08-05(Fri)
海をテーマにして、加山雄三さんの歌を紹介しようと探してたら、こんな歌に行き当たりました。 わが世代にはグッときて、感慨深く、楽しくなる歌です。
もう一曲 「 海 その愛 」 は、カラオケで必ず歌います。

よい週末をお過ごしください。(^^

・ ロンリーハーツ親父バンド

・ 海 その愛
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2011-08-04(Thu)
日蓮大聖人は数多くの御書の中で、 ” 念仏は無間地獄の業因 ” と言われて、破折されております。
その理由は、中国の念仏宗の善導が 「 千人の中に一人も成仏する者はいない 」 と法華経を誹謗し、日本の念仏宗の元祖である法然が、浄土三部経以外の釈迦の教説を 「 捨て、閉じ、閣き、抛って 」 と言って否定しているためで、法華経譬喩品の 「 人信ぜずして この経を毀謗せば 則ち一切世間の仏種を断ぜん 」 、 「 其の人命終して 阿鼻獄に入らん 」 との釈迦の言葉を挙げて、その過ちを責めたのです。 日蓮大聖人が勝手に言っているわけではありません。 
浄土三部経とは、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経のことで、釈迦が法華経の開経となる無量義経で 「 種種に法を説くこと方便力を以ってす 四十余年には未だ真実を顕わさず 」 と言われた方便権教であります。 その方便権教を拠り所として、釈迦の教判に逆らって、人師・論師によって打ち立てられたのが浄土宗(日本の念仏宗)なのであります。 このことも、日蓮大聖人は  「  唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり  」 と厳しく指弾されております。
 
法然・親鸞にたぼらかされ、西方浄土に生まれ変わるどころか、無間地獄の門に入り、無数劫に亘って苦しむのは、なんとも痛ましい限りであります。 法華経譬喩品にはその様子が明確に示されており、速やかに、浄土念仏の教えを打ち捨て、正法である日蓮大聖人の仏法に、なかんずく、創価の信心に帰依することを強く勧めます。
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2011-08-03(Wed)
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(聖教新聞2011年8月3日付)


聖教新聞には、海外の組織であるSGI(Soka Gakkai International)の活動報告が、最近は頻繁に載っています。 今は世界中の創価の様子をこの記事で知ることが出来ます。
今日はその中から、サンタクルス市のボリビア文化会館で行われたボリビア女子部の集いで、新入会のイリーナ・ソトさんが体験発表した内容を原文のまま紹介します。


※ 『 1歳で母を亡くし、その翌年に父が失踪。 祖母の家に身を寄せるものの、その祖母も7歳の時に他界してしまう。その後、生活を支えてくれていたおじも交通事故で急逝。 どうして私の大切な人ばかり……。 日ごとに喪失感が募り、仕事も人間関係も行き詰まってしまう。 付き合う友人もいなくなり、生きる目的も見いだせないでいた。 やがて、何のために生きるのか、問うことすらやめてしまう。 ” 私は幸せとは縁がなかったんだ ” そう自分に言い聞かせ、毎日をやりすごした。

そんな心境を一変させたのが、昨年9月に参加したSGIの会合だった。 初めて耳にする唱題の力強さ。 ふと我に返ると、それまで消えることのなかった不安や孤独感がなくなっていた。 そして、 ” 宿命を使命に  ” との池田SGI会長の指導に触れた時、生きる姿勢が大きく変わっていたことに気付く。 「 幸せになる道がここにあった!もう一日も無駄にはしない!  」
入会し、活動に励むなか、望んでいた仕事に就くことができたソトさん。 現在、毎週のように友人を自宅に招き、希望の青春を送る喜びを語っている。
「 SGIに入って、私がここまで苦しんだ理由がやっとわかった気がします。 この体験を通し、同じ苦しみに悩む人たちに勇気を送っていきます。 それが私の使命の道です!  」 』


創価の歴史には、こんな体験が無数にあります。 ” 蘇生 ” の姿です。 暗雲に覆われていた本来の輝かしい命が、御本尊に唱える題目によって開かれていくのです。 ちょうど、大地にまかれた種が注がれた水を吸収して、勢いよく芽吹いていく姿に似ています。 人種や言語、文化や風習の違う海外でも、それはまったく変わりません。 世界192カ国で日蓮大聖人の仏法が輝きを放ち始めています。
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2011-08-02(Tue)

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民家の擁壁にあった鬼瓦です。
鬼瓦は古来から魔除けとして使われますが、
これはたぶん、火事にならないように水をテーマにデザインしたものでしょう。
なんかユーモラスな感じで、親子で笑っているようにも見えます。
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2011-08-01(Mon)
この御書は、弘長3年(1263年)3月、伊豆流罪赦免直後に鎌倉において書かれたとされています。 大聖人41歳のときの著作です。


【要 文】

『 疑つて云く人師は経論の心を得て釈を作る者なり然らば則ち宗宗の人師面面各各に教門をしつらい釈を作り義を立て証得菩提と志す何ぞ虚しかるべきや、然るに法華独り勝ると候はば心せばくこそ覚え候へ、答えて云く法華独りいみじと申すが心せばく候はば釈尊程心せばき人は世に候はじ何ぞ誤りの甚しきや 』

『 唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり 』

* 『 問うて云く人師の釈はさも候べし爾前の諸経に此の経第一とも説き諸経の王とも宣べたり若し爾らば仏説なりとも用うべからず候か如何、答えて云く設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き妙楽大師は「縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し」と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ 』
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