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2015-05-18(Mon)
災害や事故で亡くなる人は毎日のようにおります。 それは、本人も不幸ですが、その周りにいる人も、悲しみや絶望にうちひしがれ、不幸の極みを感じているにちがいありません。

東北の震災のときには、日本全国だけでなく、世界中から支援の手が差しのべられ、励ましの言葉が届けられました。 つらいときに人に励まされることほど、ありがたいものはありません。 心に灯火が点り、温かいものが体を包み込んでくれます。

そのときに多く使われていた励ましの言葉に” 頑張ろう ”というのがあります。 励ましたいと思っても、なんと言って声をかければよいのか、言葉が見つからないというのが本当のところなのですが、それでも励まさなければと” 頑張ろう ”” 頑張れ ”という言葉をかけたのです。 しかし、その言葉に被災者側からの反発がありました。 ” 頑張ろう ”と言われても頑張れないというのです。 ” どう頑張るの ”と、涙で濡れた目を見ると何も言えなくなります。 それほどに、震災の状況は悲惨だったのです。 家族全員を亡くし、住む家も何もかも無くした父親。 子どもと一緒に逃げて一人助かった母親。 一人遺された子供。 それぞれに事情や状況があって、生き残った者に重くのしかかる喪失感と後悔。 そして、明日どうやって生きていけばよいか、生きることの意味を失っていました。

SGI池田会長は、いままで、絶望の淵に立たされた人々を、一人一人励まし続けてきました。 わたしは、励まされた一人でもありますが、また、多くの人々が励まされた様子を知っています。 その中でダントツに使われている言葉が、” 負けるな ”であります。 普通の言葉ですが、苦境に立つ人を励ます力づよい言葉ではないでしょうか。 励ますことに全魂を傾け、智慧を巡らせて辿り着いたのが、この言葉だったのでしょう。 この言葉を聞くと、はっとして、” そうだ、このままではいけない ”と我に返る力があります。 これは、” 頑張れ ” という言葉より、人に寄り添い同苦する気持ちを伴う言葉だと思います。 

この負けじ魂は、創価の信心の骨髄でもあります。
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2015-05-08(Fri)
ほんとうに、悩みというものは尽きないものです。

自分自身の悩みもそうですが、家族や、友人や、会社のことで、不自由な思いや悔しい思い、そして悲しい思いをするのは信心していてもあります。

人がどんな悩みで苦しんでいるのか、それは様々でしょうが、わたしは最近になって、信心の確信が深まってきたことを感じ、それにつけて、悩みがあっても、深刻な恐怖や脅迫観念がなくなってきていることに気づきはじめました。 かつて、パニック症候群を抱えていた神経質なわたしが、今は良い意味での楽観主義を心に持てるようになっているのです。 不思議ですが、悩みと取り組むことに、少なからず楽しみを覚えるようなときもあります。

信心とは凄いものです。

あきらめず、たゆまず信心を続けてゆくならば、自分が意識するしないにかかわらず、成りたい自分、征きたい人生を往けるのだとつくづく思います。 いずれ、今の苦しみは、未来の遊楽を得る種であり、悩みと歩む信心そのものが、この世の最高の楽しみなのだと、解かるときがくるでしょう。
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* by 夕焼け.
No.380さん、こんばんわ。

やる気、元気、本気で、(^^

了解です。

2015-04-21(Tue)
日蓮大聖人が立宗宣言をされてから、今年で762年が経ちました。 そして、今、世界広布の潮流が増していますが、その淵源は創価の誕生からであり、それは、僅か85年前の事です。 さらに、焼け野原の荒野に一人出獄された戸田先生の決意から70年であります。

それまでも、法華講という古くからの信徒もおりましたが、日蓮大聖人のご遺命を時代の潮流にまで押し上げることはできませんでした。 原因はいろいろとあるでしょうが、戸田先生は、「 古くからの信徒は折伏をしないから功徳がでないのだ 」と仰っていました。
功徳がでなければ、信心が薄れていくのはあたりまえであり、僧侶は僧侶で「 末法は折伏の時だが、僧は折伏の中の摂受が本分だ 」と言ってはばからないのですから、信徒は、推して知るべしで、やかましく言われないことをいいことに、信心を形骸化させていったのだと思います。 さらに、天皇ファシズムのなかで国家権力の圧力が増し、一山謗法にまみれたため、法滅の危機にまでに至ってしまいました。 事実、相承もしないまま、時の法主が焼け死ぬという前代未聞の罰が現出してしまったのです。 恐るべきは国家権力ではなく、師弟違背、ご遺命違背の罪業であります。

今の邪宗門は折伏を盛んに言うようになったようでありますが、折伏とは名ばかりで、要は創価の会員の横取りが狙いであります。 静かに自分だけの信心をしていたいような人や、創価で問題を起こした人の受け皿にはなるかもしれませんが、それでは、功徳などあろうはずがありませんから、やがて、同じ道を歩んでいくに違いありません。 ましてや、破和合僧の大罪は広宣流布を破壊するものであり、けっして日蓮大聖人はお許しにならないでしょう。

戸田先生の言葉は、わたしたちの信心、創価の未来にとっても大事な言葉であり、広宣流布を忘れた信心に功徳はでないと知っておくべきであります。 仏道修行は、勤行・唱題、折伏、教学の3つが黄金の柱であり、いずれが欠けても、信心に行き詰まりを感じるようになります。 実はこの三つは切り離すことができないもので、一つが疎かになると、他の2つもいずれ疎かになってきます。 それぞれに功徳はあるのですが、なかでも折伏の功徳は絶大であり、地涌の菩薩として、如来の使いとして、御本仏の生命力と智慧と福運を一身に浮かべることができます。 過去遠々劫の悪業・謗法の罪を霜露の如く消え去ってくれます。 広宣流布の闘争にこそ、創価の創価たる道があり、絶対的幸福を掴む道があります。
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* by 王者の剣
夕焼けさん

こんばんは。いつも楽しく拝見しています。

>仏道修行は、勤行・唱題、折伏、教学の3つが黄金の柱であり、いずれが欠けても、信心に行き詰まりを感じるようになります。 実はこの三つは切り離すことができないもので、一つが疎かになると、他の2つもいずれ疎かになってきます。

仰る通りです。題目が良くあがると自然と折伏に通じていきますね。これからの学会を考えても、一人一人が立っていくしかありません。広宣流布に本当に生きているか・・・それは本人の自覚と冥の照覧しかありません。生きている間に悔いなき戦いをやらねばと思っています。大白牛車に乗るために・・・ですね。(笑)

* by 夕焼け.
王者の剣さん こんばんわ。

そうですね。 (^^

これからは、弟子が、真価を問われる時代がやってきます。
しかも、誰かがというのではなく、
わたしたち一人一人が問われる時代になってくるのだと、
わたしも思います。

2015-04-16(Thu)
日蓮系の系統で、富士派は本尊にとてもうるさい。 まあ、その他の日蓮系は本尊に迷い、御本尊(文字曼荼羅)の価値を知らないから、当然かもしれません。 本尊にうるさいのはいいのだが、特に、戒壇の大御本尊を誰が持っているかで、その正当性を誇示しているのは、どうかと思う。 大御本尊を免許皆伝の巻物と、どうも間違えているようであります。 ほんとうにくだらないことです。

前にも触れましたが、戒壇の大御本尊を持っているということよりも、信心の血脈のほうが大事なのであります。 はたして、日蓮大聖人の心を持っているのか、日蓮大聖人の振る舞いと同じなのか、日蓮大聖人の御遺命どうりに、広宣流布のために死身弘法しているのか、そのことのほうが肝心なのであって、それがなければ、正当性はありません。

戒壇の大御本尊は偉大であるし、その力は絶大ですが、肝心の我々に信心の血脈がなければ、それは、" 猫に小判 ”、” 豚に真珠 ”であります。 その、信心の血脈とはなにかといえば、いろいろと言えるのでありますが、畢竟、日蓮大聖人の心を持っているのか、というところにつきます。 具体的には、不幸にあえぐ人に寄り添い、励まし、幸福へと導いていくことに、どれだけ心血をそそいでいるか、ということです。 しかも、その連帯を地域に、日本に、そして世界中に広げているのか、ということであります。 戒壇の大御本尊を持っているぞ、と、威張ったところで、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布はできません。 信心の血脈がなければ広宣流布はできないのです。 

その信心の血脈は、創価三代の会長に流れており、創価という和合僧団にしかありません。

戒壇の大御本尊は広宣流布の暁にお出ましいただければ、それでよいのです。 それまでは、紫宸殿御本尊と同じように、どこかで静かにお持ちいただくのが本来の姿であります。
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2015-04-09(Thu)
ちょっと前の聖教新聞に「 生老病死 」と題して、病と戦う体験談が紹介されていました。 その中で、三つの題目のことが触れられていたのを覚えておられるでしょうか。

その三つとは、懺悔、感謝、誓願の題目であります。

この記事を読んだとき、そうだ、御本尊に題目をあげるとき、大概は願い事ばっかしの題目ではなかっただろうか、過去遠々劫の罪障消滅のための懺悔、信心による転重軽受への感謝、広宣流布に生き抜く誓願、という祈りになっていただろうか、とそんな思いにかられました。
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2015-03-05(Thu)
今日は、戸田先生の指導から、永遠の生命観からみた話を紹介したいと思います。


* 「 われわれは、過去に生きてきたのである。
そのときに、謗法があったか、なかったか。 過去世に謗法のないものが折伏に行くと、反対した相手に、すぐ罰がでる。 謗法したものは、折伏しても、相手になかなか罰がでない。 しかし、反対され、悪口を言われて、自分の謗法の罪が消えるのである。 
次に、入信するときも、謗法のなかったものは、すぐに入る。 謗法のあるものは、その程度によって、入信まで日数がかかる。 法力・仏力を示すために、初信の功徳が現れるが、その後が大変なのである。 過去に謗法のなかったものは、その調子で、ずんずん良くなる。 反対に、謗法のあったものは、それを消すために、いろいろ事件が起こる。 このときこそ、たいせつなときなのである。 」

< 戸田城聖先生 講演集 >より


戸田先生の言うことに、思い当たるふしがあるのではないでしょうか。 信心していて、どうしてこんなことになるのか、と思う人もいるはずです。 そんなとき、どうか、最後まで信心を貫き通してください。 そして、諦めずに広宣流布のために生き抜いてください。 それが、最後に勝負を決しゆく鍵となるのです。
先週、 「 夢の扉 」というTV番組で、「 けっして夢をあきらめなかった 」主人公たちの言葉として、「 ” やる ”ではなく” やり抜く ” 」という言葉を紹介しておりましたが、それほどまでに、夢を現実化した人の壮絶な生きざまというのは、仏法に相通ずるところがあります。

信心も、どんなことがあろうとも「 ” 信じる ”ではなく” 信じ抜く ” 」というところに、功徳が湧き出てくるのです。
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2015-02-25(Wed)
信心していて、やっては損なことといえば、” 愚痴 ”であります。 信心の愚痴は煩悩魔の一つであり、自身と他の人の信心を奪う能奪命者となります。 とくに、信心浅い人や、信心していない身近な人に信心の愚痴をこぼすのは止めたほうがいいでしょう。 この愚痴は、信心の種を植える仏の行為の真逆にあって、信心の種を引き抜いていく魔の働きを持っています。 不特定多数を相手にするネットではけっしてやってはいけないことです。
ま、そうはいっても、愚痴というものは他の人に言うからこそ愚痴であり、言いたくなるのも愚痴でありますから、どこかで言わなければ気が済まないのかもしれません。 そうであるならば、信心豊富な先輩にだけ愚痴るのがいいでしょうし、できれば、罰は出ますが、御本尊にぶつけるのがよいでしょう。 そのほうが、よっぽど罪業は浅くなるからです。

わたしは愚痴の人が、組織の中に身近にいて、ひどく苦しむ姿を見せつけられたことがありますから、どうしてもこのことは言わなければならないのです。  その方は、それまで謗法がなかったのでしょう、すぐ現象が出てぜんそくで15年近く苦しんで亡くなられました。 せっかく信心できたのに、愚痴のために、苦しまなくてもいい苦しみを味わうのは、本当に損であります。

関 連 → 愚痴と批判
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* by 夕焼け.
No.358さん、おはようございます。

はい、子供はよくみていますからね。 (^^
お互いに気を付けていきましょう。

2015-02-19(Thu)
第二代会長の戸田先生は信心について、「 お勤め(勤行・唱題)をして、御本尊に、あれをくれ、これをくれと、功徳をねだるような横着な信心ではなく、ほんとうに、折伏に身を入れて、人々に悪口をいわれ、バカにされて、ますます御本尊様を護持したとき、そこに厳然として、功徳が現れるのです。 」と仰っていました。

この話しから、日蓮大聖人の信仰とゆうものは、巷にみられる願かけの信仰とは違うということが判ります。 願かけの信仰でない、といっても、御本尊に願ってはいけないということではなく、願ったうえで身口意の三業で広宣流布のために尽くし、悪業を切っていく作業が必要だということであります。 それもなく功徳をせがむような信心を” 横着 ”と言われているのではないでしょうか。

悪業が不幸の原因であれば、報いを受けていけば、悪業は消えていきますが、それだけではダメなのです。 悪業の因となるものを消してしまわなければ根源的な解決とはならず、また悪業を作って苦しむことになります。 場合によっては、報いを受けている最中に悪業を積んでしまう場合もあり、六道輪廻といわれるように、地獄の中で這えずりまわるようなことになります。 やはり、生命の転換が必要であり、善業を尽くして悪業の因を消していく道筋が必要となってまいります。

願いというものの多くは、悪業に起因する苦しみから生じていますが、戸田先生は、それを解決するには善業に起因して生ずる苦しみを受けて、そこから善業をかなえる願いに転換してゆけば、悪業の因は消え、願わずとも自然と功徳が現れてくると仰っているのだと思います。 勤行・唱題し、悩める友に寄り添いながら、広宣流布のために日蓮大聖人の仏法を一人一人に語っていくことが、功徳の源泉であるというのが創価の哲学であり、それは日蓮大聖人の生涯のお姿と重なり、仏の歩む道を歩むのがわたしたちの信仰の要諦だということであります。

最極の功徳というのは、仏の境涯を得ることに尽きます。
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2015-02-12(Thu)
第二代会長の戸田先生は、「 末法の悟りと申しますのは、御本仏・日蓮大聖人様の御観心たる御本尊を一途に信じ切るのが悟りでありまして、それ以外に、悟りは絶対にないのであります。 」と仰っています。
世間一般では、仏の無尽蔵の智慧そのものを” 悟り ”だと思っていて、小難しい経論や修行を学んでおりますが、そうではなくて” 御本尊を信じる ”ということが” 悟り ”なのだというのです。

な~んだ、そんなことかと思う方もいると思いますが、これが、そう簡単なことではないのです。 御本尊を本当に信じきれればいいのですが、一時は信じられても、何があっても心底から信じられるのかというと、自信がないのが普通であります。 何があっても信じきれれば、それはもう成仏の境涯といってよいでしょう。 

わたしたちの信心というのは、この” 信 ”を確立するための闘争であり、魔もあり、悪業もある中で、壁にぶつかり、悩み、もがきながら、広宣流布のために行動するしかないのです。 煩悩即菩提で勝ちとる以外にはありません。
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2015-02-05(Thu)
第二代会長の戸田先生は、ある講演で「 初めに信仰したときには、初信の功徳といって、思いがけない大利益を得ている。 ところが、一年でも、三年でも、強盛に信仰をつづけていけば、壁につきあたったような感じで、身動きのとれなくなるときがある。 幸福になるために信仰したはずなのに、どうして、こんな罰ばかりだろうといって、かえって仏を怨むこともある。 」と話されたことがあります。

信心している人で、
このような思いをした人は、必ず居るはずです。

このようなことは、三世の生命観から考えるとはっきりと見えてきます。 わたしたちは過去遠々劫から何度も生まれてきては死んでいます。 この間に、良いこともしてきているでしょうが、どれだけ悪いことをしてきたか、はかり知れないものがあります。 今世を振り返ってみれば、おのずと判ってまいります。 本来ならばその業を、長遠な時間をかけて、一つ一つ消してゆくところなのですが、縁あって入信し、信心を強盛にしたことによって、過去遠々劫の悪業を今生で受けるのです。 しかし、それに負けないで、さらに強く信心を起こし、懸命に行じてゆくならば、それを消してしまうことができます。 そして最後に、一生成仏という最高の境涯を幸福を掴むことができるのです。

過去遠々劫の業報を受けると言っても、まともにいっぺんに受けていては堪りません。 信心で多くは受けずに消すことができますが、しかし、それでも受けなければならない業報もあります。 また、境涯を高めていくための試練となって顕れることも必要です。 しかし、信心をしていると、その護法の功徳力によって業報を軽く受けていくのです。
難を呼び起こす信心というのはこのことであり、嘆くよりも、” いよいよ ”と強く信心を起こしていくべきであります。 難は境涯を高めるシグナルであり、成仏のチャンスなのです。 

参考のためにどんな業報があるか記しておきましょう。

人の悪業には殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴(邪見)と十悪があり、まえの三つが” 身 ”の悪、次の四つが” 口 ”の悪、最後の三つが” 意 ”の悪で、華厳経には、この十悪の度合いにより、地獄・畜生・餓鬼の順に生じると説かれています。 そして、人に生まれた場合には、次のような報いを受けるとされています。

殺生は多病あるいは短命、
偸盗は失財あるいは貧窮、
邪淫は婦が貞実でない、あるいは眷属不良、
妄語は身に誹謗多い、あるいは人に誑惑される、
綺語は眷属に離反される、あるいは弊悪な眷属を得る、
悪口は悪声を聞くこと多い、あるいは訴訟を受ける、
両舌は信を得られない、あるいは言語が明瞭でない、
貧欲は多欲で飽ことがない、
瞋恚はすきをうかがわれる、あるいは殺される、
愚痴は邪見の家に生まれ心諂曲となる、

この他に、五逆罪や法華経誹謗の業報もありますが、いずれにせよ因果の理法は避けられず。 本因妙の仏法、なかんずく広宣流布の修行(仏の道)でなければ、転換することはできません。
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2015-01-03(Sat)
日蓮大聖人の信心をはじめると、必ず” 難 ”が起こります。

” 難 ”は信心をさせまいとし、信ずる心を不信へと変える働きがあります。 しかし、この” 難 ”は宿命転換の分岐点には必ず現れてくるものなのです。
龍ノ口の難で首を切られんとして、本有の境地を顕わされた日蓮大聖人しかり、獄中で官警の執拗なあらゆる暴力に苦しめられた戸田先生もしかり。 悪口を言われ馬鹿にされ、あるいは信心の途上において、過酷な宿命にさらされた草創の同志もそうでありました。 このとき、難に負けるか、信心で立ち向かうかで天地雲泥の差が出てきてしまいます。

” 難 ”には様々な出来事がありますが、信心を貶され、非難されることも、その一つであります。
さまざまな宗教団体がありますが、世間から、さんざん悪口を言われ、非難を浴びせかけられたのは、現代において創価しかありません。 しかし、悪口憎言が吹き荒れれば荒れるほどに、創価は発展し続けてきました。 今や世界広宣流布の流れは着実に増しており、各国に人材の城が次々と築かれてきています。

池田SGI会長は、『 “ 非難されているかどうか ”が問題なのではない。 よきにつけ悪しきににつけ、動けば風は起こる。 何も言われないのは、何もしていないからである。 問題は“ だれに非難されているのか ”である。 善人は悪人に非難され、悪人は善人に非難される。 この本質をきちっと見ていくことである。 日蓮大聖人は、ご自身のことを、こう言われている。 「 いまだ此れ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり 」と。 そして、厳然と宣言しておられる。 「 愚人にほめられたるは第一のはぢなり 」と。 牧口先生も、戸田先生も、つねに、この御文を拝しておられた。 』と話されております。

御書に『 妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得う可きなり 』とあるように、見方を変えれば、” 難 ”は成仏させようとする働きでもあり、" 難 "の本質を見てゆけば、心晴れやかでなんの迷いもありません。 信心で立ち向かえば、悪は久しからず、必ず滅びさっていくのが仏法の原理であります。
” 難 ”を起こして、過去世の悪しき宿業を転換させゆく信心の鍛えに、創価の仏道修行の本質があるといえます。
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2014-12-17(Wed)
新・人間革命 広宣譜25
(聖教新聞2014年12月16日付 新・人間革命 広宣譜 25)


2014年12月16日付の聖教新聞に、次のような池田SGI会長の話しが載っておりました。


* 「 信心をしていても、皆さんご自身、さまざまな悩み、苦しみがおありだと思います。 そのうえに、組織の責任を担うことは、全支部員の苦悩を分かちもつということです。 自分の体の何十倍もあるような悩みの重荷を背負って、急勾配の坂道を上るようなものかもしれません。
 しかし、多くの友の苦悩を、わが苦とすることによって、自身の境涯を大きく開いていくことができる。 最も大変ななかで、広宣流布に邁進するからこそ、大福運を積み、大功徳を受けていくことができる。 その仏法の因果の理法を忘れないでいただきたい。」
 自らも宿命と闘い、苦悩しながら、友の幸せを願って、悩み、励ます。 それが、末法出現の地涌の菩薩である。 そこには、人間として最も尊貴な輝きがあり、その生き方のなかにこそ、仏法の人間主義の光彩がある。

< 小説「新・人間革命」 広宣譜25 >より


創価の草創の同志は皆そうでした。 自身も大変なのに組織を牽引してきたのです。 むろん、池田SGI会長も同様であります。 地涌の菩薩は、問題を抱えながら、悩み、それでも、友のために尽くし、励ましを送り続ける存在なのです。 
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2014-12-10(Wed)
新・人間革命 広宣譜15
(聖教新聞2014年12月4日付 新・人間革命 広宣譜 15)


2014年12月4日付の聖教新聞に、次のような池田SGI会長の話しが載っておりました。


* 諸君のなかには、さまざまな苦悩を抱えて悶々としている人もいると思う。 そして、いつか、苦悩など何もない、今とは全く異なる、きらびやかな人生が開けることを、欲している人もいるかもしれない。
 しかし、人生は、永遠に苦悩との戦いなんです。 悩みは常にあります。 要は、それに勝つか、負けるかなんです。 何があっても負けない自分自身になる以外に、幸福はない。
 どんなに激しい苦難が襲い続けたとしても、唱題しながら突き進み、乗り越えていく――そこに、真実の人生の充実と醍醐味があり、幸福もあるんです。 それが、本当の信仰の力なんです。
 その試練に立ち向かう、堅固な生命の骨格をつくり上げるのが、青年時代の今です。 学会の世界にあって、進んで訓練を受け、自らの生命を磨き鍛えていく以外にないんです。
 二十一世紀の大指導者となる使命を担った諸君は、苦悩する友人一人ひとりと相対し、徹して励まし、仏法対話し、友を触発する指導力、人間力を、仏法への大確信を培っていってください。

< 小説「新・人間革命」 広宣譜15 >より


創価の信仰というものが、端的に示されております。 
創価に乾杯ブログでも、このことについて視点を変えながら何回も取り上げておりますが、 創価の信心をされていない方々には、ぜひ、今までの宗教観を捨てて、創価の信仰というものを捉え、知っていただきたいと思います。  そして、信心している方々には、組織の中に飛び込み、自身を鍛え上げていくことが、福運を付け、人格を磨きあげていく直道であることを知っていただきたいのであります。 所詮は、逃避ではなく” 挑戦する人間 ”であることが大事であり、創価の信心とは、そうゆうものなのです。 創価のなかで泥まみれになって生き抜き、人生において蓮華のように咲き誇ってまいりましょう。
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2014-05-18(Sun)
先月号の大白蓮華に信仰体験を語る青年の言葉がありました。

” 折伏は、力があるからやるんじゃない。 折伏を通して、人間革命して、全てを変えていく、それが本当の折伏の功徳なんだと、心の底から震えた。 ”

< その一歩が、真実の道 >より


最悪の状況に、一筋の希望を見いだして信心を始め、まじめに、弛まず、題目をあげ抜いて掴んだ体験です。 仏と同じ道を歩んでゆく生き方こそ、成仏の道であり、それは創価の歩んできた道であり、これからも変わらず歩んでゆかなければならない真実の道なのです。

泳がなければ、泳げるようにはなれないのです。 
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2014-02-02(Sun)
路 


この信心をすると、初信の功徳というものがあります。
その内容は、人様々であり、それぞれの人に、必ず驚きと喜びを実感させてくれます。

わたしの場合は、ちっちゃな箱にギュギュに詰め込まれ、にっちもさっちもいかない, 息もできないような苦しみに、苦しみ抜いていた心と体が、信心を始めてから、次第にエネルギーに満ち溢れてゆき、漆黒の闇に光がさし、やがて温かさと彩りが、心と、そして体全体を包んでゆきました。 そして、今までの生活を一変させていく、自分自身を見いだすことができるようになったのです。

それは、実に新鮮な体験で、いまだに忘れることはありません。
初信の功徳というのは、やがてやってくる宿業との戦いや、境涯を高めるため、魔と対峙したときに、この信心によって勝利することができる、というサインなのであります。

このような初信の功徳があるように、この信心をすると、こんどは必ず「 難 」がやってきます。
日蓮大聖人はこのことについて、法華経見宝塔品にある「 此経難持 」をとりあげられて、『 此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり 』と仰っておられます。 そして、『 「 則為疾得 無上仏道 」疑いなし 』とも約束しておられます。 「 難 」がなければ、本物の信仰を鍛え上げていくことはできない、ということであり、仏になるために、越えなければならな棘の峰が必ずあるのです。 このとき、御本尊を抱きしめながら、唱題し、現実に立ち向かっていくことが、とても大事になってきます。 「 もうだめだ 」と思うか「 いよいよこれからだ 」と立ち向かうのか、 「 負けじ魂 」こそ、創価の精神なのであります。

SGI池田会長は、次のように語っておられます。


* 「 信心を貫き通す 」「 持(たも)ち続ける 」には、不断の精神闘争が必要です。 ただ漫然と信仰するだけでは、押し寄せる大難の前に破れてしまいかねない。
「 三障四魔 」が競い起こった時に、それに立ち向かうか破れてしまうか、信仰への非難や迫害、そして、宿業など自身を取り巻く環境に敗北するのか、攻め返していけるのかは、一切、私たちの「 心 」で決まります。
障魔が問いかけるのは、実は、私たちの信仰の強さ、深さです。 常に自身の心を磨き、全部わが生命の変革から始まると決意して、勝利するまで戦う誓願を起こすのです。 それが「 信心 」にほかなりません。

< 大白蓮華2014年2月号 勝利の経典「 御書 」に学ぶ >より


愚痴をいい、批判がましく組織から離れていく人がいます。 そのような人には、苦労することを嫌がり、自身が抱える課題を避けて通ろうとしてしまう、生命の傾向が見られます。 どのような世界でも、自身の成長や実力を養うには、避けては通れない鍛えが、必ず待ち受けているものです。 仏という境涯を勝ち得る為には、なおさらそうであります。 挑戦するのか、逃げるのか、それで大きく違ってきます。 矛盾と葛藤を突き破り、こうと決めたことを、やり遂げていく「 信心 」が、苦難を前にしたときに、求められてくるのであります。
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2014-01-22(Wed)
「 信心すれば何とかなる 」なんて思っている人がいるとすれば、大きな間違いであります。 何とかなるわけがありません。 そもそも、自分というものを横に置いといて、” なにか成せるはず ”と考えるのは誤りであります。

「 信心しているからこそ、為してゆく 」という行動と祈りが大事なのであります。 為してゆく自分というものを磨いて、築きあげていくための信心であり、人間革命なのだということを知ってほしいと思います。 「 信心すれば何とかなる 」ではなく「 何とかするための信心 」なのです。

今日の聖教新聞に、インド創価学会の婦人の方が、SGI池田会長と故ラジブ・ガンジー首相の家族との交流に接し、次のように語っていました。


「 先生はどこまでも目の前の人に寄り添い、深く励まそうと全力を尽くされていました。 私は、先生の姿に触れて、自分の甘さに気づいたのです。 ” 信心すれば何とかなる ”のではなく” 信心しているからこそ、人間として、最高の振る舞いをしていかなければいけない。 人のために、真剣に行動していかなければいけない ”と 」

< 地平線を越えて -SGI会長との心の絆- >より
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2013-12-23(Mon)
昨日の聖教新聞に、次のようなSGI池田会長の言葉が載っていました。


* 人知れぬ「 信心 」と「 誠実 」と「 責任 」の行動は、厳然たる福徳となって、わが生命を、そしてわが眷属を荘厳する。 これが仏法の因果律であり、「 妙の照覧 」である。


< 2013年12月22日付聖教新聞 >より


わたしは、この” 人知れぬ ”という言葉に、黄金のきらめきを感じました。

誰が見ていようといまいと、誰かに何と言われようとも、日蓮大聖人の心を、創価三代の会長の心を胸に、信心を誠実に一人立つ想いで行動する人が、仏の道を歩む人であり、偉大な人なのだと思います。 
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2013-08-20(Tue)
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(写真:2013年7月31日付聖教新聞 九州研修道場)

昭和55年(1983)7月。 霧島の九州研修道場で行われた、未来部の研修会で、池田先生は「 今日は信心の真髄の話をしておきます。 」と前置きし、「 戸田先生は私に『 仏法のために喜んで身を捧げていけ 』と、よく言われた。 私は病弱だった。 しかし、全てに全力投球だった。 ” 今日もよく生きられた ”という毎日だったんだよ。 難を受けた。 その中を私は戦い抜いた。」と話をされました。

仏法の修行というものは、理論や難しい理屈にあるのではなく、行動を孕む、ごく単純で、明確な生き方にあるのではないでしょうか。 信心とは、この生き方のなかに息づいてくるものだと思います。
どんなことがあろうとも、一途に、広宣流布のために生き抜いて、仏の智慧と勇気と慈悲が、わが身から染み出てくるようになるまで戦うことが、創価の生き方であります。
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2013-06-24(Mon)
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おとといの聖教新聞にSGI池田会長の指導で次のような内容が載っておりました。


* 戸田先生は語られた。

「 御本尊に題目をあげて、自分の境遇で、自分の立場で生ききっていけ! 」

たとえ絶体絶命に思える壁があっても、題目で立ち向かえば、必ず人間革命、そして宿命転換の突破口となる。 全部深い意味がある。 信心強き人こそが、幸福者であり、勝利者なのだ。


< 名誉会長と共に 今日も広布へ 25 > より



人には様々な境遇があります。
信心していても、境遇に押しつぶされそうな思いをしている人が、きっといるでしょう。

このとき、大事になってくるのは、その中で、信心を核にしていかに自分を磨いていけるのか、ということです。 題目をあげ抜いて、労苦に耐え、自身を磨き抜いていくところに、人間革命、宿命転換への道が開かれてくるのです。 逆にいえば、今の境遇は人間革命、宿命転換するために用意されたものであり、境涯を高めていくため、自身を輝かせていくために必要なものなのです。 

信心があれば、必ず乗り越えられます。

こんな素晴らしいことはありません。
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2013-05-06(Mon)
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大白蓮華5月号に掲載されている、池田SGI会長の御書講義 「 四条金吾殿御返事(梵音声御書) 」 のなかで、 『 此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠の如し 』 の御文について、池田SGI会長は次のように講義されておりました。


* この広大無辺な妙法の功徳を大聖人は 「 如意宝珠 」 に讐えられています。 如意宝珠とは、無量の宝を意のままに取り出すことができる珠のことです。

この 「 如意宝珠 」 について、かつて戸田先生が語ってくださった指導が忘れられません。 それは昭和30年(1955年)7月の杉並支部総会でのことです。
先生はまず、 「 如意宝珠とは、心のままに宝を出す珠のことをいうのです。 家がほしいと思えば家ができ、金がほしいと思えば金ができ、なにひとつとして心のままにならぬものはないという珠を、無上宝珠というのです。 」 と、私たちに分かりやすく教えてくださいました。 そして凛然と語られました。 「 御本尊様は、しからば、なにごとを求めても得られるか。 はっきりと私は申しあげます。 いかなる願いも、かなわないことはないのです。 」

叶わない願いなど断じてない! 恩師の烈々たる宣言でした。 私たちも、この大確信で心して進んでまいりたい。 妙法を信じ抜き、題目を唱え抜き、果敢に実践し抜いていく限り、絶対に行き詰まりはありません。 信心があれば、私たちの胸中に如意宝珠の御本尊が厳然と輝きわたっているからです。

< 勝利の経典「脚書」に学ぶ 52>より


戸田先生の指導は御本尊に対する絶対の確信に貫かれております。 ひとつの迷いも逡巡もありません。 このような確信で御本尊と対峙するのでなければ、本当の御本尊の力を引き出すことは出来ないでしょう。 このような確信を、日々の生活という道場で鍛えあげていかなければ、と、思います。
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2012-10-14(Sun)
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今日は日曜日。

と、いっても、わたしは今日も ” 仕事 ” です。
わたしの仕事は因果な仕事です。
この仕事で体を悪くする人は、結構います。

わたしは、大学を卒業して、この仕事に就いてから、すぐに体が悲鳴をあげました。 朝9時から翌日の夜中の2時までほとんど毎日のように働きました。  仕事を終えても、そのままでは、頭が冴えて眠れないため。  居酒屋で少しお酒を飲み、同僚とくつろいだ話しをしてから、眠りにつくのが日課となっていました。 家に帰るのは日曜だけです。 家に帰れないので、最初のうちは机の下にダンボールを敷いて寝ていましたが、会社の配慮(?)で、マンションの一室を借りて、そこに寝泊りするようになりました。 会社には御本尊が安置された仏間がありましたから、朝晩の勤行と唱題は問題なく出来ましたが、組織の活動はやはり悩みの種でした。 やはり、仕事に流されて、組織も信心も疎かになりがちでした。 しかし、地域の同志の暖かい見守りと励ましに、心が震えるように目覚め、時間をこじあけては、仕事の途中で地元に帰って活動し、家には帰らず、また仕事を始めるということをしはじめました。  大変でしたが、いい修行となりました。 一生懸命に苦労して日々頑張っていたことは、ほんとうにいい思い出として残ります。 振り返れば、信心で苦労したことはすべて財産となっています。 それを今はしみじみと感じています。 この仏法では、末法の功徳は顕益より冥益が中心であるといわれていますが、そのとうりであります。

信心と仕事で悩んでいる人はけっこういると思います。 それは信心活動と仕事というより、組織活動と仕事とゆうことになりますが、組織で活動できないことを必要以上に悩む必要はありません。 組織活動には大きな功徳はありますが、しないと功徳は無いとゆうのは幻想です。 「 御宮仕いを法華経と思し召せ 」 と日蓮大聖人は仰っているように、仕事のために努力し、真剣に唱題していけば、人間革命できるし、功徳も当然あります。 職場で創価宣言すれば立派な仏法対話となってゆきますし、同僚と、昼休みや、会社の帰りにミニ座談会を開けば、立派な活動になります。 信心豊かな自分がいて活動するところが創価なのです。 そう思って仕事を一生懸命、頑張ってほしいと思います。

” どうしても組織で活動をしたい ” (^ ^ とゆうなら、気合を入れて 「 仕事は人の3倍、信心は人の2倍 」 との気概で頑張れば必ず出来ます。 というより出来るようになってゆきます。 わたしの経験から言えば、仕事のために組織活動できないというのは長い人生で一時のものです。 信心即生活なのですから、やるべきときに、仕事をおろそかにして組織活動をやったところで、やがて、行き詰まってしまいます。 いずれ活動もできなくなるでしょう。 立派に仕事をやりきるのが信心の証だと思って、勤行・唱題・御書・仏法対話を原動力としてゆくことが大切なのです。 所詮は信心活動をしっかり行なうかどうかになるのです。 「 法華経の兵法 」 を用いるところに功徳は生まれ、人間革命があるのです。
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No title * by moguovsky
夕焼けさん、おはようございます。

>組織活動と信心活動

すごく、もつれた糸が解けていきました。
今まで私が混乱していたのはその区別ができていなかったのかもしれません。。。

>組織で活動できないことを必要以上に悩む必要はありません。

とても心が軽くなりました(^^)これからの活動で
あらためて、ひとつひとつ自分の心を整理しながら
一歩一歩進んでいきたいと思います(^^)

No title * by 夕焼け
moguovskyさん こんばんわ (^^

一つ一つ踏み越えていきましょう。 
あなたなら、必ずそれができます。

No title * by mitsu
はじめて夕焼けさんのブログを拝見させていただきました。学会活動と勉学の両立で悩んでいたのですが夕焼けさんのブログを読み、自分はこの三か月は勉学に集中させていただくことを決心させていただきました。これから夕焼けさんのブログから信心を学ばせていただきます。投稿ありがとうございます!

No title * by 夕焼け
mitsuさん、はじめまして。
返事が遅れて申しわけありませんでした。

勉学。 しっかり頑張ってください。
信心の基本(勤行・唱題・座談会参加)をしっかりやって、目標を実現してください。

2012-09-04(Tue)
聖教新聞に、周に1回ほどの間隔で、ある連載が載っております。 この連載は、最近における、SGI池田会長の指導・激励の言葉を伝えています。 一昨日で29回目となりました。 その29回目の内容から抜粋して紹介させていただきます。


* 『 生きることは戦いだ。 戦いがあるから、人生はおもしろい。 悩みがあるから、人間革命できるのだ。 むずかしいことも、多々あるだろう。 しかし、そこから価値を創造していけるのが、妙法を持った人間の強さだ。 』

* 『 難と戦い、勝ち越えてこそ、成仏はある。 宿命転換のチャンスなのである。 』

* 『 きょう、苦闘の一日であっても、未来を見つめて生き抜いていけば、必ず、希望の太陽が昇る。 決して自分の弱さに負けてはならない。 たとえ倒れても、また立ち上がる。 思うようにいかなくても、あきらめない。 その人が真の勝利者である。 』

< 名誉会長と共に ― 今日も広布へ ― >より


信心すれば、ばら色の世界がだまって開けるものではありません。 創価ではそれが常識であります。 自らの努力と、自分を磨くことの大切さを最も大事にしているのが、創価の精神であります。 ところが、信心していない方は、わたしたちがそのような考えを持たない、夢想家の集まりだと思いこむことが多いようです。 しかし、それはおおいなる誤解であって、信心するようになると、人生を真剣に考えるようになり、真面目に努力するようになるんです。 また、そのような生命が湧いてくるのです。 人には仏の生命が内在されています。 その自力をいかに引き出すかを追求し、実践するのが創価の信仰です。 成仏するというのも、死んで仏になると言っているのではありません。 この世で仏になること、仏と同じ生き方、振舞いをしていくことを目的としているのです。 また、信ずるといっても、だれかにおんぶに抱っこで生きてゆこうとゆうのではありません。 正しく知見し、智慧を磨き、努力して、確かな自分を確立する、自己実現の人生を歩んでゆこうとしているのです。 日蓮大聖人の信仰を核として、現実の苦難から決して逃げることなく、励ましあいながら、乗越えているのです。 勇気と智慧と慈悲の人間となるための信心なのです。
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No title * by SHIn
どこまでいっても「道理に基づいた祈り」ですね(^O^)盲信でないからこそ創価は強い!

No title * by 夕焼け
SHInさん おはようございます。

そうですね。 創価は確信です。


No title * by ダック
信者の中にはまだ「信心すればすぐ~になる」といい加減な発言をする人が目立ちます。
特に婦人部の方に目立ちます。

純粋な人はその言葉をそのまま信じてしまいます。

こういう信者が多いのは本当に残念ですね…。

No title * by 夕焼け
ダックさん、こんばんわ。

創価はそういう信者が多いかもしれません。 (^^

” すぐ ” という言い方はTPOですが、かくゆうわたしも、悩んでいる人にはそう言うでしょう。 ” この信心をすれば、必ず幸せになります ” と。 信心即生活ですから、婦人の方のほうが、この信心の凄さを肌身に感じているんです。 体験しているから、ズバッといいきるんです。 信心すれば、人生や自分自身の境涯が開けていくことが判っているから言うのです。 信心しておられない方でも、凹んでいる友人や家族がいれば、 ” 大丈夫、きっとよくなる ” ” 君だけじゃないよ ” と、励ますことが多いと思いますが、 ” いい加減なことを言う ” とは思わないのが普通です。 それは、言うだけの励ましではないことが判るからです。

つづく

No title * by 夕焼け
つづき 

わたしが、信心したのは、やはり悩みがあったからです。 切実な苦しみであり、将来への不安、境遇の悲しみ、性格の弱さ、など様々に悩んでいました。 病気は、自分でも病院でもどうすることも出来ないほどのものでした。 しかし、御本尊に勤行・唱題を始めると ” すぐに ” 治りはじめました。 ” すぐ ” でした。 驚きでした。 初心の功徳というものは、こんなにすごいものなのか、まざまざと見せつけられ、うれしさで涙がとまりませんでした。 あれから48年。 わたしは、今までの自分自身の信心の歴史と今の境涯を想うと、この信心を知らない人には、 ” 病気だろうと、貧乏だろうと、悩んでいようと、この信心をすれば、必ず幸せになります ” と何度でも言いたいですね。 なかなか理解できないことですが、御本尊にはものすごい力があるんです。 その力を引き出すのはその人自身なんです。  御書には 「 一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり 」 とあります。 

ダックさん、ご心配ありがとうございます。 
言い方はあると思いますが、あたたかく見守ってください。 (^^

2012-07-24(Tue)
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* 順風満帆に生きて、苦労もせずに、成功を収めた人などいません。 失敗も、挫折もなく、人生の勝利者になった人もいません。 泣く思いで苦労に耐え、何度も絶望の淵に立ちながら、粘り強く、前へ、前へと進んでいった人が、人生の勝利者になっているんです。
 たとえ、失敗や敗北はあっても、絶対に腐ってはならない。 いじけて、自らを卑しめることこそが敗北なんです。 忍耐強い人が、最後に勝つ人なんです。 その粘り強さを身につけていくための唱題であり、仏道修行であることを忘れないでください。
 人生の勝利の栄冠は、信心を根本に、執念に執念を尽くし、粘って粘って粘り抜き、自分の決めた道を歩んでいった人の頭上に輝くことを宣言しておきます。

< 新・人間革命 厚田32 >より


この言葉は、創価の信心をしている中学生・高校生の男女に対して話された、池田SGI会長の言葉であります。 成長する途上の子供達に話している内容なので、唱題については、さらっと触れているだけですが、信心の肝要がしっかりと示されています。
創価は、信心だけしていれば、それで幸せになれるとは、言っていません。 信心があれば、病気にもならないとも言っていません。 馬鹿げた話ですが、台風や災害にも事故にも遭わないなどとも言っていないのです。 しかし、信心していない人は、創価がそのように言っていると思っています。 そのために、信心してる人が病気になったり、苦境にみまわれたりすると、それみたことかというように嘲笑し、創価を非難します。 信心してるひとでさえ、気が弱くなったり、卑下したり、信心を疑うことさえあります。
このような反応は、根本的に創価の信心を勘違いしているところからおこります。 池田SGI会長の言葉はそれを如実に知らしめていると思います。 信心はどのような苦難、苦境にも負けない、自分自身を作り上げる力なのです。 努力し行動する原動力となるものなのです。 探究心や智慧が湧いてくる源泉となるものです。  ” 鬼に金棒 ” ということわざがありますが、信心はこの金棒のようなものなのです。
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No title * by SHIn
私も信心11年目になりおすがり信仰、魔法信仰のような捉え方ではなく道理にもとずいた祈りがわずかばかりではありますができてきてるように感じます。まさに信心は仏界は苦境に負けない自分を作り上げていくものなんだ!と愚直なまでに学会員宣言をし対話のチャンスがあれば学会の正義を語り公明党の実績を語っていく中で感じております。私は心の病を持っているので精神障がいを開示しながらの学会員宣言は私なりの人権闘争でもあります。佐渡御書の一節を握りしめ師匠が日々指導し実践し抜いている“勇気ある対話”に挑んで参ります!

No title * by 気分屋
いつもアドバイス有り難うございます。 僕は勘違い信心に悩んだままです。 頭では解ってますが、やはり家族が反対の中、ただ一人信心を貫いてこられた方が人生の最終章で重い病になったり、広布に尽くしてきた方が、経済的にどん底になると、やりきれない気持ちになってしまいます。 他宗教も言っている事は、似てて、真実の宗教の証明は、実際に幸せになれたか否かと思います。心で感じる幸せも確かにありますが、やはり信心されてない人は、目の前の姿で判断します。 夕焼け様、長々すいません。信心頑張ってる人が最期まで苦戦し、 信心している人を馬鹿にしている人が、健康で経済的に恵まれているのが、やりきれないだけなんです。

No title * by 夕焼け
気分屋さん、こんばんわ。

創価を馬鹿にし、信心を蔑む人がどのように思おうが、いいではないですか。

創価を馬鹿にし、信心を蔑む人の生き方が良いと思うなら、その人についていくことです。 創価を馬鹿にし、信心を蔑む人が、親身になり、幸せを願い、心配してくれるというなら、その人の言うとおりの生き方をしてみてもいいでしょう。 人のことはとやかくいっても、 ” 自分の言うとおりにしてついてくれば、必ず幸せになれる ” と、言い切る人がその中にいるでしょうか。 言うだけでなく、共に歩んでくれるでしょうか。 

日蓮大聖人は、世間からも権力者からも、日本中から馬鹿にされ、憎まれました。 その弟子である創価が、わたしたちが、馬鹿にされるのは当たり前です。 釈迦もさんざん馬鹿にされました。 プラトンも、キリストも、ガリレオも、シューリマンも、・・・・・。 馬鹿にしたり、蔑む人が、すばらしい人間だったでしょうか。 いいえ、違います。 馬鹿にされ、蔑まされた人のほうが立派な生き方をしています。 立派な人や、成功した人は、多かれ少なかれ、世間から馬鹿にされ、軽んじられたことがあるのです。 

題目があがっていないから、生命力が弱いから、まわりの目や言葉を気にするのです。 わたしが、そうでした。 いつまでも、びくびくしながら信心していては、損です。 何十年たっても、信心の確信を掴むことはできません。 信心していても、疑い、愚痴ばかりでは、功徳もありません。 わたしは、多くの人を見てきました。 残念ながら、仏法は厳しいものです。 信力・行力がなければ仏力・法力はありません。

つづく

No title * by 夕焼け
SHinさん、おひさしぶりです。
頑張っている様子。 とてもうれしいです。

わたしにも、いろいろと悩みがありました。 唱題していて、もうこれ以上は駄目だという状況や思いも体験しました。 しかし、そんなときでも、辛いから泣きながら、問題に向かっていきました。 すると、そのぎりぎりのようなところで、パッと開けるのです。 状況も境涯も不思議と変わります。 題目の力は物凄いんです。 引き下がったら、負けです。

ところで、最近NHKで、うつ病が心の病である場合と脳の病である場合の2つがあることを取り上げていました。 治療法が違うそうです。 うつ病と言われ薬を飲み続けても、一進一退で効果がない人は、一度検査を受けてみると良いと番組で紹介されていました。 最近発見された、脳波の検査のようです。 まだ、この検査は一部の病院でしか、行われていないそうです。

プチ情報です。

No title * by 夕焼け
気分屋さん、おはようございます。

つづき

人の業は様々であります。 一律ではありません。 そのため、人にはいろいろな人生があります。 
いろいろあっても、信心によって、いい方向に向かうことは確かなのです。 病気したから、死んだから悪い方向にいっているとは限りません。 信心があれば、全部意味のある病気であり、死となっていくのです。  何かに直面しても、そういう信心をしていくことがとても大事です。 病気に負けて死んでいく生き方もできます。 勝って死んでいく生き方もできます。 永遠の生命からみたら、後者の生き方がすばらしいことなのだと判ります。 
7月26日の聖教新聞の体験談や大百蓮華の 「 本門の陣列は立つ 」 に出てくる婦人部の方の死に関する記事や7月・8月の 「 あしおと 」 の体験談を読んでみてください。 うわべだけの見方しかしない浅薄な批判など、わたしには取るに足らないものです。 廻りのことで紛動するより、自身の信心を見つめ、このままでいいのか、信心してるといえるのか、よく考えてみてください。 信を立てて、勤行・唱題し、難と戦い、仏法対話を、どこまでもまじめに実行していて、勝利しないわけがありません。
そうしないで、 ” 信心しても幸せになれなかった ” と悔やんでも、それは日蓮大聖人もどうすることもできないでしょう。

2012-07-21(Sat)
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実は、わたしは、仕事を続けています。 本格的に広宣流布に身を尽くしたいと、動き始めたら、仕事に駆り出されてしまいました。 これは ” 魔 ” でしょうか?  仕事の内容も気に入っていますし、待遇も文句のつけようがありません。 ” 魔 ” はいろいろな形で忍び寄るものだと感じます。 これも、かつて仕事を中心に過ごして、広宣流布の活動を二の次にしてしまったことの、乗越えなければいけなかった課題を、今また、突きつけられているのかもしれません。

仕事に戻り、廻りを眺めたとき、仕事に誇りと名誉をかけて頑張る姿には、まぶしさを感じました。 みんな偉いな、とも思いました。 しかし、何に誇りと名誉をかけて頑張るのか、わたしには、その価値の絶対値が、以前より遥かに明確に見て取れるようになっていたのです。 それは、社会(人々)のなかで、社会(人々)と共に、広宣流布に生きてゆくという価値の絶対値です。 日蓮大聖人の御書にもあるように、人はいろいろなことに身を賭して死んでゆきます。 同じ死なら、仏法を持って、社会(人々)のために生きて、死んでゆくことを選びたいとゆうことです。

今回、わたしは仕事をしながらも、広宣流布の活動もして、このブログも更新して、やるべきことをやろうと決意しました。 完璧にこなすことは難しいでしょうが、努力は総てに注いでいこうと思います。 そう決意し、動き始めたら、わたしの脳と体がフル回転し始めました。 力が湧いてきました。 ” 魔 ”と云うのは、宿命転換のキューピットなのかもしれません。
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2012-07-17(Tue)
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日蓮大聖人の信仰と他の宗教の根源的な違いはなんでしょう?

それは、信じる人を幸せにしてゆく確かな力があるか、無いかの違いです。

正しく実践してゆくならば、 「 苦しいことや辛いこともあったけど、信心してきて本当に良かった 」 と心の底から実感できるのです。 

心だけでなく、廻りの環境や自身の生活がガラッと良くなってゆく現実があるから、世界中の人が、今、信心してゆくのです。 難解な仏教哲学を理解していなくても、やれば判るからです。 このことは、どんな宗教も敵わない。

これがわたしの偽らざる心情であり、確信であります。
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No title * by ア イ ス コ ー ヒ ー
夕 焼 け さ ん 、 お 久 し 振 り で す 。 お 仕 事 で 、 暫 く ブ ロ グ の 更 新 が お や す み と か で し た が 、 今 日、 ひ ら い て み た ら 新 し く 更 新 さ れ て い た の で 何 度 も 、 何 度 も 読 み 返 し ま し た 。 と こ ろ で 私 は 最 近 の 公 明 党 が 進 め て い る 方 向 に 疑 問 を 感 じ て し ま う の で す が、 夕 焼 け さ ん の ア ド バ イ ス が あ れ ば 嬉 し い で す ね 。 私 の 今 現 在 の 情 報 元 は ネ ッ ト か ら の ニ ュ ー ス 、 や 様 々 な ブ ロ グか ら で す 。

No title * by 夕焼け
アイスコーヒーさん、おはようございます。

公明党がおかしいと思うことがあれば、どんどん公明党の議員に話したらどうでしょう。 わたしは知ってる議員に話します。 政治は民衆の声を聞いて反映させるのが仕事ですから、わたし達は、声を出さなければいけないと思います。 

今は、時間がありませんので、またコメントいたします。 

No title * by 夕焼け
アイスコーヒーさん、おはようございます。

昨日の続きです。

公明党の方向性がおかしいかどうかは、具体的に解りませんが、わたしは、政治は見ているだけでなく、参加するものだと思っています。 参加する方法には選挙がありますが、日本の選挙の実情ははAKB48の総選挙に似て、品評会のようなものではないでしょうか。 好きか嫌いか、自分の損得で選ぶ傾向が強いと思っています。 さらに、マスコミの論調や風聞に強く影響されています。 前回の民主党の一人勝ちはマスコミの論調と甘味のあるマニフェストに、うまく誘導され踊らされた結果といってもよいでしょう。 当時の公明党の選挙用パンフレットに、民主党のマニフェストの一つ一つについて、その矛盾と誤りとウソを指摘したものがありますが、いま、その指摘のとうりになっています。 情報は鵜呑みにしないで、自分の目と足で確かめた事実の収集を基に、いろいろな意見を探して考える必要があります。

政治への参加は、直接政治に携われない制度の中では、議員や政策をを選ぶことが第一行動となりますが、選ぶだけでなく、議員と対話し、政策に携わることが大切だと思っています。 対話から問題の実情や課題を知り、進むべき方向性、政策の中身を考え、自身の考えを、政策に反映させていく行動も必要です。 昔のような封建社会ではなく、今は民主主義社会ですから、わたしたちが提案し議員と議論しながら実行してもらう、声を出して政党を動かしていくのが、本来の議会制民主主義なのではないでしょうか。

つづく

No title * by 夕焼け
つづき

政治は理想を軸に、現実の改革、対策を図るものですが、ベストではなくベターな選択を強いられます。 一つの選択が、一方には不利益となり、かといって、他の選択をとれば、他方の不利益が生まれます。 この判断はむずかいしいものです。 最後は議員や政党の見識・智慧・勇気に委ねられますが、そこにウソと党利党略、利権と保身を介在させて、一方の利権のみを主張していたのが、かつての政治です。 戸田先生は 「 青年は心して政治を監視せよ! 」 と叫ばれた。 公明党を含め、よく見て、声をあげ、政治を正してくことがわたし達の責務だと思います。

わたしは、公明党に厳しく意見もいいますが、公明党を応援する気持ちは変わりません。 公明党が腐敗すれば、わたしたちの手で、新たな公明党を作ることができます。 主体はわたしたちにあります。

こんな考えを、わたしは持っています。

No title * by ア イ ス コ ー ヒ
夕 焼 け さ ん ご 返 事 有 難 う ご ざ い ま す 。 私 は こ れ ま で 公 明 党 を 支 援 し て い ま し た が 、 ど ち ら か と い う と 義 務 的 な 支 援 で し た 。 / 政 治 は 民 の 声 を 聞 い て 反 映 さ せ る の が 仕 事 で す か ら 、 私 達 は 声 を だ さ な け れ ば い け な い と 思 い ま す 。 / 確 か に そ の と う り で し た 。 私 は 今 迄 支 援 す る 議 員 と 議 論 し た こ と は あ り ま せ ん 。 こ れ か ら は 受 け 身 の 支 援 で な く 、 対 話 し 提 言 す る 支 援 を す る よ う に し ま す 。 御 蔭 で き も ち が ス ッ キ リ し ま し た 。

2012-07-10(Tue)
わたしは幼いころ病弱でした。 母には心配の掛けどうしだったと思います。 脱腸・自家中毒・急性胃腸炎・肺炎と、なんらかの病を発症していました。 それでも、中学の頃には体は落ち着き、元気になりましたが、こんどは心から来る体の変調に苦しんでいました。 そんな中、今の信仰と出会い、実践をしてゆくうちに、いつの間にか治ってしまいました。 それからだいぶ経って、50歳を過ぎたころから、いわゆる成人病といわれる病を抱えるようになったのです。 いまでは、肥満・高脂血症・胆のう結石・高血圧・前立腺肥大・不整脈・脂肪肝・腎臓嚢胞と、病のオンパレードです。 幸いにして、いずれもまだ軽く、たいした症状は出ていませんが、死ぬためのメニューが出揃ってきた感じがいたします。 釈迦が出家するきっかけとなる説話に 「 四門遊観 」 がありますが、人は生老病死からはけっして逃れることは出来ないようです。

人は生きていると、なんらかの病に苦しみます。 いわんや老いる前に死につながる病に襲われれば、心の葛藤に苛まれ、奈落の淵に立つ思いに駆られます。 創価の第二代会長である戸田先生や、その弟子である池田先生も、若き日にそのような苦境に遭っています。 また、創価の幹部の中には、不治の病を携えながらも、人々を励まし、希望を贈り、勇気を与えながら生き抜いた人が多くいます。
戸田先生は、若き日に結核にかかり、血を吐きながら、御本尊を揺さぶるようにして、唱題をし抜いて完治させています。 当時では不治の病だったのです。 池田先生も、若き日に結核を抱え、戸田先生の事業の苦境と広宣流布開拓の最前線に起ちながら、病と闘いながら生き抜いてきました。 池田先生の若き日の日記には次のようなところがあります。


* 不思議に、死を予感してならぬ。 これ死魔というべきか。 信心茲に七年。 最大、最高の試練に向かう。 今夜は、とくに苦しく、淋しい。 今、一人の友も無く応援なく、力は刻々と衰えていくようだ。 涙がるいるいと流れる。 ここで死ぬのはいやだ。 若干二十六星霜。 生命の奥底も極めず、人類社会に大利益も与えず、師の恩も返さず、これで死んでいくのはあまりにも残念だ

< 若き日の日記 昭和29年6月8日 > より


文京支部時代の奮闘の陰で、このように病と苦闘していたのです。
人は病と共に生きていくことで成長し、境涯を高めていくことが出来るのです。 日蓮大聖人は 『 浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり 』 と仰っています。
  
今、病気や生活で先の見えない状況を抱え、御本尊を信じ、唱題し、仏法対話や活動に頑張っている人で、不安と悲しみに襲われ、くじけそうになっても、どうか御本尊を信じ、歩みを止めずに乗越えてください。 池田先生を初め、多くの同志が乗越えてきた道です。
池田先生は、かつて九州の青年たちに 「  わたしは、戸田先生が苦境にあったとき、公私にわたり支えました。 そのときには、それこそ1日中、歩きながらでも、少しの合間にも題目をあげて、あげぬきました。 あんなにあげぬいたことはありません。 今のわたしがあるのは、あのときに戸田先生のため、広宣流布のために懸命にあげた題目の力なのです。 」 とこぶしを握り締め、大きく両腕を広げて唱題の重要さを訴えていました。
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No title * by 気分屋
いつも勇気の頂ける内容有り難うございます。

家族や同志の方々が大きな病や事故にあったと聞くと、 とても悔しい想いになります。

この仏法の正しさを何で証明できるのか

自分自身、大きな難にあった時、今の信心の姿勢で闘いきれるのか

最近色々考えすぎて、不安感一杯です。

いつも変な内容で申し訳ないです。

No title * by 夕焼け
気分屋さん。ご無沙汰していました。

だれにでも、不安はあります。
心配しないでも大丈夫ですよ。

地道に一歩を歩んでゆきましょう。
わたしたちの一歩は、確かな道を登る一歩なのです。
山の風景は、登った人にしか見ることが出来ない風景です。
登ってきた道筋を見下ろしたときに、つらい思い出も、
至福の想いとなって胸に湧き上がってくるはずです。

信心は1歩1歩でいいのです。
山は駆け足で登ってもつまらないものです。

2012-04-27(Fri)
今日の新・人間革命では、池田先生が師弟について語っておられます。 とても大事なことを書いてくださっています。

信心されている人は読むことが出来るので、内容の引用はしないことにします。 信心されていない方は、この記事は読んでも理解できないでしょうから。 スルーされたほうがよいかもしれません。

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今に生きるわたしたちの師匠は、池田先生です。 新・人間革命( 人材城16 )に書かれている ” 戸田先生 ” ” 先生 ” ” 師 ” ” 師匠 ” のところを池田先生と読み替えて、自身の心に問いかけ、人間革命の道を歩んでいくことが、創価の人間として、とても大事な生き方となります。

さらに深く言えば、師は日蓮大聖人であります。 ” 戸田先生 ” ” 先生 ” ” 師 ” ” 師匠 ” は日蓮大聖人と読んでいくべきであります。 日蓮大聖人の心を心として生き抜かれたのが、牧口先生であり、戸田先生であられました。 そして、その心を心として行き抜いてこられたのが池田先生であります。 牧口先生・戸田先生の心と言っても、日蓮大聖人の心を心としていくことに尽きるのであります。 池田先生の心を心としていくならば、日蓮大聖人の心、生き方、振舞いに行きつくのです。 心を心としていく。 自身の血肉としていく。 それが今ほど求められている ” とき ” はありません。 日蓮大聖人の心を心として、自体顕照して生き抜いていくことが令法久住の根本義なのであります。

その創価を破壊しようとしたのが、今の宗門である日顕宗であります。 権威の衣の下で三毒に囚われて獅子身中の虫となり、喰法餓鬼のようにして、清浄であるべき宗門を食いつくし、邪宗門へと変えてしまったのです。 出世間のように見せかけた生活をし、利害や打算にまみれた姿に、僧の資格など断じてありません。 民衆を見下すなど、師敵対そのものであります。 日蓮大聖人の心を心とし、「 未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致すべき事 」 、 「 先師の如く予が化儀も聖僧為る可し 」 を体現する者こそ、僧の僧たる資格と尊敬を受けていくことができるのです。
僧とは仏に成らんと仏の道を歩む者達をいうのです。 団結して、ただただ民衆の幸福を願い、広宣流布にいそしむ者達こそが僧伽なのです。 今においては、創価こそ、真の意味で僧伽といえます。 創価の誕生が仏意仏勅と言われる所以は、日蓮大聖人の心を心として生き抜く令法久住の姿にあると言えるでしょう。
Category : 信 心 Comment : (6) |

No title * by 河越武蔵守頼重
講堂ですね。
良い感じに撮られてます。

天魔は成り上がり者。
あ奴には、連祖大聖人の御心が解るはずが無い。

No title * by 夕焼け
頼重殿、おはようございます。

このアングルは、たしか絵葉書にあったものだと記憶しています。
いいアングルです。 わたしも気に入っています。

仏法に違背するものは、何事もないように見えても、最後には滅びると御書に書かれております。 今の邪宗門、法華講も御書の通りになることはまちがいありません。 いずれ新たな時代とともに浄化されていくでしょう。

No title * by SHIn
とても分かり易い師弟の絆の講義ありがとうございました!

No title * by 夕焼け
SHInさん、こんばんわ。

先生のようにはなれない、と、どうか思わないでください。
心を受け継ぐことは、そして、行動することは、誰でも、できるのです。
それは、そう思えるか、そう思えないか、で決まります。

GWはいろいろとごくろうさまでした。

No title * by アイスコーヒー
夕焼けさん、今日は。 以前に、かどやよしたか、の名前でコメントさせていただきました。 以前は、パソコンの調子がうまくいかず、漢字に変換出来ず思うようにコメントがしにくかったのですが、四苦八苦の末、漸く漢字変換が出来る様になりました。 こちら中国では創価系のブログの内でも何故か読めなくされているものも多いですが、夕焼けさんのブログはカットされていないので有り難いです。       
私は平成3年に創価を脱会し法華講に入講し平成17年まで邪宗門にいました。 幸い日顕の法主詐称に15年目にして漸く気付き、法華講を脱講し、再び創価に再入信させていただきました。 私の拙い体験ですが、夕焼けさんのおっしゃるとり 仏法に違背した宗門と法華講は坂道を転がるように壊れていきました。 宗門、法華講は本当に無慈悲なところでした。 特に、僧侶の権威を繕う姿、本性は、食法餓鬼の姿そのものでした。 まさかが本当だった。

No title * by 夕焼け
アイスコーヒーさん、こんばんわ。

大変な環境の中で、お仕事ごくろうさまです。
がんばってくださいね。
創価から法華講、そして創価。 貴重な体験でしたね。 まさに雨降って地固まるで、これからも信心に励んで、共々にいい人生にしてまいりましょう。

2012-03-24(Sat)
今週、聖教新聞に掲載された新・人間革命(薫風 44・45)にとても大事なことが書かれていたので、このブログで取り上げておきたいと思います。 内容は、昭和31年(1956年)に行われた山口開拓指導での座談会の様子で、目の不自由な婦人が池田先生(当時:青年部参謀室長)に質問したところの描写であります。


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(聖教新聞2012年3月21日付 新・人間革命 薫風 45)

* 目の不自由な一人の婦人が手をあげて質問した。
子どもの時に失明し、入会して信心に励むようになって1カ月ぐらいしたころ、少し視力が回復した。 しかし、このごろになって、また、元に戻ってしまった。 果たして、目は治るのかという質問である。
” 室長は、なんと答えるのか …… ”
酒田は、固唾をのんで見ていた。
伸一は、その婦人の近くに歩み寄って、婦人の顔をじっと見つめた。 そして、彼女の苦悩が自分の苦悩であるかのように、愁いを含んだ声で言った。

「 辛いでしょう。 本当に苦しいでしょう。 」

彼は、婦人の手を取って、部屋に安置してあった御本尊の前に進んだ。

「 一緒に、お題目を三唱しましょう 」

伸一の唱題の声が響いた。 全生命力を絞り出すような、力強い、気迫のこもった、朗々たる声であった。婦人も唱和した。
それから、伸一は、諄々と語っていった。

「 どこまでも御本尊を信じ抜いて、祈りきっていくことです。 心が揺れ、不信をいだきながらの信心では、願いも叶わないし、宿命の転換もできません。 御本尊の力は絶対です。 万人が幸福になるための仏法なんです! 」

山本伸一は、さらに力を込めて、目の不自由な婦人に訴えていった。

「 あなたは、自分も幸せになり、人びとも幸せにしていく使命をもって生まれた地涌の菩薩なんです。 仏なんです。 一切の苦悩は、それを乗り越えて、仏法の真実を証明していくために、あえて背負ってきたものなんです。 仏が、地涌の菩薩が、不幸のまま、人生が終わるわけがないではありませんか! 何があっても、負けてはいけません。 勝つんですよ。 勝って、幸せになるんですよ。 」

誰もが、伸一のほとばしる慈愛を感じた。 婦人の目には、涙があふれ、悲愴だった顔が明るく輝いていた。
酒田英吉は、指導、激励の ” 魂 ” を見た思いがした。 ” 指導というのは、慈悲なんだ。 同苦する心なんだ。 確信なんだ。 その生命が相手の心を揺り動かし、勇気を呼び覚ましていくんだ! ”

< 新・人間革命 薫風 44・45 >より


どんなことでも、それを成就させるのは、人の、希望を抱いて諦めることのない心と祈るような真剣な行動にあります。 信心においても、やはり同じです。 大事なのは 「 どこまでも御本尊を信じ抜いて、祈りきっていくこと 」 ではないでしょうか。 御本尊を信じ抜くというのは、自分を信じ抜いていくことと同じなのです。 
このご婦人の目が、その後どうなったかは判りませんが、池田先生の激励に応え、信じ抜いて祈りきっていったのではないでしょうか。 目が見えるようになったに違いありません。 たとえ、生理的に目が見えないままだったとしても、信心で心の目を開き、苦悩に押し潰されていた境涯から、人の苦悩を思いやり、同苦し、励ましていくほどの境涯に、きっとなっているはずです。 依正不二ですから、まちがいなく、幸せに満ちた中で微笑みながら、家族や友人に信心のすばらしさを語っていることでしょう。
Category : 信 心 Comment : (8) |

No title * by SHIn
私もうつで治療中であり中度難聴ですが池田先生に毎月御報告する中、であればこそ同じ病気で悩んでいる方の良き理解者に!と強く想うようになりました。現在闘病中の為無職ですが今回の支援の戦いで経済革命を!と決意しております!地元の壮年部から仏法は道理だから祈り動いて真面目に仕事して初めて経済革命は為せるんだよとの指導は受けておりますが私は支援の戦いは必ず経済革命を起こせると信じ祈り活動します!

No title * by 夕焼け
SHinさん、おはようございます。

わたしは、小学6年から中学1年のときに、今で言うパニック症候群を経験しています。 初信の功徳で治りましたが、その後ときどき現れ、しばらくは引きずっていました。 この病も意識ではコントロールできません。 そして心の緊張と体の生理的な症状に苦しめられます。 自由のきかない自分に追いやられていきます。 しかし、信心で治しました。 経済革命は時間がかかりますが、信心と努力で必ず打開できます。 福運を付けてください。
支援の戦いについては、記事にしようと思っていましたので簡単に話しますが、50、100、1000でも支援そのものにたいした功徳はありません。 支援の戦いで大きな功徳を積む人と積まない人がいます。 大きな功徳を積む戦いにしてください。

同じような病の人のためにも、うつの克服を御本尊に祈りましょう。
わたしも祈ります。

No title * by SHIn
夕焼けさん、ありがとうございます。了解です(^O^)

No title * by 気分屋
はじめまして。 支援そのものには大きな功徳がない。大きな功徳を積む戦いを、とありましたが、もう少し詳しく指導して頂けないでしょうか。 わたしは壮年部です。家庭訪問は好きなのですが、法戦は昔から苦手です。人に会うのは得意なのに、あの支援を頼むときの空気と、買いたくないもの買ってまで、店の人に頼むのはもう苦痛の域に入ってしまいました。組織にいてもこの時期は非常に辛いです。 支援に燃えている方との温度差がありすぎなんです。なんとかしなくてはとの気持ちはあるのですが。 ご指導宜しくお願い致します。

No title * by 夕焼け
気分屋さん、ようこそ。

わたしは、宿命転換・一生成仏の功徳があるのは、御本尊に唱題することと、御本尊のすばらしさを語ることしか無いと思っています。 このことをちゃんと踏まえていれば、仕事の闘いでも大きな功徳を積むことができます。 病気との闘いもそうですし貧乏との闘いもそうです。 創価の体験談はみんなそのことを雄弁に物語っていると思いませんか。 法華経の兵法をもって闘うところに大きな功徳の花が咲く、というのが日蓮仏法の第一原理ではないでしょうか。 
仏法は勝負だ、とよくいわれますが、これは、なんでもかんでも勝たなければダメだという意味ではありません。 勝つことを目標に闘わなければいけませんが、最後に勝てばいいのです。 また、アインシュタインの言葉に 「 人間としての真の偉大さに到る道はひとつしかない、何度も酷い目にあうという試練の道だ 」 とあるように、人間として勝てばいいのです。 わたしは常々、折伏の成果など気にするなと言っています。 悩んで、唱題して、仏法対話して、人間革命するのが何よりの成果なのだと。 この根本を忘れた学会活動など学会活動ではないと思います。 支援も啓蒙もそう思っています。 
支援はしたくないと思うならばしなくていいのではないでしょうか。 いつも通り仏法対話して、創価の理解と信心する人を一人でも多く増やす戦いをしていきましょう。

No title * by 気分屋
ありがとうございました。
今後とも宜しくお願いします。

No title * by ちよ
自在会のメンバーのところ、コピーさせていただいていいですか?

No title * by 夕焼け
ちよさん、こんにちは。
返事が遅れて申しわけありません。

当ブログの ” 著作権について ” に書いてあるように、画像を除いて引用の範囲で使うのであれば、承諾なく記事のコピーOKです。

2012-02-14(Tue)
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わたしは、入信して今年で51年になる。 先に母が信心しているので、二世と言えばそうだが、父は入信していなかった。(晩年に入信する) ある種の緊張関係にあったから、純粋の二世とは違うと思う。 また、入信当時は池田先生が会長に就任されたばかりで、信心し始めた中学の頃は、組織には学会精神が横溢しており、今の2世・3世とは違う環境で育ったと思う。  学会精神というものを直にこの目で見て体験してきた。 世間から見れば洗脳されたということだろう。 (^^
今振り返れば、とても幸運だったと思う。 (^^ 

高校生の頃は、池田先生の 「 指導メモ 」 を擦り切れるくらい読んで、自分を勇気づけながら、嘘のない正義に生きる人間に成長していこうと頑張っていた。 創価の社会は、一般の社会と比べ、真実の人間性があり、厳しくも暖かい庶民の優しさを感じることができた。 理想の心と純粋な行動があった。 そしてなによりも、会合や同志とのふれ合いが楽しかった。 今振り返っても、信心から離れた時期の世間的な楽しさや豊かさなど霞んでしまうほどの、心に染みる金の日々だった。 わたしは、信心の実践をまったくしなかった時期があるし、一生懸命に実践した時期もある、まともに実践してきたほうが少ないかもしれない。 その理由は、好きな仕事や色々な付き合いが、わたしを押しつぶすように支配してきたからだが、根本は信心が本物では無く観念だったのだと思う。 今となれば、非常に後悔している。 でも、身は退転していても、心は常に創価を想い池田先生を希求していた。

今、創価の同志の中には、かつてのわたしと同じような心で、同じような状況に置かれている人がいると思う。 そのままでは、必ず後悔することになる、と言いたい。 一歩踏み出して、組織の中で人間革命していってほしいと思う。 遠回りのように思うかもしれないが、それが社会で勝利する近道でもあるのです。 勤行と唱題と座談会をしっかりと押さえ、支部長・地区部長と顔を会わせ、連絡しあいながら組織と繋がっていくことが大事です。 それがあれば、あとは仕事や家庭を大切にしていくんです。 その場所で社会の善となるような生き方をして、身近なところで ” 信心している人はさすがだ、いい人だ、信頼できる ” と認められれば、もう、それが、あなたの広宣流布なのです。
Category : 信 心 Comment : (2) |

No title * by SHIn
私も先日信心10年目を迎えましたが青年部時代に10年迎えられて良かったなと思います。来年は創価班10年です。信心51年の中で培われた1つの結論勉強になります。御書に仰せの通り周囲に賛嘆されゆく日を目指してレッツゴー!です(^O^)

No title * by 夕焼け
信心10年目を迎えましたか。
よく頑張ってきましたね。

わたしは、もう先が短いので、今焦っています。(^^;

2012-02-13(Mon)
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先月は座談会御書で一生成仏抄を学びました。 この中に 『 妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずそ法なり、そ法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり 』 という御文がありますが、わたしたちは、この御文の意味を解っているようで、実は解っていないということが多いのです。 どうゆうことかといえば、わたしたちの信心が無意識に、御本尊に漠然と頼るような信心になっていることが多い、ということなのです。  自分でなく御本尊が何かしてくれるとゆう感覚です。 これでは、信心する前からの宗教観を引きずった信心といえるでしょう。 この御文は、 ” そうじゃないんだよ ” という日蓮大聖人の慈悲のお言葉であり、ご指南なのです。

子が親を求めるように御本尊を慕って、祈ることは正しいことなのですが、 ” なんとかしてください ” ではダメなのです。 御本尊はなんともできません。 一生成仏を目指すならば、この御文を胸に刻み、御本尊に対座して南無妙法蓮華経と唱え、考え、行動することがとても大事なのです。 この信心は、御本尊に唱題して、自らに具わる仏界の生命を湧現させ、己心の九界を仏界所具の九界としていく作業であり、その修行を現実の九界の世界の中で行い、顕わしていくものなのです。 「 一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて 一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする 」 という方程式です。 病気が治る、貧乏が裕福になる、悩みが喜びに変わる、人間関係が好くなる、仕事に意欲が生まれる、努力できるようになる、気力が充実する、勇気が湧く、人を思いやれる、真面目になる、悪にひきずられない・・・・・・等々。 全部、自分から出てくるものが淵源となって変わるものなのです。 自分が変われば廻りの環境・状況も変わるし、周りの環境・状況に負けることなく、随自意の生き方が可能となってくるのです。

本来、病気だって自分が治すものなのです。 人間の治癒力がなければ現代の医学ではなんだって治せません。 一ヶ月も生きていられません。 自分の骨髄から、幹細胞を採取して培養し、壊死しかけている足に定点注入して毛細血管の再生で壊死を食い止め、切断せずに済んだり、癌の最先端治療にワクチン治療が研究されているのも、IPS細胞の活用も、全部人間に元からある力の発現で治療するものなのです。  そうかといって、禅宗のように、自分がそう思えば、そうなるというものでもありません。 医者がいて、治療法があって、治癒力があって、励ましがあるから治るのです。

わたしたちの信心に当てて考えれば、同志の励ましに勇気を貰い、御本尊に南無妙法蓮華経と唱え、仏法対話をして、自身に仏の生命が満ちて諸天の守りが働くから、ちゃんと病気が治るのです。 信心の体験で、癌が無くなった、目が見えるようになった、歩けるようになった・・・・・・等々。 御本尊に力があるのは確かだが、御本尊が治すのは、体の病気ではありません。 悪い宿業です。 生命の病です。 九界即仏界から仏界即九界へと生命を治すのです。 そこから、驚くような治癒が自身や廻りから行われていくのです。 それだけの生命力が秘沈されているのです。 宇宙の働きを司る諸天も最大限に働くから、よい医者に巡り合ったり、治療や発見のタイミングが良かったり、副作用も無く薬が効いたり、となってくるのです。 貧乏だって、人間関係だって、商売だって同じです。 信心すれば頭だって良くなるのです。 脳に障害があって、身体もコントロールしづらく知能も未熟で、社会生活も危ぶまれるような子供が、成人する頃には、社会で働き、創価班員になって、自立していくのを、わたしはこの目で直に見てきました。 母と子の信心の賜物です。 持続の信心の凄さは計り知れません。 

わたしたちの信心は、現実の世界と交流しながら、南無妙法蓮華経を生命に染みわたらせ、御本尊を肉弾に顕わして生きて行くことが目標なのです。 病気していようと、貧乏であろうと、悩みがあろうと、迫害されようと、微動だにしない大我の境涯でいられ、それらを種にして、あるいは薪として、自在に価値や幸福を創造し感じていくことができるようになるのです。

「 我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり 」 のお言葉をよくよく思うべきであります。
Category : 信 心 Comment : (4) |

No title * by SHIn
“当体”と言う事ですよね。これを身読するには現実社会で切磋琢磨するしかないですね。人間革命の首題これ程一生成仏の定義を現代用語で簡潔に教えてくれている文章はないと思ってます。そこを目指しているわけですからね。

No title * by 夕焼け
SHInさん おはようございます。

社会や家庭や地域が、信心を鍛える道場と思えるようになれば、一歩前進です。共に頑張りましょう。

はじめまして。 * by すまいる
こんにちは、はじめまして(^-^)
過去の記事にコメントして、気づいてもらえるでしょうか?
仕事の人間関係で悩んでいた時にこの記事を何度も読み返しました。
今もずっと原点になるこの記事を見て奮闘しています。
今は自分を取り戻し、職場でも環境も人間関係も整ってきました。
本当にありがとうございます(^-^)
この記事で軸にさせてもらってます。
大好きな先生の元、今日も頑張ります(^^)

* by 夕焼け.
すまいるさん。 おはようございます。

よかったですね。 (^^

このブログを開設した意味がありました。
こちらこそ、ありがとうございます。

同じようなことが起こったとしても、
信心で開拓した境涯は崩れることはありません。
生命の財産となります。

先生と共に、題目をあげて、今日も頑張りましょう。

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