--------(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Category : スポンサー広告 Comment : (-) |
2012-11-06(Tue)
blog_import_523dae866b50c.jpg


人には記憶があります。 しかし、過去の限られた記憶しか思い出せません。 一説には、生まれてから死ぬまでの総てが脳に記憶されているといいます。 しかし、すべてを思い出すことは普通は出来ません。 わたしは、生まれて3日目の記臆があります。 また、断片のように1歳のときの記臆もあります。 それは、母の話と写真が残っていたため、後でわかったことですが、そんなに古いことを覚えているのに、昨日のことすら、初老の身では思い出せないことが多々あります。

脳やその中にある海馬が萎縮すると、記憶障害が起こることが判っています。 死んで脳が破壊されれば、すべての過去の記憶は無くなると考えるのが当たり前ですが、はたしてそうなのでしょうか。
心理学では、人の記憶は、思い出せなくても意識の奥深くに刻まれているとしています。 また、人智学では、アカシックレコードに総ての記臆と出来事が遺されているとしています。 人の心が脳によって作り出されているのであれば、やはり記臆は脳にあるといえるでしょうが、過去世の記憶を持つ人や、催眠療法で、生まれる以前にまで記憶がおよぶ現象は、それでは説明がつきません。 わたしは、脳は生命という電波の受信機であり、発信機でもあると考えています。

人の脳は神経細胞の集合体で、その一つ一つが生命体です。 記憶はどのように神経細胞に蓄積されているのでしょう。 脳の細胞の働きは、いろいろな化学物質やイオンによって伝えられ。 微弱な電流を使って機能しています。 脳波は脳の電気的な活動や磁場を捉えたものです。 人の記臆は、神経細胞の中に化学物質の配列として、また磁気信号として刻まれているのでしょうか。 いまだにそのことは解明されていません。 もし、脳の記臆の貯蔵庫が解明されれば、SFの世界にあるように量子コンピューターを使って、過去の記臆を映像化することも可能かもしれません。

仏教では、同名同生天といって、人の一生を残らず記臆している天子が、両肩の上に影が身に添うように、片時も離れずにいるとされています。 一人では間違いが起こるといけないので、ダブルチェックしている、というわけではなく、善と悪を別々に記臆する役割とされています。 まさに業のバランスシートを記録する書記といってよいでしょう。 釈迦は悟りを開くときに総ての過去世を思い出したとされていますが、どこにその記臆があったのでしょう。 仏が言うのですから、たしかに記臆はどこかに残されていたのでしょう。 まさかそんなことはありえないと思うかもしれませんが、時間が伸縮したり空間が曲がったり、五次元の世界が存在すると真剣に考えている現代の科学のことを思えば、簡単には否定できません。

脳にしか記憶がないとして、三世の生命について考えると、この仏法に縁して、信心を始め、来世でも同じ信仰を持ちたいと思っても、一切の知識や記憶は死と共に無くなる訳ですから、生まれ変わって仏法に会えたとしても、また信心するとは限りません。 裕福な家に生まれ、健康で、頭もよく、容姿に恵まれて生まれたならば、はたして信心するでしょうか。 どんな人にも悩みはありますから、信心するようになるかもしれませんが、紆余曲折はいなめないと思われます。 その意味で、生まれて多少のリスクやハンデがあったほうが、早く信仰に目覚め、信心するようになるのではないでしょうか。
わたしが、貧乏で、体も弱く、頭の悪い、容姿も劣る人間に生まれてきたのは、その為なのか、と、思ったりしていますが、裕福な家に生まれ、健康で、頭もよく、容姿に恵まれて生まれ、すぐ信心ができたら、もっといいのにとも思います。 (^^;

福子の皆さん、最高の生まれ方をしてきたんですよ。 (^^
スポンサーサイト
Category : 生 命 Comment : (0) |
2012-08-21(Tue)
blog_import_523d99c705bb7.jpg


人間の生命のことを考えるとき、いつも思い起こされるのは、自分という生命と、体を構成する一つ一つ細胞の生命は同じなのか、違うのか、とゆうことであります。 精子卵子のそれぞれの生命は、結合とともにどうなってしまうのか、精子が死に、卵子が人間の萌芽となり成長してゆきますが、自分はどこから、いつからが自分なのか、考えれば考えるほど、解らないことばかりでした。 人間の細胞は7年で新しい細胞に入れ替わるとされるように、人間の生は一つの細胞の生死の積み重ね、連鎖によって支えられています。

最初の頃は、人間の細胞は、自分という生命に司どられているもので、細胞一つ一つに別の生命があるというふうには考えませんでした。 しかし、生命のことを思索していくほどに、人間の体を形成する細胞の一つ一つは、別の生命なのではないか、 人間は、多くの生命に支えられて、個として、自分として、生命活動を行っている存在なのではないか、というふうに、思い始めるようになってきたのです。  そして、あるとき、法華経従地涌出品の文が頭に浮かび、 ” そうなんだ ” と気づかされました。

法華経従地涌出品には、地涌の菩薩を、釈迦が召しい出だす箇所があります。 その一々の地涌の菩薩には、六万恒河沙の眷属が伴っていると描写されています。 この、六万恒河沙という数ですが、恒河沙というのはガンジス河にある砂のことで、数えきれないほどの、という意味です。 ここで、わたしが注目したのは6万の6という数字です。 人の細胞は約60兆個あるそうです。 不思議な附合です。 この文により、わたしは、わたしという人間が、別の生命の有機的集合体とともにあるのだ、と気づくことができました。 そう気づくと、いろいろなことが理解できるようになったのです。

まさに、人間は、それぞれの使命に生きる生命とともに生きているのです。 生かされているともいえます。 自殺や、不摂生は、この生命体を傷つけ、生命の尊厳をあなどることになります。 60兆の眷属とともに地涌の菩薩として、使命を果していかなければなりません。 人間そのものも一念三千の当体なのです。 三世間も備わっているコスモス(小宇宙)なのです。

その意味で、くれぐれも、体(眷属)を大事にいたわって下さい。
Category : 生 命 Comment : (2) |

No title * by 真理子
大きな数のことをかんがえることとともに小さな自分の内面にもめがいきごぶっちをいただきましたね。

No title * by 夕焼け
真理子さん おはようございます。

コメントありがとうございます。

2012-08-07(Tue)
blog_import_523d97810fe08.jpg
(写真:Hubble Site CC Barred Spiral Galaxy NGC 1672

ひさしぶりに、生命について語ってみたいと思います。

最近、ヒッグス粒子(ダークマター)の発見が話題になりました。 はたして、新粒子の発見が、宇宙の謎を解き明かしてくれるのでしょうか。 ほんとうにヒッグス粒子なのでしょうか。 人類はいままで、いろいろな発見をしてきました。 そして、多くの謎を解明してきました。 しかし、ひとつの発見が、あらたな謎を生んできたことも事実であります。 現象世界から根源の謎を探っていくのはとても難しいことのようです。

わたしたちは、中学のときに万有引力を習っています。 物には質量があり、その質量には引力が働き、重さが生じるとゆうものです。 物質になぜ引力があるのか、あることは判っていても、実は、なぜあるのか解っていなかったのです。 今回の発見は、物質が存在する謎を解明する手がかりとなるものだ、と言われております。 この粒子が存在しなければ、この世界は光だけの世界だったと理論的に推測されていました。 ところが、現実は千変万化の物質で宇宙は満たされています。 粒子のエネルギーを弱め、互いに結合できるようにする働きが存在しなければ、物質は生まれなかったと推測されていました。 今回の発見がその働きをするとされるヒッグス粒子だとゆうのです。

光だけの世界というのが想像できませんが、ビッグバンによってそのような世界が初めにあって、その後すぐに物質が生まれ、今のような宇宙になったという理論です。 ” 初めに光ありき ” というのは旧約聖書に出てくる言葉であり、天地を創造した神にちなんで ” 神の粒子 ” と言われるゆえんがここにあります。 今、科学が宗教の概念を追っているというのは、なんとも皮肉なことです。 科学の最先端に行くほど宗教を否定するどころか、それを肯定してゆくように見えてしまうのはなぜでしょう。 謎解きは、まだまだ続くにちがいありません。

心の世界が現象世界・物質世界とともにあって、引力のように働きあっているというのは仏教の色心不二の概念ですが、生命(実相)が遍満していて、一念三千と顕れ(諸法)宇宙となっていること(本末究竟等)に、人類ははたして、科学で気がつくことが出来るでしょうか?
Category : 生 命 Comment : (0) |
2012-02-21(Tue)
blog_import_523d808e1f26e.jpg
(Photo by ハーベス)


” 死 ” という問題について、思い浮かぶにまかせて綴ります。

人は ” 死 ” という問題を、不幸な出来事、遺棄したいものという観念を抱いてきました。 そのため、自らの意識の中から排除して、問題を見ないようにして日常を過ごすことが多いようです。 ” 死 ” を考えないことで、永遠の日常を手に入れているかのように、あえて錯覚させているのでしょう。 あるとき、現実を前にすると、愕然とし、恐怖して、怯えるしかないかのように苦悩し、不幸のシンボルに仕立て上げてしまいました。

わたしは、生も死も、生命の顕在化と潜在化の違いであり、生命から見れば、瞬間の中から解き放たれる永遠の出来事の瞬きにすぎないと思っています。 譬えで考えてみると、死は空気中に何も無いように見える状態で、生は寒い朝に窓ガラスに結露して出来る水滴のようであり、極寒の夜に漆黒の闇から、キラキラしながら降る雪の結晶のようでもあります。 雪の結晶の形ができる様相は、業の遺伝子が織りなして生まれる生物の彩りのように思えます。 

時間というのは変化に伴う記憶と痕跡のようなもので、世界に変化が無ければ時間は認識できません。 アインシュタインが導き出した、時間に長短が存在するという理論も頷けます。  ” 我思う故に我あり ” とした実存の哲学者が行き着いた場所は、 ” 思う我 ” という存在です。  ” 思う我 ” の未来は瞬く間に来たり過去へと過ぎ去っていきます。 しかし、 ” 思う我 ” は確かに存在し続けています。 常に、自覚する存在は、瞬間として永遠に存在しているのでしょうか。 仏法では、世界に終わりも無ければ初めも無いと説かれています。 この命題は難信難解ですが、人類の宇宙とミクロの世界の理論的探求や実証的探求が、この命題に近づきつつあるように、わたしには思えます。

” 死 ” は不幸でもありますが幸せでもあり、
” 生 ” は幸せでもありますが不幸でもあります。
” 死 ” は次の生の生みの親であり、
” 生 ” は死の準備ともいえるでしょう。

わたしは、 ” 死 ” は決して不幸のシンボルではないと思う。
Category : 生 命 Comment : (8) |

No title * by せんしゅ
お久しぶりです
死について考える事が多いのですが凡夫ゆえ難解な問題でなかなか…
夕焼けさんのわかりやすく美しい記述で癒されました


No title * by 夕焼け
せんしゅさん、おはようございます。

お元気でしたか?
そうですよね。 死なないで実際に認識するのはむずかしいです。
実はこうゆうことは、そこらじゅうに転がっています。

No title * by せんしゅ
>実はこうゆうことは、そこらじゅうに転がっています

とは?


No title * by 北のおやじ
先週葬儀が三つもあり色々
考えていたところです。
素晴らしいブログですね、たまにお邪魔させて下さい。60過ぎの一本指タイピンガー、北のおやじ

No title * by 夕焼け
せんしゅさん、こんばんわ。

返事がおそくなり、ごめんなさい。 (^^;
ちょっと、文章が長くなるので、近いうちに記事にします。

簡単に言うと、事象として当り前の様に存在しているにもかかわらず、
思義することが困難で、実認識できないことをいいます。

No title * by 夕焼け
北のおやじさん、ようこそ。

コメントありがとうございます。
三つもですか、それでは、考えないわけにはいきませんね。
わたしは、小さいときから考えていました。 
でも、漠然と散らかったような状態でした。 
ハッキリと考えが明確になったのは、つい最近です。

また、いらしてください。 (^^

No title * by トッシー
夕焼けさんこんばんは!
以前は死や時間の始まりを考え始めると、眠れなくなる夜がよくありました。
最近は仕事やその他が忙しくて^^;
その事について考える事自体忘れてました。

死は決して不幸のシンボルではない

夕焼けさんの考え方、好きです☆
そのように考え生きていくことで、ストレスも軽減され、死を不幸と捉えてしまい、おびえて生きている人よりも寿命も延びる事ができそうですね!

今日は、100回、目指して始まった壮年と男子部との唱題会(2回目)が朝ありまして参加しました。壮年の方の体験は、為になりますね。

みなさんブログやインターネットまったく知らないそうで。。
今度、大好きな夕焼けさんのブログ、紹介してもいいですか?

No title * by 夕焼け
トッシーさん、こんばんわ。

死んでどうなるか恐れ、死んだ人の幸・不幸を考えるより先に、生きているときの生き方の善悪を恐れ、自他ともの幸せを追求すべきだと思います。 死はその延長線上にあると思います。

> 今度、大好きな夕焼けさんのブログ、紹介してもいいですか?

ありがとうございます。
どんどん、紹介してください。 (^^

2012-01-10(Tue)
blog_import_523d7b1d13914.jpg


天台大師は一念三千論として、色心不二、依正不二の視点から生命を解析しています。 一念三千論については、別の機会に譲るとして、基本となる ” 十界論 ” について触れてみたいと思います。 

人の生命には十の生命の階層があるというのが十界論です。 それは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十の生命です。 地獄界から天界までは、よく観察すれば他人の姿に見てとれますし、日常の中で自分にも現れていることが理解できます。 これらは六道と呼んでいます。 次に声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界を四聖と言い、そのうちの声聞・縁覚を二乗あるいは菩薩界を入れて三乗と呼んでいます。 開三顕一の三はこの三乗です。 これらは、なかなか現れることはなく、他人に見ることも少ない生命です。 さらに、それぞれの生命には十界があり、これを ” 十界互具 ” と言います。 つまり、地獄界にも地獄界から仏界まで、人界にも地獄界から仏界まで、仏界にも地獄界から仏界まで具わっているのです。 普段温厚な人が怒りを現すのは人界の修羅界であり、物事を知ろうと学問に取組む姿勢は人界の声聞界といえます。 ここでは、このように単純化して説明していますが、人の生命の状態は十如是・三世間を含めて、複合的に捉えて理解しないと誤解します。 いずれにせよ、この生命は、絶えず現れては去り、去っては現れます。 自分で、この生命でいようと思っても、なかなか自由にはなりません。 意識でこの生命を自在にコントロールできればいいのですが、構造的にそうなっていません。 生命は外界からのいろいろな働きかけ(縁)に触れて、主体の生命状態(因)により様々に現れるのです。 

では、この生命と心や体、意識との関係性はどうなってるのでしょう。 それが、 ” 十如是 ” や ” 三世間 ” というそれぞれの生命に具わる働きや特質と深く関わってきます。
Category : 生 命 Comment : (0) |
2011-11-01(Tue)
blog_import_523d6e4b65018.jpg


人には心がありますが、その心模様はとても繊細であり、またダイナミックなものです。 自在に心を羽ばたかせているかと思えば、コントロールするのにも手を焼き、心に押しつぶされるそうになる時があります。 心には自分で意識している部分と意識していない部分があります。 人間の自律神経や交感神経のように、意識の及ばないところで、体をコントロールしていることを考えていただくと解りやすいかもしれません。 この意識していない部分は、心や体に投影されながらも、自分ではコントロールしがたい心の領域です。 このことは、深層心理学やルドルフ・シュタイナーに代表される人智学の研究でも明らかにされてきています。
 
仏法では、この心の深層部を包み込む、さらなる領域があると捉えています。 ” 心と体を受容し薫発する領域 ” ともいうべきこの領域は、人の日常に意識せず入り込んできて、人の行動を決定づけています。 意識に背反するような行動や心の暴走はここを淵源としているのです。 人は良心と理性で、感情や欲望を押さえつけられると考えていますが、釈迦はそうじゃないと警告しています。 ではこの ” 心と体を受容し薫発する領域 ” とはどのようなものなのでしょうか。 実は、釈迦は法華経およびその開経である無量義経で、それを説いていて、天台大師は緻細にそれを紐解いて ” 一念三千 ” と明らかにしました。 さらに日蓮大聖人はそれを ” 妙法蓮華経 ” と喝破されています。 創価の第2代戸田会長は獄中で端坐唱題しながら ” 生命 ” のことなのだと悟達するに至ります。 

この ” 生命 ” は、人の心の母であり、心の大地ともいうべきものです。
Category : 生 命 Comment : (2) |

No title * by トッシー
夕焼けさんこんばんは。

頭の悪い僕には難しく、5回程読みました^^;
心も奥が深いですね。とてもおもしろいです。

そういえば、今日yahooニュースで、1年で数千個の星を生み出す(モンスター銀河)の10倍以上明るい(超モンスター銀河)が日本のチームが発見されたそうで、日本のヤマタノオロチから(オロチ)と名づけられたそうです。

上の壮大な木の写真もオロチのようですね^^

No title * by 夕焼け
トッシーさん おはようございます。

>頭の悪い僕には難しく、5回程読みました^^;

いえいえ、実はこの記事は、3つに分けたほど最初は長文でした。
それを、むりやり1つにしたので、文の構成が悪くなっています。
話が飛んでいるでしょう。 ごめんなさいね。
すこし直しました。(^^;

写真はハワイのいわゆる”日立の木”の中です。
あの枝と同じくらい、見えない地中には根が張ってるんですよ。

2011-07-18(Mon)
blog_import_523d5356e5dd1.jpg
(Wikipedia CC Gleam Chikyu 1


きのう、NHKスペシャルで 「 深海大探査 」 をテーマにした番組を見ました。 日本が誇る深海探査船を使って、沖縄トラフ(水深約1000mほど)の熱水床(熱水300度以上)をボーリングして周囲の地層を採取するプロジェクトの紹介番組です。

何のためにやっているかといえば、この深海の熱水床の周りに展開する環境と原始地球の深海の環境とがよく似てるため、地球の多様な生命の起源となる誕生が、ここで始まったのではないかと推察されはじめたからです。 その根拠は、かつて深海にあった熱水床が今は地上に隆起している場所があり、その岩石を調べてみると、小さな穴が無数にあり、メタンガスが閉じ込められていて、さらに調べると、そのメタンガスと一緒に細菌レベルの生物の化石が発見されたからです。 また、熱水床に触れていた地層の岩石と水素などの気体を混ぜた容器を高圧高温下に置くと、有機物の生成が認められることが最近判ってきたのです。
この熱水床から湧き出す熱水の噴出し口には、熱水の中でも生きられるバクテリアが住みついており、硫化水素を食べて生きています。 さらにそのバクテリアを食べて、小さなカニやエビの一種が繁殖しているのが以前から確認されていて、けっして生物が生活できない環境ではないことは立証されているのです。
この熱水床では、さらに金、銀、レアメタルなど様々な鉱物が生成されることも知られており、研究が期待されている分野でもあります。 今回は残念ながら、生きた生物の採取は出来ませんでしたが、その痕跡であるDNAが見つかりました。無機質の岩石や気体を混ぜて、ある条件化に曝すと、分子レベルで段階的に変化がおき、有機物が生まれるという結果は、条件さえ整えば無機質を媒介に生命が生まれるのだということを示唆しており、とても興味深いものがあります。

御書の 「 草木成仏口決 」 に次の一節があります。

『 法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし、理の顕本は死を表す妙法と顕る・事の顕本は生を表す蓮華と顕る、理の顕本は死にて有情をつかさどる・事の顕本は生にして非情をつかさどる、我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり・我等衆生の言語・音声・生の位には妙法が有情となりぬるなり、我等一身の上には有情非情具足せり、爪と髪とは非情なり・きるにもいたまず・其の外は有情なれば・切るにもいたみ・くるしむなり、一身所具の有情非情なり・此の有情・非情・十如是の因果の二法を具足せり、衆生世間・五陰世間・国土世間・此の三世間・有情非情なり。 』

示唆に満ちた研究であり、今後の研究に期待をしたいと思っています。
Category : 生 命 Comment : (0) |
2011-06-30(Thu)
blog_import_523d518801dae.jpg
(写真:Wikipedia PD Fermilab, Reidar Hahn)


素粒子の研究に使われる、加速器です。
最近、新しい素粒子の存在を発見したらしいです。

私たちも含め、この世界は物質と空間で構成されています。 このときの空間とは何か? 何も無い所または物質と物質の間のことを空間と一般的には理解していますが、実は今の物理学の理論からするとそうでは無いようなのです。

このことの話を進める前に、物質とは何かについて先に触れておきます。 物質の元素は古来からの発見と研究で、いま地球上で118種類が知られています。 隕石の研究や惑星探査でもまだ新しい発見がないので、少なくとも太陽系はこの118の元素で成り立っていると考えられています。 しかし、この元素は物質の最小単位ではありません。 元素は物質の特性の違いによって分類されたものであって、その特性の違いは分子の組み合わせにあります。 そして分子は原子の組み合わせから成り、その原子は陽子と中性子から成る核と核の廻りを飛ぶ電子から成り立っています。 ここまで来ると、目に見える一般的な物質の中にも極小の電子が飛び交う空間が潜んでいるようです。
さらに最近の物理学では、その原子も素粒子によって構成されているとみなされています。 ところが最小単位は内部構造を持たず空間的な大きさを持たないものなので、つきつめればつきつめるほどそこに矛盾が生じてきます。そのように素粒子の存在そのものも、最小単位の物質と捉えることが難しくなっています。 事実、発見される素粒子の様子は奇妙としかいえない性質を持っているのです。 この素粒子の研究では、量子理論が最も活躍しており、素粒子は球でもあり波でもあり場でもあると推定されており、さらにそれだけでは捉えられない現象も素粒子にはあり、研究が進められている最中です。 要するに、物質の最小単位を科学の目でみていくと、そこには物質では無い振動とかエネルギーとかによって説明しないといけなくなっている実態があるということです。

話を最初にもどしますと、空間は物質の最小単位で満たされており、物質は最小単位に空間を内包していて、物質と空間といっても物質の最小単位の濃淡や集合の仕方の違いからくるものです。 もっと言えば、素粒子を振動とかエネルギーと捉えれば、空間も物質も見た目の違いだけで、本質は一緒であるとも言えるでしょう。

日蓮大聖人の仏法では、宇宙は生命であると捉えています。 空間も物質も、非情も有情も、生命のうねりから生じているものだと捉えています。 わたしたちの生命も、うねりのなかにあり、死してどのようになるかは判りませんが、生も死も宇宙と供にあり宇宙を離れて存在しないのです。 一念三千の法理に従えば、人も、動物も、昆虫も、植物も、石も、水も、風も、光も生命のうねりの表れと考えられます。
Category : 生 命 Comment : (2) |

No title * by かどやよしたか
このきじは、すばらしいないようです。わかりやすいのに、ほんとうにふかいいみがこめられています。うちゅうは、せいめいそのもの、と、りかいすると、しぜんに、いんが、がみえてくるからほんとうにふしぎですね。 ありがとうございます。このきじはちゅうごくからよませてもらっています。こちらでは、ぱそこんのちょうしがときどきわるくなり、かんじでにゅうりょくできなくできなくてすみません。

No title * by 夕焼け
かどや さん こんばんは。

中国ですか。 ご苦労されているでしょうね。
海外では、思う以上に体に負担が掛かります。
どうかお体を大切にしてください。

ご活躍を!

2011-06-14(Tue)
blog_import_523d50661cdd0.jpg
(写真:HUBBLESITE PD N90)


宇宙にある塵とガスの雲です。 この雲の中で星が生まれようとしています。 少しぼやっとした光の点はすべて銀河です。 この雲の大きさがどれほどのものか想像してみてください。
宇宙は虚無な空間だという印象を持っていましたが、実際は違いました。 濃密でダイナミックで躍動感に溢れた空間のようです。 この写真の中だけでも星々の誕生と成長、衰退と死、消滅と分散のドラマを見ることができます。

人の体には生と死が常に存在しています。 
10年前の体と今の体はほとんどの細胞が入れ替わってしまうと言われてます。 それなのに誰も10年前の自分と今の自分が別人とは思っていません。 体は細胞の死と再生を繰り返すことで生きており、再生が不可能になったときに死を迎えます。 体は生(成長)の遺伝子を持っているとともに、死(老化)の遺伝子も持っているからです。 死は形体の終焉ではあっても、体を構成する物質が無になる訳ではけっしてありません。 形と質を変えて総てこの地球・宇宙に還っていきます。 そしてそれは、巡りめぐってやがて誕生の要素となり構成の核となって人(生物)の生を彩ります。
人は体に、五つの感覚のほかに意識-自我(心)-業識-生命と深層的に内包されていて、この四つには記憶と働きと特質があり、生命を淵源として相互に影響しあいながら、五感側に向かって体との拘束性を強めていると仏法では達観しています。 いわゆる九識論と言われるものです。 この達観をもとに、人はいったい死んだらどうなるのだろうかということをすこし考えてみました。

人は死ぬと外界への反応と働きかけが、まず最初に無くなります。 次に終局の死に至るまでに五感と意識が徐々に段階的に喪失していくと考えられます。 死んでも細胞・神経の総てがすぐ死滅するわけではないからです。 終局の死に至っても自我と業識と生命は存在し、終局の死からさらに進むと自我が薄れ、薄れた自我と業識と生命が宇宙の生命の海原とより強く結びつくようになります。 体もそのときには形と質を変えて、総てこの地球・宇宙に還ってしまいます。 その後、自我の一部と業識と生命の在り様はどうなるのでしょうか。 生命の大海に溶け込んでいるようですが、その在り様は一様ではなく、そのエンタルピーに従い様々に宇宙とともに存在することになると思われます。 
次の生は瞬時である場合もあり、長い間かかる場合もあるようです。 
生の迎え方も様々で、必ず人として生まれるわけではなく、また地球とは限ず、その自我と業識と命にふさわしい生の採り方となるようです。 昆虫に生まれ、他の昆虫に卵を産み付けられ、生きたまま餌となり苦しみながら死んでゆく実体もあるでしょう。 あるいは人に生まれ、聡明にして慈愛に満ち、困難を乗り越える力と智慧を持ち、人々の中にあって楽しみ、満足のうちに死んでゆく実体もあるでしょう。 自我と業識と生命の在り様によって様々な生死を迎える。 生死の在り様(人か動物か植物か微生物か・・・・・・)で実体における五感-意識-自我(心)-業識-生命の発現と状態のレベルも異なってきます。 生と死はこの宇宙とともにあり、あの世や天国も地獄もこの現実の世界を離れては存在しない。 と教えるのが日蓮仏法です。

死を考えるということは、生の中でどういう生き方をしていくのかを問うもので、過去の業のバランスシートをどう清算し、未来に生命のレベルをどう高めていくかを、今世で見つめ行動することが大事だと教えてくれるでしょう。
13歳の時にそう教えてくれたのが、戸田先生の 「 生命論 」 でした。
Category : 生 命 Comment : (0) |
2011-06-13(Mon)
blog_import_523d5049c1113.jpg
(写真:Wikipedia PD ソンブレロ銀河)


宇宙にはこんな銀河が無数にあるという。
すごいなあ。

わたしは13の歳に、

宇宙の星々に誕生と消滅の理(ことわり)があるように、人は誕生とともにいずれ死を迎える。  しかし、この世限りではなく宇宙のどこかにまた生まれ,生まれては死に、死んではまた生まれる。 そのとき、姿かたちは変わっても自身の本質である生命は永遠であり、その人の人生での行動と生き方の清算を、いずれ自身がしなければならない。

という理念に出会い、限りある人生の不条理さに対する明快な答えと、生きる規範となる哲学に接して感銘を覚えたのでした。

生き方がガラッと変わりました。

誰が見ていようといまいと、自身が自身の心と行動の証言者であり、すべて己の生命に刻みつけており、かかわりを持つ他者との関係でも、両者がともに生命に刻みつけているのだと知ったのです。 すべての過去が今の自身の様相と、人生という舞台装置の様相と無関係ではないというのです。 人はこの世限りで、善いことをすれば死んで魂は天国や極楽に行き、悪いことをすれば地獄に行く。 神や仏を信じる者は救われ、すべての罪が許され、天国や極楽で永遠に暮らすことができる。 という宗教の教えがまことしやかに信じられていましたが、私は信じていませんでした。 というより、そんな不条理な話はないと思っていました。人は善いことも悪いこともしますし、悪いことをして謝り懺悔しても相手まで救われるとは思いません。 最後の最後に信じるだけですべてがチャラになるというのは、不条理そのものです。

宗教もいろいろなんだなあ、本物は違うなあと当時思ったことが忘れられません。
Category : 生 命 Comment : (0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。