--------(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Category : スポンサー広告 Comment : (-) |
2013-12-16(Mon)
信心していない人に仏法を語ることだけが、折伏ではありません。 信心をしている人を励ましていくことも、立派な折伏になります。
創価の連帯は、一人の人を徹底して励まそうと行動するところから生まれています。 家庭訪問して悩みを聞き、信心の確信を語ることもそうですし、座談会に誘い、信心の息吹に触れてもらうのもそうです。 人と人の真心のふれあいの中で、互いに苦楽を共にし、絆を深め、難を乗り越えていくことは、折伏の精神に合致します。

入信しても、信心活動をしない人もいます。 退転してしまう人だっています。 苦難に負けそうになる人も、信心を忘れかけている人もいます。 心の中では助け求めている人たちです。 日々、その人たちの心に信心の灯火を灯そうと汗を流し、苦労していくことは立派な折伏であります。 創価の組織はそのためにある組織であり、その行動に、三世に亘る功徳が積まれないわけがありません。

革命の行動がそのまま革命後の姿であることは、人類史に残る革命の顛末を見れば明らかです。 武力による革命はその後も武力によって民衆を抑圧してゆきます。 創価の革命は、一人一人の人間の幸福を築きながら、その蘇生の力をもって革命の力としています。 折伏は、その革命の力であり、互いの幸せを願う民衆の連帯を築いてゆく運動であります。
スポンサーサイト
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-12-12(Thu)
法華経は、無問自説で説かれた教えであり、釈迦は衆生が理解しがたくても、真実をそのまま説いています。 それに比べ、その他の経、特に「 未顕真実 」とされた経は、衆生の求めに応じ、機根に合わせ、時に従い、方便を織り交ぜながら、受け入れやすいように説かれています。 法華経は一乗法をストレートに、その他の経は三乗法を段階的に示しております。 このことから考えてみると、折伏は法華経のように説くことであり、その他の経の言説は摂受と配することができます。

日蓮大聖人が、法華経の奥底を余すところなく顕わし、仏の道を具体的に示している点で、いわゆる釈迦仏法は摂受門となり、唯一、日蓮大聖人の仏法のみが折伏門となってまいります。
” 折伏 ”というのは、真実を語りぬく勇者の剣であります。

今、日蓮大聖人の精神は創価にあり、奇しくも「 大法弘通慈折広宣流布大願成就 」の御本尊を戴き、日本中に恨まれ、誹謗中傷を集めながら、仏の道を歩んでいる創価こそ折伏の王者といえるでしょう。 事実、創価の歴史は折伏の歴史であり、捨てがたきを捨て、信じ難きを信じ、御本尊を持ちて南無妙法蓮華経と唱えながら、広宣流布のために折伏に生き抜いていくのが、創価の精神であります。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-12-10(Tue)
かつて、第2代戸田会長は「 広宣流布は戸田がやる 」と言われました。 広宣流布というのはいろいろと意味があるのですが、当然、信心をする人が増えなければ広宣流布はできません。 その広宣流布を" 会長である自分がやるから、皆さんは折伏をして宿業を転換し、福運を積んで幸せになりなさい "と仰っておられるのです。
折伏は成果主義ではありません。 成果を目当てでするのも、それを嫌ってしないのも、実にもったないことです。 折伏して信心するしないは、相手の自由ですし、相手が信心しなくても、ちゃんと功徳はあるのです。 不軽菩薩のようにどんな相手にも、この信心を語っていくことが、とても重要なことなのです。

わたしの経験から言えば、折伏を一人の人だけにこだわるのではなく、多くの人に語ってゆけば、信心する人が必ず現れます。 折伏された人が身近な人に話を聞いていても、なかなか決断ができなかったところに、わたしとの対話で決断をしたということもあります。 また、この逆もあります。 違った人と違った視点で話すことで、それぞれが補完され、信心を始める一歩を踏み出せたのです。 いずれにせよ、唱題しながら、如来の事(じ)を行ずる思いで折伏してゆけば、必ずその願いは叶います。 

折伏をして、話は聞いてくれるのに、なかなか信心しない人がいます。 また、折伏をして悔しい思いや、腹立たしい気持ちになることもあります。 折伏をしていやな思いをすることも、いじめられることもあります。 ひどいときには、罵声を浴びせられ、物をぶつけられ、塩をまかれることもあります。 これらは全部「 これも修行ぞ 」であります。 苦しみながら、悩みながら唱題し、信心を続けてゆけば、自身の生命の垢を落として、やがて人間革命することができます。 あるいは、悪い宿業を清算し福運がついてきます。

折伏は、人を救済する行為ではありますが、自身を救済する行為ともなっているのです。 それは、仏の道を歩む尊い行為であり、歩みながら仏と成っていく姿は、ちょうど、須弥山に近づく鳥が、金色に輝いていく姿に似ています。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-12-09(Mon)
折伏していて、相手に「 信心しないと不幸になる 」と言う人がたまにいますが、そんなことはありません。 そんなことを言えば” 脅迫だ! ”と言われてもしかたがないでしょう。 三世の生命観からみれば、信心していなくても、幸せに一生を終える人もいます。 また、人類に多大な貢献をする人もいます。 信心していないからといって断定することはできません。 「 信心しないと不幸になる 」と言うのではなく「 まじめに信心してゆけば、必ず幸せになります 」というのがよいでしょう。

よく” 罰が当たる ”とゆう言葉も聞きますが、罰は当たるものではなく出るものです。 罰の反対となる功徳も同じで、やはり出てくるものです。 その人自身の自己責任で罰や功徳は出てきます。 少し難しい言い方になりますが、罰や功徳は生命のエンタルピーによって、その人自身に出てきたものなのです。 御本尊を馬鹿にし、粗末にすれば罰が出てきます。 日蓮大聖人を誹謗し、その弟子を迫害するならば罰は出ます。 そして、その反対は功徳を積んでゆくことになるのです。 「 信心しないと不幸になる 」のではなく、「 法華経を否定し、法華経の行者を誹謗する、誤った宗教を信仰すれば不幸になる 」のです。

信心しても、長い間の信心していないときに培われた価値観が、何をやるにしても出てきます。 そのために、信心したての頃は、勇み足の折伏をしがちですが、ようは、相手の幸せを願って誠実に、真心こめて、信心を語っていくことが大切なのです。 まちがっても、相手を負かしてやろうという気持ちや、馬鹿にしたような、見捨てるような態度は厳に慎しみ、戒めていかなければなりません。 
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-12-05(Thu)
日蓮大聖人は折伏を本門、摂受を迹門と配されておられます。

その意味は、「 法華折伏破権門理 」とあるように、「 唯仏与仏の真実の一乗法は南無妙法蓮華経にあり、御本尊は、仏が説くところの総てであり、そのものである。 」と語っていくことが折伏門なのだということです。
” 折伏 ”は表層的な布教の様態を言っているのではありません。 また、議論して争うことが目的でもありません。 不軽菩薩が24文字で折伏したように、御本尊の素晴らしさ、日蓮仏法の偉大さを、語りきっていくのが、創価の折伏であります。

御本尊の両肩には「 有供養者福過十号 」「 若悩乱者頭破作七分 」とあります。

これは法華経に説かれた罰と功徳のことであり、折伏ではこの罰と功徳を明確にしてゆかなければなりません。
罰を語れば、脅迫だととり、功徳を語れば、強欲だと嫌う人もいますが、人生は不幸か幸せのどちらかであります。 不幸であるために苦しむ人には功徳が必要であり、幸せを壊そうとする人には罰が必要です。 世間法ですら、困った人を救済しようとしていますし、犯罪を犯す人は罰するようになっています。 仏法においても同じであります。
罰と功徳は秘妙方便といいまして、人を成仏させていくための仏の慈悲の顕れであり、力用なのです。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-12-03(Tue)
“ 折伏 ”という文字づらに囚われていては、その内実が見えてきません。 そのため、創価の人間でも、一部に勘違いする人がでてきたのも事実であります。 そこで、長くなりますが、創価の代々の会長の折伏に関する指導を紹介しておきます。


< 初代牧口会長 >

* 宗教の場合、根本とする本尊、教えの違いは、金、銀、銅、鉛のような違いではない。 金、銀、銅、鉛のような違いなら、それぞれに使い道はあるが、誤った宗教は百害あって一利もない。 薬と毒の違いである。

* 折伏は慈悲である。 『 彼が為に悪を除くは即ち彼が親なり 』との御金言のように、抜苦与楽の真心で折伏するのである。

* 折伏弘教の仏法対話は、仏法に対する求道心を喚起させることに目的がある。 議論や雑談のためではない。 相手の悩み、疑問、知りたいと思っていることを的確につかみ、焦点を絞って話を進め、鋭く理解、納得させることが大事である。

< 第二代戸田会長 > 

* われらが折伏を行ずるのは、慈悲の行である。 慈悲の行は仏の仕事であり、真に尊いことである。 (中略) しかるに、この尊い仕事にたずさわりながら、折伏に応じないからといって、憎んだりおどしたりしては、あいならん。

* 折伏に熱心のあまり、青年が夜の十時、十一時に、他家を訪問するということは、世法を無視するゆえに、世間の笑いをかい、法を下げ、折伏に害をなすこと多大である。 このことは、絶対に価値的ではない。 相手の世法的な都合など全く無視して、無理押しに攻め立てることが、真の折伏であるかのごとく勘違いしてはならないのである。

* たとえ折伏のためとはいえ、議論のための議論や、感情にまかせてケンカなどすることは、大聖人をけがすものである。

* やるやらないは向こうの自由です。 なにも、創価学会へ引っぱりこんでしまわなければ折伏にならないなどと考えてはだめです。 (中略) 功徳があるのです。 どうしても創価学会員にしなければだめだとか、御本尊を持たせなければだめだとかがんばるから、おかしな事件が起きてしまうのです。 御本尊様はお見通しです。

< 第三代池田会長 >

* 学会から折伏をとったらなにもない。 学会の魂は折伏の二字である。

* 仏法の極意は結局は実践だ。理論ではない。 民衆の中に飛び込んで現実にどれだけの苦悩の人々、迷える人々を救ったかどうかだ。 独り孤高に安住して、われ尊しとする生き方は仏法本来の精神からは、まったくかけ離れている。

* 折伏こそ、相手の不幸の因を根底より除く最高の慈悲の行為である。 逆に相手の不幸を知り、幸福になる方途を知りながら、それには触れず、偽りの妥協をしているならば、これほど人間として卑劣なことはない。

* 慈悲の念から出発したものでなければ、それは折伏に似て非なるものである。 自分の売名、勢力拡大、そうゆうものであっては絶対にならない。 折伏布教は、慈悲の心で柔和忍辱を旨として行じていくものである。

* 数のみにとらわれて、いいかげんな折伏をするようなことがあっては断じてならない。 かえってそれは折伏精神に反することになる。 真心こめて折伏し、真剣に面倒をみてあげてほしい。

* 折伏にあたっては、どんなに相手が怒り、あるいは悪口をいい、罵ろうが、ゆうゆうと笑みをたたえて、破折し、妙法を教えきっていくのでなければならない。 (中略)もし、相手の気色に引きずり込まれて、感情に走ったり、ケンカをしたならば、それは、自ら如来の使いとしての尊い資格と使命を放棄することになってしまうであろう。 あくまでも、折伏は、その自覚と誇りをもち、襟度ある行動でなくてはならない。

* 不軽とは、どこまでも相手の生命に仏性を確信し、尊重していくことであり、かつどんなに反対され迫害されようとも、それは自己の罪業を消滅していくためであると、喜んで受けきっていくことである。 それが、われわれの生命に約した場合の不軽の行である。


代々の会長に共通して言えることは、折伏が如来の使いとしての慈悲の行為であるということと、柔和忍辱の態度を心に刻んで折伏をしていってほしいという願いです。
Category : 反 証 Comment : (2) |

* by 河越武蔵守
先日、県総会で
なんと、池田先生から押印和紙を拝受致しました。
私如き人間には、一生涯縁の無い出来事だと思って
ましたが、県総会前に支部長から言われたので
何がなんだか、解らず動揺してしまいました。
大切にしたいと思います。

* by 夕焼け.
頼重 さま こんばんわ。

動揺ですか? 
その反応、いいですね。 (^^

信心は心こそ大切なれですから、
池田先生も御本尊様も、ぜんぶ御存じだと思います。

よかったですね。
宝として大切にしてください。

おめでとうございます。 (^^

2013-12-02(Mon)
慈悲といっても、自分のことですら、大変なのに、他人のことを思いやる気持ちなど、そう簡単には湧いてきません。 湧かそうと思っても出てこないのが普通です。
しかし、不思議なことに、折伏をするようになると、人を思いやる心が少しづつ生まれてきます。 それも自然と湧いてくるようになるんです。

頭の中でいくら考えても泳げるようにはなりませんし、手で行うミクロンの加工などとてもできません。 しかし、泳ぎを繰り返すうちに、うまく泳げるようになりますし、何度も失敗して、機械でも加工できないような、精密な加工ができるようになります。 人間は行為の中でしか身につけられないものがあるのです。

わたしたちは、最初は慈悲の心を持てなくても、折伏という慈悲の行為を行うことはできます。 
そのときに、まず必要となってくるのが“ 勇気 ”であり、“ 確信 ”であります。 なかでも“ 勇気 ”は最も必要なものであり、慈悲と勇気は表裏一体となっているといえます。 たとえば、老人に席を譲るのに最初は勇気が要るのも、そうですし、線路に倒れた人を救うのも勇気がなければできません。

折伏は仏の慈悲の行為ですから、勇気をもって折伏してゆけば、三身即一身で、仏の福徳と境涯がそこに自然と湧いてくるのです。 成仏の道は、唱題し折伏を弛まず行っていくところにあると言ってよいでしょう。 信心しても、折伏をしないと大きな功徳は出てこないのであります。 創価の歴史をみればそれは明らかであります。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-11-28(Thu)
創価の折伏というのは、その人をダメだと批判しているのではありません。 また、人を攻撃して折り伏せるというのでもありません。 仏法の原理から、正を正、邪を邪と言い切ることはあっても、相手を思う心から行う行為なのであります。
摂受は悪に対して行い、折伏は邪に対して行いますから、今の日本は、釈迦の出生の本懐である法華経を否定し、敵対する邪宗教がはびこり、尊仰されているために、それを厳しく折伏していかなければならないのです。 しかして、それは「 人 」にではなく「 法 」に帰伏せしめることが根本となります。

折伏するのは、すべての人間が尊厳なる妙法の当体だと信じるからであり、邪見、悪見、偏見のために覆い隠されていた、清浄で輝くような、妙法蓮華経の生命をあらわすためなのです。 折伏によって、相手の仏種は薫発されて、やがては信心するようになってゆきます。
人間としての共通の悩みに、一緒に苦しみ、語り合うなかで、元凶となっている原因を明らかにし、取除いていくという行為が“ 折伏 ”であり、それによって、生命の本源的めざめを起こし、自他共に幸福となってゆく大道を開いてゆくことができるのです。

創価の折伏の本質は、慈悲にあり、慈悲がなければ、折伏とは言えません。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-11-25(Mon)
創価学会常住の御本尊に「 大法弘通慈折広宣流布大願成就 」としたためられているように、創価の使命は日蓮大聖人の仏法・信仰を世界中の人々に広めていくことにあります。

宗教は学問ではありませんから、苦しむ民衆のために布教をしない宗教など、死んだ宗教といえるでしょう。 釈迦やキリストの生涯をみると、死ぬまで、歩き、語り続けた生涯でありました。
同じように、創価の歴史も布教の歴史といってよいでしょう。

戦後の数えるほどの人数から、25年で750万世帯という驚異的な数字が示すように、その布教活動は急速に拡大し広範囲におよびました。 このとき、他の新興宗教や仏教各派を鋭く批判したために、蜂の巣をつついたような状況となり、今は行われていませんが、草創期には、創価の青年が寺院や新興宗教の教会を訪問して法論を挑み、誤りを厳しく糺したため、各宗派は戦々恐々として反発を強めたのであります。

創価に対する非難は” 強引だ ”、” しつこい ”というものが多いのですが、宗教界では” 独善的だ ”、” 他の宗教を批判するのはよくない ”というのが大勢です。
創価にしてみれば、苦しむ人々を救いたいという思いから、日蓮大聖人の信仰を勧め、その不幸の原因となっている“ 誤った宗教 ”を道理のうえから糾弾しているのですが、鎌倉時代と同様に、感情的な反発と憎しみが先走り、” 折伏 ”という言葉は” 強引 ”で” 独善的 ”な布教方法だと思われるようになってしまいました。

しかし、” 折伏 ”は、正邪を明らかにし邪を破することをいい、けっして、物理的・心理的にむりやり屈服させることではありません。 道理を基盤にしたものなのです。 たとえば、天台大師がお一人で、大勢の南三北七の僧たちと公場法論したときも、眼をいからし、息を荒げ、拳を振り上げ威嚇していたのは南三北七の僧たちでした。 詰問する僧らを相手に、平静に、穏やかな面持ちで、論難一つ一つに対して経文を示しながら誤りを指摘し、嘘を攻め抜いて非を明らかにされています。 また、伝教大師はお一人で、南都六宗の高僧たちと公場法論して論難を破っており、反論さえできない南都六宗の高僧たちは、法論に敗れたことを認める承伏の謝状を天皇に提出しております。 

日蓮大聖人も佐渡に流されてまもなく、流刑地の三昧堂で数百人もの念仏や真言の信徒や僧に囲まれ、罵声を浴び、命を奪われそうな雰囲気の中で、威儀をただし、慈しみに満ちた面持ちを向け、落ち着いた口調で力強く明快に“ 折伏 ”されておられます。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-11-19(Tue)
「 折伏 」、この言葉を聞くと、信心していない方は、反射的にいやな印象を持つようです。 アンチであれば、戦闘モードにスイッチが入ります。 世間から見れば、印象の悪い言葉のようです。

創価では、ずいぶん前から「 折伏 」と言わず「 仏法対話 」と言うことが多くなっていました。 かくゆう、わたしもそうであります。 しかし、草創期から信心している方からしてみると、「 仏法対話 」とゆう言い方は、なにか、こそばゆいというか、水で薄めたお茶を飲んでいるような感覚を覚えるようです。
わたしは、若いころに「 折伏 」と聞くと優鬱になった時期があります。 もともと、人と接することが苦手な(パニック症候群があった)ためですが、信心の話をしても、たいがいは反発され、ろくでもない情報を鵜呑みにして、中傷されることもあるからでした。 心の折れることもあり、折伏するのは勇気がいりました。

この「 折伏 」という言葉は仏教用語です。 反対語として「 摂受 」があり、創価が作った言葉ではもちろんありません。
言葉自体が出てくるのは勝鬘経(しょうまんきょう)という経典で、「 まさに折伏すべきものは、これを折伏し、まさに摂受すべきものは、これを摂受せん。 」と説かれております。 仏教の布教の仕方を二つに類型化すると、この摂受と折伏になるということです。 この摂受と折伏については、いろいろと議論がありますが、多くが表面的な捉え方に偏しているような気がします。 これから、何回かに分けてこのテーマについて、わたしの考えをまとめてみようと思います。

信心をすると個人に与えられる御本尊を戴きますが、創価にも本部常住の御本尊というものがあります。 常住というのは、創価の命(いのち)ともいえる意義をもつものであり、創価と不二の御本尊ということであります。 その御本尊には「 大法弘通慈折広宣流布大願成就 」としたためられており、創価の骨髄がそこには示されています。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-07-09(Tue)
13b5d401.jpg
(写真:3013年7月7日付聖教新聞 恩師記念会館 7月6日)

池田先生のお姿です。

週刊誌のいい加減な推測と、悪意が生んだ幻想を信じてしまう愚かさを、切実に思います。
” 信 ” は人間の持つ特性ではあるけれど、盲目的であってはいけません。 信仰を馬鹿にする人ほど、都合の良い情報に飛びついてしまうのは、どうしてでしょう。 だれでも、何らかの信仰者である、ということを知ってほしいですね。

くれぐれも週刊誌を信仰の対象にするときは、ご用心ください。
m(_ _)m
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-07-08(Mon)
政教分離原則は、欧米からやってきたものです。 日本に元からあったものではありません。
そのせいか、多くの人がこのことを充分に理解していません。 

その思想の中核は、宗教組織による国や国民に対する権力の行使を排除することにあります。 当時は、民主主義の根幹となる、自由・平等・人権を担保するために、どうしても必要不可欠なことだったのです。 しかし、それは国や国民から宗教あるいは宗教組織を排除するとゆうことではありません。 当然、信仰を持つ人やその組織の社会的権利を狭めるものでもありません。
その点を誤り、誤解したのが共産主義や社会主義組織でした。 そのため、終局には民主主義を崩壊させてしまいます。 それはたんに、宗教的イデオロギーが社会的イデオロギーにすり替わっただけで、また、王の独裁が政党の独裁に移ったにすぎなかったのです。

民主主義の確立のためには、宗教組織に限らず、あらゆる分野の組織による政治の私物化・階級支配を排除し、分離していかなければいけないのです。 政教分離原則の真の意味するところは、国家権力(政治)によって、国民の基本的人権(信教・思想信条・結社の自由)が圧迫されたり、奪われないようにすることにあるのです。 
そのためには、あらゆる分野の人が、政治を監視し、声をだし、活動していくことが必要であります。 当然、信仰を持つ人、宗教組織も活動をしていくべきであります。 しかし、その組織が独占的に、政治行為である権力の行使を、行ってならないのは言うまでもありません。

政教分離原則をうたうアメリカ合衆国憲法修正第1条には、信仰者や宗教組織の政治活動を制約するような、民主主義の根幹を否定する内容は書かれていません。 むしろ、だれが、どのような組織が国家の権力を握ろうとも、国家権力から信教の自由を守り、信仰する人の基本的人権や宗教組織を守ろうとする規定となっています。
連邦最高裁判所の示した政教分離の具体的な指針の趣旨からいえば、 ” 政教一致 ” というのは、日本で行われている、創価に対する政治的圧迫や、政治活動を規制しようとする政治(政府)の関与のほうが言われなければならないのです。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-07-05(Fri)
政教分離原則の生まれた背景を概観してみると、それはヨーロッパ中世の封建社会におけるキリスト教皇体制の反省から生まれてきています。 日本においては、明治維新後の天皇体制の反省によります。 ヨーロッパの場合は、宗教組織の下に統治組織があり、立法・司法・行政行為を宗教組織自体が行うか関与しています。 日本の場合は、天皇を神として、統治組織が宗教的権威を利用していました。 これらに共通するのは、信教の自由が極端に狭められていたことです。 仏教を信仰するものから見れば、いずれも神を崇め、人間を神の下に置いている宗教ですから、必然であったといえます。 前にも記事にしましたが、神や神の代理人の意思が絶対的でありましたから、人間のエゴイズムが神の代理人という面をかぶって跋扈した時代であります。

政教分離原則を生んだ宗教と仏教には根本的な違いがあります。 仏教では、仏が人間を下に置き、支配するというような概念がありません。 人間は皆、仏に成ることができる、という前提で教えが説かれていますし、仏が人間を仏にするわけではありませんから、当然であります。 信仰の根本は自立的な心にあります。 自らが決意し、学び、考え、行動するしか、仏に成る道はないのです。 たとえ、強制的に信仰をさせられたところで、そのようにはなりません。 布教には、本人が気づくまで、対話による往復運動をするしか方法がないのです。 創価が、仏法対話を重要な修行の柱としているのはそのためです。

創価が公明党を作り支持しているのは、政治に宗教を持ち込もうとしているのではなく、純粋に、政治による社会の平和と繁栄を築くためなのです。 それは、信心している・していないに関係なく、敵対している・していないに関わらず、あらゆる人々のためです。 世界に日蓮大聖人の仏法を広めるのは創価だけの役目であり、公明党ではけっしてありません。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-07-04(Thu)
” 憲法違反 ” と騒ぐ政治勢力は、 ” 憲法違反 ” のあとに ” 疑いがある ” と付けていうのが常であります。 そして、国会で取り上げることはあっても、裁判所には持ち込むことはありません。 これは印象操作の典型的なやりかたです。 さらに、公明党ではなく宗教団体である創価を攻撃している点で共通しています。 これは特定の宗教団体を政治が抑圧している状況であり、わたしからすれば、 ” 弾圧 ” であります。 また、攻撃する政治勢力が、他の宗教団体の支援を受けていることでも同じであります。 もし、公明党が特定の宗教団体のスキャンダルを国会で取り上げたり、攻撃するような質問をしたとしたら、どうでしょう。 これはもう大変な騒ぎになります。 しかし、政権党の幹部が同じようなことを創価にしても、拍手喝采はおきても、なにごともおきません。 これは、あきらかにおかしなことです。 どうかしています。

憲法は、国の行動を規定する意味合いの強いものであり、一面からみれば、国を性悪説、国民を性善説に置いて作られています。 そして、そのほかの法律はその逆になっています。 憲法では国が宗教に関与することを禁じていますが、宗教団体が特定の政治団体を支持することは禁じていません。 また、宗教団体が政治団体の発起人になることも禁じていません。 当然、宗教団体が政治活動することも禁じられていません。 政治行為と政治活動は違います。 この点をしっかりと理解してほしいと思います。

管元首相が、創価の会館で選挙活動が行われていると騒ぎ、使用状況を監視するために会館に官警を立ち入らせる必要がある、と発言したことがありましたが、 わたしは 「 かつての軍部がしたことと同じだなぁ 」 と感心しました。 戦時中、創価は憲兵の立会いがないと会合は開けませんでした。 右も左も権力が考えることは同じであります。 
会館のなかで選挙活動をすることは、まったく問題ありません。 あきれた認識です。 あきらかに政府が宗教を監視していこうとする行為であり、実行していれば ” 憲法違反 ” はまちがいなかったでしょう。 いわゆる人権擁護の市民運動家と自称する政治家の、これが本性であります。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-07-03(Wed)
わたしは、日蓮大聖人の信仰をしていますが、政治活動に関与してゆくことは、基本的な義務であり権利であると思っています。 同じ志しの人と連帯し、運動もしてゆきます。 
これは市民としてあたりまえのことなのですが、それが ” 政教一致 ” だと非難をする人がいます。 しかし、それは、あきらかにわたしの基本的人権を脅かすものであり、信仰する人の選挙権剥奪や立候補の禁止が民主主義政治の基本的条件だとすれば、それはもう民主主義とは言えないでしょう。 
” 政教一致 ” というのは、政府が、ある宗教団体を禁止したり、国民に特定の信仰を義務化する法律を作ることであります。 また、宗教活動の運営資金を国家予算に組み込んだり、宗教活動を政府が支え援助することなどがあたります。 ところが、公明党が掲げている政策のどこにも ” 政教一致 ” を目指す内容はありません。 それでも ” 政教一致 ” だというのは、信仰を持つ人やその組織は、とにかく政治に関わってはいけないということであり、その声の心理の奥には信仰者への不信や差別が見てとれます。 人種差別と基本的には変わらないものです。 ” おまえは、たしかに誠実で、頭もよい、そして正しい考えも持っているが、黒人だから、このバスには乗るな。 ” と言っているようなものです。 

生活改善・福祉の充実・医療改革・防災減災・再生エネルギー・基盤産業の育成・農林業の再生・憲法擁護・国連改革・核兵器廃絶・・・・・・などなど、信仰する人、しない人に、あるいは宗教に関係なく関わってくることです。 これらは、声を上げるだけでなく、政治の世界に切り込んでいかなければ実現は難しいことがらであり、最も効果的な手段は、同じ理念・政策を持ち、信頼できる人を議会に送り込むか、自分が乗り込むことです。
公明党は宗教活動を政治に持ち込もうとしているのではなく、純粋に政治活動をするためにあるのです。 イデオロギーの相克で苦しんできた庶民の中から、公明党は生まれてきました。 わたしは、そのような庶民の意思を封じ込めようとする働きには、断固反対してまいります。 

個人は良いが、組織はだめだという人もいますが、結社の自由を理解していない発言ではないでしょうか。 公明党は創価が支持母体ではありますが、創価だけが支持団体ではありません。 他の団体の支持を拒んでいるわけではありませんから、公明党の綱領に賛同するならば、多方面から支持していただくのがよいのではないでしょうか。 そして「 大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく 」真の国民政党になってもらいたいと願っています。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2013-07-02(Tue)
公明党が政権を取ったら、まず、宗教法人法を改正して、他の宗教団体を締め上げる。 さらに、国民に創価の信仰を義務づけ、従わないときには、犯罪として罰する。

そんなことが、本当に可能なのでしょうか?

漠然とした不安を持っている人は大勢いると思います。 しかし、公明党が政権を取ることはあっても、そのようなことは起こりえません。 政党の綱領は党の憲法といえるものですが、公明党の綱領にはそんなことは一言も書いてありません。 そもそも、支持母体である創価が、公明党を利用してそのようなことをしょうとは、これっぽっちも思っていないのです。

安心してください。 (^^

創価は戦時中に神道を強要され、従わないために多くの信徒が投獄されました。 当時の会長、牧口先生は獄死しています。 また鎌倉時代、日蓮大聖人に帰依した農民信徒が、念仏の坊主の讒言によって、ときの権力者に捕縛されました。 拷問をされながら念仏を強要され、それでも従わなかったために、首を刎ねられ殉教しています。 信仰は強要されても、できるものではありません。 そのことは創価がいちばんよく知っています。 強要して、信仰させることができる、と考える人がいるとすれば、その人は、あまりにも信仰というものを知らない人です。
公明党の支持母体である創価は、日蓮大聖人の仏法を広めるための宗教団体でありますが、その手段はあくまでも言論によるものであります。 人間対人間の草の根の運動です。 釈迦や日蓮大聖人と同じように、対話によって一人一人に信仰の種を植えているのです。 広める目的は、個人の幸せと社会の平和と繁栄にあります。 しかし、形だけの信仰・勢力の拡大ではなんの役にもたちません。 形だけの信仰で、人間革命・宿命転換はとてもできるものではありません。 ” 心こそ大切なれ ” があらゆる信仰の真髄ではないでしょうか。 それが創価の哲学であります。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2012-09-11(Tue)
blog_import_523d9bfd02b8d.jpg


反創価の人は、池田先生が死んでいるかどうかとゆうことを、ことのほか話題にするのが好きなようです。 ” 死ぬのはおかしい ” とでもいいたげなほどの執拗さであります。 人間が齢をとり、死んでいくのは当たり前のことです。 動物も植物も地球も太陽も、この銀河でさえそうであります。 日蓮大聖人も亡くなられています。 牧口先生も戸田先生も亡くなられているのに、池田先生は別なのでしょうか。 変なことに執着している様子は滑稽であります。 他の宗教はともかく、仏教では人であろうと仏であろうと、死は必然の理(ことわり)です。

仏はその力で死なないはずだと考えて、死ぬのは力が無いからだという論理なのでしょうか、それは原始的な宗教観に基づいた考えです。 創価はそんな幼稚な考えは持っていません。

病気にしてもそうです。 仏教は生老病死を説いています。 死ぬときは病を経て死ぬとハッキリしています。 日蓮大聖人も胃腸炎を患った後に老衰で亡くなられました。 牧口先生は栄養失調と寒さ。 戸田先生は牢獄で痛めた肝臓・腎臓が弱って亡くなられています。 池田先生だって何らかの疾患を経て亡くなられるのは当たり前のことです。 信心していれば病気もしないし、死にもしないという論理がどこにあるとゆうのでしょう。 そんな論理は仏法にはありません。 あまりにも創価の信心を知らない空騒ぎといえるでしょう。 ” 自分勝手な宗教観で決め付けないでほしい ” と言いたいですね。

池田先生は、ほんとうに素晴しい師匠です。 厳父の如く、慈母のように、弟子を鍛え、そして慈しんでくれます。 人間性の手本となるような振舞いは、我らが修行の鏡なのです。 池田先生はいつか亡くなられるのはあたりまえです。 あたりまえでも、創価家族のわたしたちは、一日でも長く、生きていて欲しいと思うのです。 その思いは、自分の家族や親、友人を思う気持ちと、まったく同じです。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2012-08-22(Wed)
昨日の聖教新聞に、池田先生の写真が何気なく掲載されていました。 今月、撮影されたものです。

blog_import_523d99de169ec.jpg
(写真:2012年8月21日付聖教新聞  長野研修道場)

いままで、週刊誌はさんざんウソを並べ立て、” 死んだも同然で、寝たきりの廃人のようになっている ” と、何回も書いてきました。 そんなのはウソだと言っても、創価に反感をもっている人は聞く耳を待ちません。 週刊誌は、いかにも、いいきみだ、というような書き方で、純真な創価の人たちが、顔を曇らせながら心配するのを見て喜んでいるようでした。

ウソをついてまでそうする人たちの側に、正義などあるはずはありません。

池田先生は今、84歳になられました。 どうです、廻りにいる84歳の人と違いますか? 普通の84歳です。 そりゃぁ、見た目は40代・50代のようなわけにはまいりません。 でも、元気なご様子です。 精力的に執筆されています。 書簡で対談もされています。 海外や国内の一会員に励ましの言葉を送っておられます。 体は老化しても、心はますます若く、はつらつとして言論を展開されています。
Category : 反 証 Comment : (0) |
2012-01-31(Tue)
わたしの仏壇には今までの広布部員証・財務記念品・財務領収書が保管されています。 信心されていない方はこの領収書があることを知らない方が多いと思います。 領収書は封印されて届きますから、周りの信徒同士で額を知ることはできません。 また、公的機関(銀行・郵便局)への振込みなので第三者機関に記録も残ります。 普通の宗教団体がここまで、財務を厳格に扱っているところはないでしょう。 キリスト教などでは、毎週の礼拝時に寄付を募りますが、みんなの見てる前で、どの人が、どれくらい、と判ってしまうような状態で、その場で行いますから、信徒であれば、しないことや、額についてはプレッシャーが少なからずあると思います。 また、多くの宗教団体は現金収入ですから、不正や不実の行為の温床となる可能性も否定できないのですが、アンチはこんなことは、百も承知で、より厳格に行う創価の財務を執拗に賤しめます。 創価の場合は宗教法人としての財務状況は国に報告してあり、第三者機関を調査すれば不正・不実はすぐ判るのを知っていながら、悪意の喧伝に走っているのです。 他宗教の寄付には寛容で、善意にとるのがアンチのアンチらしいところです。

c5abfe9b.jpg
(SGIグラフ アメリカ創価大学)

もともと創価の会員は、御受戒(御本尊下付)・各種法要・葬儀・大石寺登山(御開扉)・寺院建立のために、寺院・宗門に対して ” ご供養 ” として寄付をしてきました。 会員個人が直接にご供養する形態ですが、寺院建設は創価が財務の中から割当て、建立した寺院を宗門に寄付するというのがほとんどでした。 正本堂は特別にご供養を募り建立されていますが、この場合は、寺族(僧侶の縁戚)や法華講のご供養もありますので、正本堂建設委員会が設立されて、宗門・法華講・創価学会の三者で統括して建立されています。 このような寄付は強制とか自由とかの問題ではなく、信仰行為に付随するので、必要の対価、あるいは必然の寄付というべき性格になっています。 ほとんどの宗教は、この種のご供養・寄付をもって、教団の維持や活動を推進しています。
宗門から破門させられた創価はこの ” ご供養 ” は必要なくなったわけで、会員が必然でご供養することは無くなり、より自由な環境の下に、寄付としての財務を確立する努力を払って、今日に至っているわけです。 世間で吹聴されている、池田会長の個人資産になってるとか、金を搾り取っているとか、それらは、悪意に塗り固められたまったくのでたらめです。 もう一度いいますが、悪意に塗り固められたまったくのでたらめです。 創価の場合はSGI池田会長も含め全員が寄付の権利をもった有資格者であり、会長だからしなくてよい、してはいけないというものではないのです。 事実、SGI池田会長も家族を含め広布部員なのです。 またSGI池田会長個人の著作の印税も、創価大学・平和研究財団・仏教研究財団・文化芸術財団等の設立・運営資金や各種の慈善団体・国連機関・NPO・研究機関・災害支援機関へとほとんど寄付しているのです。
Category : 反 証 Comment : (3) |

No title * by 河越武蔵守頼重
ですねぇ。

特に、自称ネット右翼が喚いてます。
信濃町で街宣車に乗って、「創価に課税を」
と言うし、通る学会員にあーだこーだと言う始末。
自称右翼の祖母の日顕本尊を持ち出して
「偽本尊」ま、本当に偽物ですから、日顕の本尊は。
良い笑いものです。
しかも、内部抗争までして訴えられる始末。
創価の陰謀だとか言うから呆れるばかり。
皆、怪文書や嘘を信じたいんですよ。

No title * by 夕焼け
河越武蔵守頼重さん、こんばんわ。

変なのがいますよね。
あまり、近づかないほうがいいみたいです。
質問しただけで、「脅迫された!」と言いかねない雰囲気です。(笑)

財務部員(広布部員)第1号は戸田先生です。
戦後の創価の再建で、必要な資金を戸田先生お一人で工面しています。 その後、教戦の拡大にともない、戸田先生の資金だけでは足らなくなり、本部に財務部員の組織が出来てきました。 限られた有志によるものです。

承認待ちコメント * by -

2012-01-30(Mon)
わたしが創価で寄付を初めておこなったのが、正本堂建立のときでした。
梅酒を造る大きなガラス瓶に、小遣いを使ったときに生じた一円を少しずつ貯めていたのを寄付したのです。 それから30年経った1995年に、わたしは広布部員となり、定期的に年に1回、創価学会に寄付をする ” 財務 ” を行うようになりました。 入信してから35年目です。 ちゃんと信心し始めてから31年も経っています。 ずいぶんと長いことかかってするようになったものです。 それほどに、 ” 財務 ” は会員として必要不可欠な事ではないのです。 それから16年間広布部員として真心からの寄付をしてきました。 それは広宣流布の活動に必要となる、組織の拠点や運営に必要な経費は、会員として負担したいとの思いからであり、自由な意思と貢献の心から行っています。 額はその度にわたしが決めており、要求されたことは、一度もたりともありません。

37ec7032.jpg
(聖教グラフ 大石寺正本堂)

財務の時期になると、寄付の功徳の話は出てきますが 「 金額が多いほど功徳が大きい 」 、 「 寄付をしなければ信心の功徳は無い 」 などという話は微塵もありません。 そんな馬鹿げたことを言う幹部がいたら、お目にかかりたいものです。 稀に、そんなバカたれが居るかも知れませんが、そんな考えは日蓮仏法・創価の精神とは真逆の考え方です。 もしも、そのような指導をしたり、強要するような幹部がいれば、創価の獅子身中の虫であり、わたしはそのような人を徹底して弾劾するでしょう。 不穏当で不用意な言動は、創価の組織を破壊する行為であり、厳正に公明に行われるよう、細心の配慮を施している池田先生に対して、泥を塗るものです。 
寄付をお願いし、寄付した人を賛嘆するのは他の宗教組織とて同じです。 お願いを非難する信仰者はいません。 尊いことだと思うし、役にたってほしいと思うからでしょう。 心が大事だとするのが仏教であり、極貧で何も無いなか、砂の飯を釈迦にご供養して、その功徳で偉大な王に生まれ変わったという逸話は有名であり、創価でも、その度に語られる話であります。 創価でも心>身>財という不等式が重んじられ、財の供養は下位に置かれているのです。 また信仰と関係ない世界においても、寄付をお願いすることがあります。 それに応えて、災害にあった人や、恵まれない人に心からの寄付をする人がいます。 難病克服のための研究に寄付をする人もいます。 海外ではこの 「 寄付の文化 」 が定着していて、いろいろと当たり前のように行われてもいます。 普通は、寄付をするその人に感謝と尊敬の思いが湧き出てきて、立派な人だと賛嘆いたします。 そのような人には、きっと良いことがあるだろう、とも思うでしょう。 創価で語られる功徳の話は、このことと基本的に同じなのです。
Category : 反 証 Comment : (2) |

No title * by 河越武蔵守頼重
ま、新聞何かも偶に聞いたりします。
ご供養もそうですが、一部の勘違い幹部が居る事は事実です。
そんな奴には破折してやります。

ご供養は、自分の気持ちから出なきゃ意味が無いとね。

No title * by 夕焼け
河越武蔵守頼重さん、おはようございます。

組織に、自分勝手な価値観と見栄を持込み、創価の名を貶める。
恐いことですよね。
わたしも、気をつけるようにしています。

河越武蔵守頼重さんに破折されると、きっと迫力あるでしょうね。(^^
どんどん破折してください。 (^^

2011-12-19(Mon)
わたしがお墓を買ったのは、平成2年に母が亡くなってからでした。
四十九日も過ぎてから、やっとお墓をどうするかとゆうことに気がつき、慌てて探しました。
墓所、墓石、永代使用料、管理料など調べてみると。 一般の墓苑で総額およそ150~200万円位で、さらに管理料が年間5、000~10、000円位でした。 ” こんなにかかるのか ” と思ったのを覚えています。 当時は、創価の墓苑は少なくて、近いところでは富士桜墓苑、あるいは、はるな平和墓苑しかありませんでした。 しかし、富士桜墓苑・はるな平和墓苑ともに募集は完了していたのです。 ところが、しばらく一般墓苑を探している内に、はるな平和墓苑で追加の区画の整備が完了し、募集を始めるという情報がまいこんできました。 さっそく問い合わせ、その完成を待って、1年後に購入することができました。 価格は墓石、永代使用・管理料込みで95万円でした。 一般の墓苑に比べるとちょっと遠くなりますが、日帰りで行けますし、静かで、緑に囲まれ、眺望は他と比べものになりませんので、もう迷うことなく創価の墓苑にしたのでした。 父と兄は、車で1時間半ぐらいで行けるので、3年くらいは、ほとんど毎週、伊香保の温泉施設で過ごし、リフレッシュしながら墓参りをしていました。 父は7年前に91歳で亡くなり、いまでは、わたしと兄が年に3回行きますが、きれいに整備され、墓所全体に音楽が静かに流れていて、とても気持ちよく墓参できる、すばらしいところです。

blog_import_523d780e01971.jpg
(はるな平和墓苑 来苑記念はがき)

アンチなどは、創価が墓苑で暴利を貪っていると言いますが、わたしにすれば ” どこが? ” という感じです。 それなら、毎年、管理料までとる一般の墓苑はもっと暴利を貪っているということになります。 どうでしょう? 一般の墓苑を経営する公益法人に失礼な話ですよね。 
根拠もなく言うのは、悪意に凝り固まった戯言です。 土地代金・登記費用・仲介料・宅地開発費・施設整備費・設計料・諸手続き申請費用・借入れ金利・墓石費用などや、将来永遠につづく事務人件費・運営費・施設と墓所の維持管理費・施設の修繕費・施設の更新費用などの基金をきちっと調査し、明らかにして言うべきであります。 要するに調査もせず、悪意のある憶測で決めつけているにすぎないのです。 それは、非難されるべき行為であり、それをそのまま信じるなど愚かなことです。 それこそ、それは盲信と言ってよいでしょう。
あれから20年間、わたしは一銭も費用は払っていませんが、建物・道路・公園・広場等の諸施設もあり、管理費・営繕費・建替費用はほんとうに大丈夫なのか、と、逆に心配しているくらいです。 最近は、基金の運用金利も下がっているでしょうから、基金を取崩しているのかもしれません。 わたしたちの墓苑ですから。 必要なら払いますよ。 (^^
あのまま、一般の墓苑にしていたら、もっと支払っていなければならなかったでしょう。
Category : 反 証 Comment : (4) |

No title * by 菊川広幸
三流週刊誌や他宗の攻撃サイト情報はムチャクチャですね。現状認識のできる素晴らしい記事です。
ありがとうございます。^^

No title * by 夕焼け
菊川さん おはようございます。

これから、ゆっくりと、いろいろと記事にしていきます。 (^^

No title * by 河越武蔵守頼重
素晴らしいですね。
金額的にも、普通の墓苑等より御得ですね。
管理費も、毎月払うのが通例でしょうが・・・

やはり、学会は素晴らしい。
私の母の遺骨は富士桜永久納骨堂に考えてます。
私の代で、終わりなんで墓碑は不要と考えてます。

No title * by 夕焼け
河越武蔵守頼重さん おはようございます。

今は、同じような価格の一般の墓苑もあるようですが、創価の墓苑のほうがずっといいでしょう。 創価の墓苑は、明るく、ほんとうに気持ちのいい、安らかな墓所です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。