--------(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Category : スポンサー広告 Comment : (-) |
2015-08-10(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 三三蔵祈雨事(1468P) 
『 道理証文よりも現証にはすぎず 』

【 通解 】 
『 道理や証文よりも現証が第一である 』

【 指導 】
* 仏法では道理(理証)と証文(文証)が大切である。 そのうえで、仏法も人生も、大切なのは「 事実 」である。 現実の「 証拠 」である。

どんなに立派なことを言っても。 またすばらしい話を聞いたとしても、自分自身が現実に「 満足 」と「 勝利 」の実証を示さねば、意味がない。 観念論、抽象論になってしまう。 それでは、仏法ではない。 実像の人生でもない。
ご家庭でも、ご主人が「 明日は一緒に勤行するよ 」と口先ばかりで約束しても、空手形では、文証があって現証がないようなものである。 だから奥さんに叱られる。 やはり、「 結果 」が大事である。 所詮、人生も、生活も、どういう結果であったかが、現実の幸・不幸を決めていくからだ。 身近な日々の暮らしから、一生、また三世の幸福にいたるまで、すばらしい「 結果 」を残せる自分自身でありたい。 そのための根本の「 原因 」を作るのが信心であり、仏道修行なのである。
ゆえに、だれ人が、どんなに「 自分は偉い 」と威張ってみても、現実に一人の人に信心を教え、面倒をみ、幸福にしていった「 実証 」にはかなわない。 ” 高位の人 ”よりも” 弘教の人 ”が偉いのである。 仏法の眼から見れば、実社会のなかに、わが地域のなかに、正法流布を進めている皆さま方ほど尊い存在はない。 高貴なる” 仏の使い ”であり、何より御本仏のご賞賛は絶対と確信する。 また必ずや、三世十方の諸仏の讃嘆にもつつまれていくにちがいない。

< 御書とその心 >より


いくら、現証を実証を、といっても、力の無い誤った宗教・信仰では、それは叶わない。 また、あるのは不幸という現実であります。 過去の人類の歴史の悲惨さは、目を覆うばかりであり、不条理と憤りと悲嘆さに満ちています。 真実の宗教に向き合うとき、人の努力と思いは、幸福へ幸福へと実を結んでいくことはまちがいありません。 
スポンサーサイト
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-07-27(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 兄弟抄(1088P) 
『 設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず 』

【 通解 】 
『 たとえ、これより後に信心をする男女があっても、あなた方に替えて思うことはできません 』

【 指導 】
* 「 先駆者 」の存在はかけがえのないものである、との御本仏のお言葉である。 先駆者には先駆者ゆえの苦労があることも当然である。 しかし” 開拓した ”という事実と、その戦いをとおして開かれた境涯は厳然としている。

時とともに、また生まれてくるたびに、無量無辺の福徳が、皆さまの生命に満ち、あふれてくることは間違いない。 物心ともに豊かな、すばらしい境涯となって、ある人は大指導者に、またある人は大学者、大芸術家となって、正法広宣流布をいちだんと進めていく。 これを末法万年にわたり、自在に繰り返していくのである。 この福徳を確信していただきたい。 その確信がさらに境涯を開いていくのである。

< 御書とその心 >より


世界広宣流布新時代とはいっても、まだまだこれからであり、今はまだ草創のときであります。 今こそ、歴史を刻む信心の実証を打ち立て、時代を切り開いて未来の礎となってまいりましょう。 その福徳で、必ず自在無碍の境涯を得、生まれてくるたびに世界広宣流布の舞台で、様々に衆生所遊楽の人生を味わっていくことができます。 日蓮大聖人の信心というものは” 自受用身 ”つまり、自らが受け用いる身となって、ほしいままに、真の自立した自由な人生を、三世に亘り楽しんでいくことができるのであります。   
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-07-20(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 日興遺誡置文(1618P) 
『 未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。 』

【 通解 】 
『 いまだ広宣流布しない間は、身命を捨て自身の力の限り妙法を弘めるべきである。 』

【 指導 】
* 日亨上人は、この御文を「 重要永遠的の第一法則 」の一つであり、「 万代法則ともいうべき 」であるとされている。 つまり、このご遺誡は、二十六箇条のうちで最重要であり、中心となる鉄則である。 大聖人門下にとって永遠に貫きとおすべき根本の指針と仰せなのである。
「 広宣流布 」の実現こそ、根本の大事である。 ゆえに「 随力弘通の人 」こそ、もっとも御本仏が喜ばれ、たたえられる人である。 この根本をないがしろにするものは、日興上人の門下とはいえないとの戒めと拝される。 わが学会の歴史は、まさしく、この遺誡どおりの軌跡であった。 これが、私どもの最大の誇りである。

日興上人は、二十六箇条の「 遺誡 」について「 此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず 」と厳格に断言されている。

< 御書とその心 >より


日亨上人は、若きころに九州で折伏を一生懸命されていた。 そのときの経験から” きっと折伏の役に立つ ”と思われて、生涯をかけた富士宗学全集に取組まれたそうであります。 当時の宗門にあって、僧侶は折伏などしなくてもよい、という風潮の中「 大事なのは、人々を折伏して、信者に育てることである。 失敗してもいいから、どうしたら新しい信者ができるか、折伏の辛さ、厳しさを自分で学んでおくことだ。 折伏しない僧侶には、御書の解釈は出来ても、大聖人の本当の心は分からないよ。 」と語っておられたそうであります。 その上人にして、この一箇条の重みを痛感せられていたのでしょう。

折伏をするうえで「 随力弘通 」していくことが重要であります。 折伏には定型がなく、こうしなければ折伏とはいえないということはないということです。 心から染みでる信心の確信、喜びを携えて、相手を思って語っていくことが、相手の心に響いていくことは、昔も今も変わりがありません。 その信心の確信、喜びというのは、日々の唱題、折伏をする中から生まれてくるものです。 つまり因果俱時で、悩みながら、嫌な思いをしながらでも、ちょっとの勇気と一歩を踏み出す思い切りが、折伏には必要となってまいります。 こちらの力不足や宿業で、そのときには、相手の心に響びかなくても、生命の奥底では仏の種が芽吹いていることだけはたしかであります。

『 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり 』 とあるように、この一箇条のために、地涌の菩薩は生れてくるわけであります。 広宣流布のために生き抜いていくことは、本来の自分を見いだすことであり、何のために生まれてきたのか、その目的を自覚し、御本仏との約束を果たしてまいりましょう。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-07-13(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 寂日房御書(902P) 
『 夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。 』

【 通解 】 
『 およそ人身を受けることはまれである。 すでに、そのまれな人身を受けている。 また、あいがたきは仏法であるが、これにもまたあうことができた。 しかも、同じ仏法のなかでも、法華経の題目にあいたてまつり、結局、南無妙法蓮華経の題目の行者となった。まことに、まことに、あなたは過去世で十万億の諸仏を供養した方であろう。 』

【 指導 】
* 皆さま方は、日蓮大聖人の正法を実践しておられる。 どれほどの福徳と深き使命の方々であるか。 また大聖人は、いかばかり讃歎あそばされることであろうか。
皆さま方が、これ以上はないという最高の幸福を勝ち得ることは絶対にまちがいない。 もはや、一人ももれなく、三世永遠に崩れざる幸福の軌道に入っておられることを確信していただきたい。

< 御書とその心 >より


この仏法を持つことができる幸せは、計りしれないことなのです。 それなのに、くだらない利己主義に振り回されて、退転していく人の、なんとみすぼらしく、哀れな姿でありましょうか。 閻魔王の鏡にはきっとそのように映ることでしょう。 退転してから、さんざん創価の悪口を言うことは、負け犬の遠吠えと同じであり、みっともない限りであります。 最初は何事もないようであっても、かならず地獄のような生活と精神に苛まれるようになるでしょう。 還著於本人となって返ってゆきます。

戸田先生は、退転した人が、そのまま姿を消せばよいものを、こうなりましたと、わざわざみすぼらしい姿を見せに出てくる、というような話をされていました。 しっかり信心をした人と、そうでない人の差は歴然であります。 信心して、そのときにはわかりませんが、長い間にその差が出てきてしまいます。 また、長い間、信心してきたとしても、最後になって退転してしまっては、舎利弗が乞眼の婆羅門の責に耐えられず、長遠に重ねてきた努力を水の泡にしたことと同じであります。 千載一遇と言ってよい、この身の福運を大事にしなければいけません。

大事なことは、感謝の心で、報恩の心で、広宣流布のために信心を起こしていくことです。 それは、人としての道にも適うことであり、仏の道でもあります。


※ 2015/07/13改訂
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-07-06(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝(716P) 
『 我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり 』

【 通解 】 
『 われわれの頭は妙であり、喉は法であり、胸は蓮であり、腹は華であり、足は経である。 この身の全体が妙法蓮華経の五字なのである 』

【 指導 】
* 「 妙法蓮華経 」を体に配せば「 妙 」は「 頭 」。 「 法 」は「 喉 」― 喉は声を出す、すなわち法を説くことに通ずる。 「 蓮 」は「 胸 」― 心臓が二つの肺臓に包まれた姿が蓮に似ている。 「 華 」は「 腹 」。 そして、「 経 」は「 足 」にあたる。

「 足 」とは、「 行動 」に通ずるともいえよう。 「 行動 」があって初めて、真の妙法蓮華経となる。 「 行動 」とは、日々の学会活動である。 そこにこそ「 百福 」が積まれていく。 広宣流布への行動を最後まで貫くことである。 どんな道でも、歩みを途中で止めれば、目的地に到達できない。 それと同じく、せっかく仏法の「 無上道の軌道 」に入っても、途中でやめてしまえば、それまでの努力も無駄になってしまう。 成仏の境涯を得ることはできない。 ゆえに、みずからも「 行動 」し、人にも「 行動 」への励ましを贈る。 それが正しい慈悲の軌道である。

「 仏法 」のため「 広宣流布 」のため、そして「 人間 」のために、真剣に祈り、走り、行動していく。 そこに大いなる福運がついてくる。 「 行動 」もなく、ただ拝んでいる ― それは日蓮仏法ではない。

< 御書とその心 >より


ここのところは大事な御文であります。
他の御書には、『 妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければやがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり 』 とあります。

わたしたちの行住坐臥が妙法蓮華経の当体であり、それを信じて、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えながら、広宣流布のために生き抜いていけば、須弥山に近づく鳥と同じように、やがて妙法蓮華経如来の当体となって、金剛不壊の境涯を得ていくことができるのであります。 わたしたちが拝する御本尊には、そのことが明確に説かれています。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-06-29(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 新池御書(P1439) 
『 法華の心に背きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり、地獄おそるべし炎を以て家とす 』

【 通解 】 
『 法華経の心に背けば、十方の仏を殺す罪である。 この定めに背くのを謗法の者という。 地獄は恐れるべきである。 炎を住処としている。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人は、このように戒められておられた。 仏法においては「 法 」が根本であり、広布を妨げ「 法 」に背いた罪は、あまりにも重く、深い。

謙虚に、また地道に自己を磨き、境涯を高めていくのが” 一生成仏への道 ”である。 反対に最高の法を持ちながら、人をおしのけ、人をおとしいれるような、策を根本とした生き方は、” 永遠の苦悩の道 ”である。


< 御書とその心 >より


仏法では「 法に依って人に依らざれ 」というのが根本であります。 この「 法 」というのは、法華経に説かれていることであり、仏の金言のことです。 さらに、深く立ち入っていえば、その心である南無妙法蓮華経のことをいいます。

現在の邪宗教は、皆悉く、この「 法 」に背く過ちを犯しています。 「 法 」つまり仏の金言に依らず、「 人 」つまり人師の妄言に依ってしまい、法華経に背き、師である釈迦に敵対してしまっていることであります。 涅槃経には「 若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり 」 とあり、天台大師の法華玄義にも「 文証無き者は悉く是れ邪偽・彼の外道に同じ 」とあります。 仏の説いた経典に無いものを、有ると偽り、仏の心を殺しているのが、邪宗教の本質であります。 

池田先生の指導で「 地道に自己を磨き、境涯を高めていくのが” 一生成仏への道 ”である。 」とありますが、なにを持って磨くのか、「 一人の友に妙法を唱え伝えようと、真剣に祈り、語りゆく 」 ことによって磨くのであり、「 御本仏の大生命は厳然と、また脈々と流れ通う 」ことで、境涯を仏に染めていく以外に” 一生成仏の道 ”はありません。
Category : 御 書 Comment : (3) |

* by 気分屋
ご無沙汰してます。折伏の事で気になる事があります。実は紹介者の私に連絡すること無く、話が進み、婦人部が本流を決めました。日取りまで勝手に決めてしまい、なんか納得いかない状況です。御安置できることは大変喜ばしい事ですが。以前に夕焼けさんに折伏の成果など気にするなと指導頂きました。誰の成果でもいいのですが、もう少し筋を通せないかと思ってしまいます。

* by 夕焼け.
気分屋さん、こんばんわ。

いただいたコメントからでは実態が判りませんが、わたしの経験をお話ししたいと思います。

学生時代の事ですが、同じ学科の友人で、なかなかの好青年でした。 機会があったら信心の話をしてみたいと思って、学園祭のセミナーに誘ってみました。 約束どおり来てくれて、セミナーの後にテーブルを囲んで先輩幹部と折伏をしました。 話はいたってスムーズに進み、大きな反発も無く彼は話を聞いてくれました。 しかし、やはり入会となると決めかねて、また、次回の対話を約束して帰りました。 後日、喫茶店に誘い何回か対話を重ね、そして、5回目に「 やってみないと、解からないよ 」と説得して入会の約束をしてくれたのです。 ところが、日曜を挟んで翌々日に教室で再開したときに、ニコニコしながら、入会して御本尊を戴いたと話し始めたのです。 よく聞くと、彼の彼女が女子部員で学会の話を前から聞いていたが、わたしとの対話で決心がつき、わたしと約束した後に彼女に入会したいと伝えたそうです。 彼女は喜び、翌日には御受戒を受けにいったのでした。 それをきいて、わたしは一応は喜んだのですが、内心は「 え~、聞いてないよ~ 」でした。 (^^

もう一つは、やはりクラスの友人で、今度は入会の手続きを済ませ、住んでいる組織に紹介し、拠点で何回か勤行をさせてもらっていて、御受戒を受ける日になって、そこのブロック組織の人が別の紹介者の名前で御本尊下付願いを用意していてびっくりしたことがありました。 学生部の場合は、ブロックの組織と学内の組織があり、折伏となると学内がメインで、ブロック組織にも所属させなければならないことから、うっかりするとこのようなことが起きていました。 この時には学内幹部が申し入れわたしが紹介者となっています。

さらに、折伏していたクラスの友人をセミナーに誘っていて、そのときには複数来ていたために、もう一人と対話している間に、その友人が学内の部員に呼び止められて、何人かで折伏され入会を決意していました。 その部員は同じクラスで顔見知りだったために、友人は素直に別の対話のテーブルにつき、わたしが知らない間に決まっていたのでした。 この時は、その部員を紹介者としました。

ハッキリとはわかりませんが、良きにつけ悪しきにつけ、同志を怨むようなことがあってはいけません。 人には宿業により、生命の傾向性があります。 心を試されていると思って、題目をあげ、境涯を高めていく機会にしてください。 また、言わなければいけないことは、同志と言えども言わなければいけません。

それでも、御本尊流布までの労に汗を流した方たちに感謝してもおかしくありません。 誰が見ていなくとも、身に影が沿うように両肩に同名同生天が、気分屋さんの一生を残らず記録しているので、御本仏は御存じであります。 入信のきっかけを作った功徳はだれも奪うことはできません。

* by 気分屋
いつもありがとうございます。なんか楽になりました。しっかり題目をあげて境涯革命できるように頑張ります。

2015-06-22(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝(P753) 
『 今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり、此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり、仍つて経に云く「我等当信受仏語」と信受の二字に意を留む可きなり。 』

【 通解 】 
『 今、日蓮およびその門下の元意でいえば、即身成仏と開き覚ることを「 如来の秘密・神通の力 」というのである。 成仏すること以外に「 神通 」も「 秘密 」もない。 この無作の三身をただ一字をもって得ることができたのである。 いわゆる「 信 」の一字である。 ゆえに経文に「 我ら等当に仏の語(みこと)を信受したてまつるべし 」とある。 この「 信受 」の二字に心を留めるべきである。 』

【 指導 】
* 「 秘密 」といい、「 神通 」といっても、「 即身成仏 」すなわち、この人生で、このありのままの自分が、絶対的幸福を得ること以外にないのである、とのご断言であられる。 仏法にはそれ以外に、何か特別な、神秘的なものは何もない。 いわんや、神秘めかした格好で民衆の幸福を破壊するような聖職者は、断じて、日蓮大聖人の仏法とは” 無関係 ”なのである。 大聖人ご自身も” 民衆をあざむく神秘主義 ”と敢然と戦われた。 絶対にだまされてはならない。
「 仏語を信受 」と経文にあるように、私どもは「 仏 」のお言葉、御本仏日蓮大聖人の御書を信じている。 どこまでも「 大聖人根本 」であって、途中の人師、論師が明らかに大聖人に背く言動を始めたら、絶対に従がうわけにはいかない。

< 御書とその心 >より


ここでいう「 信 」とは、身口意の三業の「 信 」をいいます。 そう簡単なことではありません。

それでも、即身成仏するのに、頭の良い悪い、知識が有る無い、地位の上下、財産の有無、男か女かは関係がないということであり、そのままで、仏語つまり法華経、法華経つまり御本尊を、身で信じ行動し、口でも信じ対話し、心で信じ祈り切ってゆけば、如来の秘密である神通の力が湧き、生命の宝珠を求めずして得ることができるのだと思います。

この「 信受 」の「 受 」 とは、『 無作の三身をば一字を以て得たり 』の” 得たり ”に当る部分であり、即身成仏のことなのです。 邪宗門が言うような、大御本尊(大聖人)の化身である法主に従がうことを意味しているのではありません。  「 信 」の一字が大事だと、日蓮大聖人が仰っておられるのは、まことに故あることなのです。
創価の会則改訂も時の流れとはいえ「 信 」の一字になったというのは、偶然ではないように思います。


※ 2015/06/23改訂
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-06-15(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 日興遺誡置文(P1617) 
『 富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。 』

【 通解 】 
『 富士の立義、すなわち日興門流の宗義は、いささかも、先師日蓮大聖人のご弘通に相違していないこと。 』

【 指導 】
* この条目が、冒頭に置かれているところに、深きお心が拝される。 「 日蓮大聖人のご弘通 」に「 いささかも違わない 」ことが、根本中の根本なのである。 これこそ「 日蓮大聖人直結 」の文証である。 ここに大聖人門下の根源がある。 今や、このご遺誡の実践者は創価学会しかない。 
日顕宗では、「 大聖人に相違しない 」ことではなく、「 日顕に相違しない 」ことを教えている。 根本が狂っている。 「 いささかも 」どころか、完全に違背している。 その具体例は、皆さまがよくご存じのとおりである。

< 御書とその心 >より


「 法に依って人に依らざれ 」が仏の遺訓であり、御書根本の信心こそ大聖人門下の骨髄であります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-06-08(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝(P780) 
『 此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり 』

【 通解 】 
『 この法華経を全世界に行じていくことは、普賢菩薩の威光ある優れた力によるのである。 この経が世界に広宣流布することは、必ず普賢菩薩の守護によるのである。 』

【 指導 】
* ここには甚深のお心が拝されるが、普賢菩薩の「 普 」とは、” あまねし ”と読む。 普遍性のある” 不変の真理 ”(不変真如の理)を意味すると「 御義口伝 」には説かれている。 また、「 賢 」とは、” かしこし ”と読む。 「 御義口伝 」では” 智慧の義 ”( 随縁真如の智)とされる。
「 普 」が普遍にして変わらない仏法の真理を意味し、「 賢 」は、そのその真理にもとづいたうえで、たとえば、その国と社会、その時代、その状況によって、自在に発揮すべき智慧を意味すると拝される。 「 菩薩 」とは、民衆と社会の中に飛び込んで戦う” 慈悲の行動者 ”とも言えよう。
ともあれ、世界への広宣流布には、” 英知の力 ”が不可欠である。 普遍性のある哲理と、豊かな知恵の両方があって初めて、多種多様な民族、歴史、伝統をもつ世界の人々の心をとらえることができる。 また、あたたかい慈愛、人間性あふれる行動があってこそ「 菩薩 」の働きとなる。

< 御書とその心 >より


同じ「 御義口伝 」に『 所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は普賢菩薩の守護なり 』とあるように、わたしたちが御本尊に唱題し、法華経を行ずることで、世界広宣流布は成し遂げられる、という御文です。
この、法華経を行ずるというのは、法華経の行者である日蓮大聖人のように生きていく、ということであり、それは、日蓮大聖人の心を持って広宣流布に生き抜き、難に負けることなく、どこまでも慈悲と勇気の力で、折伏をしていくことであります。 
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-06-01(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 佐渡御勘気抄(P891) 
『 日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや 』

【 通解 】 
『 日蓮は、日本国の片田舎である東国のうち、安房の国の東条というところの海辺の最下層の家の子である。 むなしく朽ちてしまうであろうこの身を、法華経の御ために捨てることは、「 石 」を「 黄金 」と交換することではないか 』

【 指導 】
* 自分は、もともと最低の身分の人間である。 何を、この身を惜しむことがあろうか。 法華経のために命を捨てれば、仏になれる。 これ以上のすばらしい死に方があろうか ― と仰せなのであります。

威張らない。 偉ぶらない。 地位や名声や財産で、自分を飾らない。 それでこそ、「 不惜身命の力 」がわいてくる。
少しでも自分を飾ろうとしたら、もう信仰は堕落する。 ” 自分は大学を出た ” ” 自分は家柄がいい ” ” 自分は有名人だ ” ” 自分には地位がある ” ― そういう幻にとらわれたら、保身になり、心は堕ちる。 いわんや、学会のおかげで幹部となり、名士となって、自分を偉いと思うなど最低である。
「 こんな自分が、大勢の人の面倒を見られる立場にならせていただいた。 なんと、ありがたいことか! 」と、感涙にむせぶのが本当ではないだろうか。 それが「 旃陀羅の子である 」と叫ばれた日蓮大聖人のお心にかなう道であると、わたしは信じる。

< 御書とその心 >より


創価は、あくまでも庶民の連帯を大切にしていかなければなりません。 庶民のなかにこそ本当の人生があり、広宣流布の姿があるのだと思います。 信心の世界に虚飾はいりません。 石でいいのです。 ありのままの自分を、そのままに、不惜身命、随力弘通していくことが大事なのです。 その人が「 石 」を「 黄金 」に変えていく人です。 

「 黄金 」に見せようとするから、威張り、偉ぶっていくのです。 増上慢の輩ほど、強がり、教訓し、批判するのが常であります。 退転の幹部はみんなそうでありました。 また、邪宗門の本質もそうであります。 
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-05-25(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 上野殿御返事(P1561) 
『 願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のやくびやうに死にし人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ 』

【 通解 】 
『 願わくは、わが弟子たちよ、大願を起こしなさい。 去年および一昨年と、流行した疫病で死んでいった人々の数には入りませんでした。 しかしまた、あのように蒙古の攻めがあれば、助かるとも思えません。 ともかくも、死は定まっているのである。 そのときの嘆きは、現在の苦しみと同じである。 同じことならば、かりにも法華経のために命を捨てなさい。 それは、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人は、この南条時光の勇敢な行動( 熱原の法難の際、迫害された同志を自分の屋敷にかくまうなど、わが身を危険にさらして尊い仏子を守ろうとした )を、最大に讃歎された。 時光が数えで21歳の時に与えられたお手紙で、このように激励されていた。

殉教者まで出した熱原の法難である。 時光の受けた圧迫も筆舌に尽くせぬものであったろう。 しかし、大聖人は、法難の苦しみも死ぬ時の嘆きも、苦しいことは同じであり、ならば、広布の道を貫いて大境涯を得なさい、と教えられている。
人間にとって、死がどれほどの苦痛であることか。 いかに金持ちでも、地位や権力があっても、死を前にしては夢のように空しい。 幻のように、はかない。 皆、これがわからない。 それを、広布のために苦労することによって、自身の宿業を転換し、最高に安楽な「 死 」即「 次の人生への出発 」 を迎えられるのが、この仏法である。
その実証を、私たちは先輩や同志の姿に多く見てきた。 この一点だけでも、正法の功徳は偉大である。 ゆえに、この正法を教えてくれた学会の恩に、どれだけ感謝してもしきれない。

< 御書とその心 >より


同じように、御書には『 誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば我が身命を捨て仏法を得べき便あらば身命を捨てて仏法を学すべし。 とても此の身は徒に山野の土と成るべし・惜みても何かせん惜むとも惜みとぐべからず・人久しといえども百年には過ず・其の間の事は但一睡の夢ぞかし、 』とあります。 人は生死を重ね、須弥山のように骨を積んできて、世間一般のことで命を落とすことはあっても、仏法のために身命を賭すことは稀であります。 いま、この仏法に巡り合い、師弟をともにし、広宣流布に迎い遭えることは、千載一遇のことであります。 この時を逃しては、いつ宿命転換し、いつ成仏を成し遂げようというのでありましょうか。  『 勧持品に云く不軽品に云く、命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也云云 』との、大聖人のお言葉を、深く胸奥に刻んでまいりましょう。

池田先生のお言葉に「 広布のために苦労すること 」とありますが、このことを知らない人が多い。 信心では、このことが重要なのであります。 それを嫌がって、創価を批判し、愚痴を言い、退転していく人の、なんと愚かなことか。 求道心のない信心では、真の功徳を知ることはないでしょう。
折伏で苦労し、唱題で苦労し、御書で苦労し、励ましで苦労し、活動で苦労してゆくことが大事なのです。 そうすれば、宿業を転換するだけでなく、福運を積み、境涯を開いていくことができます。 やがて、苦労だったものが、喜び、楽しみへと変じ、衆生所遊楽の悠々たる境涯を感じられるようになるでしょう。
Category : 御 書 Comment : (2) |

承認待ちコメント * by -

* by 夕焼け
No.386さん、こんばんわ。

了解です。 (^^

2015-05-19(Tue)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 曾谷殿御返事(P1056) 
『 何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、 』

【 通解 】 
『 どのように法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちる。 それは、千杯の漆にカニの足を一つ入れて、漆をだめにしてしまうようなものである。 』

【 指導 】
* 必ずや所願満足の人生、永遠なる幸福境涯を、自然のうちに会得していけるのが、妙法の功徳なのである。 しかし、その功徳も、信心いかんにかかっている。
日蓮大聖人も、どんなに真剣に、まじめに信心しているようであっても、謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。 それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。
御書には、悪の因をつくるものとして、十四の誹謗が挙げられているが、そのなかに「 軽善 」「 憎善 」「 嫉善 」「 恨善 」がある。 信心している人を「 軽んじ 」「 憎み 」「 妬み 」「 恨む 」ことがそれにあたる。
懸命に、これほど信心しているのに、功徳が感じられないという場合が、あるかもしれない。 そのときは、この四つの誹謗がないかどうかを、自分に問うていただきたい。 軽善、憎善、嫉善、恨善の人は、自分で自分の功徳を消してしまうからである。
もちろん、同志に対しても、言うべきことをきちんと言っていくことは自由であるし、当然、必要なことである。 しかし、相手を思って厳しく言うことと、憎しみの心や恨みの言葉は同じではない。 その点はよくよく見極めていかねばならない。 御本尊のもとに集い、広宣流布に進んでいる私どもは、すべてが仏子であり、” 妙法の家族 ”である。

< 御書とその心 >より


まことに峻厳な、御文であります。

わたしたちは、不軽の跡を継いで、麗しい創価家族の黄金城を築いてまいりましょう。 家族には色々なことがあったとしても、愛でつながっているように、わたしたちは御本尊を信じる心でつながっています。 そうであるならば、様々なことが煩悩即菩提で強い連帯を生んでゆくはずです。
御書に『 善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし 』とあるように、信心を失うことが最大の謗法であり、地獄の因となるのであります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-05-11(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 種種御振舞御書(P919) 
『 日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし 』

【 通解 】 
『 日蓮をたとえ用いたとしても、敬い方が間違っていれば国は滅ぶであろう 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人を尊敬する恰好を見せていても、大聖人のお心に背いていれば、国は滅ぶ。 これは、日顕宗の破折の御文でもある。 御本尊を拝んでいても、学会の幹部であっても、恰好だけであるか、本物であるか ― これで分かれる。 恰好だけなら功徳はない。 これまでの反逆者らがそうである。

< 御書とその心 >より


見せかけの信心ほど怖いものはありません。 かえって地獄に堕ちなければならなくなってしまいます。 信心は、どこまでも純真であり、まじめでなければなりません。

日蓮大聖人の心は、慈悲の利剣を手に折伏をしていかなければわかりません。 御書を読んでいても、やはりそうであります。 真剣に、宿業打開のために折伏に取り組んでいるときは、どんどん伝わってくるものがあります。 自分のために言ってくれているような、絶妙のタイミングですべての指導が胸に響いてくるはずです。

また、この御文は、釈迦の心に背いて法華経をないがしろにし、誹謗する浄土宗・禅宗・真言宗・天台宗など謗法の宗が歩んでいる姿を指摘しているものでもあります。 釈迦を尊んでいるようで、敵対する、みせかけの仏教であります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-05-04(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 最蓮房御返事(P1342) 
『 貴辺に去る二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ、結句は卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり、 』

【 通解 】 
『 あなたに、去る二月のころから大事な法門をお教えした。 そのうえ、四月八日の夜半、寅の時に妙法の本円戒をもって、受職灌頂してさしあげたのである。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人の御書には、「 授戒 」「 受戒 」― 戒を授ける、戒を受ける ―という言葉は用いられているが、すべて、仏教史上の過去の例をあげられたものである。 大聖人ご自身が「 授戒 」されたという記述はない。 ただ「 最蓮房御返事 」に、最蓮房に対して「 授戒 」されたことを述べられている。 「 妙法の本円戒 」とは、本門の円頓戒のことで、妙法(御本尊)を持つことをいう。 「 受職潅頂 」とは、菩薩が妙覚の仏になろうとする時に、仏がその菩薩の頂(頭)に智慧の水を注ぐことをいったが、ここでは大聖人が、最蓮房に妙法蓮華経の五字を授けたことをさしていると拝される。
 最蓮房は、天台宗の僧として比叡山で法華経迹門の戒を受けていたと考えられ、独一本門の戒を大聖人から受け直したものであろう。 つまり、これは出家に対する受戒であった。 最蓮房自身が強く望んだものではないか、とも思われる。
 つまり、大聖人の在世においては、出家の弟子に対してさえ、授戒されたという記録は、最蓮房以外には残っていないのである。 まして、在家の信徒が授戒を受けたという記録は、まったくない。 当時の慣習のうえからも、信徒への授戒はなかったと考えられている。

< 御書とその心 >より

本門の戒壇というのは受戒する場所ではありません。 このことが真に理解できれば、本門の戒壇の意味がおのずと判ってきます。 創価の広宣流布大誓堂というのは、この本門の戒壇の意義をもつ世界で唯一の根本道場と言ってさしつかえありません。 広宣流布の暁には、この誓堂に込められた想いを手本として本門の戒壇が建立されることはまちがいありません。

御書に『 我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「 是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く 」文。 』 とあるように、妙法の” 戒 ”は” 金剛宝器戒 ”といって、御本尊を抱きしめながら、題目をあげ抜いて、広宣流布という誓願に勇猛にして精進していくことしかありません。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-04-20(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 大白牛車御消息(P1584) 
『 法性の空に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ、我より後に来り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、 』

【 通解 】 
『 仏界の空に自在に飛びゆく車を、大白牛車というのである。 私より後に来られる人々は、この車に乗せられて霊山浄土へおいでになることであろう。 そのときは日蓮も同じ車に乗って、必ずお迎えに向かおう。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人のお言葉だけは絶対である。 真実である。 信受すべきである。 最高の宇宙ロケットも比べものにならない。 この大白牛車に乗って、自由自在に、次の使命の舞台へと飛んでいく。
法華経に「 生ぜんと欲する所に自在 」とあるように、自分が生まれたいと思う場所に、生まれたい姿で生ずるのである。 地球とは限らない。 知的生命の存在する星は、宇宙に数限りなくある。 これは現代の天文学でも、多くの学者が推定していることである。

今世で一生成仏すれば、その「 仏 」の境涯は永遠に続く。 「 生死 」「 生死 」と、生々世々、生まれるたびに、健康で、裕福で、頭もよく、最高の環境に恵まれ、福運に満ちみちた人生となる。 また、自分でなければならない使命をもち、使命にふさわしい姿で生まれてくる。 それが永遠に続く。 もう二度と壊れない。
この「 永遠の幸福 」のために、今世で仏界を固めなさい。 仏道修行に励みなさい、というのである。 私が勝手に言うのではない。 大聖人が、そう言っておられるのである。 

< 御書とその心 >より


この、大白牛車とは、南無妙法蓮華経のことであり、御本尊のことであります。  そして、それは、わたくしたち自身の生命の宝塔にほかなりません。 仏の境涯を開いた金剛不壊の自分自身こそ無量の宝を載せた大白牛車なのです。


※ 2015/04/21 改訂
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-04-02(Thu)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 主師親御書 (P386) 
『 或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり、、 』

【 通解 】 
『 ある時は人間として生まれて、諸々の国王、大臣、貴族や、宮廷での昇殿を許される高い身分などになって、「 これほどの楽しみはない 」と思い、わずかなものを得て「 満足した 」と思い、喜び合っている。 このことを仏は「 夢の中の栄え、幻の楽しみである。 ただ法華経を持ちたてまつり、すみやかに仏になりなさい 」と説いておられる、 』

【 指導 】
* 仏法から見れば、ある時は” 動物 ”に生まれ、ある時は” 木 ”に生まれるかもしれない。 せっかく人間に生まれたのに、世間的な楽しみに溺れるのは愚かである。 その楽しみは幻にすぎない。 広宣流布のために働いている人は、そのための苦しみも、世間の楽しみの、何千倍もの楽しみに変わっていく。 永遠性の喜びにつながっていく。
ただ法華経を持つ ― 妙法を信じ唱えることである。 その人は、正しい社会観、生命観、宇宙観をもった、尊極の生命の当体になる。 本当の幸福、本当の仏の境涯を、つかんでいけるのである。

< 御書とその心 >より


日ごろ「 死 」という問題を考える人は非常に少ない。 病気になったり、年老いてから、はじめて真剣に「 死 」というものを考え始めることが多い。

以前、NHKの報道特集で、臨死体験を扱った番組が放映されました。 立花隆さんがレポーターとなり、世界各地の臨死体験者の話や脳神経科学の最先端情報などを紹介しておりましたが、立花さんは、奥様を癌で亡くされ、自身も癌に侵されて、死を現実のものとして感じられるようになり、はたして死んで自分というものはいったいどうなってしまうのか、自分という己の心というものはどこにいってしまうのだろうか、と深く考えざる負えなくなってきたと話しておりました。 
このような、疑問と探求は哲学的な希求からというよりは、死というもので自分の人生や大切と思っていた人の価値が意味のないものになってしまう、という喪失感からくるものだと思います。

この「 死 」というものは人間だれしも避けることはできません。 仏であってもそうであります。 生きてきた楽しみ、財産、名誉、社会的地位、交友関係、家族、総てと別れなければなりません。 死んで持っていくことはできないのです。 三世の生命観を信じない人でも、その永遠性に執着する姿はなぜでしょう、哀れというしかありません。
死んで持ってゆくことができるのは「 業 」であり、「 境涯 」であり、「 福運 」であります。 このことを考えて、行動してしていくことが生きていく意味であり、大事なことなのです。
仏法では永遠の生命を説いておりますが、死は一定であり、生命の理(ことわり)であり、三世の生命観にたって本当の幸福とは何なのかを説いております。 この永遠の生命観に立って生きていかなければ、人類の幸福、戦争のない世界というものを掴むことはできないでしょう。

日蓮大聖人の仏法、信仰というものは、そのために必要なものであり、自他共の本当の幸福を築いていくために、広宣流布という人生が不可欠となってきます。 日蓮大聖人(御本仏)はその舞台、その世界を用意してくださり、その中で、わたし(日蓮大聖人)のように生きていきなさいと示されているのです。 
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-03-17(Tue)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 千日尼御前御返事 (P1316) 
『 佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん、譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、 』

【 通解 】 
『 佐渡の国から、この国までは、山や海を隔てて千里にも及ぶのに、女性の御身として、法華経を信仰していらっしゃるゆえに、年々に夫を使いとしてお訪ねくださっている。 必ずや、法華経・釈迦・多宝・十法の諸仏が、あなたのお心を、よくご存じのことであろう。 たとえば、天の月は四万由旬も離れているが、その影を大地の池に即座に浮かべる。 また、中国の雷門にあった太鼓は、千万里の遠くにあっても、打てば即座に聞こえたという。 それと同じように、あなたは佐渡の国にいらっしゃるけれども、心はこの国に来ておられる。 仏になる道も、このようなものである。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人ご在世当時、佐渡の阿仏房は、高齢にもかかわらず、身延の大聖人のもとへ、三度も訪れた。 が、夫人の千日尼は、佐渡の地にあって、夫の留守を守った。 彼女自身、どれほど大聖人をお慕いし、お目通りを願っていたことか ― 。 そうした心を、大聖人は、すべて御存じであられたにちがいない。

大聖人は、たとえ「 身 」は遠くにあろうと、その「 志 」は身延の大聖人にまでたしかに通じていると仰せになり、求道の「 心 」強き千日尼が、成仏という無上の幸福道を歩みゆくことはまちがいないと励まされている。 妙法流布への純真な「 志 」が厚ければ、いずこの地にあっても、また、いかなる陰の立場にあろうと、御本仏はすべてご照覧なのである。

< 御書とその心 >より


大聖人のこの心に、わたしは涙を禁じえません。 このお手紙を拝した千日尼は、厳寒の中で、春のような温かさを心に浮かべ、きっと、涙が溢れてくるのを抑えることができなかったにちがいありません。

この御文を拝してみても、邪宗門の輩の心が、大聖人のお心とは、まったく正反対だということがわかります。

この御文の後に、『 我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、 』とあり、また、法華経寿量品自我偈には「 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山 」とあります。
大聖人の心の灯(ともしび)を、わたしたちの心に灯(とも)し、それを、どこまでも燃やしつづけ、御遺命のままに生きてゆくならば、御本仏はそこに居られ、わたしたちと共にある、ということです。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-03-09(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝 (P765) 
『 信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。 』

【 通解 】 
『 ” 信 ”とは「 疑いなきを信という 」とあるとおり、法華経に対して疑いがないということである。 ” 伏 ”とは法華経に帰依し、伏することである。 ” 随 ”とは心を法華経に移すことである。 ” 従 ”とは体をこの経に移すことである。 詮ずるところ、今、日蓮とその門下の南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である。 』

【 指導 】
* 「 信伏随従 」の文について述べておきたい。
 この経文は法華経の「 常不軽菩薩品第二十 」にある。 不軽菩薩を迫害した慢心の僧尼男女らが、やがて心を改め、不軽菩薩に「 信伏随従 」した。 すなわち「 信じ伏し随い従った 」ことをさしている。
 すなわち、末法における法華経とは、三大秘法の御本尊である。 「 信伏随従 」とは、御本尊を信じ、御本尊に帰命し、御本尊に心も身体もささげきっていく。 心でも信じきり、体でも自行化他の広布の実践に生ききっていくことである。
御本尊に広布の誓願を立てて唱題し、なにがあろうと不退転の行動を貫いていく。 妙法に信伏随従しきっていく。 そこに「 成仏 」への根本の因がある。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人は、「 南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は 」といい、けっして「 南無妙法蓮華経と唱え奉る信者は 」とは仰っておられない。 また、「 信伏随従 」するのは「 妙法に 」であり、けっして法主なんかではない。
Category : 御 書 Comment : (1) |

承認待ちコメント * by -

2015-03-04(Wed)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 秋元御書 (P1072) 
『 信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、 』

【 通解 】 
『 完全な器のように、信心の心に欠けるところがなければ、一切の人を平等に利益する仏の広大な智慧の水は、決して乾くことがない 』

【 指導 】
* 「 信心 」ほど偉大なものはない。 これが一切の結論である。
仏の智慧は、あらゆる人々を、平等に絶対の幸福へと導く智慧である。 その智慧の水を、わが生命の宝器に満々とたたえていくために必要なのは、ただ「 信心 」なのである。 「 信心 」の器が壊れていたり、汚れていたり、閉じていたり、不純物がまじっていたり ― それでは清らかな「 智水 」は得られない。 ゆえに信心なき日顕に、仏の智水などあるわけがない。 あるのは、ただ仏法を利用し、信徒を食いものにしょうとする魔性だけである。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人の仏法は、御本尊に総て説かれています。 だからこそ御本尊は出生の本懐といわれているのであります。 御本尊には、「 南無 」と打たれ、続いて「 妙法蓮華経 」とあります。 さらに、その左右には釈迦・多宝が並座しています。 この仏と仏が頷きあっているところに「 南無 」があり、仏と仏のみが知る悟りというのは、妙法を深く信じる心のこと、つまり、「 信心 」ということに尽きるのであります。
御本尊とわたしたちの間には「 信心 」というものがなければ、ダメなのです。 また、御本尊はわたしたちの「 信心 」によって御本尊となりうるのです。 「 隨縁不変・一念寂照 」とはこのことであり、妙法蓮華経という一極に帰することが成仏の要(かなめ)であり、信心なき二乗は畜生とその境涯において同じであります。

※ 2015/03/04 改訂
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-02-18(Wed)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 御義口伝 (P790) 
『 一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。 』

【 通解 】 
『 きわめて長遠の間にわたって尽くすべき辛労を、わが一念に尽くして広宣流布に戦っていくならば、もともと自分の身に備わっている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる。 』

【 指導 】
* 戸田先生が「 この御書だけは命に刻んでおきなさい。 学会の闘士になるためには、この御書は忘れてはならない。 」と言われ、教えてくださった御聖訓がこの一節であった。
本当に広宣流布に徹すれば、人生の真髄の生き方に徹すれば、自然のうちに仏の境涯が薫発される、という意味である。

< 御書とその心 >より


会合で、7000万遍の唱題をしてきた半生を語る方にお会いしましたが、死ぬまでには1億遍をなんとしてもあげたいと言っておられました。 それを聞いて、” 素晴らしい ”と思いました。

仏道修行というのは、生きている間にしかできないものです。 それゆえ、人の一生というものは本当に貴重なのであります。 宿業のバランスシートを書き換えて、仏の境涯を掴むために生まれてきているのです。 どれだけ、広宣流布のために辛労を尽くせるのか、どれだけの人に、この仏法を語っていけるのか、今世にあらん限り、祈り、行動してゆく人生ほど素晴らしいものはありません。

苦しくても、悲しくても、唱題しながら、なんとしても広宣流布の闘争に生き抜いていこう、とする一念が、すべてを決しゆくのであります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-02-09(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 佐渡御書 (P960) 
『 日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし 』

【 通解 】 
『 日蓮を教えさとして、自分の方が賢いなどと思っている。 このような悪人が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不憫としかいいようがない。 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人の時も、増上慢の弟子がいた。 ” 大聖人が大難に遭うのは、大聖人のやり方がおかしいせいだ ” と非難する門下がいたのである。
罪なくして大難に遭うことこそ「 法華経の行者の証明 」であることが、わからなかったのである。 そうゆう人間は、” 他宗の謗法の人間よりも、もっと長く、地獄で苦しむことになる。 かわいそうなことだ ”と大聖人は仰せである。

「 師弟 」の道を壊す罪は、それほど重い。 

< 御書とその心 >より


仏法はあくまで師弟不二であります。
日蓮大聖人を根本の師としながら、その心を持つ師を現実の師とし、弟子として生き抜いていくのです。
” 師敵対 ”ほど愚かな道はない。 堕地獄の道である。 日興上人が「 この法門は、師弟子を正して仏になり候。 」というのはこのことであり、邪宗の根源的な過ちも、この” 師敵対 ”にあります。
浅薄な常識や倫理観に自己を投影させて、さも賢げに、師を教訓する傲慢さほど、恐ろしいものはありません。
Category : 御 書 Comment : (3) |

* by みかん。
おはようございます(^o^)
この間のコメントのお返事ありがとうございましたm(_ _)m
勉強になりますm(_ _)m



「さも賢げに師を教訓する傲慢さ」…なるほど。色んな意味で、なるほど。

師匠には謙虚そうに見えても、同志(他人)に対して、えらく増上慢な人もネット上で見かけます(゜ロ゜;)
「さも賢げに同志を教訓する傲慢さ」と言いたいくらい。なんちゃって(>_<)

ちなみに、池田先生を尊敬できないとか、池田先生の偉大さを理解できないとか、池田先生の悪口を他の人に言うとか…
こういうのは「師敵対」ではなく、たんに池田先生に対して無知なだけなのかな?と、ふと思った自分でした。

* by 夕焼け.
みかんさん、こんばんわ。 (^^

そうですね。 先生の生身の人格と、その生きかたに触れてみないと解からないことがあるかもしれませんね。 でも、それを知る弟子がそれを受け継いで伝えていかなければいけませんね。

「 師敵対 」といっても、提婆達多や五千の上慢のように、根底にあるのは妬みや恨み、そして増上慢であるように思います。 また「 師敵対 」は「 獅子身中の虫 」の異名でありますから、必ず同志や弟子の中から出てまいります。

獅子身中の虫に、信心を食い破られないように、気をつけてまいりましょう。

* by みかん。
こんばんは。

お返事ありがとうございます。

増上慢、本当に怖い。
決して他人事じゃないっすけどね。
増上慢の極みみたいな、見てるとどんどん重暗ーくなって歓喜が失われていくようなブログがあって、バカだからちょっと気にして見ていたんすけど(「さも賢げに同志を教訓」が度を超して、寄ってたかって純粋な同志に対する非難と中傷の塊。…に、途中からなってしまったブログ。的な)、
もう見ない事にしてます(・∀・)

はい、色々、気をつけていきますm(_ _)m

お返事はいりません(・∀・)

2015-01-29(Thu)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 経王殿御返事 (P1124) 
『 経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき 』

【 通解 】 
『 経王御前には、禍も転じて、幸いとなるだろう。 心してご信心を奮い起こし、この御本尊に祈念しなさい。 いかなる事も成就しないわけがない 』

【 指導 】
* 大事なことは、「 まず祈る 」ことである。 祈った瞬間から回転が始まる。 闇が深ければ深いほど、暁は近い。 祈りきった瞬間から、胸中に太陽が昇る。 祈りこそが、希望の太陽である。 悩みを感じるごとに、祈り、打開し、境涯を開いていく。 これが日蓮仏法の「 煩悩即菩提 」の軌道である。
いわんや、リーダーとして、友のために悩む、広布のために悩む、人を救うために悩む ― それ自体が、偉大な責任感の表れであり、菩薩の振舞いである。 地涌の菩薩に打ち勝てない苦難など、あるわけがない。 ゆえに、何があろうと、高らかに妙法を唱えながら、一歩、また一歩と勝ち抜ていただきたい。 

< 御書とその心 >より


なにをおいても、御本尊の前に座り祈ることである。

久遠の記別を受けたその瞬間を忘れてはならない。 本有の使命があればこそ悩むのだから、悩みぬいて、祈りぬいて、行動するのだ。 その地平には、太陽が登り、元初の光が燦々と降りそそいで、何もかも包み込んでゆく。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-01-21(Wed)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 最蓮房御返事 (P1343) 
『 我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し 』

【 通解 】 
『 日蓮の出家・在家の門下となる人は、一歩も動くことなく、法華経の会座がもたれたインドの霊鷲山に行き、宇宙に元々ある仏の世界へ、毎日、昼夜に往復されることは、うれしいともなんとも言い尽くせない 』

【 指導 】
* 日蓮大聖人は、勤行・唱題によって、私どもは、毎日、いながらにして、大宇宙を旅行するような大境涯を得るという意味のことを、教えてくださっている。
御本尊を拝すれば、わが小宇宙の扉は、その場、その時に、大宇宙へと全開し、全宇宙を見おろすような悠々たる大幸福感を味わうことができる。 大充実感と、大歓喜、一切を掌に収めたような大確信を実感することができる。 宇宙に包まれていた小宇宙が、宇宙を包み返していく。

< 御書とその心 >より


わたし達が御本尊に勤行・唱題するときの姿が、御本尊には示されています。 御本尊には、二仏並座した釈迦と多宝の間に南無とあり、妙法蓮華経と続いております。
勤行・唱題するとき、そこが、本有の寂光土となり、虚空会の儀式そのままになっていく、ということであります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2015-01-06(Tue)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 新池御書 (P1443) 
『 南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり 』

【 通解 】 
『 南無妙法蓮華経と、他の事にとらわれることなく唱える人は、自然に三十二相・八十種好が備わり、法華経に「 我が如く等しくして異なること無からしめん 」と説かれるように、釈尊のような仏に、やすやすとなる 』

【 指導 】
* 法華経の従地涌出品には、地涌の菩薩に、仏と同じく「 三十二相 」ありと説かれる。 「 是の諸々の菩薩は、身は皆な金色にして三十二相・無量の光明あり 」と。 この経文には甚深の意義があると拝される。

いくら信心し、仏道修行しても、とうてい仏にはなれない、などと言う者があったとしたら、大聖人の門下ではないという文証である。 また、それは道理にも反する。 一切衆生を成仏させるために御本仏がご出現になり、あれほどの大難を忍んで御本尊を建立してくださったのである。 御本尊を拝して成仏できないとなったら、大聖人の法戦が無意味とさえなろう。 断じてそんなことはないはずである。

< 御書とその心 >より


仏という仏は皆、一切衆生を仏にするために出現されるのであります。 仏の誓願は「 如我等無異 」それ以外にはありません。 そうであるならば、わたしたちは仏になるために生まれてきているのではないでしょうか。
御本仏である日蓮大聖人は、そのために御本尊を遺してくださり、仏道修行として広宣流布という法戦を教えてくださっています。 あとは、わたしたちが、そのことを信じ、地涌の菩薩としての使命に目覚め、御本尊に唱題し抜いて、仏の道を歩んでゆけるどうかにかかっております。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2014-01-21(Tue)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 崇峻天皇御書(P1173) 
『 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、 』

【 通解 】 
『 罪が深いために、あなたが地獄に入られたなら、たとえ釈迦仏がわたしを仏に成らせようとしたとしても、わたしも同じく地獄に行こう 』

【 指導 】
* 本来、聖職者とは、人々と「 ともに苦しみ 」「 ともに生き 」「 ともに進む 」ものなのである。 これは仏法の精神でもある。 大乗仏教の菩薩は、人々が成仏するまでは自分の成仏を後回しにしても、人を救うことを誓う。 自分だけが仏であり、自分だけが偉いとし、皆を見くだすのは仏法の心に反する。 「 ともに苦しみ 」「 ともに喜ぶ 」――この「 和合 」のなかに仏法は脈動する。
SGIは、こうした日蓮大聖人の大慈大悲を仰ぎながら、仏法の根本精神のままに「 人間の連帯 」を広げてきた。 この一点だけ見ても、SGIこそ大聖人の仏法を正しく実践していることは明らかである。 ゆえに真の功徳もある。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人の、これほどまでの慈愛に、わたしは涙を禁じ得ません。 師がそうであるならば、弟子も同じであります。 広宣流布の征くてに地獄が待っていようとも、そして、なにがあろうとも師弟の契りに変わりはありません。 

日蓮大聖人のお心は、創価三代の会長の心であり、学会歌「 ああ黎明は近づけり 」に詠われた 「 君が憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う 」との一節は創価同志の永遠の精神であります。
Category : 御 書 Comment : (2) |

* by ちよ
おはようございます
「 ああ黎明は近づけり 」
私も大好きな学会歌です

* by 夕焼け.
ちよさん、こんばんわ。

かつては、会合のはじめと終わりは常に学会歌でした。
声をからして何曲も歌った日々が忘れられません。

それは、形式というよりも、意気に駆られて歌わずにはいられない、というものでした。 広布への情熱が歌と共にあったような気がいたします。

2014-01-02(Thu)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

SGI池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られています。


【 本文 】 撰時抄(P287) 
『 身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず 』

【 通解 】 
『 身は随えられているようであるが、心まで随えられはしない。 』

【 指導 】
* たとえ、やむなく束縛の身となったとしても、心までは絶対に従がわない。 これが、真実の自由の精神である。 人間の魂の強さである。

< 御書とその心 >より


真実の自由の精神と人間の魂の強さは、創価の精神の中にあります。 日蓮大聖人がそうであり、創価三代の会長がそうでありました。
人は耐え難い苦境に見舞われたとき、その境涯によっては 不自由と弱さだけが身につまされ、ひどいときは、心が不幸という鎖に縛り付けられてしまいます。 いわゆる、地獄の境涯であります。 その反対に、真の自由と魂の強さは、仏の生命の特質の一つであり、どのような状況にも、その輝きを失わせることはありません。

この2つがあれば、人生にどのようなことがあろうとも、崩れざる生き方を可能とし、人生を楽しむことができるでしょう。 その源泉は、御本尊への唱題にあり、一人一人を励まし、妙法を語り抜いていくところに生まれます。 
Category : 御 書 Comment : (0) |
2013-12-17(Tue)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 乙御前御消息 ( 1221P ) 
『 いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり、 』

【 通解 】 
『 いよいよ強盛な信心を起こしていきなさい。 氷は水からからできるが、水よりも冷たい。 青い色は、藍という草から生まれるが、重ねて染めれば、藍よりも色が鮮やかになる。 同じ法華経ではあっても、信心を重ねていくならば、他人よりも生命の輝きが増し、利益もあらわれてくるのである。 』

【 指導 】
* 「 強盛な信心 」があるかないか、功徳も幸福も、一切がそれで決まるのだ、との仰せである。 「 同じ法華経 」― 同じ御本尊であっても、問題はこちらの「 信心 」がどうかである。 「 妙法の信心 」に功徳が備わっているのである。 「 信心 」がなければ何の功徳もない。 

< 御書とその心 >より


” 何の功徳もない ”とは、まことに厳しき因果であります。 
しかし、それは、自分の努力で決めていくという、ごくあたりまえのことであり、道理です。 信心という努力は、あくまでも自分がしていかなければなりません。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2013-11-26(Tue)
今月の18日、創価学会創立の日に、「 Soka Gakkai Nichiren Buddhism Library 」という日蓮仏法の根本となる経典をはじめとして、仏教関係資料を収めた外国語のウェブサイトが開設されました。 今回は英語サイトですが、順次、諸言語のサイトを開設していく予定だそうです。

日蓮仏法ライブラリー 

・ Soka Gakkai Nichiren Buddhism Library

今回、英語サイトで閲覧できるのは、英訳の「 日蓮大聖人御書 」、「 法華経 」、「 御義口伝 」、「 仏教辞典 」となっています。
Googleのツールバーにある翻訳機能を使うと、日本語でも見ることができます。 少し違和感のある日本語かもしれませんが、皆さんも覗いてみてはいかがでしょうか。

世界129ヵ国地域に広がった創価の連帯は、世界広宣流布の新たな地平を目指して勇躍前進を始めました。 虚空会の会座に連なった生きとし生けるものの数ほどに、一堂に南無妙法蓮華経と唱える時代が必ずやってまいります。 諸言語のサイトの開設は、ささやかな第一歩ではありますが、そのための重要な一歩となるに違いありません。 関係者の方々の、なみなみならぬ努力に、感謝と喝采を送らせていただきたいと思います。
Category : 御 書 Comment : (0) |
2013-10-08(Tue)
この御書は、弘安2年(1279年)9月に身延において、寂日房を介してある門下にしたためられた、日蓮大聖人58歳の時の御手紙です。

この年の9月21日には、滝泉寺院主大行地の陰謀による「 熱原の法難 」が起こり、翌月の10月12日に出生の本懐である大御本尊を日蓮大聖人は顕されております。


【 要 文 】

『 夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。 』

『 日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし、 』

『 父母となり其の子となるも必ず宿習なり、 』

『 一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。 』 

『 日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「 日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す 」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、 』

『 今の経文の次下に説いて云く「 我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん 」と云云、かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、 』

『 同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ、獄卒・だつえば懸衣翁が三途河のはたにて・いしやうをはがん時を思食して法華経の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「 裸者の衣を得たるが如し 」云云。 』

『  此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをやあるべしや、釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、 』
Category : 御 書 Comment : (0) |
2013-09-02(Mon)
blog_import_523d711e2f49a.jpg

池田会長は折々の会合で御書を繙き、次のように語られております。


【 本文 】 一生成仏抄 ( 383P ) 
『 都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、 』

【 通解 】 
『 釈尊一代の八万聖教も、三世十方の諸仏菩薩もすべて、我が心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。 それゆえ、、仏教を学ぶといっても、みずからの心の本性を観じなければ、まったく生死の苦しみから離れることはできないのである。 もし、我が心の外に道を求めて万行万善を修めようとするならば、たとえば貧しさに窮している人が、日夜にわたって隣の人の財産を数えたとしても、半銭の得分もないようなものである。
そうであるから、天台の釈の中には、「 もし、心を観ずることがなければ、重罪を滅することは出来ない。 」 とあり、「 もし、心を観ずることがなければ、無量の苦行となってしまう。 」 と、天台は判じているのです 。 』

【 指導 】
* 多くの宗教は、この人間の心から離れた、どこか別のところに、すばらしい絶対者が存在すると説く。 そして、「 人間 」 と、その 「 心 」 を、そうした絶対的な権威に服従し、すがるべきものとして低め、卑しんでいる。 日蓮大聖人の仏法はそうではない。 すべては、わが心にあり、「 仏 」 もわが心中にあると説かれる。 その教えどうり、胸中に、限りなく広々と光輝満つる大境涯を開きゆくための、日々御本尊根本の仏道修行なのである。
大切なのは自分自身である。 この自分という原点を見失い、自分の尊厳を忘れ、何かに隷属していくような弱々しい卑屈な生き方では、全てが『 無量の苦行 』 となってしまう。

< 御書とその心 >より


日蓮大聖人の仏法ほど、仏と我らは同じであると、徹底した平等観に立つ教えはありません。 世界中を探してもどこにもありません。 自分自身が、かけがいのない存在であり、無限の可能性を秘めていることに気がつくかどうか、そして、それを開き、倶し、蘇生させてゆくことができるか、人間革命とはその実践のことをいっております。
主体的な自我の確立と他者への尊厳は、相乗的に増してゆくものなのです。 逆に自分を卑しめ、権威に服従する人ほど、上慢の虜になり、他者への尊厳を失ってゆきます。 ようするに、他人のお金を数えて、金持ちになったと勘違いすることと同じです。
外に求めても、永遠に得ることはできません。 仏法は因果応報(無量の苦行)ではなく因果倶時(境智冥合)であり、「 どこかに 」、「 だれから 」 ではなく、自らに仏の根源の泉があることを知るべきであり、それを開くための実践をすることが、仏法を学ぶ者の正しき道ではないでしょうか。

信心も、「 やらされる 」 よりも 「 やる 」 ほうが功徳も大きいのであります。
Category : 御 書 Comment : (0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。