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2015-01-12(Mon)
一ノ倉沢
( 写真:谷川岳一ノ倉沢 )

今日は成人の日の祝日です。

最近は地元で成人式が迎えられるようにと、日にちを変えて休日と継ないでいますが、なかなかいいアイデアだと思います。 やはり故郷で幼なじみと一緒に迎える成人式は、いいものだと思います。

というわたしは、故郷を持たない東京人ですから、ほんとうのところは判りません。

二十歳といえば、もう43年前のことで記憶も薄れていますが、たしか、わたしは成人式には参加していません。 当時は、公会堂で成人式が執り行われ、区長が祝辞を述べ、成人の代表が決意を披露するというだけの、つまらないものでしたから、参加していないはずです。

かわりに、その夏、中学の同級生と谷川岳に登り、成人を祝っています。 とはいっても、山岳部の彼らについていくことなど、わたしには出来るはずもありませんから、途中まで登って、垂直の壁のところで諦めました。 そんなわたしを見て、彼らはおもしろがっていたにちがいありませんが、そんなことは承知で、わたしも、それを楽しんでいました。
その前日の夜、初めて30キロのリュックを背負い、土合の駅からキャンプ地まで、暗闇の中、山道を長いこと歩いたのを覚えています。 着くころには小雨が降り始め、キャンプ地を川の中州から少し高台に移して野営しましたが、わたしは雨音と川の徐々に増してくる流れの音で、なかなか寝付くことができないでいました。 それでも疲れが勝ったのか意識がなくなり、目が覚めてみれば雨もやんでいて、テントから出てみると辺り一面が朝の光に包まれおり、靄(もや)の漂う木立の様子を目にしたときは驚きでした。 キャンプ地に来るまでや、テントを張っているときは真っ暗闇で、ヘッドライトの明かりだけでしたから、まるで別世界のように感じたのです。
朝食を準備し、温かいコーヒーを飲んで、すぐテントを出発。 途中で谷川岳の雪解け水の流れに口をつけ、直接飲んだときの味は忘れられません。 最高でした。

昔話は長くなるので、この辺でやめておきますが。

ようするに、成人の皆さん、
おめでとう! (^^
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2014-12-25(Thu)
今日はクリスマス、キリストの降誕祭。
とはいっても、この日に誕生したわけではなく、聖夜の当時を偲びながら、神に感謝を捧げようという日であります。

そこで、今日は神について、少し考えてみたいと思います。

神という概念は、おおざっぱに分けて二つあるようです。
一つは、宇宙の働きに潜むものとしての神、そしてもう一つは、宇宙を主(つかさどる)ものとしての神であります。 前者は多様な神を生みだし、後者は唯一絶対の神を生んでおります。 同じ神と呼ばれていても、おおきな違いがあり、原始や文明の萌芽期には前者が主流となり、文明の黎明期や発展期には後者が主流となってきました。

キリスト教の神というと、それは天地創造の神のことであり、宇宙だけでなく、人間を始め、ありとあらゆる生きものを作った全知全能の神のことであります。 その神は目で見ることはできませんが、預言者によりその意思が伝えられ、意思を持つ人格神として捉えられております。 神は唯一絶対であるがゆえに、その預言者も絶対の存在となり、権威化されやすい性質を持っておりますが、兄弟の宗教といわれるイスラム教にもっとも顕著にあらわれています。 新約聖書にあるイエス(神の子)の言葉には、旧約聖書にはない、信仰者に寄り添う神の意思(福音)を感じますが、キリスト教の歴史ははたしてイエスが望んだようなものになったのでしょうか。

仏教では、神をどう捉えているかと言えば、先に挙げた前者の神になります。 ただ、宇宙の法に当てはめ位置づけた神々であり、神ではあっても、けっして信仰の対象とはいたしません。 色界の主であり宇宙の創造神である梵天は、仏法の守護者として語られています。 やはり、神は見えない存在でありますが、預言者を必要とはしていません。
最近では、日顕宗にみられるように御本仏を絶対神のように扱い、貫主を預言者や聖霊にあてはめて、信徒を従わせようとする動きもありますが、それは仏教をカトリック化するような企みであり、けっして許されることではありません。

神は宇宙の法の守護者であり、宇宙の森羅万象の匠であります。
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2014-04-18(Fri)
日蓮大聖人には本弟子6人がおりましたが、日興上人以外は三大秘法を理解できなかったようであります。 そのために、本仏に迷い本尊に迷って謗法の輩となり、末代の寺は魔の巣窟となりはてております。

日興上人においても、本6、新6と言われた人たちがいましたが、正しく受け継いでいく人は僅かでありました。
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2012-08-15(Wed)
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(写真:Fotopedia CC NASA Blue Marble

今日は終戦記念日。

周辺の国々は70年前の悪夢を忘れようとしません。
これは、とてもありがたいことです。
日本人は忘れかけていますが、
加害者であったことをけっして忘れていけません。

竹島や尖閣諸島や北方領土の問題がにぎやかになっていますが、非が相手にあったとしても、日本が心から過去を反省し、謝り、近隣諸国から尊敬されるようにならなければ解決することはありません。 領土獲得で武力行使する愚かしさ、人間として恥かしい行為であることを、わたしたち日本人は知っているはずです。 いつまでも ” 領土的競争 ” や ” 経済的競争 ” に囚われていてはいけません。 人間の皮を被った鬼や畜生のすることです。 このことに相手が気付けば、申し訳ないことをしたと言ってくる日が必ずきます。 そう言ってくるようにさせるのが日本の取るべき道ではないでしょうか。
個人的な意見で言えば、竹島や尖閣諸島や北方領土は一方的に日本が領土放棄を宣言するべきであると思っています。 そのときに ” 武力や実力行使による領土的競争や経済的競争は、人類の恥であり、戦争を招く愚かしい行為である。 日本人はそのようなことは永遠にしない、したくない。 ” と宣言するのです。

創価の思想は地球民族主義ですから地球が領土です。 どの国の領土も、わが天地です。 妙法広布の天地であります。 世界の人々は、銀河の奇跡ともいえるこの地球の同胞ではないですか。 このことに気がついてほしいものです。

広宣流布とは、この思想を広める運動の異名だと、わたしは思っています。
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No title * by 大河
いつも読ませていただいております。

>非が相手にあったとしても、日本が心から過去を反省し、謝り、近隣諸国から尊敬されるようにならなければ解決することはありません。

池田先生から教えていただきました。
全くその通りだと思います。
ただ、残念ながら、池田先生を師匠と求めている
創価学会員でも、このようなケースだと、
まだまだ、なかなか、現在の事象だけで
あっちが悪い云々になりがちですね。

No title * by 夕焼け
大河さん こんばんは。

そうですね。
今回の問題は、理で考えれば、腹が立つと思います。

今回の問題の、わたしの意見は、ひとつの考え方です。
わたしは、江戸や明治の時期に手にした領土が無くなっても、武力衝突は避けなければいけないという価値観です。 負けるが勝ちとゆうこともあります。 相手が正しければ、日本は正しいことをしたことになります。 相手が不正をしたのなら、相手は日本に借りを作ることになります。 それで万代の友好ができるなら、それでいいとわたしは考えています。 創価の運動が進んで、今の国同士が、日本の都道府県のような関係になれば、どっちのものでも同じです。 そうゆう時代が必ずくると信じています。

No title * by 夕焼け
追記

それにしても、日本は国として、心から反省し、謝罪していません。 周辺国は、それを敏感に感じとっているのです。 恩ある国々だからこそ、その罪は深いといえます。

No title * by パタリロ
地球民族主義に基づくと、北方領土、尖閣諸島や竹島の日本領有を放棄することなのでしょうか?
確かに領土を主張することで隣国との摩擦は大きくなり大きな争いとなることは避けられない気配です。
しかし、今の脆弱な日本が生き延びるには、「負けるが勝ち」をとるしかないのでしょうか?
そもそも、地球民族主義とかグローバリゼーションは日本の国益を損じて世界に帰属することになるのでしょうか....。
きれいごとでは済まされぬドロドロした利害に足を取られ抜き差しならぬ状態に陥っています。
国家崩壊の無残を日本が負うことが正しい道なのですか?

No title * by 夕焼け
パタリロ さん こんばんわ。

> 地球民族主義に基づくと、北方領土、尖閣諸島や竹島の日本領有を放棄することなのでしょうか?

そうです。 世界中の国が国として領土を放棄することが必要です。 それは、国が国でなく、一つの地域・自治となることを意味します。 誰でも、どこにでも、居住し、生活することが保障されるようになります。 わたしたちが、故郷をどこにでも持てるようにならなければ、地球民族主義とはいえないでしょう。 すぐには無理ですが、そうなってゆきます。

>確かに領土を主張することで隣国との摩擦は大きくなり大きな争いとなることは避けられない気配です。 しかし、今の脆弱な日本が生き延びるには、「負けるが勝ち」をとるしかないのでしょうか?

正しいことは、相手が反発しても、声にして訴えなければいけません。 しかし、相手を痛めつけるのが目的ではないはずです。 領土で話し合うのはいいですが、喧嘩はナンセンスです。 領土の喧嘩は、実力行使、武力衝突、戦争へと突き進んでいきます。 人もすまない領土で多くの人が殺され、傷ついていくのは、馬鹿げています。 今の状況は喧嘩です。 相手が殴れば、殴り返さないでどうするのか、といきりたっているようなものです。 経済的な国益のほうが人命の国益よりも優先するのでは、第二次世界大戦前の日本とちっとも変わりません。 ” 金銭は糞土の如し ” とゆうわたしの価値観と相容れないものです。 ましてやプライド、自尊心、メンツなどクソくらえです。 戦争だけはしてはいけない。

>きれいごとでは済まされぬドロドロした利害に足を取られ抜き差しならぬ状態に陥っています。 国家崩壊の無残を日本が負うことが正しい道なのですか?

気持ちはわかりますが、それは戦前の軍の青年将校のセリフと同じです。
冷静に賢く対処するのが、日本のとる道だと思います。

2012-08-06(Mon)
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(写真:フォト蔵 CC ぱんじー 原爆死没者慰霊碑


また、今日がきました。
わたしに出来ることは、祈ることと不戦の誓いに生きることしかできません。 

戦争は、いかなる理由があろうとも、起こしてならないものです。 銃を向けられても服従はしない。  意のままにはならない。 意のままにはさせない。 その心と行動が銃に勝つことができるのです。 命は奪われても、永遠の生命を奪うことはできません。 戦うのは銃を持つ相手ではなく、自分と戦うことが不戦の誓いには必要となります。 悲惨と悲しみを作り、悲惨と悲しみを味わう戦争は、人の心から生まれてくるのです。 欲望とエゴイズムが、相手を否定する心が、自己防衛という名のもとで、そうさせるのです。 

わたしは、そのような心を転換し、一人一人が仏の心を灯し、相手の幸福を願っていく創価の運動こそが、平和を築くのに、遠い道のように思えても一番の近道だと思うのです。
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2012-05-13(Sun)
サックスと言うのは略称であります。 ちゃんと言うとサクスフォーンであります。 ジャズにはなくてはならない楽器でありますが、クラッシックはもちろんポピュラーでもよく使われています。 ソロの演奏で多く使われているのがアルトサックスとテナーサックスです。 ソプラノサックスも使われますが、真直ぐ伸びた形なので、サックスという感じがしません。

今日は、アルトサックスで、 ” 我が心のジョージア ” という情感溢れる曲を紹介いたします。 ジョージアの州都アトランタは、映画 「 風と共に去りぬ 」 の舞台となったところです。

この曲を、母の日にちなんで、世界中のお母さんと、今はいない我が母に捧げたいと思います。
今が、どんなに恵まれて、幸せになったと言われても、なに不自由なく豊かな生活だと感じていても、わたしの心には、母と過ごした、貧しく、苦労の絶えなかった日々の一つ一つが、母の優しい微笑みと、真剣な眼差しとともに輝いています。 母を想うと、暖炉の前でくつろぎ、ソファで寝息をたてている様な、心地よい想いが心を満たします。 そして感謝の念が沸き起こります。

あなたがいればこそ、今のわたしがあります。 ありがとう。 
ほんとうに、ありがとうございます。

・ Georgia On My Mind

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2011-12-26(Mon)
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(日蓮正宗問題研究HP 昭和61年東京赤坂)


わたしの宗門の問題に対する見解を、すこし語っておきたいのですが、今の公式な創価の態度とはちょっと違うかもしれません。
というか、ほとんど同じだと思うのですが、わたしの心情の部分をそのまま語るので、違うように見えるかもしれません。

今から20年前に起きた事柄なので、ごくごく簡単に説明しますと、平成3年11月7日に、創価学会解散勧告書が日蓮正宗より出されました。 独立した宗教法人である創価学会はそれに従わなかったために、同じ年の11月28日には日蓮正宗より破門の通告が出されたのであります。
この背景には、宗門僧侶の僧にあるまじき姿や遊興に業を煮やしていた創価学会と、広宣流布の実質的な主導権を創価学会に奪われて、供養だけを貰い、影の存在でしかないことに、自尊心が傷ついていた宗門があります。 創価学会が発展し、信者数も過去に無いほどの規模になっていましたが、広宣流布の主役は創価学会にあり、宗門は御受戒(入信の儀式)と御本尊授与と御開扉(戒壇の御本尊にお目通り)と葬儀以外には創価学会員に直接に関与する機会もなく、わずかな寺信徒である法華講を預かるだけでした。 創価学会の寄進で全国に寺も増え、総本山の整備も進み将来は本門の戒壇となる正本堂も完成するなど、広宣流布の歴史の中で宗門はひとりポツンと取り残されたような状況でした。

やがて創価学会と宗門の間には軋轢が表面化して、昭和52年の第一次宗門問題が起きます。 このときには、信徒という立場もあり、会員を苦しめたくないとの配慮から、創価学会が宗門に折れて従い、池田会長は辞任したうえ創価学会の会合への出席禁止や、聖教新聞での池田会長の報道を禁止するなどの宗門の幽閉処置を飲むことになりました。 しかしその後に、依然として池田会長の存在は大きく、学会員の信望と尊敬が集まり、実質的な幽閉がついには出来きませんでした。 そこでこんどは ” C(CUT)作戦 ” なるものを謀議して、創価学会の解体を画策しはじめ、創価学会の会員を自分達の支配下におこうと目論んでいたのです。 一方で創価学会は、一段と高圧的な信徒差別の態度を見せる宗門に、厳しい目を向け、権威的で横柄な人間性に辟易し、日蓮大聖人の心を失っていく宗門に、危惧を抱くようになっていました。  
そして大石寺開創700年記念法要が終わった後に宗門は動き出します。 平成2年12月16日の「お尋ね」文書をかわきりに 創価学会の教義逸脱、僧侶批判、宗門支配の画策、社会的逸脱等々の理由を挙げ、突然と刃を向けてきたのでした。 根本的には昭和52年のときと同じように一部会員の逸脱をとりあげ、池田名誉会長の言葉尻を捕まえ、幹部の発言をことさら問題化して、ヤクザのいいがかりのような論理で池田名誉会長を責め始めました。 創価学会は直接の話し合いを何度も求めましたが、宗門はそれを拒否し、最初から破門ありきという行動に出て、総講頭罷免や登山停止などを矢継ぎ早に行い、ついには、解散勧告、破門へと突き進んでいったのでした。 この間の双方のやりとり、対応のなかで修復しがたい対立が生まれ、宗門は一方的に創価学会を破門しました。 

この問題を譬えてみると、
『 外面は亭主気取りでいながら、働かずにブラブラと遊びふけ、ヒモのような存在となっていた男が、かいがいしく家計を支え、男に尽くし、子供の面倒をみている女を、近所や周囲での評判を耳にして、それがかえって恨めしく思えるようになり、女に小言を言われたのをきっかけにして、逆切れし、妻にあるまじき態度だと、ささいな振舞いや言動をあげつらい、浮気してるとか、亭主を馬鹿にしていると責め、女がよく話しましょうと言っても聞き入れず、最後には悪態をつきながら、女に建ててもらった家から、子供と一緒に女を追い出してしまいます。 さらに、追い出した後も、いずれ子供に養ってもらおうとする下心から、女の悪口を盛んに子供や世間に吹聴して、子供をなんとか奪おうとしている。 』 
と、いった感じでしょうか。 (笑) 

わたしが見るこの問題の根本原因は、宗門が日蓮大聖人の大事な遺命を忘れ、僧としての少欲知足を失い、自行化他の信心を無くし、権威と富に溺れ修羅の命に染まってゆき、魔に心を食い破られたことにあると思っています。 なぜ、食い破られたのでしょうか。 それは、宗門自らが日蓮大聖人の信心の血脈を絶っていたからです。  昭和18年に起きた、治安維持法による創価学会(当時は創価教育学会)幹部と日蓮正宗の僧侶であった藤本蓮城師の、不敬罪での逮捕を知って、宗門はただちに登山停止・信徒除名・僧籍剥奪を行いました。 さらにそれ以前には、神本仏迹の軍部の圧力に屈服し、神札の授受、御書の重要な御文の削除、御観念文を神道風に変えるなど、日蓮大聖人の血脈を否定する行為に出ていたのであります。 これでは、日蓮大聖人の信心の血脈は、弾圧を受けながらも、信心を貫き通して獄死した初代牧口会長、そして生き残った戸田第二代会長に流れていくしかなかったのです。 宗門にも獄死した藤本蓮城師のような方も居られたのですが、僧籍剥奪という死刑にも等しい行為で報いるとは、蓮祖上人のお怒りはいかほどであったか、計り知れないものがあります。 宗門はこのとき、自ら信心の血脈を捨て去ってしまっていたのです。 それから、48年後。 今度は僣聖増上慢となって、魔性の牙を剥いたのでした。 日蓮大聖人は、信心の血脈が無ければ功徳は無いと仰り、また、その身に魔が寄り添うと警告しておられますが、まさに御書のとおりであります。

信心とゆうものは、広宣流布を忘れ、自行化他をしなくなれば、腐っていくということであります。 ” 日蓮大聖人の如く ” が、信心するものの規範であり、原点であることを、心に刻まなければなりません。
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No title * by 菊川広幸
力作ですね。感動しました。
言論というのは、かくあるべきですね。

No title * by 夕焼け
菊川さん おはようございます。

恐縮です。(ーー;
宗門の問題は複雑で、色々と触れておきたいことがあります。
山崎・原島の暗躍、創価の発迹顕本、宗門の未来など、
いずれ記事にしたいと思います。

2011-08-09(Tue)
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(写真:PD U.S.A)


今日は、広島に続いて長崎に原爆が投下された日です。
昭和20年8月9日午前11時2分、忘れられない日です。
犠牲者の霊に、深く強く、追善の題目を捧げます。
 
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。

この日、わたしの叔母が被爆しています。 当時、佐世保にいましたが、すぐに市内に入り、その惨劇をまのあたりにして、心に深い傷を負いました。 核兵器は無差別な虐殺の兵器であります。 それを使う者は悪魔であり、魔物あるという思想を世界中に浸透させたい。 原爆・核兵器・大量破壊兵器と言われるが、これからは、 ” 悪魔が使う兵器 ” と呼んでください。
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2011-08-06(Sat)
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(写真:PD U.S.A)


今日は、広島に原爆が投下された日。 
昭和20年8月6日午前8時15分、人類が悪魔の兵器を使った日であります。
犠牲者の霊に、深く強く、追善の題目を捧げます。
 
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。
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2011-07-11(Mon)
隕石の落下を捉えた映像です。
こんなに、明るく光るとは知りませんでした。

日蓮大聖人が平左衛門尉頼綱らの陰謀で、竜の口で斬首されようとしたとき、光物が現れ、ついに切ることが出来なかった、というのは現実だったということが解ります。


↑ 警察車両のカメラから

・ 防犯カメラから (注意: 眩しいです。)
  http://www.youtube.com/watch?v=hJFejgd9bSE&feature=related
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No title * by 菊川広幸
おお!
スゴイ映像ですネ!(^^)
まさに、竜の口の瞬間は、このようなことだったのでしょう。
ご紹介、ありがとうございました。^^
★菊川広幸

No title * by 夕焼け 
菊川さん、おはようございます。
日本ではほとんど見れません、ふつうの流星とは迫力がダントツで違いますね。


2011-07-02(Sat)
明日7月3日はわたしの母の命日です。
 
死んだ母の傍で。 一晩中唱題して過ごした朝、
庭に季節はずれの水仙が咲いてとても綺麗でした。
頬を薄っすらと紅く染め、生きて眠っているかのような顔が忘れられません。

ほんとうに、信心健気な母でした。
家族のために尽くした母でした。
そんな母に捧げます。

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(photo by miya)

・ 母よ
                    作詞:岩谷時子
                    作曲:弾  厚作

幸せは ここにあるが
あなたは ここにはいない

心のどこかで いつも
ぼくを支えた あなたよ

この世にある日は いつも
ほほえみと 愛を与え

涙にぬれた 月日を
置いて行った 母よ

あなたの愛 今花咲く
枝から 枝へと

母よ 長い闇の道
黙って歩いた 妻と

幼児(おさなご)に かこまれた
ぼくが 見えますか

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