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2015-07-07(Tue)
真言密教では、大日如来が色究竟天法界宮において「 大日経 」を、金剛宮において「 金剛頂経 」をそれぞれ説いたとしていますが、色究竟天というのは、三界(欲界・色界・無色界)の中の色界の頂にあり、大自在天(摩醯首羅)の住処であります。 大日如来は法身だと言っていて、色界で説法するのもおかしなことですが、大日経疏には「 此宮は是れ古仏菩提を成ぜし処、所謂摩醯首羅天宮 」と書かれています。 報身と法身の混乱があるようであります。

この大自在天というのはヒンズー教の主神であるブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァのうち、シヴァ神のことだとされています。 このシヴァ神は破壊を司る神です。 ヒンズー教で、釈迦如来をヴィシュヌ神の化身として位置づけていることを思い合わせると、真言密教で言う大日如来というのは、大自在天のことで、シヴァ神を崇める六師外道(バラモン)の流れを汲む者が、仏教に擬態してきたことを暗示しています。 御書に『 大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし 』とありますが、真言宗はまさにそのとうりであります。
三界の主であり、師であり、親は、三身即一の釈迦如来ですから、普賢経に明らかな如く、本来の大日如来は釈迦の分身仏であり、長広舌を大梵天に乗せ、法華経は真実なりと証明した十方の諸仏の一人なのであります。 大慢婆羅門には、大日如来が爾前権経の他受用身であり、報身に二義二身あることすら弁えることもできず、ましてや、法華経の自受用身や法身など想像すら及ばないことであります。

真言密教がいうところの真言(漫祖羅)といっても仏の真言(陀羅尼)ではなく、また、たとえ仏の真言を用いていても爾前権経の真言であり、その本質は擬態した外道(バラモン)の神呪に過ぎず、外道(バラモン)の三密(身口意)から離れるものではありません。 シヴァ神が破壊の神といわれるように、真言密教は仏法を破壊しようとしているのが、その真の姿であります。 さらに欲界の主・他化自在天(第六天の魔王)が身に入って、法華経を誹謗する空海によって立てられたのが真言宗であります。 これに従がうならば、即身成仏どころか堕地獄は疑いようがなく、それは仏の金言(法華経)による定めであります。


※ 2015/07/11改訂
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2015-07-02(Thu)
真言宗の枉惑について、いくつか記事にしてきました。 また、浄土宗や禅宗も取り上げてきました。
そのなかで、とても強く感じるのは、3つの宗派が釈迦の説いた教えを、自分勝手に判じて、自分勝手な考えに創り上げていることです。 その証拠に、それぞれの主張の根拠となるような、釈迦の言葉がみあたらないことです。 各宗派を自認する人は、経典にある釈迦の言葉を捜して確かめるべきであります。 果たして宗祖が主張するような釈迦の言葉があるのでしょうか。 無いとなれば、各宗派は仏教だと主張しても、それでは、とても仏教とはいえません。 使う言葉は仏教用語でも、内実は仏教(内道)ではなく人教(外道)というべきです。 しかも、己義をかまえる論・釈というだけならまだしも、宗とかまえて、釈迦の肝心要の教えを否定するならば、人教(外道)ですらなく魔教(地獄道)の領域にあるといえるでしょう。

昔から、四個の格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)は知っていましたが、その破折の理由までは知りませんでした。 正直なところ、あまり興味を持たなかったので、詳細な内容まで踏み込んでいませんでした。 しかし、文部科学省が発行する宗教年鑑を調べる機会があり、3つの宗派の寺院数や信者数が、とても多いことに驚かされ、このままにしてはおけないと思ったのです。 信者数は登録宗派全体で日本の人口をゆうに越えますから、数字そのものは信頼できないかもしれませんが、創価学会など足元にもおよばないほどの寺院数と信者数です。 大聖人の時代と同じような状況では、ふたたび日本は、破国の道を歩んでゆくでしょう。
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2015-06-18(Thu)
法華経が漢訳されたのは3世紀ごろからで、部分訳のものまで入れると多数あったとされています。 そのなかでも鳩摩羅什の訳した「 妙法蓮華経 」が最も有名であり、日本では広く知られています。 この鳩摩羅什訳の法華経は69384文字で書かれているといわれています。

釈迦は、8年間にわたり法華経を説いたとされていますが、8年間というのは2920日でありますから、釈迦は1日に約24文字の法華経を説いたことになります。 しかしこの文字数では、説いたというよりは、つぶやいたと言ったほうがよいかもしれません。 実際にはありえないような言葉数です。 しかも、法華経では、釈迦の偈が同じことの繰り返しになっていることを考慮にいれれば、もっと少ないことになります。

このことから考えると、8年間の実際の釈迦の説法は、もっと詳しく、様々に語られ、漢訳にはない内容が含まれていたと捉えるのが自然であります。 長い間、陀羅尼の形で、記憶によって伝承されてきたことを考慮に入れても、法華経の内容は、もっとたくさんあったはずであります。 そのことについて、日蓮大聖人は『 法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども流沙・葱嶺等の険難・五万八千里・十万里の路次容易ならざる間・枝葉をば之を略せり 』と仰っています。 

現在、法華経研究のために東洋哲学研究所と創価学会が協賛して、世界で保管されているサンスクリット法華経写本の写真版やローマ字表記坂の出版を進めていますが、それらの写本はインドで発見されたものではなく、また、漢訳された年代よりもさらに後の6世紀から12世紀に記されたとされる写本ですから、それを原典とするには問題が残ります。 インドにあったサンスクリット原典の法華経を発見するのはとても難しいことでしょうが、どこかに眠っているのかもしれません。 そうあってほしいものです。 そして、世界広宣流布の進展と共に、インドでの研究と調査が、インド人の手で本格的に行われていくことに期待したいと思います。

しかし、法華経の真髄というものは、日蓮大聖人によって御本尊として示されております。 言葉は変遷していても、日蓮大聖人の法華経によって、その秘蔵の蔵がすでに開かれているのです。 御本尊の考察を進めてきて強く思うのは、御本尊が日蓮大聖人の法華経であるということです。 


※ 2015/06/19改訂
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2015-06-11(Thu)
最近、真言宗の記事を何度か掲載してきましたが、まだまだ書きたいことがあります。 これからも継続してゆきたいと思っていますが、掲載は、しばらく間を置かせていただきます。
真言宗が終われば、その後の構想として、釈迦一代の聖教から釈迦の金言をそのまま拾い上げ、小乗経をはじめ大乗権経を依経とする謗法の宗の、師敵対を明確にしてゆきたいと思っています。

謗法というのは、法華経を誹謗する事をいっており、これが不幸の根本原因であり元凶であります。 そして、日本の仏教宗派のほとんどがこの元凶を宗旨に入れており、これほど恐ろしいことはありません。 これを厳しく責めなくして、霊山で、大聖人のお叱りを免れることは、できないにちがいありません。
このブログを始めた主旨の一つはここにあり、そのために御書を学んで、資料を調べてまいりましたが、釈迦の経々に明確に説かれている内容に驚きました。 仏教を学んでいて、この金言が見えないというのは、どうゆうことか、目が見えないのか、心が邪魔をしているのか、はたまた、魔の所為なのか、不思議というほかありません。

今一度、このことを明確に示しておきたいと思います。

現代においては、法華経を行じる創価を誹謗し、貶す輩は、掃いて捨てるほどおります。 その姿は釈迦の予言どうりであり、その言辞は偏狭で、悪意に満ちており、能奪命者と呼ばれるにふさわしいものがあります。 それは、創価が地涌の菩薩の僧団であるが故であり、御本尊を信じられない、御本尊が解からないという難信難解の法だからであります。 わたしは、それを少しでも信じ、解かることができるように、このブログで明確に語っておきたいと思います。
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2015-06-04(Thu)
釈迦は法華経で、法華経を説く以前の経々では真実を説いていないと宣言し、久遠実成と二乗作仏を初めて説いています。 そして、法華経は今までの、そして、これから説くであろう教えのなかで最上の教えであると、出生の本懐を明かしています。 つまり、釈迦の説いた八万宝蔵総ての中で最高に優れた教えが法華経であるということであります。 その法華経とそれを説く者を蔑み誹謗すれば、無間地獄の業因をつくることになる、と釈迦は定めております。

真言密教では、釈迦は大日如来の応身仏であるとしていましたが、空海の真言宗になると、釈迦は大日如来の家来で、大日如来が皇帝とするならば、草履取りにも等しいと言うようになり、釈迦は大日如来の教えを受けて、顕教である法華経をはじめとして八万宝蔵を説いたのであり、密教である大日経は大日如来が直接説いた教えであるから、そのような教判にはあってはまらない、と禅宗のようなことを言い出しています。 しかし、法身仏である大日如来に、説くような口と身があるわけでもなく、ましてや手があって経を書くことなどできません。
このように、真言密教・真言宗は三身各別であり、そこには三身の混濁がみられ、三身即一身・一身即三身であることを知りません。 知らないでいて、諸法実相と一念三千が大日経には説かれているというのですから、あきれるばかりです。 そのようなことだから、一念三千を盗んだと言われるのです。

大日経は、唐の高僧たちによると方等部に分類されると判定されていました。 つまり、大日経は爾前権経であり、法華経と比べるとまったく劣った教えであります。 それに執着し、己義をはり、釈迦を蔑み、仏教に擬態してきたのが真言密教・真言宗であります。 その実態は加持祈祷のシャーマニズムを出るものではありません。 許しがたいことに、大日経第一、華厳経第二、そして法華経第三と誹謗し、天と地をひっくり返すような地獄の業因を宗旨に入れて、民衆を騙し即身成仏の薬だと言って飲ませているのです。 ” 護摩の灰 ”と称し、万病に効くと旅人に強引に売りつけていた者のことを” 胡麻の蝿 ”といいますが、あながち空海の錬金術であったのかもしれません。
このような無間地獄の業因を持った真言宗に、国の安泰を祈祷してもらっても、安穏どころか、国亡ぶのが道理であります。

大日経は梵語の経典から漢訳したものは「 大毘盧遮那成仏神変加持経 」 略して「 大毘盧遮那経 」といいます。  また、漢訳本をチベット語訳した経典では「 大毘盧遮那成仏神変加持方等経の帝釈天と名付くる法門 」とあるそうであります。 このように、もとの名前を見てみると、真言密教の本質が垣間見えてきます。 
ところで、この毘盧遮那というのは、毘盧遮那仏のことで華厳経に出てくる法身の仏であります。 ちなみに報身の仏を盧遮那仏といいます。 そして、法華経の結経といわれている観普賢経には、「 釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名けたてまつる 」と記されています。 つまり、大日法身如来とは釈迦の別名なのであります。 真言密教には最初から大日如来などいないのです。 いかに仏説を盗んで擬態してきたか明白ではあります。


関 連 → 法華経の真言
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2015-05-28(Thu)
真言密教では、印と真言を専売特許かのように強調して、印と真言が法華経には無いから、理のうえでは同じだが、印と真言のある大日経が事相の上で勝れていると、釈迦の説いた法華経を侮っていますが、理のうえでも根拠となる明文はないうえに、法華経も含め大乗経典のインド原典には印と真言がある事を隠しています。 御書には『 所詮真言を密と云うは是の密は隠密の密なるか微密の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に篭むるは微密なり、二には疵・片輪等を隠すは隠密なり、 』とあるように、真言密教の密は、都合の悪いことを覆い隠す隠密のことであります。

真言というのは、真言密教では梵語で漫祖羅(マントラ)と言っていましたが、仏教では陀羅尼(ダラー二)と言って、十方諸仏の教えを暗唱する章句を指します。 そもそも、漫祖羅というのは古代インドのヴェーダにみられる讃歌、祭詞、呪文のことで、神呪ともいいます。 陀羅尼というのは総持と訳し、仏の教えを深く心に記憶して忘れず、悪を遮って生じさせないという意味を持っているのです。 釈迦はバラモンの祭式や呪術信仰を否定していますから、漫祖羅と陀羅尼は同じ梵語の章句で似てはいますが、本質は違うものなのです。 最近では、この辺の違いが忘れられていますが、真言密教が仏教に擬態した加持祈祷を主にする外道であることを隠すために、さらに仏教で包み込んで真言陀羅尼と言うようになったためであります。

法華経は、インドから中国に伝わるときに印や真言が省かれたといいます。 インド原典の法華経は膨大ななものだったといわれており、訳者の判断で多くが要約され略されてまとめられています。 その代表的なものが「 正法華経 」「 妙法蓮華経 」「 添品妙法蓮華経 」などであり、印や真言は重要なものではないとの判断からか省かれています。 なかには「 法華儀軌 」のように印や真言を付けているものもあります。
私見になりますが、釈迦が説いた教えは数百年という長い間、記憶によって伝承されてきましたが、それと真言は無関係ではなかったと思います。 記憶するため、また、覚えやすいように偈として切り分けられ、陀羅尼として多数の僧によって繰り返し唱えられていたのではないでしょうか。 経典として文章化されるときには、 ” 如是我聞 ”という精神から、その陀羅尼をそのまま書き遺し、さらに一貫した思想として解かるように順序立て、当時の様子を伝えながら編集されたのではないでしょうか。 印や真言の部分は、今でいう資料・参照・付録のようなものだったのかもしれません。

はたして、法華経の真言はどのようなものだったのか、興味深いものが御書にあります。

開目抄に『 妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す、善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く「 曩謨三曼陀没駄南帰命普仏陀三身如来阿阿暗悪開示悟入薩縛勃陀一切仏枳攘娑乞蒭毘耶〓〓曩三娑縛如虚空性羅乞叉〓離塵相也薩哩達磨正法浮陀哩迦白蓮華蘇駄覧歓喜縛曰羅堅固羅乞叉〓擁護空無相無願娑婆訶決定成就 」此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり、此の真言の中に薩哩達磨と申すは正法なり薩と申すは正なり正は妙なり妙は正なり正法華・妙法華是なり、又妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり、 』とあります。 つまり、龍樹が南インドの鉄塔で発見した、多数の経典の中にあった法華経の肝心となる真言というのは、南無妙法蓮華経のことなのだと、大聖人は仰っています。


関 連 → 善無畏三蔵の悔悟
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2015-05-21(Thu)
善無畏三蔵といえば、真言密教の歴史には欠かせない人物であります。  インドから中国に渡って、真言宗の三部経といわれるうちの「 大日経 」と「 蘇悉地経 」を翻訳し、一行を恃んで注釈書まで作っております。 空海が中国での密教の修学を決意したのも、善無畏が日本に持ってきたと言われる「 大日経 」を手にしたからだと伝えられています。 
その善無畏は、真言宗では伝持の祖に数えられてはいますが、血脈付法の祖には入れられていません。 真言宗の付法の八祖といわれる系譜は、大日如来→金剛薩埵→竜猛菩薩(龍樹)→竜智菩薩→金剛智三蔵→不空三蔵→恵果阿闍梨→空海となります。 恵果阿闍梨は善無畏の弟子から胎蔵部を伝授され金胎両部の師となっていたのですから、どこかに入れても不思議ではないのですが、空海は金剛部に重きを置いていたのでしょうか、それとも、最澄が学んだ系譜であることを嫌ったのでしょうか、善無畏の名はありません。 

この善無畏には、おもしろい逸話があります。 
あるとき、突然意識を失って死の淵を彷徨っていたら、獄卒が現れて鉄の縄で七筋に縛られ、鉄の杖でさんざんに痛めつけられながら地獄の閻魔宮まで連れてこられたときに、今まで学んだ八万聖教ことごとく忘れて思い出せないのに、ただ法華経の題名だけが思い出され、題名を思ったその瞬間に鉄の縄が少し緩んで、そこを逃さずに声も惜しまずに「 此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子・而今此処多諸患難・唯我一人能為救護等云云 」と法華経譬喩品の偈を唱えたところ、今度は鉄の縄が砕けちり、閻魔王に未だ命尽きていないと返されて、死から逃れた、という話しです。
日蓮大聖人の時代に、この様子を描いた絵像が京都伏見の醍醐寺と鎌倉の円応寺の閻魔堂にかかげてあったといわれています。

竜智菩薩から真言密教の奥儀を伝授されたほどの人が、堕地獄というのもおかしな話ですが、獄卒に責められたときに密教の印や真言ではなく、法華経の偈を唱えて地獄から脱することができたというのも皮肉なことです。 善無畏は心のどこかで大日経より法華経を信じ、悔悟の念を抱いたのかもしれません。

善無畏が地獄に堕ちて責められたのは、法華経誹謗によるものであることは明らかです。 念仏にせよ、禅にせよ、法華経を誹謗するから謗法というのであります。 釈迦一大聖教の言説にその役割はあるにせよ、人師等の、釈迦を下し法華経を誹謗する、師敵対の行為は、邪宗教の共通するところであります。 まさに魔の化身した姿です。


関 連 → 仏教に似せた魔教なり
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2015-05-12(Tue)
真言宗というのはインドにはもともと無く、中国においても宗をなしていません。

インドにおいては、古代インドの漫祖羅というヴェーダの神々への韻文讃歌から生まれた魔力的な唱句に、悪魔祓いや呪咀などの秘密神呪が加わった雑密と呼ばれているものが、仏教と混じり合って密教となり、それが様々に形成発展していたのであります。
それを善無畏、金剛智、不空の三三蔵が大乗密教として中国に持ち込みます。 そのときすでに法華経が経王として流布していたために、天台教学を学んだ一行という禅師を抱き込んで、密教を天台教学を取り入れた論・釈で飾り、皇帝の庇護を受けて興隆を見せます。 ところが、その国が動乱で亡んでしまうと、時代という荒波のなかで、道教やチベット密教と混ざり合いながら、やがて衰退してゆきます。
9世紀初頭、まだ唐代密教が歴史の表舞台にあったころ、日本の最澄や空海が学んできて、空海が伝来七宗をさらに密教に摂入し真言宗として初めて日本で開宗しています。

空海が開いた真言宗の特徴は、善無畏が大日経は理のうえでは法華経と同じだが、印と真言が説かれているので事相のうえでは大日経が勝れているとしていたのを、釈迦を「 無明の辺域にして明の分位にあらず 」と蔑視して、法華経を「 戯論 」だとまで誹謗しているところにあります。 普賢経に明らかなように、魔が仏に化身した本性がはっきりとここに見てとれます。

涅槃経に「 魔等も尚能く変じて仏身と作る。 況や当に羅漢等の四種の身と作ること能わざるべきや。 」とあるように、真言宗は仏に変じた魔の教えであり、仏教というよりは魔教であると断じてよいでしょう。


関 連 → 擬態して生きてきた宗教


※ 2015/06/05改訂
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真言亡家亡国 * by 王者の剣
夕焼け様

度々コメントしてすいません。

真言破折の記事は噛み砕いて書いてくださっていて、わかりやすく読ませていただきました。

実はわが地区も真言の寺域で、「真言にあらずば人にあらず」といった因習深いところです。我が家もその真言の寺と親戚にあたり、その一家とも接する機会が時々あります。

母が学会に入りました時に寺を訪ね「親戚付き合いはするけど、宗教のお付き合いは今後一切しません」と宣言しました。「あんたの家はこれからみじめになってやで」と住職夫妻に揶揄されましたが、その後、私も結婚して子供にも恵まれ、母も91歳と健在で、真言亡家の報いを転換することができました。(笑)

それゆえ、真言宗にはひときわ強い憤りを感じています。(笑)今後の折伏にも参考にさせていただきます。ありがとうございました。

* by 夕焼け.
王者の剣さん、こんばんわ。

いままで、念仏、禅を記事にしてきて、今度は真言を記事にしていきたいと思っています。 それでも、すぐにというのではなく、テーマを絞りながら何回かに分けて行っていくつもりです。

ぜひ、読んでみてください。 (^^

承認待ちコメント * by -

2015-05-01(Fri)
柿田川湧水
( 写真:柿田川湧水 )


釈迦の説いたとされる経典は膨大であります。

総てを読むだけで一生が終わってしまうかもしれません。 今、日本にある経典の多くは、インドから中国あるいは朝鮮を経て伝わってきたものです。
 
そのインドでは、釈迦が涅槃したその年に第1回の経典結集が行われておりますが、この時、文字によって記録されることはありませんでした。 持ち寄った記憶を暗唱しながら確かめ合いながら、結集が行われています。 文字によって記録されるようになるのは、阿育王の治世に行われた第3回結集からであるとされています。 それでも、現代に伝わるような経典は、紀元前後に部派仏教の経典、紀元1世紀から3世紀頃に大乗仏教の経典が整い始めたといわれています。 密教の経典はそれからさらに後で7世紀頃になります。 

よく、部派仏教の経典が釈迦の実際の教えで、大乗経典は見知らぬ人々によって創作されたものだ、釈迦の実際の教えではない、と断定するような意見を聞きますが、確かに文字として記録され始めたのは先かもしれませんが、現在のような経典として成立した年代はそれほど違わず、釈迦滅後だいぶたってからであります。 部派仏教の経典だけが釈迦の真正の教えだと断定することはできません。
いずれにせよ、人の記憶によって伝承されてきた期間がとても長いのには驚かされますが、師匠と弟子が暗唱しあいながら伝えていくのに比べ、文字による伝承は年代を経るに従い写筆による誤記が生じたり、紛失や焼失によって釈迦の教えが失われる危険が増すことを考えると、古代インド人が文字に頼り切らない選択をしたのは、あながち間違っていなかったのかもしれません。

釈迦のように悟りを開くには、どのようにしたらよいのか、多くの出家者が釈迦の教えを追い求め、それを経典としてまとめ、現在に伝えてきたのでしょうが、その一文一句が釈迦が実際に話したそのままの言葉ではないかもしれません。 しかし、その真意を理解できた人々によって、間違いなく釈迦の心を蘇えらせ、真意が込められた経典として伝えることができたのだと思います。 事実、日蓮大聖人によって、釈迦が説いた教えは、富士山(多宝富士大日蓮華山)の雪解け水が伏流水となって、時間を越え、遠く離れた場所に滾々と湧き出てきているように、現代に蘇ってきました。 日蓮大聖人の仏法は、釈迦の文言句々を大きく包み、その本質を鋭く射抜いて、真意を明らかにしています。 濁りのない、どこまでも清らかな、豊饒な味わいを持つ法水をわたしたちに注いでくれています。

※ 2015/05/03 改訂
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2015-04-14(Tue)
真言宗というのは、釈迦が説いた教えではなく、大日如来が説いた教えを信仰する宗派であります。 したがって、釈迦とは無関係の宗教と言ってよいのですが、釈迦の説いた教え、いわゆる仏教の思想的、哲学的背景を持っているために、仏教の範疇とみられているようでありますが、はたして、そうなのでしょうか。 調べていくと、わたしは別物だという思いを強くしてゆきました。 説いた教えがある以上は、説いた大日如来も実在するのが普通ですが、歴史上その存在が確かめられたことはなく、経典の説かれた場所や時期も、具体的には全く不明であります。 

モーセが神の啓示を受けたように、大日如来の声を聴いてそれを書き写した者がいたのでしょうか。 それとも、十戒の石版のように、経典がどこからともなく現れたのでしょうか、考えてみると不思議であります。 密教ですから、そうゆうこともあるのだと割り切ってしまえばそれまでですが、それでは仏教が魔法や魔術となんら変わりがないことになってしまいます。 また、ユダヤ教やイスラム教と同じような預言者の宗教となってしまいます。

真言宗は、原始宗教であるシャーマニズムとよく似ており、真言や印を道具だて、仏教の衣を着たシャーマニズムと捉えると、よく理解できると思います。 事実、密教はバラモン教の影響を色濃く受けており、ゾロアスターの祭式とも共通点がうかがえます。 釈迦の弟子はバラモンの高位の者も多く、釈迦滅後に、バラモンを取り入れて仏教と融合させた人師も現れたにちがいありません。 また、密教が栄え始めた7世紀ごろは、釈迦の仏教もインドでは衰退し、ゾロアスター、ヒンズーといったインドにあった宗教との融合が密教を生んでいったといわれています。

大日如来は法身仏とされていますので、ちょうど神のような仏と言えます。 この教えは金剛薩埵(さった)という、やはり実在しない法身の菩薩が受けて、この菩薩から龍猛菩薩(龍樹)に伝えられ今に至ったとされていますが、実在しない菩薩から、実在した龍樹への伝授というのは、どのように行われたのでしょうか、しかも、大日如来からでないというところに、なんとも怪しげな臭いを感じます。 いずれにせよ、預言者のように大日如来の言葉だと言って、真言と印を巷から掻き集め、あるいは創作し、釈迦や天台の教えを盗み取って作られた宗教であります。 日蓮大聖人も御書で『 大日如来は何なる人を父母として何なる国に出で大日経を説き給けるやらん、もし父母なくして出世し給うならば釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に仏出でて説法すべしと云う事何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり 』と仰っています。

真言宗のような密教は、原始の時代から、カメレオンのように擬態して生きてきた宗教でしょうから、これからも擬態して生き延びていくのかもしれません。 日本では、釈迦の仏教に、より強く擬態して、法華経を取り込み釈迦像を本尊とする宗派すらあります。 わけの分からない真言や印で権威づけ、神秘主義に彩られたシャーマニズムの宗教だというのが実体で、伝受に偽りの作為があり、釈迦の教えを盗み取った、その悪業から、信じれば家滅び国滅ぶ邪宗教であるといえます。


※ 2015/05/08 改訂
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2015-03-12(Thu)
御書に『 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず 』とあります。

これは、どうゆうことかといいますと、仕事もしないで、好きなことをして、あまった時間で楽に学会活動するよりも、仕事を一生懸命して、やっと家に帰って、疲れて休みたいけど、僅かな時間をさいて、苦労して学会活動することのほうが、功徳は大きいということです。 また、何千万円も儲けて、ポンと100万円御供養するよりも、このお金をだせば、晩のおかずが食べられないけれど御供養したい、という御供養のほうが、功徳は大きいということです。

このように、仏法では、絶対的な行為の形態よりも、相対的な行為の効果を見ているようであります。

大変だと思う気持ちの時こそ、また大変な状況のときこそ、少しでも唱題し、寸暇を惜しんで御書を学び、一人でも多くの友と対話し、励ましてゆけば、ほんとうの功徳が出てきます。

※ 2015/03/14 改訂
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2015-02-03(Tue)
仏教の説話として、十王の話があります。
人が死ぬと、中陰(中有)にいる間に十人の王に一生の善悪を裁かれて、どこに生まれるか裁可されるという話なのですが、そのなかに閻魔法王が使う浄玻璃の鏡というのがあります。

この鏡は、閻魔法王が住む光明院・中殿の裏にある九面の鏡のことで、業鏡といいまして、死者が生きているときに行った善悪の総てを映しだすとされています。 死者が嘘を証言して逃れようとしても逃れられないという鏡であります。
この説話は、釈迦のたとえ話が基になり伝承されてきたものでしょうが、釈迦はいったいなんのために説いたのでしょうか。、

はたして浄玻璃の鏡というのが本当にあるのでしょうか。

仏教の低い教えでは、あの世があり、そこで裁かれ、行いにより地獄や天国に行くということなのですが、三世の生命観から捉えていくならば、鏡に映しだされるのは、生きているときだけではなく、生まれ変わる姿も映しだされたに違いありません。
このことについて、第二代会長の戸田先生は、「 この娑婆世界においては、私どものこの身、その境遇が、浄玻璃の鏡なのでございます。 過去世にわたくしどものなした業が、この現世にわれわれの身心に業報として感ずるのであります。 」と仰っております。  閻魔法王が持つ浄玻璃の鏡は過去や未来の因果を投影した自分自身だとゆうことになります。

このことを、現代の人はなかなか信じることができないでいますが、生命は永遠(無始無終)だというのが仏教の要であり、釈迦が法華経で説いたのもこのことであり、寿量品第十六の眼目であります。

 
 
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* by みかん。
こんにちは。

鏡には、生まれ変わる姿も映し出される……なんだか凄い(゜ロ゜)

十王の話は初めて知りましたが、閻魔王は以前御書(「種種御振舞御書」)の勉強をしていた時に登場してきて(「わづかの小島のぬしらを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」)、その存在と意味をマイ講師さんから教えて頂いた事を思い出しました。

十王の話みたいに、自分の一生の善悪を裁かれるとか、子供の頃によく聞いた「嘘をついたらえんま様に舌を抜かれる」というのに似ていてなんだか面白いような(笑)

けど、結局、「閻魔王のせめ」というのは、自分が死ぬ間際(最期)に自分の人生・生き方を自分自身で審判する事だと聞きました。
善悪含めて、もっとああしていればこうしていれば…もっと戦えば良かった…あんな事をしなければ…等々、最後の最期に“後悔”する事ほど苦しいものはないのだ、と。

その時勉強したその御書の御文は、
死ぬ間際に、後悔の姿、後悔の状況・境涯になってはいけないんだよという、大聖人のご教示的な御文でした。

閻魔法王の持つ浄瑠璃の鏡は、過去や未来の因果を投影した自分自身であるーーー。
凄いっすね。
結局全て、自分自身の生命に内在するものという事なんすかね。

* by 夕焼け.
みかんさん、こんばんわ。

十王の話は、エジプトの「 死者の書 」のような死後の世界を描いていますが、一つ一つの話に隠された意味があるような気がします。 閻魔法王の浄玻璃の鏡が自分自身だという、戸田先生の透徹した眼力は鋭いですね。 実はこの鏡は、紹介したような話の使い方以外にも使い方がありまして、いずれ紹介いたします。 

>結局全て、自分自身の生命に内在するものという事なんすかね。

そう考えて良いと思います。
御本尊に描かれている生命の縮図は、わたし達の生命でもあり、わたし達は一念三千で満たされた宝塔といえます。

2014-02-18(Tue)
釈迦は、法華経で五百千万億那由陀阿僧祇劫(五百塵点劫)の過去に菩薩の道を行じて成道した、と説いていますが、どのような菩薩の道を行じたのでしょうか。 釈迦は、成仏した立派な姿を示し、偉大な仏の智慧を説き、その徳を讃歎しましたが、肝心の成仏の因となった内容を具体的に示してくれることはありませんでした。 そのために、釈迦のことを本果妙の仏と言っております。

釈迦は五百塵点劫(久遠)に成道したとはいえ、まだまだ、期限のある仏であります。 五百塵点劫の当初(そのかみ)、つまり久遠元初の仏ではありません。 久遠元初の仏とは、自受用身如来といい、直ちに、求めずして悟った当体のことをいい、無始無終に存在し、繕わず、働かさず、元のままの仏のことであり、釈迦の一番成道の本因となった仏であるところから、本因妙の仏と言われております。 そして、この久遠元初の、本因妙の仏のことを、南無妙法蓮華経如来と言うのであります。
御本尊には、釈迦と多宝の二仏並座の間に” 南無 ”とあり、続いて” 妙法蓮華経日蓮 ”とありますが、日蓮大聖人こそ、その南無妙法蓮華経如来であり、釈迦は、御本尊に南無妙法蓮華経と唱え、菩薩の道を行じたことによって成仏したことが示されております。 日蓮大聖人は、この娑婆世界に本因の姿で現れ、仏に成る本因を行じ、本因を示された、本因妙の仏なのであります。

菩薩の道というのは、仏に成る道のことであり、畢竟、日蓮大聖人のような凡夫の姿で、難に負けず、命も惜しまず、御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱え、世界広宣流布に生き抜いていくことに尽きるのであります。 釈迦も同じように、久遠の昔に、この仏に成る道を歩んだのであります。 
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2014-02-14(Fri)
Hubble Frontier Field Abell 2744
( 写真:HubbleSite Frontier Field Abell 2744 )


法華経には、驚くような宇宙観が示されています。

それは、釈迦が仏に成ったのは五百千万億那由陀阿僧祇劫という長遠な昔だと説かれていることです。 五百千万億那由陀阿僧祇という数字がどんなものかといいますと、

華厳経に示されたものを根拠とすれば、
5×10の70988433612780846483815379501104乗
という値になりますし、倶舎論に従ったとしても、
5×10の104乗となります。

単位がはっきりしませんが、劫とついていますから、少なくとも億年の単位だと思われます。 ビックバンによって生まれたとされる、この宇宙でさえ、まだ138億年(推定)しか経っていませんから、想像を絶する昔であります。

経典には、五百千万億那由陀阿僧祇の三千大千世界を微塵として、その三千大千世界を過ぎるごとに一塵を落として、そのすべての微塵が無くなるまでの時間だと記されております。 三千大千世界とは、だいたい一つの銀河系ほどでありますから、単に時間だけではなく、広大な国土や空間も示されており、当時の人々には、それは、おとぎ話や架空の世界だとしか感じられなかったにちがいありません。
しかし、今になってやっと、わたしたちには、それが現実に存在する世界であることを、うっすらと感じとれるようになってきました。 なぜなら、現在、宇宙の姿を、ビジュアルに捉えることができるようになり、そこには、息をのむような広大な空間と無数の銀河の輝きを見ることが可能になってきたからであります。

現代の宇宙物理学では、138億年の宇宙しか捉えることができていませんが、仏法では、この宇宙は無始無終であると説き、広がりを見れば無限であり、極小を探っても無限になる、と捉えております。 また、地球のような星が、宇宙にも無数に存在し、仏が、苦しむ衆生のために仏法を説いている、と断言しています。 はたして、仏法の説く宇宙観が、科学によって証明される時代がやってくるのでしょうか。

おもしろいことに、この釈迦の成道をどのように説いているかで、その経が真実であるか、あるいは方便であるのか、その高低浅深がはっきりとわかってくるのです。 釈迦は仏でありますが、仏とは生命のことであり、それは森羅万象の宇宙のことを指していますから、宇宙そして三世の生命の姿を、どれだけ真実に近づいて語たっているのか、ということに通じてくるからであります。
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2014-01-27(Mon)
「 経弥実位弥下 」というのは、妙楽大師が天台大師の「 摩訶止観 」を解釈した書に示された言葉で、「 教、弥(いよいよ)実なれば、位、弥(いよいよ)下る 」と読みます。 もう少し砕いて言うと、「 教えが真実であればあるほど、修行の位は下がっていく 」となります。

一般的には、衆生の機根が悪ければ、真実の教えでなければ救えない、という意味に使われています。 逆の言い方をすれば、機根が良ければ、真実の教えでなくても悟ることができる、ということです。 しかし、このような考え方はあるにせよ、わたしは、この言葉の意味として使うことに少し違和感を感じています。

妙楽大師が天台大師の「 摩訶止観 」のどの部分を解釈したのか見てみますと、それは、魔訶止観第六にあります。 「 前教に其の位を高うする所以は、方便の説なればなり、円教の位下きは、真実の説なればなり」というところであります。 この部分を、妙楽大師は「 経弥実位弥下 」と表現したのであります。

どうです、違うと思いませんか。

この“ 位 ”というのは、ここでは、修行の段階を指しており、前教である蔵教・通教・別教と円教の修行内容に焦点を当てて、教えの高低浅深を判定しているのです。 つまり、「 真実の教えであればあるほど、その修業は核心的で肝要なものになっていく 」と言っていたのです。  逆の言い方をすれば、一時的な方便の低い教えほど、修行の位を高くして、難しい修行となっていくということです。 
爾前権経が二百五十戒などの修行を説いているのは、方便であり、たとえ難しい修業を積んでも、仏に成るには長遠な時間がかかってしまいます。 それは、事を成し遂げていくときに、やり方がまずいと時間も労力も必要だ、ということと同じであります。 

小乗教が大乗教に差別的な扱いを受けることになる、これが、もう一つの理由であります。
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2014-01-15(Wed)
池の鯉 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

日本にある律宗、禅宗、浄土宗、真言宗は、師匠である釈迦の言葉を遮って、わが宗こそが一番だと言っています。 しかも、その論拠には身勝手な考えや嘘も多く、もはや釈迦の仏教ではなくなっています。 涅槃経には、やがて白法穏没の時に魔が仏の姿に化身して正法を破るときがくる、と予言されていますが、まさにそのとうりになりました。 

このように批判すると、「 他宗を否定するのは良くない 」、「 自分だけが正しいとするのは間違っている 」と反発されますが、自分たちが釈迦の言葉を否定しておいて、そんなことが言える立場でしょうか。 たとえば、泥棒が盗んだものを、取り戻しに来た人に向かって、人のものを盗むのは良くない、と言っているようなものであります。

釈迦は法華経の中で、法華経を信じない人は無間地獄の業を積むと明確に説いています。 真言の善無畏三蔵は死んでから遺体が縮み、皮膚が黒く骨がむき出しになった、と記録されていますが、経典を見ると、それは地獄の業によるものであることがはっきりと判ります。 人師が勝手に作り上げた物語に騙されて、邪宗を信じる愚かさ、怖さを知らなければいけません。

日蓮大聖人が、四宗を強く責めるのは、深い慈悲の上からであり、地獄の門を塞ぎ、人々の盲目を開かんがためであります。
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2014-01-13(Mon)
蓮華-2 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

涅槃経には「 法に依って人に依らざれ 」という有名な文がありますが、これは釈迦の遺言であり、死して後の弟子たちのために、規範とすべき指針を遺されたのであります。

この文は、いろいろと深い意味を含んでいますが、一義的には、法とは、仏が説いた経をいい、人とは、仏以外の菩薩はもちろん諸宗の人師を指しています。 つまり、仏の金言を拠りどころとして、人師の作り事に依ってはならないと諫めた文になっているのです。

日蓮大聖人は、この文を挙げて、律・禅・念仏・真言の諸宗を厳しく切り捨てています。 たとえば、日本の真言宗の元祖である弘法は、「 理同事勝 」といって、法華経は理(一念三千)で同じだが事(内実)において大日経に劣ると言い、揚句には、教主釈尊は仏ではあるが、大日如来に比べれば無明に覆われた境涯に等しく、大日如来が皇帝ならば釈迦は虜囚のような身だと言い放っています。 はたして、釈迦の金言である経典にそのような言説があるのでしょうか。

釈迦は法華経の安楽行品で「 法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中において最もその上にあり 」と説き、法師品では「 我諸説の経典は無量千万憶にして己に説き今説き当に説かん而も其の中に於いて此法華経は最も難信難解なり 」と説いております。 仏が説いた金言と弘法が主張とどちらを信用するべきでありましょう。 ましてや大日如来は、大梵天に広長舌を付けて「 法華経は真実なり 」と証明した十方の諸仏の一人ではなかったでしょうか、舌も乾かぬうちに、法華経よりも優れた経があるなどと説いたとしたら、誰が信用するでしょう。 日蓮大聖人は、釈迦の説いた経典に、弘法が言うような内容はどこにもないと断言せられております。

釈迦の説いた経典を依処としているために、一見は仏教に見えますが、我見によって、釈迦の心を蔑ろにし、「 依法不依人 」の遺言に逆らい、仏の金言に敵対しているのが邪宗の本質であります。 邪宗というのは、まさに” 謗法 ”の宗なのです。
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* by うなぎ犬
依法不依人はよく理解できるのですが。
法は普遍的に存在していますが、それだけでは何が正しい法なのかを多くの人は惑ってしまうのではないでしょうか。
人法一箇がいまいち理解できません。
法が大事なのはわかるのですが、それを説く人の存在もクローズアップすると、依法不依人に反しているのではないでしょうか?
そこのところをもう少し掘り下げてご教授下さい。
よろしくおねがいします。


* by 夕焼け.
うなぎ犬さん、こんばんわ。

” 法 ”が尊ければ、その法を行ずる” 人 ”は尊いというのが、人法一箇の基となる考え方です。 それは” 法 ”に依って、その価値が決まってくるという意味で、この場合の” 法  ”は善悪や正邪を含んだうえでの法という捉え方であります。 

依法不依人の” 法 ”とは正しい道を示した法のことであり、仏が説いた法のことであります。 ” 人 ”とは、その法を知る仏以外の人のことを指します。
それでも、人は仏に成ることができますから、その仏と成った人に依ってはいけないのかという疑念も浮かびますが、仏が説く法と、仏と成った人が説く法が違うということはあり得ないのです。 それは、釈迦や十方の諸仏の覚知した”法”は同じものだからです。

同じ字でも意味や使い方が違いますから、同じ次元で比較すれば混乱するだけだと思います。

2014-01-10(Fri)
元初 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

日蓮大聖人は、16歳(1237年)の時に千葉・清澄寺で出家して以来、18歳(1239年)で鎌倉に遊学し、21歳(1242年)で比叡山に登り、修行を重ね、仏教を学んでこられました。 そして、32歳(1253年)の時に清澄寺に戻り、報恩の心を携え、旭日を浴びながら、連綿と続く山々の峰を眺めながら、立宗宣言を行います。

このころまでには、あらゆる経典を読破し、主な仏教の典籍に目を通しておられ、各宗派の内容も熟知されました。 当時の比叡山は、延暦寺を中心にして多くの寺が存在し、仏教の最高学府のような存在になっております。 日蓮大聖人もここを拠点としながら各地(高野山、四天王寺、奈良、滋賀、京都)を巡っておられます。

12歳で清澄寺に登り、虚空蔵菩薩に「 日本第一の智者となし給え 」と誓願されてから、時代の様相と仏教界の混乱を目のあたりにしてきた大聖人は、なぜ、天変地異が起こっているのか? なぜ、主従が逆転して戦乱がおきているのか? なぜ、多くの宗派に分かれて争っているのか? 様々な疑問を抱きながら仏教や諸般の学問を学んでいました。 そのようななかで大聖人は、天台や伝教と同じように、原点である釈迦の経典を徹底して学ぶことの必要性に気づいてゆきます。 そして、仏の金言に従い、学びと思索を重ねてゆくにしたがって、何が正しく、何が誤りなのか、明らかに判ってくるのでした。 さらには、釈迦の経典の中で、法華経が最高の教えであることが理解でき、釈迦並びに十方の諸仏の淵源となる” 法 ”を覚知するに至ります。

虚空蔵菩薩に誓願してから20年にして、声も惜しまず” 南無妙法蓮華経 ”と獅子吼されたのであります。
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2014-01-08(Wed)
パラソル 
( 写真:SGIグラフ SGI池田会長撮影 )

日蓮大聖人は、有名な四個の格言で、律宗、禅宗、念仏宗、真言宗を徹底して批判しました。 この四つの宗が、人々を不幸にし、国を亡ぼす根本原因であるとして” 邪宗 ”と断定しております。 さらに、釈迦が説いた経典を依処とする、ほぼ総ての宗派をも” 邪宗 ”と呼んでいます。

言われた宗派の坊主をはじめとして、その檀信徒は怒りに満ち、憎しみに身を震わせ、大聖人の命を奪おうとしたほどでした。 現代でも、創価の邪宗撲滅を掲げた折伏には、嫌悪感と怒りを隠さない人間は大勢います。 まあ、仕方がないと言えばそうかもしれませんが、あまりにも理性に欠けた、感情論ばかりが目立ちます。
そもそも、なぜ” 邪宗 ”なのか、日蓮大聖人の言うことに耳を傾けるべきであります。

日蓮大聖人は『 智者に我義やぶられずば用いじとなり 』と仰っているように、その理由は、道理に基づき、道筋だったものであります。 わたしは、邪宗を信仰する人々に、あたりまえのことを、あたりまえだと思えない、病理を感じています。
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2013-08-08(Thu)
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(関西地方の断層)

三災七難が起これば、信心している人もしていない人も関係なく被害が及びます。 信心している人には関係ない、ということはありえません。 なぜならば、この地球が広宣流布の主戦場であるからです。 荒れ果てた地球にしてしまうのか、弱肉強食の動物のような社会にしてしまうのか、一に仏の軍勢である地湧の菩薩の拡大にかかっています。 

釈迦が” 虚空会の儀式 ”を行う前に、多宝塔が開かれないのを見て、三変土田を行って、そこに十方の諸仏が集まってきますが、その諸仏とは、仏法対話によって、信心に目覚めた人たちのことを指しています。 わたしたちの生命は、もともと全宇宙に遍満していて、地球に集まってきているのです。 この三変土田の戦いこそ創価の大事な使命であり、” 獅子の座 ”に座る諸仏は人類の姿でなければなりません。 
御書には『 天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ 』とあります。 三災七難の終焉には広宣流布が不可欠であり、創価の責任はとても重大であります。
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2013-08-07(Wed)
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(写真:安保闘争)

戸田先生は、日蓮大聖人の時代には、他国侵逼難が後に来たのに対して、広宣流布の時を迎えた現代では、他国侵逼難が先に起こっていると仰いました。 たしかに、日蓮大聖人の時代は、正法が隠没し邪宗がはびこって、三災七難のうち5つが先に起こり、日蓮大聖人による法体の広宣流布の中で、残りの自界叛逆難・他国侵逼難が起こっています。 ところが、創価の出現によって切り開かれた化儀の広宣流布の幕開けは、それとは逆に他国侵逼難(第二次世界大戦)によってもたらされています。

戦後の日本は独立を果たして、復興の道を歩み始めるのですが、事あるごとに、左右のイデオロギーがぶつかり合い、争乱に見舞われてきました。 今の世代の方には実感はないでしょうが、1950年から70年代までの日本は、不毛な対立のために政治は疲弊していました。 まさに自界叛逆難が国を覆っていったといえます。 そんな中で公明党が結成され、政治を庶民のもとに引き寄せ、腐敗と利権の力を切り、イデオロギーの相克を一掃する戦いが始まってゆきました。

戸田先生の指摘が正しければ、あとの5つの難は、広宣流布の進展と共に顕れてくるに違いありません。 事実、わたしは、昨今の様相を見れば見るほどにそうゆう思いを強くしています。
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No title * by 河越武蔵守頼重
色々有りますよ。
これからも。

広布を阻む輩は必ず現れます。
疫病も、天変地異も。

広宣流布のあかつきには、必ずや
創価学会仏(名称はどうなるか解らない)が御本尊に
認められる日が来るだろうと、戸田先生は仰ってたと聞きます。

No title * by yuyakeci
頼重 さま、こんばんわ。

そうですね。 
遙かな時空の流れの先に、どこかの星で、
創価のことを仏が語る時がくるでしょう。 (^^

語るだけの物語をわたしたちが作らなければいけませんね。

* by つかちゃん
はじめまして。
神奈川県の一介の壮年部です。
夕焼け様の「三災七難」について、私も同様の思いでおります。
この十年二十年の天候・自然現象、そして、原子力事故も当たりますよね。
気になるのが、関東の直下型大地震です。
広宣流布を進め、日本中でお題目が上げられれば、防ぐことは出来るのでしょうが!
池田先生も毎日、「大地震」が起こらないように、祈って下さっていると聞いております。
私も祈っております。
まさに、本当に「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるということですね!?

URLは、私のブログ「月月・日日につより給へ」です。

では、失礼します。

* by 夕焼け.
つかちゃん さん ようこそ。

池田先生が第三代会長に就任した当時は、東京が壊滅したら創価も壊滅するのが必然でしたから、池田先生は、広宣流布を前進させるために、東京に大きな台風が来てはならない、また大地震が起きてはならいと祈りながら、死身弘法の指揮を執られてきました。 そして今、広宣流布も進み、世界129か国に妙法の種が蒔かれ、それが芽吹きはじめております。 これからは、日本の「 三災七難 」というより世界の「 三災七難 」が起こってくる時代に入ってきているのだと思います。

共々に、題目をあげきり、福運をつけて、どのようなことが起ころうとも、「  大悪起これば大善来る 」で、創価の力を示しきってまいりましょう。

2013-08-06(Tue)
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(写真:PD U.S.A)

日蓮大聖人が亡くなられてから、日本は武家の支配が続き、血なまぐさい戦国時代へと突入していきます。 そして300年あまりを経て、徳川による幕藩体制が確立してから、やっと庶民は平穏を取り戻します。 しかし、やがて、アジアにおける諸外国(西洋)の植民地支配の脅威が増すにつれ、国内はまた騒然となりはじめ、260年ちかく続いた徳川幕府はあっけなく崩壊してしまいます。 その後、天皇を神輿に担いだ維新政府は、日本の近代化を急ピッチに進め、富国強兵に邁進し、西洋が帝国主義から脱する転換期にあった時代に、日本は帝国主義の覇権をアジアに拡大してゆきました。 そして、神道を天皇ファシズムに利用しながら、泥沼の戦争へと突入し、終には、建国以来まれにみる犠牲者を出しながら、原子爆弾の投下を受けて無条件降伏するに到ります。

江戸時代は、寺籍制度が布かれ、庶民の信教の自由は著しく阻害されていましたが、一応、幕府が各宗派の活動を極端に抑圧する様なことはなかったため、日蓮大聖人の仏法もこの時代に興隆しはじめます。 ところが、明治維新後は、政府は宗派の合同を強要し、神道思想の徹底を図り、廃仏毀釈の運動を興します。 いまでもお寺に社があるのは、生き残ろうとした名残りです。
仏法では神の存在を否定していません。 本来、仏法を蔑ろにする神はいませんので、神の名をかたり仏法を破壊するものは、魔王の手先でしかありません。 本来、神は法華経の行者の法味を受けて力を得ていますし、法華経の行者を守護すると誓っていますから、法華経の行者を誹謗し、蔑ろにすれば、神は所を嫌い去ってしまいます。 その代り、そこには鬼神や魔物が棲みつきます。 仏法の目で見れば、悲惨な結末は明らかでありました。 ここに到り、日本は占領され完璧な他国侵逼難を受けたのです。

大戦中に、創価は政府の弾圧にさらされ、初代会長の牧口先生は獄死し、第二代会長の戸田先生は過酷な取り調べと劣悪な環境に体を衰弱させ出獄しました。 戦後、日蓮大聖人の仏法を継承する人間は、世界でたった一人になってしまいました。
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2013-08-02(Fri)
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(蒙古襲来絵詞)

「 三災 」は、倶舎論によると、大の三災と小の三災があり、大の三災は火災・風災・水災で、小の三災は穀貴(飢餓)・兵革(戦争)・疫病(伝染病)となっています。

「 七難 」は、大集経・金光明経・薬師経・仁王経・法華経にそれぞれ説かれており、正法を誹謗することによって七種の災難が起こるとされています。 それぞれに微妙な違いはありますが、次の内容に集約されます。

 他国侵逼難(外国から侵略され、脅かされる)
 自界叛逆難(内部分裂や同士討ち)
 星宿変怪難(天体の運行に異変が起こる)
 日月失度難(太陽・月の異常現象)
 非時風雨難(季節はずれの暴風や強雨)
 衆生飢餓難(日照りによる食料不足)
 人衆疾疫難(病によって、多くの人が死ぬ)

日蓮大聖人の時代には、天変地異や疾病・飢餓がすでに起きていて、その原因を指摘した日蓮大聖人は、命を狙われるほどの迫害を受け、やがて残り2難(自界叛逆難・他国侵逼難)が順次起きてまいります。 佐渡流罪中に起きた、二月騒動(北条時輔の乱)、流罪赦免後の蒙古襲来は、まさに「 立正安国論 」に予言されたとうりとなりました。
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2013-08-01(Thu)
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少しの間、記事の更新ができませんでした。
お盆の法要を兼ねて上牧温泉に2泊3日で出かけ、家を留守にしていたためです。 当初は、帰ってきてから、その記事を今日書くつもりでいましたが、なんとカメラを忘れてしまい、文章力のないわたしでは、臨場感を伝えることは困難だと思い、その記事はボツとしました。 そこで、最近の日本の様子を見ていて、すこし感じていることを語ってみようと思います。

皆さんも気づいているかもしれませんが、3.11を境に、日本の天候の異変や地震の多さが目立ってきています。 最近のゲリラ豪雨は、”どうしたんだろう?”と思わせるに充分なインパクトがあります。 いろいろな状況が積み重さなって、そうなったことを説明することはできるでしょうが、そうゆう状況がなぜ生まれたのか、あるいは、導かれてきたのか、根本のところを知りたいと思うのは、わたし一人ではないのではないでしょうか。

仏法では、人心が乱れると国土が乱れるとされています。
特に正法が誹謗され弾圧されるときには、三災七難が必ず起こるとされています。 第二代会長の戸田先生は、その三災七難が、今は逆次に出てきていると仰っていました。
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2013-07-23(Tue)
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創価では、「 仏教 」という言葉をあまり使いません。 ほとんど「 仏法 」という言葉のほうを使います。 当初、このブログを始めたころ、「 仏教 」という言葉に違和感を感じながらも、世間一般で使われている言葉であったために、「 仏法 」と使いたいところでも、あえて使ってきました。 しかし、これからは気にせず、使っていこうと思います。

そこで、「 仏教 」と「 仏法 」について、少し触れておきたいと思います。

「 仏教 」というのは、紀元前550~750年前頃に、インドに出現した釈迦によって説かれた教えのことを言いますが、「 仏法 」というと、その教えにある、真理を捉えて言っています。 世間一般では、要するに同じことだという解釈が多いのですが、もう少し掘り下げて見ていくと、あることが見えてきます。 

釈迦の説いた教えは八万法蔵ともいわれ、膨大なものになります。 しかし釈迦自身が言うように、それらは、衆生の求めに応じ、機に従い、方便を巧みに使いわけ、ある一面の真理を説いたものがほとんどであります。 そのため、なかには、背反する様な内容のものも少なくありません。
釈迦は無量義経で「 四十余年 未顕真実 」と宣言し、法華経で初めて重大な真実を語り始めるのですが、法華経方便品第二では、さらに次のように述べています。

  十方仏土中 唯有一乗法
  無二亦無三 除仏方便説
  但以仮名字 引導於衆生 
  説仏智慧故 諸仏出於世
  唯此一事実 余二則非真
  終不以小乗 済度於衆生 

  十方仏土の中には 唯一乗の法のみ有り
  二無くまた三無し 仏の方便の説を除く
  但仮の名字を以て 衆生を引導したもう
  仏の智慧を説かんが故なり 諸仏世にいでたもうには
  唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず
  終に小乗を以て 衆生を済度したまわず

続いて同じように、過去・現在・未来の三世の仏についても、一乗の法を説かんがために、世に出現して方便力により種々説いてきた、と述べています。 つまり、あらゆる仏の覚知したものは等しく一つであり、二無く三も無いと説いているのです。 また、仏の出現の目的は衆生を仏にすることにのみ有り、様々に引導してきたものは真実ではないと断言しています。 
ここで少し説明しますと、法華経以前には、二乗(声聞・縁覚)やその他の不成仏が説かれていました。二乗はもっぱら阿羅漢果を得るために小乗教の修行に没頭し、もうこの世に生まれてこなくてよい無余涅槃を究極の悟りと思い込んでいたのです。 そこで釈迦は、涅槃の修行を説く小乗教や二乗を弾劾する諸経、つまり法華経以前の教えを”仮の名字 ”と言ったのです。 

このことから、「 仏教 」とは釈迦一代において玉石混在して様々に説かれた教えと、その教理・経釈を含めたものを言うのですが、「 仏法 」と言うときには、その教えにある種々の真理ということで終わらずに、釈迦だけでなく、十方の諸仏と、過去・現在・未来の仏が等しく覚った、普遍的で変わらない” 一乗の法 ”を指して言うのだということが解かります。 

釈迦は法華経でこの” 一乗の法 ”を説いているのですが、明示的に説かなかったために、宿縁深い弟子は覚ることができましたが、釈迦滅後、多くの修行者が迷いの海に沈んで、法華経を信じることができませんでした。 すべての仏の源流となる智慧がそこにあったのですが、それが明らかとなるのは、日蓮大聖人の出現を待たなければならなかったのです。 日蓮大聖人の弟子であるわたしたちが、そのことを語るとき「 仏教 」というよりは「 仏法 」という言葉を使うほうが、とてもしっくりとくるのです。
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2012-10-18(Thu)
念仏の本質というのは、法華経誹謗です。 また、釈迦仏を遺棄し、他仏 ( 阿弥陀仏 ) を拠りどころとしている不知恩にあります。

日本の浄土宗の高僧である法然や親鸞は、始めから終わりまで ” 捨閉閣抛 ” であり、法華経を捨てよ、閉じよ、さしおけ、なげうてと主張しております。 さらには、釈迦仏でなく、どこにあるかしれない浄土を希求し、縁のない仏を尊んでいるのです。 念仏を唱えるということは ” 法華経はダメだ ” 、 ” 最悪だ ” 、 ” 釈迦は求める師ではない” 、と、言っているということになるのです。 釈迦はどんな思いでいるでしょうか。 念仏を信じている人は、いや、そんなことは思っていない、釈迦を尊んでいる、という人もいますが、それは、誹謗している人に同調していながら、わたしは誹謗していないと、トンチンカンなことを言っているのと同じであり、釈迦仏を足で小突きながら、手を合わせているようなものです。 念仏の本質が法華経誹謗だということを、しっかりと認識しなければなりません。

法華経誹謗は地獄の業を積むと、釈迦が説いていることを示し、浄土宗を破折したのは日蓮大聖人であります。 その日蓮大聖人を、 ” 他宗を誹謗する悪人だ ” と言って、殺そうとしたのが浄土宗の僧や信徒であります。 誹謗している人間が、その誹謗は誤っていると指摘されて、” 他宗を誹謗するのは良くない ” と、指摘した人を憎んでいるのです。 なんともおかしな話です。 道理が逆さまであります。 現代でも、したり顔でそんなことをいう人が居ますが、知らないとはいえ、宗教の高低、浅深、正邪を弁えない愚かな考えです。

釈迦が、 ” 今まで様々に、様々な人に請われ法を説いてきたが、それらは方便で、いまだ、真実を語ってこなかった。 今まさに、未来に説くであろう教えにも優れた、真実の教えを語ろう ” と、自ら進んで説きはじめたのが法華経なのです。 十方の諸仏も、それを知り、来集し、 ” まさに真実である ” と証言しました。 三方や四方というのは他の説法でもありますが、十方の諸仏が来集し、梵天に広長舌をのせて証明するのは、このときだけです。  そして釈迦は、 ” この真実の法を説いた法華経を、信じないで誹謗するならば、かならず無間の地獄の業を受ける ” と明確に宣言したのです。 法華経は人が仏に成ることが出来る法を説いているのですから、当然であります。

念仏を唱える業は、法華経を誹謗する業であります。
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No title * by 一読者
どれ程の正論であっても、他を否定して、己れを肯定していては、永遠に争いは無くなりません。
他には敬意を、己れは慎みたいものです。

No title * by 夕焼け
一読者さん こんばんわ。

おっしゃる通りです。 法華経を否定せず、肯定していくべきであります。
釈迦の言葉に反して、何のために仏教を修するのでしょう。 否定するのは誤りです。 わたしの心は、章安大師の「慈無くして詐り親しむは是彼の人の怨なり、能く糾治する者は即ち是彼が親なり」との心にあります。

2012-10-02(Tue)
わたしは、常々思っています。
” こんなすばらしい信心はない ”  と。

知れば知るほど、確信を深めていくことができるものなど、そうはありません。 宗教の世界では、仏教がそうでありますが、仏教の世界では、日蓮大聖人の仏法がそうなのです。 しかし、まだ多くの人は、業が弱っているというか、毒気深入というのか、まさに、法華経七つの譬えの如くであります。

御書に 『 たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見仏種純熟せる人は仏と見奉る、 』 とありますが、このことを言っているのでしょう。
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2012-09-26(Wed)
日本では、尖閣の国有化が、中国の反動を呼び起こしましたが。 世界ではイスラームを馬鹿にした映画の問題で、リビアのアメリカ大使と警護の人間が殺されてしまいました。 民衆の怒りは大きな力でありますが、暴力を伴うと、怨嗟の渦が竜巻の如く大地を駆け巡り、なにもかも破壊してしまいます。  物や命だけではなく、心まで破壊してしまうのです。

宗教が騒乱の原因のように見えても、その実は、人のエゴイズムや欲が宗教を利用して起こしているのです。 宗教の名を借りたエゴイズムです。 前にも記事にしましたが、神にかわって命を奪うことなど、あってはならないことであり、まやかしの行為です。 その人の生命の奥底に潜む魔の仕業であります。 邪まな心があるから、ウソをつき、暴力で思うがままにしようとするのです。 神や仏の仕業であるはずがありません。

今の仏教の現状も、釈迦の言葉を素直に受け止めることが出来ずに、勝手な人師の言葉に惑わされて、結果として釈迦に敵対してしまっています。 身勝手なエゴイズムから、巧みにウソを経典に練り混ぜ、仏の真言を覆い隠していることに、気づかなければいけません。 一代聖教の肝心は法華経にあります。 この娑婆世界は釈迦の土地であり、その住人は釈迦の子であります。 その子が釈迦でなく他土の仏を敬うことなど、普通に考えてもおかしな話であります。 地獄の門を開け、人々をウソの縄で絡めとり、引きずり込んでいる誤った考えが、人々の不幸の根本原因となるのです。 はやく目を開いて、正法に帰依しなければいけません。
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No title * by M.T
こんにちは、僕は父方の祖父母の代から入会している、学会員三世です。
半年ぐらい前から、全く前に進めない自分を変えたいと思い、勤行と一日一時間の唱題に挑戦しています。
本題ですが、「宗教が騒乱の原因に見えて、実は人間のエゴイズム・欲が宗教を利用している」という夕焼けさんの考え方に、とても共感しました。確かに、人間の自分勝手な心が、宗教を歪めて見せてしまっている気がします。
しかし、「娑婆世界は釈迦の土地である」というのには、納得できません。お釈迦さまがとても偉大な人であるというのは理解できるのですが、そんな人が世界が自分のものであると考えるでしょうか?世界は、誰のものでもない。ただそこに、生物がいるだけだと思うのです。そしてそこに幸せな境涯を築くための宗教があると思うのです。
僕は、仏教を勉強したわけではないので、この考え方に確信があるわけではないのですが、少し気になったのでコメントさせて頂きました。
長文失礼しました。

No title * by 夕焼け
M.Tさん こんばんわ。

そうですね。 それに、わたしたちが釈迦の子供であるはずもありませんしね。 いい機会ですから、すこし話しをしましょう。

法華経以前では、この娑婆世界とは仏が住まない国土であり、苦悩が充満した世界であるとされ、忍土とも言われていました。 また、そこに住む人間は、悪道に落ちて、長い年月を経て生まれきた、不浄の者たちばかりだとしています。 仏はこの娑婆世界から遥か十方の国土にしか住んでいないとされていたのです。 ところが、法華経にいたって釈迦は 「 今此三界 」 と説き、自分がとても長大な時間の過去に成仏して以来ずっと、この娑婆世界に、かたときも離れずに住んでいたと明かしたのです。 「 娑婆世界は釈迦の土地 」 としたのは、そういう意味があります。 「 娑婆世界は釈迦が所領する世界 」 と書いても同じ意味になりますが、生命論から見てみると、釈迦は仏のことであり、仏とは生命のことでありますから、「 この宇宙には一念三千の生命が満ち満ちて、無始無終に亘って存在し続けている。」 というふうになります。 娑婆世界を離れて生命はないし、生命は娑婆世界にしかないということです。

仰るように、この世界は誰のものでもなく、ただ生命が存在する世界であり、人が仏となって幸せになる国土です。

No title * by M.T
わかりやすい答えをありがとうございます。
夕焼けさんの回答を読んでいると、僕の考えが全く至ってなかったことに気づきました。僕達のいる世界が即ち仏の存在する世界、仏になることができる世界であるという意味だったんですね。
創価学会員として恥ずかしくないように、これからしっかりと勉強していきたいと改めて強く思いました。ありがとうございました。

2012-09-07(Fri)
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(写真:2012年9月7日付聖教新聞 本部幹部会 東京)

宗教の生命は、なんでしょう。

わたしは、布教だと思います。
布教は宗教を宗教たらしめるものではないでしょうか。

今の僧侶仏教の多くが、この生命を失っています。 生命がないから、形だけのコスプレ仏教に堕してしまっているのです。 葬式と法要と護符の守銭奴に成り下がってしまったのです。 布教は宗教の生命です。 世界の三大宗教と言われる釈迦やキリストやモハンメッドは、皆、布教の人です。 布教の生涯です。 その行動の師なのです。
では、 ” なぜ布教なのか ” といえば、宗教の目的が人の救済にあるからです。 端的にいえば、布教は神や仏の使命なのです。 その神の子であり、仏の子が布教もしないで、生活のために、祈るだけなど言語道断だと言われても、いたしかたありません。 釈迦などは自分の葬儀に僧侶が出席することさえ戒めています。

わたしが、 ” 宗教の生命は布教にある ” と思うのは、もう一つ理由があります。 仏教以外はおくとして、仏教では、仏の救済の目的は、一つしかありません。 それは、人を仏にすることです。 これしかありません。 病気を治す。 苦しみを取り除く。 悩みを消す。 金持ちにする。 そんなものは枝葉の問題でしかありません。 本質的な目的ではありません。 釈迦が大金持ちでしたか? 悩みがなかったですか? 苦しみませんでしたか? 病気をしませんでしたか? 人に憎まれなかったですか? 命を狙われませんでしたか? ウソで卑しめられませんでしたか? 弟子に裏切られませんでしたか? 親族を殺されなかったですか?  もし、そのようなことが救済の目的なら、仏教は程度の低い教えといえます。 必要なときに必要なお金があればいいのです。 どうしたら人を仏にすることが出来るのか悩むのは当たり前です。 苦しみを知らないで、人に寄り添うことなどできないことです。 病と死は生命の理(ことわり)であり、自然なことです。 仏教の目的は、釈迦のような仏に、一人も漏れずにすることです。
布教しない仏は、一人としていません。  見たことも聞いたこともありません。 布教しなければ仏ではありません。 仏と判るのはその振舞いにあります。 仏と同じ振舞いに起てば、仏の生命が湧いてくるのです。 わたしは、仏法対話をしていくと、生命が躍動し、清浄に澄むような心になって、深い喜びに満ちてくるのを感じます。 仏と同じ心を持ち、振舞えば、もうその人は仏なのです。 だから、布教は宗教の生命だというのです。  ” ほんとうに ” と思うかもしれませんが、そうなのです。 修羅と同じ心を持ち、振舞えば、もうその人は修羅ではないですか。 そう成っていくのです。 南無地獄、南無修羅、・・・・・ではなく、南無妙法蓮華経こそが仏と成る秘薬なのです。 法が根本の仏教の根幹は 南無仏などではなく、南無妙法蓮華経でなければなりません。  南無妙法蓮華経の ” 経 ”とは布教する振舞いのことであり、仏法対話のことであります。 創価の歴史は、布教の歴史しかありません。 布教は人としての最高の振舞いであり、生きた宗教である証なのです。
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2012-08-28(Tue)
「 不軽菩薩  」 という菩薩をご存知でしょうか。 この菩薩は法華経に説かれた菩薩です。 創価の方なら誰もが知る菩薩です。

どのような菩薩かといいますと、すべての人には仏性があると信じて、「 24文字の法華経を 」 を唱えながら、出会う、すべての人々を敬い、礼拝し続けた菩薩です。 ところが、これを見た人々は、 ” 凡夫が仏になれるわけがない ” と考えているために、不軽菩薩を批判し、悪口罵詈したのです。 それだけでなく、杖で打ち、瓦や石を投げて迫害しました。 しかし、不軽菩薩はけっしてくじけませんでした。 「 24文字の法華経 」 を唱えながら、出会う、すべての人々を敬い、礼拝し続けるのでした。 やがて、この功徳で六根清浄となって、仏になったと法華経には説かれています。

この菩薩は過去世の釈迦の姿です。

日蓮大聖人は 『 一代の肝心は法華経・法華経の修行は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ・教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ 』 と仰って、我らの修行は不軽菩薩の姿にあると教えてくださいました。 この不軽菩薩の姿は、まさに創価の人々の姿と重なります。 ” この信心をすれば、必ず幸せになれます。 一緒に幸せになりましょう。 ” と語りかけますが、 相手は ” そんなことは信じられない ” というように反発し、批判し、悪口罵詈します。 しかし、創価の人々はくじけません。 信心の素晴しさ、正しさを語り続けてきました。 そして、やがて人間革命し、人間としての真の幸福を知り、掴んできました。 まさに不軽菩薩のようであります。 経文に書かれている通りではありませんか。 難があるから本物なのです。 それが鍛えであり、罪障消滅であることは間違いありません。

冷静にみれば、創価を非難する人の振舞いほど卑しい姿はありません。 創価の人が不幸になることを願い、悲しむことを喜んでいるではありませんか。 馬鹿にして、蔑んでいるのが手に取るように判ります。 六根清浄ではなく、その反対の六根汚濁の姿です。 このことだけ捉えても、 ” 地獄の罪報を受ける ” と釈迦が法華経で説いていることが、真実だと判ります。
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