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2015-07-14(Tue)
わたしたちが御本尊に題目を唱えて礼拝するとき、御本尊もわたしたちを礼拝して題目を唱えているのを御存じでしょうか。 御本尊の中では、日蓮大聖人を導師として釈迦・多宝を含め悉くが、そのままの姿で南無妙法蓮華経と唱えているのです。 如来秘密といって御本尊は法を説きませんから、わたし達には聞こえませんが、唱えているのです。 そして、そのことが、わたしたちの仏性を呼び起してくれるのです。

御書には『 夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば篭の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し 』とあります。 また、『 仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり云云 』とあります。

信じなくても、南無妙法蓮華経と御本尊に唱えると、生命の次元で境智冥合してゆきます。 そして、御本尊の最高の力を生み出していくのは、やはり” 信じる ”ことです。  この” 信じる ”というのは御本尊と思いがちですが、そうではなく、自分自身が妙法の当体であることを” 信じる ”ことなのです。 御本尊の力で幸せになるように見えて、ほんとうは、わたしたちの、この祈りと行動によって、御本尊はわたしたちを幸せにできるのです。 二仏並座はこのことを示すもので、わたしたちと御本尊は而二不二、境智不二の関係にあります。


※ 2015/07/17改訂
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* by 王者の剣
>「例せば篭の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し」

私もこの御文が大好きです。妙法を唱えれば我が身の仏性も、諸天も歓喜するのでしょう。まるで無数の幸福が、我が身から羽ばたいていくような光景が目に浮かびます。我が身の威光勢力も増長し、生活も充実、充足していくことでしょう。

仏の生命ゆえに、常楽我浄の大歓喜の生命となって、現実の娑婆世界で今世の使命を果たしていきたいと思います。

暑さが厳しくなってきましたね。お体を大切に。


* by 夕焼け.
王者の剣さん、こんばんわ。

ほんとうに、熱いですね。
お互い、熱中症に気をつけながら、
祈って、動いて、汗をかいていきましょう。

2015-07-09(Thu)
宗教の要は本尊にありますが、大概の仏教宗派は本尊に迷っています。 この、本尊の迷い、つまり何を本尊とすれば良いのか知らないことが、人々を不幸に導いているのです。

釈迦が入滅してから、残された弟子たちは釈迦の教えだけを支えにして修行を続けていました。 しかし、やがて、寂しさからか、釈迦の遺骨を大事に思ってか、遺骨を納めた塔を建て始め、さらに寺院に釈迦の絵や像を作って納め、それを拠りどころとするようになりました。 そして、釈迦以外の如来像や菩薩像そして守護神まで造立して、それぞれに崇めるようになってしまいました。 今では、仏教の本尊といえば絵や像がほとんどであり、それが正しいと思っています。 

はたして、釈迦は、根本とすべきものについて、どのように言及しているのでしょうか。
釈迦は法華経の法師品で「 薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復(また)舎利を安んずることを須(もち)いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す 」と説き、涅槃経の如来性品では「 復(また)次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり 」と説き、普賢経には「 此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり 」と説いております。
そのことを受けて、天台大師は法華三昧懺儀で「 道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け 」と指南しております。 つまり、法華経の教えを根本とし、修行の場において舎利や絵像を置いてはならない、ただ法華経一部を置くように、と定めているのです。

本尊というのは宗教の命だというのに、現在の仏教宗派のほとんどが、この釈迦の教えを守っていません。 残念なことに、守っていないのはこのことだけではなく、釈迦の遺言である「 義に依りて語に依らざれ 」「 智に依りて識に依らざれ 」「 了義経に依りて不了義経に依らざれ 」「法に依りて人に依らざれ」 という法の四依においても、悉く師敵対している、というのが実情です。 ただ日蓮大聖人お一人は、『 法華経の題目を以て本尊とすべし 』と仰って。 法華経の肝心を本尊とされています。 涅槃経には「 若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり 」 とありますから、日蓮大聖人以外の宗派はすべて師敵対している邪宗教と言わざるおえないのです。

日蓮大聖人を敬っているようにして、日蓮大聖人を下している日蓮系の宗派や悪しく敬っている日顕宗も、この本尊というものに迷っていて知りません。 じつに情けないことです。 天台大師が「 唯法華経一部を置け 」と言った” 義 ”をよくよく心に想うべきであります。 日蓮大聖人は『 此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり 』と、また、『 釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり 』と仰って、法華経の文の底に秘し沈められた妙法を取り出だし、それを記し顕わされたのが御本尊であります。


※ 2015/07/11改訂
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2015-02-23(Mon)
広宣流布というのは、日蓮大聖人の願いであり、地涌の菩薩の誓願であります。 地球上で唯一、創価だけが日蓮大聖人の心を心として、その流れを創ってきました。
この流れ、潮流を断じて止めてはなりません。

一閻浮提総与の御本尊(大御本尊)を所持しているとされる大石寺の邪宗門に、広宣流布が果たしてできるでしょうか。 所持して700年以上経とうとしていますが、どうだったでしょう。 大御本尊を所持していることが大事なのか、広宣流布することが大事なのか、わかりきったことであります。
ちょうど、年頃の娘さんが、結婚式に使う純白のウェディングドレスを後生大事にして、婚活をしないのと同じです。 結婚していく同じような年頃の娘さんに、” 安物のウェディング ”なんか着ても幸せになんかなれない、と毒づいているようなもので、哀れと言う以外にありません。

大御本尊は広宣流布が実現し、戒壇である本門寺が建立されたとき、そこに懸ける御本尊であるとされています。 広宣流布の儀式を行うための御本尊でありますから、本来はその時まで、御宝蔵に厳護されているものなのであります。 邪宗門が邪まな心で” 根本の御本尊 ”と言っていますが、権威で身を飾るために利用しているだけであって、けっしてだまされてはいけません。 大御本尊を所持していなければ、その他の御本尊に力が無くなるかのような論理は破綻しています。 ハッキリ言って邪義であります。 御本尊の功力は絶対でありますが、唯一絶対の御本尊など宇宙のどこにも存在しません。 宇宙に存在するのは南無妙法蓮華経という法と自受用身如来(日蓮)という人(にん)であります。 しかも唯一ではなく遍満しているのです。 仏法の法理を知らない輩の戯言に惑わされてはいけません。
他の星にある御本尊が、一閻浮提総与(全世界)でなく、全宇宙総与だったらどうするつもりなのでしょう。 地動説を頑迷に信じるようなものであり、くだらない論争に必要以上にかまけることはありません。 毎日、わたし達が勤行で御本尊に読み上げている、法華経寿量品第十六の自我偈には、何と書かれているでしようか。 よく心に留めるべきであります。 誓願に生きる処が常寂光土であり、御本仏は常にそこに居られるのであります。 日蓮大聖人の心を持たぬ邪宗門に何が出来ようというのでしょうか。

広宣流布の闘争こそが、地涌の菩薩の使命であります。
御書には『 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、(中略) なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。 』とあります。 たとえ、大御本尊の前を遮る者がいて、創価の信心を止めよ、と脅そうとも、広宣流布の誓願に生きるのです。 広宣流布は日蓮大聖人の 『 ちかいし願やぶるべからず 』との厳命であります。
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2015-02-17(Tue)
戸田先生は御本尊について、
” 紙 ”だと言ったことがあります。

それは、信心していない人が、御本尊のことを、” ただの紙 ”ではないかと言って馬鹿にしていることに対して、 たしかに御本尊は” 紙 ”だが、その” 紙 ”に何が書かれているのかが問題であり、” ただの紙 ”ではないと反論されたときに、御本尊は” 紙 ”と言ったのです。

紙幣だって、証文だって、” ただの紙 ”ではない。
ゴッホの絵や、北斎の版画だって、” ただの紙 ”ではない。
独立宣言書や、聖書だって、” ただの紙 ”ではない。

人間だって、細胞でできているが、
” ただの細胞 ”ではないのです。

究極から言えば、人間を含み、みんな物質であり、原子や電子や陽子や素粒子からできているのです。
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2015-01-15(Thu)
日蓮大聖人の直筆の御本尊は、とてもすばらしい御本尊でありますが、わたし達の戴いている御形木御本尊も、同じ御本尊であることに変わりはありません。 人は様々でありますが、人間であることに変わりがないのと同じであります。
すべて御本尊は繋がっているのです。 なぜなら、御本尊は日蓮大聖人の自作ではなく、宇宙に本然として存在する色心不二の生命の様態を書写したものだからです。 『 一念三千の法門をふりすすぎ、たてたるは大曼陀羅なり 』というのはこのことであり、御本尊はあくまでも御本尊なのです。 それ故に御本尊は文字であり、文字のことごとくが妙法蓮華経に照らされた仏なのであります。 

御形木御本尊を” ニセ本尊 ”などというニセ信者は夢にも知らないことです。 御本尊を粗末にすれば、罪業を深く積むことになります。 知らないとはいえ、御形木御本尊を軽んじれば、無数劫が間、仏に縁することはなく、粗末にすれば、無数劫が間、地獄の苦の中に生じることとなります。
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2015-01-14(Wed)
世界広宣流布が進めば、大石寺貫首が御本尊を一人一人書写することは不可能であります。 たとえば、1億人書くのに10分で一体書写したとして、寝ずに24時間書き続けても1900年ほどかかります。 古くから行われてきている御形木御本尊の必然性がここにあります。 御形木と呼ばれる御本尊は、どんな御本尊で、いつごろから出てきたのでしょう。
 
古くは鎌倉時代までさかのぼり、日蓮大聖人の書かれた御本尊を、版木に写して印刷し、信心の無いものにまで渡している、という噂を日興上人が聞きつけて大変嘆かれた、という記録があります。 また、江戸時代に信心未熟な入信したばかりの信徒に、版木から制作した大石寺貫首の御形木御本尊を下附していたという話があります。 それは仮の御本尊ということで下附をして、信心堅固となった時点で常住御本尊(大石寺貫首の直筆)と交換していたようです。 当時の版木から採った御本尊は字影が荒く紙質も劣っており、仮の御本尊とみなされても仕方がないような御本尊でありました。
現在のような精細な御形木御本尊は、戦後の、創価学会が折伏を進めるようになってからで、信心をする人が急激に増えたため、大石寺貫首が書写して渡すことが困難なことから、新入信者には写真製版で印刷したものを下附し、信心が深まれば特別御形木御本尊や功績によって常住御本尊を下附するようになりました。 当初は各寺院ごとに、その寺院有縁の大石寺貫首の御本尊を御形木にして、各寺院の判断で信徒に下附するのが、当たり前のように行われていたため、創価の草創期には日寛上人の御形木御本尊を戴くこともありました。 ですから、日寛上人の御形木御本尊を戴くことは二度目ということになります。

このほか、御形木の御本尊には板本尊と呼ばれている御本尊があります。 この御本尊は一枚板に筆記し字のところを掘った御本尊と、紙幅の御本尊(直筆)あるいは転写したものを貼って字のところを掘った御本尊の二種類があり、古くから制作されてきた御形木の御本尊であります。 この板御本尊は複数作られることもありますが、だいたいが一体のみであります。 実は、戒壇の御本尊もこの御形木御本尊の一つなのであります。 

おおまかには、御本尊には日蓮大聖人が書かれた御本尊と、代々の大石寺貫首がそれを書写した御本尊と、それらの御形木である板に彫った御本尊と、印刷された紙幅の御本尊があることになります。

それにしても、その御形木の御本尊を大石寺貫首が開眼していたなんて、聞いたことがありません。 開眼が必要不可欠な重要な秘儀であるならば、必ず御書や相伝書に書かれるはずですが、どこにもありません。 ということは、戒壇の御本尊も含め、それまでの御本尊はみんな” ニセの御本尊 ”ということになるようであります。

※ 2015/01/15 改訂
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2015-01-13(Tue)
御本尊の書写は、日蓮大聖人の御入滅後、日興上人だけが行っていたのでしょうか。 どうもそうではないようであります。

日興上人の弟子においても書写は行なわれていて、当時は必ずしも大石寺貫首(法主)だけの専権ではなかったことが史料から読み取れます。 どうも、遠隔にある地では、その地で弘教していた弟子が、信徒に下附する御本尊を自ら書写していたのかもしれません。 また、相伝に基づかないものであれば、五老僧も書写は行っており、日興上人が、そのことを謗法として咎めた、という形跡が見当たりません。  
代々の大石寺貫首が、日蓮大聖人からの相伝に基づいて書写を行なっておりますが、かつては” 秘伝 ”とされていた「 御本尊七箇相承 」等も、今では公開されて皆が知るところとなっております。 その内容は、相伝とは言っても何か特別なことではなく、戒壇の御本尊を写すにあたり、その意義と注意点が記されているだけであります。 書写した御本尊と戒壇の御本尊と違うのは、花押のところだけになります。 七箇条以外にもこの相伝書には記されている内容があるのですが、書き方の並びに違和感があり、後代による加筆である可能性が指摘されています。 

日顕宗ではこの書写に加え、御本尊には大石寺貫首(法主)の開眼が必要だと言い出しており、開眼のない御本尊は、どんな御本尊であろうと” ニセの御本尊 ”だという悪辣な邪義を立てております。
御本尊の開眼など、御書のどこにも書かれていないし、相伝書にもありません。 過去に宗門で一度たりとも行われたことが無い事であり、御本尊を侮蔑する行為のなにものでもありません。 御本尊は開眼しようとしまいと、三大秘法の御本尊であります。 その御本尊に、大石寺貫首の許諾もなく勝手に題目をあげても功徳はない、というのであります。 ほんと、子供が駄々をこねてわけのわからないことを言っているようなものです。
御本尊と信徒の間に仲介者を置き、開眼などという密教を取り入れた台密ならぬ蓮密を持ち込んで、日蓮大聖人の信心の血脈を自ら切ってしまいました。 最近では、創価を破門したくせに、会則を改訂すると、未練がましく難癖をつけてくる姿はみっともない限りであります。 今更ながら、似非仏法の低級な教義感覚には、あきれるしかありません。

御本尊が何かしてくれるのではなく、南無妙法蓮華経の信行をもって、御本尊と境智冥合し、自らの本地である無作の三身を顕わしていくことが、まったく解かっていないようであります。 このように、日蓮大聖人の仏法とは言えない宗派になってしまったために、わたし達は日顕宗と呼ぶのであります。
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2014-12-17(Wed)
六壺
( 写真: ja 1973 may vol.48 )


かつて、大学生の頃、わたしは大石寺の大客殿の隣にある六壺に入る機会がありました。 そして、そこに御安置されていた御本尊に一人きりで唱題させていただくことができました。 当時はその御本尊のことをよく知らなかったのですが、題目を唱えていて、実にすばらしい御本尊だと体感することになります。 この体験から、わたしは後に、” 御本尊には違いがあるのだろうか ”と考えるようになり、いまでも御本尊はどれも同じだと思い切れないでいます。 もちろん、総じて御本尊に違いはないのですが、やはり、日蓮大聖人直筆の御本尊と日興上人直筆や代々猊下の御本尊では違いがあるように思えます。
どうゆう違いか? と問われると説明が困難ではありますが、御書に「 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ 」 とあるように、書写する人の信心の血脈が、そこに顕れてくるのではないでしょうか。

御本尊の違いにより、信仰するうえで問題になるのかといえば、それはなりません。 信心の血脈がある方の御本尊であればなりません。 それは、わたしたちの信心の厚薄、浅深、強弱のほうが、御本仏と感応するための重要なファクターとなるからであります。 境智不二の法理であります。
唱題をしていればよいというわけではなく、唱題を根本とし、広宣流布のために行動し、仏の道を歩んでいくことが、罪障消滅・無量授徳の直道であり、事の観心となるからであります。 わたしたちが” 大法弘通慈折広宣流布の大願 ”のために、地涌の菩薩として日蓮大聖人に連なる風景こそ御本尊の姿なのです。 事の三大秘法はそこにしかありません。 

本来は日蓮大聖人直筆の御本尊の御形木を、分身の御本尊とするがよいのでしょうが、そうしないのは深い配慮があるからです。 
Category : 御本尊 Comment : (2) |

* by 摩訶衍
こんにちは。


>本来は日蓮大聖人直筆の御本尊を御形木として、分身の御本尊とするがよいのでしょうが、そうしないのは深い配慮があるからです。 


そうしないのは、創価学会に日蓮直筆の御本尊は存在していないし所有していないからですよ。

四十数年前に創価学会が日蓮正宗創価学会と名乗っていた頃、日蓮直筆の御本尊を所有している某寺院、二ヶ寺に対して売買交渉した事があったようですが一つは途中で立ち消えになり、もう一つは寺院の貫首にきっぱり断られたそうです。





* by 夕焼け.
摩訶衍さん、こんばんわ。

確かに、創価は大聖人真筆の御本尊を所有していませんが、所有しているかどうかにたいした意味はないし、必要もないでしょう。 また、所有しているからといって、日蓮大聖人の真筆御本尊の御形木をやたらと信徒に授与するような宗派があるでしょうか。 日寛上人の御形木の御本尊でも、もったいないくらいです。
ちなみに、創価が戴いている御本尊は、栃木県小山市の本如山浄圓寺にある日寛上人真筆の御本尊を、寺院の許諾を得て御形木とした御本尊ですが、その寺院には日蓮大聖人の板御本尊があります。

2013-06-25(Tue)
仏教では、修行を積むことによって、悟りを開き、仏に成れるとされています。

その修行は、小乗教では戒を保ち、禅定することに重点が置かれ、大乗経では善を為し、観心することに重きを置いています。 前者は出世間、後者は世間をその修行の舞台としています。 一般的な世の中の常識では、前者の修行が正統なものだとされていますが、それはとても浅はかな見方です。 釈迦が説いた教えではありますが、まだそのほかに深い教えを説いていることを知ってほしいと思います。 仏道修行には小乗教・大乗経・法華経と、それぞれあり、その内容も違ってきます。 詳しいことはここでは省きますが、いずれも歴劫修行しなければ辿り着けないような内容であります。

末法では寿量品の事の三大秘法の修行だけが仏に成る道だと、日蓮大聖人は説いていますが、具体的に言えば、御本尊に向かい、端坐し、合掌しながら、一心に南無妙法蓮華経と唱えること、そして、この妙法を人に語り抜いていくことに尽きてまいります。
三学即妙の法こそ御本尊であり、御本尊の相貌そのものの実在化こそが、寿量品の事の三大秘法の修行を成すということになるのです。 この妙法を信じ(慧)、一心に唱題し(定)、慈折広宣流布の大願に生きる(戒)ことが、成仏に至る唯一の仏道修行であり、それは仏の振舞いそのものでもあります。

この修行は、簡単なように見えますが、実に勇気と忍耐と努力を必要とします。 自己と向き合い、心の師となり、他の人の幸福のために生きていくということは、そう易々とできることではありません。 仏道修行なのですから、苦労することを厭わずに、挑戦し、人間革命してまいりましょう。
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2013-05-08(Wed)
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今日は御本尊について語りたいと思います。

御本尊について、日蓮大聖人の御書には 『 末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。
 』( 阿仏房御書 1304P )とあります。
また、他の御書には 『 此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。 』( 日女御前御返事 1224P )とあります。
これらは、御本尊について書かれた、とても重要な御書であります。

誤解を恐れずに語ってゆけば、日蓮大聖人は、わたしたちが御本尊に唱題するとき、その身は本覚の如来であり、南無妙法蓮華経の当体なんだ、と仰られています。 これは、わたしたちが、御本尊に南無妙法蓮華経と唱題し、広宣流布に生き抜いていくならば、御本仏とまったく変わらない仏である、という意味なのです。 そして、日蓮大聖人は、そう信じて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい、と、強く仰られています。 

毎日、御本尊に向かい、書かれてある一字一字の意味を探っていくと、日蓮大聖人の出生の本懐は御本尊に尽きる、と、つくづく思います。 すべてが御本尊に説かれているのです。
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2012-11-18(Sun)
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(写真: PD Lisa randall)

今日は現代物理学の話を紹介いたします。

アメリカの粒子物理学者のリサ・ランドールさんという方がおられます。 この方は1999年に5次元世界の存在を提唱し話題を呼び、理論物理学の分野で一躍時の人となられた方です。 現在、フランスとスイスにまたがる、ほぼ東京の山手線ほどある素粒子加速器を使って、5次元世界の証拠を探しだすために実験が行われようとしております。

わたしたちの生活する世界は3次元に時間を加えた4次元(4次元時空間)と言われています。 そして、さらに次元を加え、わたしたちからは見ることも感じることもできない世界が存在すると推測されているのです。 荒唐無稽のような話しのように思われるかもしれませんが、宇宙の謎、特に、物質の本質や、重力の謎の解明にかかせない理論だと考えられています。 この5次元は4次元の住人が行くことも感じることもできない世界であるため、リサ・ランドールさんは、1次元差し引いた次元のモデルを使って、5次元の特質をイメージしやすいように説明しています。
「 フラットランド 」 という2次元の世界を描いた小説をとりあげ、4次元の宇宙で認識しているものが5次元では違う実体を持っているというのです。 たとえば、球体が、2次元の世界を通るとき、2次元人には、最初はそれが点に見え、やがて広がりながら線となり、こんどは縮んで点となり消えていくように見えますが、3次元人には、2次元で点が膨らんで円になりやがて縮んで点となり消えてゆくように認識できます。 と同時に、4次元では球体が2次元を通り移動していることが認識されます。 3次元の球体・円柱、円錐が2次元に投影される影は、同じ円になり、2次元ではその影はすべて線にしか見えません。 また3次元の正立方体の影はひし形・長方形・六角形と様々な影の形があります。 これは、影が元の図形のもつ情報の一部しか表さないためです。 逆をたどれば、4次元で認識できるものの実体は、5次元で認識できる一部の情報だということになります。 

このことは、仏法の概念を思推していくうえでとても役に立ちます。 わたし達には御本尊も文字にしか見えませんが、生命という次元からみれば、日蓮大聖人の御命がそこには厳然とあるということなのです。

余談になりますが、数学から解いていくと、空間は10次元であることが古くから知られていました。 最近では、粒子物理学の理論をスーパーコンピューターでシュミレーションしていくと、宇宙の誕生は9次元から始まり、膨張する過程で3次元となり、最終的に今の宇宙が現れたという結果が得られているそうです。 ほかの次元はいったいどこにいってしまったのでしょうか。 人の5感で認識できるのは4次元(4次元時空間)までかもしれませんが、ほかの次元も現実世界とともにあり、次元同士が確実に影響を及ぼしあっているに違いありません。 どこかに存在するのではなく、今ここに、わたし達とともに存在しているのではないでしょうか。 現代物理学では物質の最小単位である粒子が ” 次元を行き来している ” と推測しているのですから驚きであります。
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2012-03-27(Tue)
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(写真:Hubblesite PD NASA Galaxy Triplet Arp 274


久しぶりに御本尊について、語ってみたいと思います。

「 少なくとも仏教の肝心は法華経にあり、法華経の肝心は寿量品にあり、寿量品の肝心は妙法蓮華経にあるのです。 さらに言えば、その文の底に秘し沈められている宝珠を、日蓮大聖人が取りいだして顕された南無妙法蓮華経の御本尊にあるのです 」 また 「 御本尊は五字が首題で、南無が境地の冥合を表わし、日蓮唱うるところの七字となっています。 しかし、それでいいのかというとそうではなくて、十界を互具と開き、五字相対して仏界即九界、南無相対して九界即仏界としています 」 と以前の記事で述べました。

このように、御本尊は仏が説きたかった核心となる内容を、諸法実相にあてて表現しております。 妙法蓮華経とともに南無を挟んで釈迦・多宝としていることに、わたしは、とても重要なメッセージが秘められていると思ったのです。 色々な意味があるのですが、成仏の鍵となるメーセージだと理解できたのです。 以前は、 ” なぜこのような文字が書かれた紙幅に、南無妙法蓮華経と唱えて仏の生命が湧現するのだろう ” 、 ” なぜ願いが叶うのだろう ” とだけしか思い至らなかったのですが、御書を学び思索するうちに、少しづつ核心に近づいて理解できるようになりました。
日蓮大聖人の御生命は、今も其処に慈愛と厳愛の眼差しで、仏の道を説いてくださっていると思えるようになったのです。 其処には、深遠な法理とありのままの実相( 宇宙の生命 )が欠けることなく収まっております。 御本尊は、仏の一切の教えを収めた宝塔とも言えるのです。 信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、仏の生命が其処に顕れ、生死一大事の血脈相承の儀式にも似て、生命と生命の触発に、我が仏の生命が呼び興され仏と等しい当体となっていくのです。 私たちもまた、仏の一切の教えが収められた宝塔だからです。

文字で書かれたもので、そんなことはおこらないと思うのが大多数です。 南無妙法蓮華経と唱え仏の生命が湧現し、願いも叶う、など信じられない、と、誰もが思います。 でも、これは、信じる信じないという問題ではなく、そうなるのです。 生命は深いところで繋がっていて、交流する周波数、チャンネルがある、と、仏法では捉えています。 悲しい人の傍にいれば、自分も悲しくなり、慈しみの心が満ちてくるではないですか。 元気な人に会えば、少しは元気になり、前向きになれます。 家の明かりを見れば、癒されます。 山の頂で見る風景に、感動の涙が零れます。 十如実相は御本尊とわたしたちの間にも相対的にあるのです。

ここで視点を変えてみましょう。 人間社会から、文字や言葉を無くした世界を考えてみてください。 さてどうなるでしょうか。 まず人と意志の疎通が極端に狭まります、それは受ける感性も狭まることを意味しております。 読書して感銘したり、泣いたり、恐がったり、決意したり、癒されたり・・・・・が無くなります。 紙に文字が書かれた書物でさえ、目にして読めば、人を変え、社会を変えることがあります。 人の言葉にはさらに力があり、直接の影響力が出てきます。 文字や言葉を無くしたら、今の文明と社会は崩壊することはまちがいありません。 文字や言葉には、他者の心に働きかける、人を変える力があることを、わたしたちは知っているはずです。 そう思っているはずです。 そう思わない人はとても少数ではないでしょうか。
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No title * by SHIn
大聖人の文字曼荼羅は思索をする上で又自分の今現在の生命を確認する上で非常に画期的であり日寛上人がそれを簡潔に書き顕して下さいました。御本尊への唱題それ自体が方便品、寿量品の通りでありまた望めばいつでも仏は我が生命に出現するのですね。御本尊に唱題する事で“蔵の財より身の財、身の財より心の財第1なり”の御文を噛み締めています。御本尊は究極の“心の財”です!

No title * by 夕焼け
SHinさん、おはようございます。

きのうは、急用で返事ができず、もうしわけありませんでした。
” 究極の心の財 ” いい表現ですね。 そう思えたらすばらしいことです。 そのこと自体が心の財だと思います。

毎日の勤行・唱題が二仏並座だと解ると、自分と自分を取りまく現実世界が御本尊の相貌と重なります。 御本尊は無量のことを語っているように思います。 日蓮大聖人の御書も、釈迦の法華経や生涯の教説も、御本尊を語っていると感じます。 諸々のこの世界が、宇宙が、御本尊そのものなのだと気づきます。 わたしたちが拝する御本尊はその中にある御本尊と言えるでしょう。

2011-09-01(Thu)
< 千日尼御返事 >
『 されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・をはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候 』

< 報恩抄 >
『 東方・宝浄世界の多宝仏 』

< 草木成仏口決 >
『 答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり 』

『 答えて云く妙法蓮華経是なり・ 妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり 』

< 四条金吾殿御返事 >
『 其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり 』

< 本尊三度相伝 >
『 諸法は境なり実相は智なり、宝塔品の時多宝の境・釈迦の智と一塔に座し玉ふ事は境智不二の淵源を表するなり 』

『 多宝已に入滅は是れ死なり、釈迦未だ入滅せず是れ生なり、此の動静の二を色心に当つる時心は動なり色は寂なり、故に多宝は我等死々の死相、釈迦は我等生々の生貌なり、二仏一塔に座すとは即生死即死生なり 』

『 若し理智に約せば釈迦は我等が四陰心躰なり、心には動転の用有る故に釈迦には説法あり、多宝は我等が色陰の躰なり色は寂なり故に多宝は法を説かず 』
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2011-08-31(Wed)
今日は、いままで御本尊について記事にしてきましたが、わたしが思索の基にした御書の文の一部を掲載したいと思います。


< 御義口伝 >
第五見大宝塔住在空中の事
『 御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり。 

第三唯以一大事因縁の事
『 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり 』

第十六得見恒沙仏の事
『 御義口伝に云く見恒沙仏とは見宝塔と云う事なり、恒沙仏とは多宝の事なり多宝の多とは法界なり宝とは一念三千の開悟なり法界を多宝仏と見るを見恒沙仏と云うなり、 

第十七不軽菩薩の礼拝住処の事
『 御義口伝に云く礼拝の住処とは多宝塔中の礼拝なり、 』

< 生死一大事血脈抄 >
『 釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、 』

< 諸法実相抄 >
『 釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、 』
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2011-08-24(Wed)
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(写真:SGIグラフ)


前にも書きましたが、御本尊は五字が首題で、南無が境地の冥合を表わし、日蓮唱うるところの七字となっています。 しかし、それでいいのかというとそうではなくて、十界を互具と開き、五字相対して仏界即九界、南無相対して九界即仏界としています。 仏像信仰のように五字でいい、としないのが日蓮大聖人の心なのです。 余の十界あるいは余の三千とは、御本尊の南無妙法蓮華経日蓮以外のことを指しています。 釈迦・多宝を含めた、ことごとくをいいます。 虚空会では十方の諸仏が出てきますが、御本尊には見当たりません。 実は多宝塔のもとに雲集した十方の諸仏は、霊山の衆悉くが記別を受け、虚空会で成仏している姿のことであり、御本尊の中では、日蓮大聖人を導師として余の三千総てが、そのままの姿で南無妙法蓮華経と唱えているのです。 如来秘密といいまして御本尊は法を説きませんから、わたし達には聞こえませんが、唱えているのです。
 
ここで、三大秘法について新たな視点で考えてみようと思います。 
ご存知のように、本尊とは、日蓮大聖人のことであり、滅後の御本尊のことであります。 題目とは、日蓮大聖人が唱えはじめ、我らも唱え伝える南無妙法蓮華経であります。 戒壇とは、我らが信をもって行ずる処であります。 これがいわゆる三大秘法です。 これを、二処三会に移してみようと思います。 すると、多宝が御本尊、釈迦が名字の凡夫で、唱えるところの題目、並座宝塔が戒壇で三つの秘法となります。 また、虚空宝塔が御本尊、十方の諸仏が霊山の大衆で、唱えるところの題目、虚空会が戒壇で三つの秘法となります。 更に、虚空会が御本尊、霊山の大衆が我らで、唱えるところの題目、霊山会が戒壇で三つの秘法となります。 広宣流布の暁には、御本尊に、我等が一同に南無妙法蓮華経と唱え、唱える処の師子の座で三つの秘法となります。 この三大秘法の中で題目は南無妙法蓮華経の文字ではありません。 唱える音声・一心としての南無妙法蓮華経のことです。 唱える主体、つまり「人」が必ずあっての唱えられる題目をいいます。 
三大秘法は御本尊に総在としてあります。 しかし、大法弘通慈折広宣流布がないと事の三大秘法は完結いたしません。 我等が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは、日蓮大聖人の仏法において大事中の大事、本懐中の本懐、秘法中の秘法といえるのです。 わたしたちが地涌の菩薩として日蓮大聖人に連なる風景こそ、三大秘法の峰であり、霊山一会儼然未散の文をあらわすものなのです。

戒壇の御本尊があれば三大秘法は揃ってると勘違いしているのが、番人ぼけした今の宗門・法華講であり邪宗門なのです。 700年あまり、日本で3万人程度の勢力にしかならず、最後は崩壊寸前の姿だったのが、創価の出現から80年、三代会長の不自惜身命の歴史、世界192カ国におよぶ1000万世帯の陣容が、なにを物語るのか、明々白々であります。 わたしたちを、戒壇の御本尊から遠ざけても、信の一字で行ずる生命の絆を断ち切ることは出来ません。 日蓮大聖人から信心の血脈を受継ぎ、一閻浮提広宣流布の道を行くのは創価において他にないのです。
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No title * by かどやよしたか
ごほんぞんのなかでは、にちれんだいしょうにんをどうしとして、よ、の、さんぜんすべてが、そのままのすがたでなんみょうほうれんげきょうととなえているのです。 わたしもいろいろとしさくしているうちに、あるひ、ふと、このことにきずきました。 そのひいらい、ごんぎょう、しようだいがいちばんのしあわせになりました。 このきじをよませていただいてあらためてこのことをさいかくにんできました。 どうもありがとうございます。 シエ、シエ

No title * by 夕焼け
かどや さん こんばんは。

わたしは、信心を始めたころ、実証の体験で、この信心は凄いと肌で感じましたが、南無妙法蓮華経と御本尊だけは理解できずにいました。本来は理解でなく感得することなのでしょうが、わたしは理解したいと思い続けていました。今でも理解できたとは思っていませんが、ほんのすこし、意味を見出すことができ、信心の確信を深めることができました。我見に陥らないよう、細心の注意と御書を徹底的に学び、思索を続けていきたいと思います。

2011-07-24(Sun)
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(写真:SGIグラフ)


御本尊について何回かブログに書いてきましたが、ここで誤解のないように一言申し添えておきます。 わたしがおこなった二仏並座の解釈は南無妙法蓮華経があくまでも体であり、本であり、実相であることを前提に解釈していることをご理解願いたい。 多宝如来を御本尊と見るのは、われらの修行に約してのことで、多宝如来を信仰の対象とすると主張するものではありません。 誤解なきよう重々お願いいたします。
御本尊そのままが、久遠元初の無作三身如来の御生命であり、生死不二の理に従うならば、間違いなく日蓮大聖人の御生命なのであります。 私たちはこの御本尊を信仰の対象とし、南無妙法蓮華経と唱える以外に成仏の道は無いのです。 はからずも、そのことが生命の実相として、御本尊の中に示されていると指摘したかったのです。 日蓮大聖人が御本尊に唱題したのも、その意味を示さんが為なのです。
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2011-07-08(Fri)
第2代会長の戸田先生は、獄中で唱題するなか法華経を身読し、仏とは ” 生命 ” のことなのだと悟達されますが、そのとき、自身が虚空会の儀式にまちがいなく居た、ということを感得されています。 出獄をして自宅に戻り、御本尊をまじまじと見すえ ” このとうりだ、このとうりだ ” と言って涙したと聞きます。 また、日蓮大聖人は霊山一会儼然未散の真実を示すため、虚空会の儀式を末法に移して御本尊を顕されたとされています。 その御本尊を観ると釈迦・多宝は、南無妙法蓮華経を中央に左右に配されています。

この虚空会の儀式とは、法華経の中で、宝塔品から神力品までに説かれた二処三会の中間にあたる会座のことです。 釈迦の説く法華経が真実であることを証明する為に、東方宝浄世界からきた多宝如来が七宝の宝塔と供に大地から湧現して、多宝が半座をわかち、釈迦が塔中に入って、霊山の大衆を虚空に置くところから儀式が始まります。
この部分をわたしたちに約していえば、 「 半座をわかつ 」 とは、わたしたちに受戒を促すということです。 「 釈迦が塔中に入る 」 とは、わたしたちが信を以って宝塔に入るということです。 「 うなづき合う 」 とは、わたしたちが御本尊に唱題し境智冥合するということです。 わたしたちが唱題するとき、我等の五体が霊山となり、胸中の宝塔が開き、その総在が南無妙法蓮華経の当体となっていくということです。 日々信心するということは、日々虚空会の儀式に居るということと同じだといえます。 多宝が境で釈迦が智ですから、二仏並座はわたしたちが南無妙法蓮華経を抱きて成仏する姿を象徴しております。 わたしたちが 「 本来仏である 」 ということは、 “ 境 ” であり、そのことを覚知するのが ” 智 ” であり、仏としての振る舞に起つことが境智冥合の姿であり、御本尊に唱題し、人に仏法を語り続ける姿ということになります。
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No title * by うなぎ犬
非常に分かりやすい解説ありがとうございました。<BR>私は音楽隊に入隊し15歳の夏に、五時間唱題しているときに虚空会の儀式を体験しました。<BR>太陽の光と月の光を融合したような光に包まれ確かに日蓮大聖人と池田先生が中央にいらっしゃいました。<BR>この話をすると皆嘘だと言うのですが本当のことなんです。<BR>信じてもらえるかどうかはわかりませんが、虚空会の儀式は架空のおとぎ話でもなんでもなく、真剣に信じ祈りきっていく中で確実に体験できるものなのです。

No title * by yuyakeci
うなぎ犬さん こんばんわ。<BR><BR>虚空会の儀式の体験ですか、わたしには経験がありません。<BR>地涌の菩薩の自覚を持って、広宣流布に邁進してまいりましょう。 法華経の意味は、”今”が常に虚空会の儀式だということだと思います。

2011-06-29(Wed)
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昨日から、ある方のために御本尊の事について載せる準備をしてまいりましたが、長文になり、うまくまとめられずに断念しました。 応答形式で行うほうが良いと思い、その方の質問を待つことにいたします。
急がなくてもよろしいですから、よろしくお願いいたします。 (^ ^

と、これだけでは申し訳ないので、私が御本尊のことを理解するきっかけとなった事柄についてお話します。 御本尊の中央には、ご承知のように妙法蓮華経が主題となり、南無が帰命を表わし、日蓮唱うるところの七字となっています。 その左右には釈迦如来と多宝如来が並座しておりますが、実はこの釈迦如来が信心する我々で、多宝如来が御本尊であることに気づいたのです。 この1点から様々なことが理解できるようになりました。 詳しくは煩雑になりますので、またの機会にしますが、御本尊に唱題し、日蓮大聖人と同じように広宣流布に生きることが成仏の姿なのだということが判ります。 生命の実相と成仏の要諦を示されているのが御本尊なのです。

御本尊が日蓮大聖人の御生命なのだと、論理的に理解するのはなかなか難しいことです。 仮に論理的に理解できたとしても、それは実感ではないでしょう。 声聞・縁覚には難信難解の法門です。 仏と仏が頷きあって了解している事ですから、信心によって感得する以外ないと思います。 それでも、日蓮大聖人は御書の中で種々述べられていますので、信心を深めていく為にも勉強していきたいと思っています。
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